ネルケ無方師インタビュー
生きる意味を求めて釈尊、禅に出会う

――聞き手・藤木隆宣

ネルケ無方

1968年ドイツ生まれ。
ドイツの牧師を祖父に持つ家庭に生まれ、7歳で母を亡くす。
ベルリン自由大学で道元についての修士論文を提出、その後京都大学大学院に留学した。
現在9代目安泰寺住職を務める

坐禅をしてはじめて見えてきた世界

【藤木】 ドイツ人でいらっしゃるネルケさんが坐禅に惹かれるようになった理由、というようなところからお話しいただければと思います。

【ネルケ】 坐禅と出会ったのは十六歳の高校生のころです。私の高校に坐禅のサークルがあって、そこの先生に誘われたのが最初です。そんなものには興味がないと断ったんですけれども、先生は、今までにやったことがあるのかと聞く。いや、今までもやったことはないし、これからもやるつもりはないと言うと、先生は、それはおかしいじゃないか、一度やってみないと、嫌いとか興味がないとか言えないじゃないか、と。そう言われて、一回でやめるつもりで坐禅してみたら、結局、毎回参加するようになってしまった。
 何で坐禅にはまったかといいますと、まず坐禅して初めて、首より下の自分に気付いたわけです。それまでは学校の授業中でも、いつもロダンの「考える人」のような曲がった姿勢で、あるいはそっくり返って先生の話を聞いたりしていました。その姿勢は悪いと注意されても、姿勢が悪くたって何が悪い、先生の話をちゃんと聞いていれば、あるいはテストでいい点数を取れば何の文句がある、というのが私の反論だったんです。
 ところが、坐禅して初めて、姿勢が変わると自分が変わると気づきました。腰が入って背筋が伸びて、それで十分、二十分坐っただけで、全然違う世界が見えてくる。また、それまで自分はどこにいるのかと聞かれたら、頭の中に自分がいると答えたと思うんですけれども、首より下を切ってしまってここに機械を付けて、人工的に脳みそに血液と酸素を送ることができれば、それでも私は変わらないと思っていた。それが、坐禅して初めて呼吸に気づいた。
 それまで十六年間、吐いて吸って、吐いて吸ってという、ずっと呼吸のお世話になっていたけれども、これが私だという思いはそれまでありませんでした。坐禅して初めて、この呼吸も私を生かしてくれている私の命だと、心臓が動いているのも私だと気づいた。静かに坐ると、例えばぱらぱらと降っている雨の音に気づく、ちゅんちゅん鳴いている雀の声に気づく、普段気づいていない虫の声が聞こえてきます。ですから、坐禅をやったって意味がないと、興味がないままに半分だまされた気持ちでやってみたら、それまで思ってもみなかった全然違う世界に気づいたわけですね。
 そうやって一年間、毎回坐禅の会に参加していたら、その先生が退職するといいます。後任の先生が見つからないらしくて、サークルを続けるために君が責任者としてやってくれないかと言われた。そう言われても、何も知らない高校生ですから、慌てて町の図書館に行って、片っ端から仏教の本、禅の本を借りて読んだ。そこで初めて、釈尊の話を知りました。二千五百年前、インドで若い王子として何の不自由もない生活を送っていながら、生きることは苦しいと、この苦しみはどこからきているのかという問題意識から出家なさって、菩提樹という木の下で坐禅を組んで、その答えを求めたということです。



