東京ボーズコレクション
お坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう」
第一部 基調講演&対談
末木文美士(東京大学教授)
小谷みどり(第一生命経済研究所ライフデザイン研究本部主任研究員)
薄井秀夫(寺院デザイン代表)
昨年12月15日、超宗派の若手僧侶によって「東京ボーズコレクション」というイベントが築地本願寺で開催され、このイベントのプログラムの一つとして、「お坊さん学習塾『10年後のお寺をデザインしよう』」と題されたワークショップが開かれた。
人々の仏教への関心が高まる一方で、お寺への関心はあまり高くない。一部を除いて普段からたくさんの人が訪れるお寺は無く、現代人は葬儀と法事の時くらいしかお寺を意識することがなくなっているようだ。しかし、現代のように社会が病み、人々が病んでいる時代だからこそ、お寺には果たすべき役割があると思われる。
お坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう」は、こうした状況を踏まえ「お寺はどんな存在であるべきなのか」を考えるために企画された。10年後の社会に向けて、お寺はどうなっていくべきなのか。今、僧侶自身が、10年後のお寺をデザインする必要があるのではないだろうか。
このワークショップで語られた内容を2回に分けて掲載する。今回は第一部として、末木文美士先生と小谷みどり先生の基調講演。また第二部では、お二方の対談と、若手僧侶によるパネルディスカッションが行われたが、こちらは次号に掲載の予定である。
基調講演1
「仏教再生のために何が必要なのか」
講師‥末木文美士
社会参加仏教
今日は大勢の方がここ築地本願寺に集まって大盛況のようです。こうしたものを、私はイベント仏教と呼んでいます。一般の方が参加して仏教を活性化させるというイベントは意味のあることです。しかし、それだけでよいのか、とも思います。水を差すようなことになってしまうかもしれませんが、楽しいことよりもその裏側にある暗い話の方に関心がいってしまいます。
最近よく社会参加仏教ということが言われるようになってきました。私自身がその紹介者の一人ですので、多少の責任は取らなければなりません。確かに、社会参加仏教と言われるものは、大事なことで素晴らしいものなのですが、それが上滑りしないかなという危惧を持っています。
社会参加仏教ということが海外で言われているので、日本仏教もその真似をしなければならないと考えるなら、それは少し違うのではないかと思います。と言いますのは、日本の仏教は早くから世俗化していまして、社会参加仏教を他の仏教圏に先駆けて展開していたからです。
奈良時代の行基から始まって、最澄もそうです。最近、機会があって最澄のものを見返したのですが、最澄は当初から社会参加仏教を真正面から言っているのです。最澄が大乗戒を主張した時のスローガンの一つが「真俗一貫」ということです。「真」というのは出家者、仏教者のことで、それは「俗」、つまり世俗の社会と断絶するのではなく一貫性を持つべきである、それが大乗戒であると述べています。その二つを切り離す小乗戒を批判して大乗戒を主張したわけです。
今回読み直して改めて認識したのですが、最澄が考えていたのは仏教国家を作るということなのですね。それには仏教界と世俗の権力が協力しなければならない。
精神界の指導者が国宝で、国宝が国の中央の指導者なんですが、国宝の下に、国司とか国用がいます。そういう人たちが地方に派遣されて地方の精神界をリードすることになるのですが、その時にそれぞれの活動に対して国からお布施が出る。しかし、それを自分のために使ってはならないと最澄は言っています。田畑を切りひらいたり、橋を架けたり、用水路を造ったりと、そういった社会事業に使えと言っているんですね。はっきりと社会参加仏教を打ち出しているのです。
中国にも三階教という仏教の一派が、盛んに社会活動を行いました。行基の活動などにも影響を与えたと言われていますが、結局異端として弾圧され消滅してしまいました。中国では、その後も社会運動的な仏教は出るのですが、民衆の反乱のようものだと捉えられて、やはり弾圧されてしまいます。そういった意味では社会参加仏教というものは中国にはないのです。例外はありますけれども、お寺というのは世俗を離れたところにあって世俗的な生活に関わらないのが原則とされます。
