すべての生きものを 供養する


正木 晃(まさき・あきら)
宗教学者。
1953年神奈川 県生まれ。
国際日本文化研 究センター助教授を経て、 慶應義塾大学、立正大学講 師。
『「千と千尋」のスピリ チュアルな世界』など多数 の著書がある


 仏教にとって、供養はとても大切な行為です。人間が人間らしく生きるために、決して欠かせない行為といっても過言ではありません。ところが、近年、供養がおろそかになってきているようです。そこでもう一度、供養について、ちゃんと考えてみたいと思います。
 供養というと、通常は亡くなられた人の供養を指しています。ところが、日本では、人間以外の動物たちも、供養の対象です。そこで今回はまず、動物の供養について、考えてみます。いささか遠回りをするようですが、動物の供養を考えることで、日本仏教の特質、ひいては曹洞宗のめざしてきたものの一端がうかがえるからです。
 供養の対象は、 あらためていうまでもなく、亡くなられた方の霊魂です。人が死んで、肉体が滅び去ると同時に、その人の全存在が消えて無くなってしまうというのであれば、供養は成り立ちません。この理屈からすると、動物の供養は、動物にも霊魂が宿っていると考えられてきたことを意味しています。
 じつは、動物を供養するという態度は、日 本以外ではなかなか見当たりません。たとえば、医学の進歩に欠かせない実験動物を供養してきたのは、日本だけのようです。なぜなら、キリスト教をはじめ、一神教の国々では、原則として、霊魂は人間にしか宿っていないと考えるので、動物の供養など、はなから問題外です。
 さらに意外かもしれませんが、仏教でも、日本仏教をのぞくと、人間以外の生きものたちを供養するという姿勢はいたって乏しいのです。日本仏教だけが、牛馬のような使役動物はもとより、自然界の魚や虫のたぐいまで丁寧に供養してきた歴史をもっているのです。
 その典型例が、曹洞宗の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師が修行僧の規則として定めた『瑩山和尚清規』に見られます。十二月十日ならびに晦日の項に、こういう趣旨のことが書かれています。
 「仏の大いなる慈悲は、平等にありとあらゆる生きものたちを済度し、仏のひろやかな教化の力は、みな等しく多種多様な生きものを救うと言います。そこで、歳末、特に数日をかけて、お寺中の僧侶を総動員し、ひたすらお経を読んで、お寺の領地を耕すときに、犠牲になってしまった生きものたち(蟻・オケラ・カタツムリなど)、あるいはお寺を支援してくださる方々の領地で使役されている牛・馬・羊・豚・犬・鶏、および山林に暮らしている動物や虫のいっさいがっさい、水中であろうと陸上であろうとそこに住んでいるありとあらゆる生きもののうち、死んでしまったものに回向しなさい。これらの生きものたちを救えるのは、仏の慈悲とお経の力しかありません」。
 牛馬など家畜の 供養は真言宗や日蓮宗などでも見られます。しかし、田畑を耕すときに犠牲になった生きものたち、あるいは自然界の魚や虫のたぐいまで供養しなさいと、「清規」として正式に定められている事例はまずありません。
 なぜ、供養するのか、その理由も書かれています。「今、聖者とあがめられている者たちも、過去世では蝙蝠(こうもり)でした。過去世で魚だったものが、今は阿羅漢(あらかん)になっている」からだそうです。つまり、この世のすべての生きものの中に仏性、すなわち仏と成る可能性が秘められていると瑩山紹瑾禅師は説いているのです。この教えは、自然との共生が必須の課題となっている二十一世紀の宗教にふさわしい思想として、高く評価されて良いはずです。


 挿絵/ 長谷川葉月