釈尊に出会って人生の意味に気づく

【ネルケ】 この釈尊の話に、私はまず衝撃を受けたんですね。それはなぜかといいますと、私は七歳の時に母親を癌で亡くしました。小学校一年生の時ですが、そのころから学校から帰ると、父は勤めに出ていて家には誰もいないですから、一人で部屋にこもって考え事をしたんです。何を考えたかというと、どうせ死ぬのならば、そもそもなんで人間は生きなければいけないのか。人生の意味は何だろうか、と。
 当時はまだ、父親というのは何でも知っていると思っていたので、父に人生の意味を聞いた。そうしたら、困った顔をして、そういうことは学校の先生に聞いてみなさいという。学校の先生も答えてくれなかった。それは、中学生、高校生になってから勉強するんだよといいます。けれども、どうも答えてくれる大人たちも本当は分かっていないのではないか、生意気ながらそう思ったんです。周りの仲間にその話をすると、みんな、おまえは変なやつだなと言うばかりで、そんなことに興味はない。それよりもサッカーをしようと、誰も相手にしてくれなかった。
 十六歳になるまで、ずっと頭の中では考えたけれども、結局人生の意味は分かりませんでした。もう半分諦めていた時に、釈尊の話を読んで初めて、ああ、自分一人じゃなかったということに気づいたわけです。もうずっと昔から、こういう問題に取り組んだ方がおられて、師匠から弟子へと代々、坐禅という実践がインドから中国、中国から日本に伝わった。そして鈴木大拙師の本で、今でもちゃんと禅の教えを伝えている師匠が日本にいるということを知って、高校を卒業したらすぐにでも日本に渡って禅僧になりたいと、そのころから思ったんです。
 その後、もう既に退職していた先生に相談すると、今度は責任を感じたのか、ちょっと待てよと止めるんです。あれだけ坐禅を勧めた先生なのに、ちょっと待ちなさいという。君はいずれ日本に渡って、そこで本格的に修行するのもいいけれども、今のその熱心さがいつ冷めるか分からないといいます。今は坐禅したいという思いで燃えているけれども、その熱が冷めて、三年後、五年後にまたドイツに戻って別のことをやりたくなるかもしれない。その時いつでも就職できるように、まず資格を身に付けなさい。大学に入って、そこで学んでからでも遅くない。こんなことを言われて、再びこの先生に説得された。
 そして、ベルリンの大学に入りましたが、二十二歳の時に一年間休学して京都に来たんです。

【藤木】 その最初の先生はドイツ人でしたか。

【ネルケ】 そうです、ドイツ人です。

戦後ドイツにおける禅の布教事情

【藤木】 そのときはまだ中川正壽老師はおられなかった。

【ネルケ】 いえ、中川老師は既にいらしたんですが、最初にドイツに禅を紹介したのはヘリゲル――もちろん、それより前に鈴木大拙師の英語の本があり、それはドイツ語にも訳されていますけれども――、このヘリゲルという人の『弓と禅』が有名で、これは日本語でも出版されていますね。ヘリゲルは第二次世界大戦中に日本に行きましたが、同じ時代にやはり日本に滞在して、戦後ドイツに戻った、カール・フリート・デュルクハイムという人がいます。
 デュルクハイムはあまり日本では知られていませんが、彼は禅といろんな、今でいえばボディーワークというか、ヨガのような体操などを結びつけて、南ドイツの黒い森という地方でいわばリトリートセンターをつくった。私の先生は主にそこで学んでいました。それから、クリスチャン禅というのもあって、これはもともとドイツ生まれで戦後日本に帰化した、愛宮ラサールという人が中心になってつくったものです。私の高校の先生は、このクリスチャン禅も学んだ。
 愛宮ラサールはイエズス会の宣教師として一九二九年でしたか、初めて来日、終戦の時は広島にいて被爆するわけですけれども、生き延びて、戦後は神父でありながら坐禅の修行をした。キリスト教をやめたわけではなく、最初は発心寺の原田祖岳さんのところで、その後は安谷白雲さんの下で、それから鎌倉の山田耕雲さんのところで修行を終えて、禅マスターと認められています。日本でも活躍しながら世界中を旅して、ドイツでも毎年接心していたんです。

【藤木】 そうでしたか。そうすると、ネルケさんは京都に来られてから、いかがなさいましたか。

【ネルケ】 京都の近く、園部に昌林寺という寺があって、その当時、奥村正博さんという方がそこで毎月英語で提唱をして、接心をされていました。その接心に平成二年の四月から毎月参加して、平成二年の夏休みも昌林寺で過ごし、秋には本来なら京都の大学に戻って再び留学生として学ぶ予定だったんですが、奥村さんと相談して、本格的に禅の修行やりたいんだったら日本海のほう(兵庫県美方郡)に安泰寺というところがあるから、そこでやったらどうだと勧められた。そのご縁で、今から二十五年前に初めてここ安泰寺に来たわけです。