しかし、日本ではそうではなくて、むしろ世俗の中にあって世俗の中で活動していくのが原則であったわけです。
そう考えた場合、日本の仏教というのはある意味では社会参加仏教であり過ぎたとも言えます。だからこそ戦前には世俗の国家の政策に諸手を挙げて賛成し、戦争に協力するということになってしまったのではないでしょうか。日本の仏教は、むしろ社会参加仏教であり過ぎたことを反省すべきだとも考えられるのではないかと思えます。私のひねくれた見かたかもしれませんが。
仏教がイベントを行うのは、それはそれでよいのですが、持続的な活動として何を目指していくべきなのかも考えなければなりません。イベントを一発の打ち上げ花火としてすませるのではなくて、どうしたら日常へ定着させることができるのかが一番大きい問題になるのではないかと思います。
先月、広島の浄土真宗の方々に呼んでいただきまして、お話しをさせていただきました。広島のことは前から気がかりになっていました。平和と仏教の問題を具体的にどう展開できるのかということです。単なる打ち上げ花火ではなく、仏教の平和への取り組みをどうやって具体化できているのか。
正直に言って、今の広島の仏教のあり方には、やや不満があります。広島の浄土真宗の方々は平和運動にも積極的で、盛んに活動をなさっています。しかし、私は3回くらい広島に行きましたが、平和公園の辺りを歩いていて、何か寂しい感じを抱きます。
もともと広島は安芸門徒を中心に仏教信仰が盛んなところで、原爆の被害者への救済活動、戦後の復興、それから犠牲者の慰霊についても、仏教が中心になって関わってきています。でも、平和公園やその周辺に仏教からのメッセージが何も読めないのですね。広島にはカトリックの世界平和記念聖堂というのがあります。建物も素晴らしいですし、中へ入ると心が落ち着きます。戦死者や、原爆の犠牲になった方々へ思いを致すにはそういった宗教的な施設が絶対に必要だと私は思います。
ところが、カトリックの施設はあるのに、仏教の施設はないのです。本願寺別院はありますが、平和を求めて広島を訪れた人たちがそこで思いを致すような施設にはなっていないのです。平和公園の周辺にある、いくつかのお寺も同じです。
平和を求めて広島を訪れた仏教徒の人たちはどこで平和のことを思えばよいのか。そういう意味で寂しく感じます。長崎へ行けば浦上天主堂があって、その教会の中に入ることによって、原爆を含めたさまざまなことに思いを致すこともできるのですが、そういう仏教施設はありません。
一所懸命に仏教の活動を行ってもなかなか分かってもらえない、具体的な成果が出てこないという話を聞くことがあります。努力の方向が本当に適切なのかどうか、少し反省が必要です。お寺はもっと日常的なレベルでアピールしていくべきでしょう。大きい声で目立つようにアピールするのではなくて、むしろ日常の中で、じんわりと心に染みてくるようなアピールが必要なのではないかと思います。お寺のあり方、仏教施設のあり方が、本当に一般の人たちのためになっているのかどうか、検証が必要です。
死者から立ち上げる仏教
近所を散歩していて、お寺の前を通りますと、月替わりや週替わりで仏教の言葉などを門前に掲示しているお寺もあります。そういうものもよいと思うのですが、お寺はもっと門戸を開くべきではないでしょうか。今のお寺はいわゆる檀家寺であって、檀家との関係の中で閉ざされ、そこから広がっていかない傾向があります。
たとえば神社なら誰でもお参りできるわけですね。氏子ではない人でも、お参りする人たちはたくさんいます。その点、お寺は門を閉ざしているところが多い。
お寺のご本尊というものは、本来は開かれているべきものだと思います。法事の時だけ檀家さんが来て拝んで、それ以外の時は閉ざしておくべきものという考え方はいかがなものかと思います。
仏教はどんなところで一番機能してくるのかというと、もちろんこうやってイベントをして大勢の人が集まってきて楽しいのは、それはそれでよいのですが、一番頼りたくなるのはどういう時かと言えば、やはり弱い時、自分が苦境に立たされたり、救いを求める時です。自分が弱くなった時に何か助けが欲しいわけですね。そういう要求にお寺はどう応えたらよいのか。