【藤木】 今お話の奥村師の昌林寺ですか、これは曹洞宗ですか。

【ネルケ】 曹洞宗です。

禅に出会わなければゲームのデザイナー

【藤木】
 ネルケさんの少年時代の夢といいますか、坐禅に興味を持たれる前は、将来何になりたいとか、どういう仕事をしたいとかいうお考えはありましたか。

【ネルケ】 私はゲームが好きだったんです。ゲームといっても、今のようにコンピューターとかスマホでやるのではなくて(また当時はパソコンもあまり発達していなかった)、ロールプレーイングゲームというものでした。みんなで食卓を囲んで、一人がゲームマスターといって迷路のような地下街世界をデザインする、ほかの人たちは、例えば魔法使いとか、小人とか、忍者とか、いろんな人たちを演じるわけです。で、その地下世界街に潜ってみて、トンネルを右に曲がるとそこに龍がいてそれと戦うとか、落とし穴に落ちるとか、今だったら全部コンピューターでやりますけれども、そういうのをあらかじめ紙に書いて、シナリオみたいなのを作って友達と遊んでいた。
 あるいは碁盤よりもずっと大きな段ボールの上に地図を描いて、小さい駒を何百個も複雑なルールによって動かす、そういうゲームが好きだった。自分の頭の中に別世界をつくるのが好きだったので、数学にも憧れましたけれども、そういうゲームのデザイナーみたいなことはやりたかったですね。ですから、そのままいけばいずれかはパソコンにはまっていたでしょう。それより前に坐禅と出会ったので、日本に行って三十歳になるまでパソコンに触ることはなかった。もしその出会いがなければ、多分今ごろはパソコンでコンピューター・ゲームのデザインとか、そのようなことをやっていたと思います。

【藤木】 お母さまは早くお亡くなりになられたということですが、日本に来て坐禅をするということ、お父さまはどういう反応をなさいましたか。

【ネルケ】 私には妹が二人おりますけれども、父親は若いころから、私たちきょうだいには自分の好きなように生きなさいと、自分の人生だから自分で決めなさいといっておりました。放任主義というか、日本だったら長男には家を継いでほしいと、そういうことがありますけれども、ドイツにそういう発想はないんです。いつかはドイツに帰って家に戻ってほしい、というものはないみたいですね。

【藤木】 そうですか。それではすんなりと、認めてもらった。安泰寺では宮浦信雄老師がお師匠さんでいらっしゃいますね。

【ネルケ】 はい、そうです。

 安泰寺本堂

「おまえが安泰寺をつくるんだ」

【藤木】 宮浦老師はどのような方でしたか。

【ネルケ】 安泰寺の八代目の住職ですけれども、私が最初に上山した平成二年には、ちょうど師匠が堂長になって三年たったころでした。当時は師匠も四十二歳、私は二十二歳です。私は留学生ですから、正式に雲水としてここで修行したわけではないんですが、大雨が降っている日に登ってきて、運悪く台風十九号という大きな被害をもたらした台風が通り過ぎた直後で砂利道すらなく、土砂の中をはい上がるような感じで登ってきました。
 ここに着いたらまず泥んこ風呂に入れてもらって、蛇口をひねるとお茶のような黒い水が出たんです。風呂から上がってこの方丈に通してもらって、お茶に呼ばれたんですが、最初に宮浦老師に聞かれたのは、「君は何をしにこの安泰寺に来たのか」という問いでした。「僕は仏教を学びにきました。坐禅を教えてもらいにきました」と答えると、「あほう。ここは学校じゃない。おまえが安泰寺をつくるんだ」と。とんでもないことを言われた。自分が安泰寺をつくる。師匠も、そのまた師匠から言われた言葉かもしれませんが、それが師匠を中心とした安泰寺のスタンスだったんです。
 おのおのが自分の修行に対する全責任を持つ。学校のように先生から教えてもらうのではなく、ここで例えば一?の坐禅にしても、その内容は自分次第。寝る人もいれば、覚めて坐る人もいる。内山興正老師の時代から、基本的には警策を使わない。なぜかというと、警策を使うと、その警策を握っている先輩雲水や師匠のために坐るようになってしまう。警策が回って来たから背中を伸ばしてみるが、通り過ぎたらまたふにゃっとなるとか、師匠が見ているから坐ると、見ていなければ居眠りをする……坐禅が子供のままごとみたいになってしまう。坐禅は自分がしたくてやるはずだから、警策は本来要らないというのが内山老師の考え方です。安泰寺は自分がつくるというのは、そういう意味合いもあると思うんです。

【藤木】 それはインパクトのある言葉でしたね。

【ネルケ】 そうです、それにまず衝撃を受けたんです。ほかにもあちこちの僧堂に顔を出してみたりもしましたけれども、多くの場合は専門学校みたいな雰囲気で、ゆくゆく住職になるために、建前として雲水を演じるけれども、裏ではたばこを吸ったり、ビールを飲んだり、街に遊びにいったりとか、そういうのを目にしたから、この安泰寺は本物というか、本当に本物を求める人でなければ来ないような場所だと思った。師匠がその中心になって守っていたんです。

道しるべとなった宮浦老師の言葉

【藤木】 宮浦老師のお言葉で、ほかに何か残っているものはありますか。

【ネルケ】 そうですね、キリスト教ですと神は一つ、その息子であるイエスを信じる。イエス以外信じてはいけないと、それは厳しいものです。仏教ですと、安泰寺の坐禅堂には文殊菩薩がいて、トイレの前には烏枢沙摩明王の像がある、お風呂には跋陀婆羅菩薩ですか、お風呂の菩薩がいて、あるいは玄関には韋駄天さんがいて、本堂には本尊さんがいる。それにちょっと戸惑って、「安泰寺の本当の仏は誰ですか」と師匠に聞いたら、「それはおまえがならなければ、どこにもいない」と。「おまえがここの本尊にならなければ、仏はどこにもいない」と言われた。
 ところが、いざここで出家得度して雲水として修行が始まると、一カ月典座の見習いをしてから、典座当番に当たるわけです。初日はうどんを作れと言われましたが、ドイツにうどんはないからスパゲティアルデンテのつもりで作ったら、硬過ぎて食えないと怒られた。次の日は「じゃあ軟らかくしてやろうじゃないか」と思って三十分ゆがいたら、おかゆになってしまった。毎日、先輩に料理のことで怒られたので、「僕は何も料理の勉強をしに来たんじゃない、仏教の修行をしに来たんだ」といってみた。横で聞いた師匠は、「おまえなんかどうでもいい!」と大声で怒った。この「おまえなんかどうでもいい!」という言葉もまた、私にとって大きな道しるべとなったんです。
 それは言われてすぐに分かったわけではないんですよ。最初は、何でそう言われなければいけないのか、この安泰寺の本尊になる「おれ」が、何でどうでもいいのかと。でも、今となってよく分かるんですけれども、現に今の安泰寺には十数人の修行者がいますけれども、みんながそれぞれ自分だけの安泰寺をつくってもらっては困るわけです。「私が安泰寺をつくる」といっても、自分のエゴ、自分の好みでつくるのではなくて、自分を手放して初めて、一つの安泰寺がみんなによってつくられるわけです。
 私が責任を持って積極的に関わるという主体性も大事ですが、同時に自分を手放して、私のための安泰寺をつくるのではない。典座だったら自分が好きなものを自分のために作るのではなく、自分の好き嫌いは置いておいて、みんながおいしく食べられるものをいかにして作るかということです。それで初めて、安泰寺がつくれるわけです。ですから師匠の、「おまえが安泰寺をつくる」という言葉、「おまえなんかどうでもいい」という言葉、この二つの一見矛盾している言葉は実は表裏一体の関係にあると、今は思っているんですね。

 沢木興道師の書

一神教と多神教、本物と偽物

【藤木】 先ほどのお話で一神教の世界から、日本のように多神教、多神仏の世界へ来られて、その辺はすっと入れましたか。

【ネルケ】 私はそんなに深くキリスト教を信じたわけではないので、それほど疑問を持ったことはありません。むしろキリスト教にない、仏がたくさんいるということは結局、自分自身が問われているようで、これは新鮮で私は好きでした。それにもう一つ、さっき申し上げた、首より下の自分を発見したということです。キリスト教ではやっぱり首より上というか、魂の問題です。宗教は魂の問題で、魂で神を信じて、救われるのは結局魂である、頭のてっぺんから足のつま先まで全部救われるのではなくて、魂人が死んだら魂のみが天国に行く。
 仏教では、特に禅では頭のてっぺんから足のつま先まで、この私の一挙手一投足が問題です。この体全体で仏を目指す。もちろん心も大事ですけれども、体、呼吸、心、全てが仏を目指す。そこがキリスト教にはないアプローチで、私はそこが好きだったんです。