難しく考えると、ちゃんと受け入れ態勢を整えてからと思ってしまいがちで、その結果何もしないままになってしまいがちです。でも、そんな難しいことを考えなくても、お寺という場が開かれていれば何もなくても、お線香もなくても、ただそこに座っているだけでも何か与えられてくるもの、満たされるものがあるのではないでしょうか。それが大事なのではないかと思います。
今のお寺さんは饒舌すぎます。お釈迦さまはこう言っています、開祖はこう言っていますといった話を準備しようとする。でも、それはなくてもいいのでないでしょうか。ただお寺という場を開いて、訪れた人をそこで包んでくれれば。この間、四国のお遍路さんのお寺をいくつか回ってみましたが、お遍路さんのお寺はそういう雰囲気があります。
日常の中でお寺がどう開かれるのか、それは難しい理屈ではなくて理屈以前の問題として何か考えられるのではないかと切実に思います。
仏教は人間のマイナス面というか、暗い面を出発点としながら、それにどう対応するかということから生まれてきています。お釈迦さまの出発点だってそうだったわけです。ところが今は、仏教は社会の中で何か積極的な役割を果たさなければならないといったような観念にとらわれてしまっているのではないでしょうか。
近代になってからこのような傾向は特に強くなって、人間の負の面が忘れられてしまう。近代の文明は死を忘れた文明です。死ではなくて生、よく生きること、生を充実させることを目標とするようになってきている。そうなると死の問題はどんどん隅に追いやられていく。そして仏教も「本来はよく生きるためのものである」といった考え方が支配的になっていきます。「今までの葬式仏教は間違っている」みたいな観念が広まってしまったわけです。僧侶の中にも「葬式は方便であって、本当の仏教はそうじゃない」といったことを言う方がいます。
でも、方便で葬式が行われるとしたら、そんな葬式をされる死者は気の毒ですね。死者と向き合うのは生きている人を相手にするよりも、もっと根本で、もっと難しい問題です。だからこそ、プロの宗教者の関与が求められたのではないでしょうか。だから、葬式仏教というのはとても重要です。葬式から、人間の死から、あるいは死者から逆転して生を見直していくという意味で、葬式仏教こそ仏教の原点とも言えます。そんなわけで私は、最近は葬式仏教擁護論者みたいになってしまいました。
しかし、それなら葬式仏教万歳ですむのかといえば、もちろんそうではありません。つい先頃、私の父親が亡くなりまして葬式をしましたが、ほとんどすべて葬儀社の方が取り仕切ってくれました。その中でお寺さんが果たす役割は何でしょうか。葬儀の全体の演出は葬儀社の方がしてくれて、「ここはお坊さんの出番ですよ」と言われて、お経を上げて帰っていく。お坊さんは一部を受け持つだけです。そうなると、葬式仏教とも言えない、「葬式の一部仏教」になってしまっているのではないかと思います。
今のやり方で、葬儀において仏教がどれだけ機能しているのでしょうか。そういった葬儀を通して本当に仏教が定着していくのだろうかと思うと、疑問を感じてしまいます。これは自分で葬式をしてみての実感です。
仏教の活動の一番の基盤になるのは、先ほどから言っているように、人間のマイナス面だとか死だとか、さまざまな苦しみであり、人間の弱さです。そこから出発していくものであって、人間の明るい面、プラス面も、マイナスに支えられることによってはじめて成り立ってくるものではないかと思います。その根本の筋を押さえないで、仏教が楽しい素晴らしい積極的なことだけになってしまったら、根底が失われてしまうのではないでしょうか。マイナス面に深く根ざしていくことによって、マイナスがプラスに展開していくことができるのではないか。そんなことを思っています。以上です。ありがとうごいざました。
基調講演2
「葬儀に何が起きているのか」
講師‥小谷みどり
死が変わった
末木先生のお話の中にも、葬式仏教擁護ということが出てまいりましたが、私も葬式仏教は絶対的に必要なものであると思っている者のうちの一人です。しかし、今のあり方ではなく、もう少し広い意味で葬式仏教の必要性を感じています。つまり、葬送儀礼だけでなく、亡くなる前から葬儀は始まっているという観点から捉えた時に、今こそ葬式仏教は必要とされているのではないかと思います。