【藤木】 それから安泰寺は本物を求める人が来る場所というお話でしたが、その本物と偽物といいますか、それを見分けるのはどうなさっていますか。

【ネルケ】 安泰寺には本物が来ます、本物でなければ、まずここには来ないだろうと思う。そうでない人を偽物と言っていいかどうか分かりませんが、要するに一つの分け方として、僧侶であるのを職業としてとらえているのか、自分の使命、生きる道ととらえているのかがまず一つだと思うんです。もちろん職業として、檀家さまの役に立ちたい。それは悪いことではないけれども、そうするとどうしても二十四時間全部が修行ということではなくなってしまう。
 寝ることから朝起きて顔を洗って食事をいただいて、トイレに行くのも風呂に入るのも、もちろん坐禅も作務も全て修行という、道元禅師が説いた修行ではなくて、お袈裟を着けて檀家の前に立っている時はお坊さんだけれども、これを脱いだらもうジャージをはいてパチンコ屋でも行って、それはオフタイムだから自分のフリータイムだという……。それを偽物と言っていいかどうか分からないけれども、ちょっと中身が違うんですね。これが自分の生きる道だと思ったら、裏も表もなくなってしまう。
 ですから安泰寺では、例えばここもお酒が出る場合がありますが、隠れては飲まない。飲むならば堂々と、本来お釈迦様は禁じたけれども、たまにはこういうお酒を飲むという修行の場面もある。ただし隠し事をしない、これは大事だと思うんです。

安泰寺における修行のための三条件

【藤木】 そうしますと、今こちらの安泰寺には、どういう方々が来られますか。

【ネルケ】 三年前から、来るなら最低でも三年間滞在しなさい、というふうに新しい方針を決めました。ですから、今は割と本格的な修行がしたいという人が来ていますですね。以前はご年配の方も結構来られたんですが、ここは自給自足なので農作業がハードですし、冬は多い時は雪が四メーター積もります。一階の部屋は全部雪に埋もれて、かまくら状態です。バス停まで四キロですが、除雪車が入らないので雪の間は四カ月間、かんじきがないと行き来できませんし、かんじきを履いても腰まで埋もれるので、ご年配の方にはちょっと難しい。今は十八歳から四十歳までと年齢制限を設けています。外国人も来て、実際に半数ぐらいは外国人ですが、外国人の場合は日本語の基礎ぐらい学んでから来てほしいと、この三つの条件を三年前に設けた。
 なぜそうしたかというと、それまでは短期参禅の人が多く、一週間、二週間ぐらい来てすぐ帰ってしまう。冬を越す人はほとんどいなかった。冬は私とあと一人か二人で、そうすると、次の春にはまた田植えの仕方から、ゼロから教えなければいけません。十年間はそれでやっていましたが、もうやっていられないと思って、今の方針に変えたわけです。来るなら三年、十八から四十まで、外国人は日本語のいろはぐらいは覚えてこいと。
 これでは誰も来なくなるかもしれないと思ったら、逆にちょっと増えました。今は十数人います、冬も大体十人ぐらいで越しています。半数ぐらいが外国人ですが、私のように自分の生き方、生きる意味を求めて来たり、本来の自分の在り方は何だろうというような哲学的な問題意識から、日本の文化というものに惹かれてくる人も中にはいます。さまざまな出会いで、欧米で既に仏教と出会って、欧米では通いの禅センターはたくさんありますけれども、一年中住み込みで出家という、こうした生活のできるところは少ないので、それを求めて安泰寺に来る人も結構いるんです。
 日本人の場合も似たような問題意識から来る人もいれば、今の社会の在り方にちょっと疑問を持つとか、あるいはこのまま社会人として年を取って、四十、六十になった時点で部長クラスまでいって退職できるかもしれない、それができるかどうかは分からない。非常に今は社会が不安定ですし、就職も難しい。だからお坊さんになろうというわけではないけれども、やっぱり一般的な生き方とはちょっと違うものを求めて来る人も結構いますね。