今日は、そういった広い意味で葬儀を捉えて「葬儀に何が起きているのか」というお話をさせていただきます。お葬式のあり方はここ数年の間に大きく変わりました。なぜ変わっているのかということを探るためには、もっと広い意味で人間の死、私たちの死に何が起きているのかということを考えてみる必要があると思います。
まず、高齢者の死が増加したということが大きな変化の一つです。75歳以上の方を後期高齢者と言いますが、2006年の75歳以上の死は全体の64・5%に達しています。さらに80歳以上の死は49・8%で、全体の半分を占めています。老老介護の時代と言われていますけれども、80歳以上で亡くなるということは、その子どもたちも高齢者の仲間入りをされているというケースが非常に多いわけです。
195年には、全体の7%しか80歳以上の死はありませんでした。つまり、60年前と大きく変わったのは、皆が長生きするようになったので、亡くなる人はほとんどが高齢者であるということなのです。原因不明の病で急逝してしまったというような納得できない死はほとんどなくなり、介護・看護の期間も長く、皆が歳を取って死ぬというのが当たり前のことになっています。そのため、大概が納得できる死になり、そのことが葬儀のあり方を大きく変えている要因の一つであると思います。
そして、超高齢社会が成熟しますと超高齢者たちがどんどん亡くなりますので、日本は多死社会を迎えることになります。ものすごい勢いで人が亡くなっていくわけですけれども、それでは社会が多死に対応できるようになっているのかというと大いに疑問です。自分の死について考える人は増えましたが、他人の死にはあいかわらずタブー視があります。たとえば火葬場や葬儀会館の新設計画が持ち上がりますと必ずと言ってよいくらいに反対運動が持ち上がり、死を忌み嫌う風潮は未だになくなっていません。
そして3点目に、ほとんどの方が病院で亡くなるようになったということです。1977年、ちょうど30年前は自宅で亡くなる人の方が多かったわけですが、2006年の厚労省のデータでは全体の85%の方は病院で亡くなっています。病院で亡くなるということは、一定期間の介護・看護の期間を経て亡くなるわけであり、もう死が避けられないという状態になりますと家族は告知を受けます。そうすると、家族は亡くなったのと同じ悲しみに襲われます。これを予期悲嘆と言いますが、医療が高度化するに従って、この期間がものすごく長くなっている現実があります。
そうしますと、本当に亡くなった時には、家族はもう悲嘆の期間が過ぎてしまっているということが往々にして起こりうるわけです。不謹慎な言い方になるかもしれませんが、葬儀の時のご家族は「やれやれこれでやっと介護・看護のたいへんな苦労から解放された」という安堵の気持ちになっている場合が多くなっているのではないでしょうか。
そういう状態で、僧侶の説法が、本当にご遺族の胸に入っていくのか、私は大きな疑問を抱いております。むしろ、予期悲嘆の時になぜご僧侶はその現場にいらっしゃらないのか。またご家族の方もなぜご僧侶の存在を思い起こさないのだろうかと残念に思います。
私は死生学を研究していますので、そういった医療の現場によく行きます。色々な宗教の聖職者の方、信者の方が、死を目前にした患者さんや家族の傾聴をなさっている姿を見ますけれども、伝統仏教のご僧侶の方がいらしていることはあまり見かけてことがありません。残念です。
次に家族の関係についてお話したいと思います。今現在、高齢世帯での核家族化が急速に進んできています。そういった状況で迎える家族の死、親の死であっても、普段一緒に暮らしていないこともあって、どこか三人称の死のように捉えてしまう方が増えてきたのではないかと感じられます。昔と違って自分の親が病に倒れ、老い、死んでいくという姿を見なくなりましたので、突然やってきた遺体を見せられても三人称的な感情で接してしまうということもあるのではないかと思います。
それから、家族の看取り能力の低下ということがあります。亡くなられる方は住み慣れた自宅で家族と最後を過ごしたいと思うわけですけれども、実際にはほとんどの方は病院で亡くなっていきます。家に帰って死んだら家族に迷惑がかかるという思いが強い。家族の方も、家で死なれたら困る。どうやって看取ればよいのかわからない。