「君はここで何がしたいのか」

【藤木】 そういう人たちの来られる動機や意識というものから、何かお感じになることはありますか。

【ネルケ】 そうですね、ただの逃げ場としてお寺をとらえている人も、全くいないわけではないんです。中にはそういう人もたまにいますが、そういう人も一応受け入れて、ゆくゆくはそうじゃない、ここは社会に適応できない人のための逃げ場じゃないということです。ここに三年、五年、長ければ十年いて、それこそ瑩山禅師のように再び世に出て、お寺の住職になるという道もあります。あるいは、例えばターミナルケアのようなことをやったり、あるいは安泰寺で学んだ農作業ですね、今日本の自給率は非常に低いですけれども、放置されている田んぼとか畑を再び生かして、どこか田舎で畑仕事をやる。安泰寺で学んだ知識を生かすことができます。
 私としては、こうなってほしいと、ここで三年、五年学んでからこんなことをやってほしいというのはないんです。ただ、ほかにオプションがなかったから仕方なくお坊さんになったというのではなく、もう少し大きな夢というか、何かやる気を出してほしいというのはあります。ほとんどの人は何か、そういうのはあると思いますけれども、たまに「おまえが安泰寺をつくらなければいけないのに、つくっていないじゃないか。ただ人の後ろについているだけじゃないか」と言いたくなることがたまにあります。
 でも、みんながそうだというのではなく、三年前までは私がいちいち教えなければ回っていなかったんですけれども、三年たって今は、例えば私が講演に出掛けて不在でも、大体自分たちでここを動かせるようになっています。

【藤木】 それは大したものです。

【ネルケ】 ですから、今、接心の最中ですけれども、私が一?、二?抜けたとしても、みんな普通に坐っています。十人のうち八、九人はちゃんと自分で主体性を持ってやっていると思うんです。

【藤木】 なるほど、接心というと何接心になりますか。

【ネルケ】 一日から五日まで毎月やっています。月初めに五日間、あとは十日、十五日、二十、二十五は一日接心です。一日接心は遊びみたいなものですけど、五日接心では、内山老師の時代からそうですけれども、お経も唱えない、掃除もしない、提唱もない、お風呂すら入らない、ただ坐る。前は三食食べていたのが、今は二食です。

 安泰寺書庫

黙って五日坐る安泰寺スタイル接心

【藤木】 先ほど私どもが車で着きましたら、お迎えにきてくださった典座の方ですか、あの方はどちらから。

【ネルケ】 アメリカです。彼は四年目です。

【藤木】 彼は何を求めて来られましたか。

【ネルケ】 やっぱり本来の自分とか、彼は二十歳を過ぎたころからアメリカで坐禅をしていた。もともとは音楽を学んだ人ですけれども。

【藤木】 アメリカでは、禅センターかどこかに。

【ネルケ】 そうです。オレゴン州の禅センターに三年間ぐらい通って、安泰寺をホームページで知ったと思うんです。あるいは内山老師の本の英訳も出ていますから、そこで安泰寺を知ったのか。

【藤木】 ネルケさんを慕ってという方もいらっしゃる。

【ネルケ】 私はドイツで一冊本を出していますし、ドイツで何回かテレビに出たことがあるので、ドイツならば私の名前を知っている人はいます。けれども、ヨーロッパのほかの国やアメリカでは、私の名前を知っている人は少ないと思います。むしろ内山老師、澤木老師、あるいは安泰寺ブランドですね。例えば奥村正博さんも今インディアナ州にいますが、そこで活躍して安泰寺スタイル接心といって、要するにただ坐る坐禅、黙って五日間坐るというのをやっていますから、そういうことでアメリカ人が安泰寺を知るようになるのでしょう。
 日本でも三、四年前までそうだったんです。四年前に私の最初の本が出てから、まず私を本で知って、次に安泰寺を知ったという人が増えました。とくに若い人は、澤木老師、内山老師をもうあまり知らないですね。五十歳代、六十歳代だったら澤木老師、内山老師のネーム・バリューはまだ高いと思いますけど、若い人だったら、たまたま私の本を見たとか、テレビで見たとか、そういう人が多いですね。