医療が発達し、介護・看護期間が非常に伸びてなかなか人間が死ななくなったのは良い面もありますが、今の高齢者にとっては負の問題もあると思います。日本では尊厳死を希望される方が非常に多いわけですけれども、なぜ尊厳死をしたいのか。命とか、死とか、あるいは医療についてポリシーがあるわけではなく、ほとんどの方は「家族に迷惑をかけたくない」とおっしゃるんですね。延命すると家族に迷惑がかかるから、さっさと死んでしまいたいと考える。日本人はぽっくり死にたいという願望が強いですが、欧米人は自分の死期を知って、死ぬ準備をしてから死にたいと考える人が多いです。日本人はなぜ、ぽっくり死にたい人が多いのかということも考えてみる必要があると思います。
葬送の問題
ざっと社会の背景を申しあげてまいりました。色々な問題が反映していると思いますけれども、本当は悲しいはずの家族の死を悲しめないような社会になっているのは問題だと思います。家族関係の変化のために悲しみが減少しているという問題もございますし、予期悲嘆がおきているために、本来は亡くなってお葬式の時に起こるべき悲嘆が葬儀の時には終わってしまっているという問題もあります。
それならグリーフケアとしてのお葬式というのは、やっても意味がないじゃないかと思われるかもしれませんが、必ずしもそうとは言えません。遺族のお葬式の場での悲しみは少なくなっているかもしれませんが、その後に死別の悲しみが出てくるわけです。その悲しみを、昔は法要ですとか、近所の人たちや親類縁者が集まって遺族を慰めたりとかということで和らげてきたのですが、今はそういう機会が少なくなってしまいました。死んでいる人よりも生きている人の方が大事という風潮がありますからね。初七日法要も切り上げて火葬と同じ日にしてしまうとか、他人の迷惑にならないように家族だけでお葬式をしたいと考える人たちが増えてきているわけです。それなら、葬儀後の遺族の悲しみは誰が救っているのでしょうか。誰も救っていないのではないでしょうか。
今は自己決定というのがブームになっておりまして、死後についても自分で決めるというのが自立した人間の生き方であると捉えられるわけであります。ところが死の問題について自己決定することはリスクもあるわけです。そもそも死というのは、いったい誰にとっての問題なのかということがあるからです。たとえば病院で家族に告知をするというお話を先ほど致しましたけれども、なぜ日本では本人に告知をしないのか考えてみて下さい。本人に告知をした方がショックが大きいので家族に告知するというのが、今まで日本で信じられてきたことです。
ところが、皆さんいかがでしょうか。ご自身がですね、たとえば末期癌で余命いくばくもないと告知されることと、皆さんの大切な方が余命いくばくもないと告知されることと、どちらのほうがショックが大きいでしょうか。
私は昨年、千人ほどを対象にその調査をしました。高齢なればなるほど自分が死ぬことへの恐怖はだんだん少なくなってきて、大切な人の死の方がショックが大きくなります。ですから、自分の死を想定して自己決定した時のお葬式のあり方と、大切な人を失って遺族としてどんなお葬式をしたいのかと考えた時のイメージは大きく違ってくるはずです。
自分の死については考えても、大切な方が死んでしまうということは考えたくないというのが人間の自然な意識であります。また、死んだら無だと考える人たちが多いとよく言われます。確かに自分は死んだら無になってしまうのですが、大切な人は死んでも記憶に残り続けます。つまり残された人にとっては、無じゃないんですね。そういう意味で、死後の自己決定ということが自立した考え方としてもてはやされていますけれども、実はすごく大きなリスクがあるのではないかと思っています。
今急速に人の死が変化してきています。予期悲嘆の問題、それから死別後のケアを誰が行うのかという問題。社会が行えなくなってきたそういったケアを、いったい誰が行うのかと考えた時に、やはり宗教の存在意義が非常に大きいのではないかと思われます。そうした観点から、葬式仏教は今後ますます重要になってくると思っています。
これで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。
(次号では、末木・小谷両先生による基調講演に続いて行われた両先生の対談と若手僧侶によるパネルディスカッションを掲載します。現代社会における寺院活動の問題点について議論が交わされ、10年後の寺院のあり方についての提言がなされています)