【藤木】 そういうネルケさんにとって、お釈迦様の存在と、それからつながって道元禅師のことをちょっとお話いただければと思いますが。

【ネルケ】 はい。釈迦に説法ですが、曹洞宗では一仏両祖といいますね。お釈迦様、道元禅師様、瑩山禅師様。このお三方は結局同じ法を説いて、同じ法を実践したというのが、曹洞宗の公式な立場としてあるんですが、どうでしょう。もちろんつながってはいると思いますけれども、やっぱり二千五百年前のインドでお釈迦様が説いて実践したものと、八百年前の道元禅師が実践したものはひょっとして、時代も違いますし、場所も違いますし、微妙に違うかもしれません。

釈迦、道元、瑩山、一仏両祖に導かれて

【ネルケ】 まして瑩山禅師になると、道元禅師とまた対照的なお方で、このお二人のコラボだからこそ日本で曹洞宗が広まったと思います。道元禅師だけだったら、『正法眼蔵』のような深い哲学的な著作は今に伝わっていたかもしれませんが、瑩山禅師がおられたからこそ、それの精神が大衆に伝わりやすい形で日本中に広まった。逆に瑩山禅師だけだったら、積極的な社会活動はできたけれども、そこに道元禅師の深い心はなかったでしょう。ですからそれぞれの、やっぱり道元禅師のキャラといったら失礼ですけれども、道元禅師にしかない崇高さはあると思いますし、瑩山禅師にしかない包容力がある。
 それからお釈迦様はどんなお方だったのか、私たちに残っている一番古い経典、「パーリ経典」と言われている経典ですら、お釈迦様が亡くなって百年たってからのものです。だから本当は何を説いたのか、何をされたのか、いろいろ学者たちが言っていますが、この私に何か判断のしようがない。その教えが中国を経て日本に伝わって、その人その人の人格というか、その人によって主張がちょっと変わり、やり方がちょっと変わってきた。決して矛盾したことを説いているわけではないんですが、やっぱりそこに発展というか、変わってきていますね。
 道元禅師においても若いころ、ちょうど中国から帰ってきてすぐのころに書かれたもの、主張したものはまず坐禅が中心です。坐禅さえすれば誰でも仏なのだと、別に出家、在家は関係ない。男性でも女性でも、今この場に坐れば誰でも仏になれると主張した。晩年になると、まず出家が大事だと、在家でいくら戒律を守ったとしても、例えば破戒で出家のほうがまだ上という逆の主張に変わります。坐禅、坐禅というよりも、今度は自未得度先度他というような言葉が出てきますし、「おろかなるわれは仏にならずとも、衆生を渡す僧の身ならん」というような歌をつくっています。
 若い道元禅師があまり表に出さなかった慈悲心の表ですね。晩年の禅師は自分の救いを求めるよりも、他者にまなざしを向けているわけです。若い道元禅師が好きとか、晩年の道元禅師のほうが上だとか、いろいろ人は言うけれども、それはこっちがいちいち好き嫌いを言うものじゃない。道元禅師にもやっぱり成長というか変化があったと思うんです。五十三歳、数えで五十四という若い年齢ではなくて、もし八十、九十歳まで、懐奘禅師みたいに長生きされたならば、また違うものが出ていたかもしれません。
 お釈迦様はまず苦しみからの解脱、そのための出家を説いたわけですが、その後、発展した大乗仏教、これはまだお釈迦様の時代には、例えば芽としてあったとしても、まだ開いていなかった。それが後にインドで花開いて、日本では、それを道元禅師は坐禅、坐禅だと若い時は説きながら、晩年には大乗仏教の心を説いているわけです。瑩山禅師はそれをこうして実践して、一般庶民には坐禅だけじゃ難しいから、一般庶民に伝わるような教えにしないと意味がないという。だからこそ、永平寺は今も山の中にあるけれども、總持寺は実際、都会の真ん中にあるわけですね。どっちがいい、悪いというものではなく、両方大事だと思っています。