葬祭文化の現状を考える
――最近の葬祭論から――
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
先ごろ、(財)仏教伝道協会(沼田智秀会長)が、京都の浄土宗総本山智恩院で第三十六回「実践布教研究会」を開いた。三日間の日程で仏教各宗派の僧侶・寺族ら五十余名が参加し、講義の受講のほか、「報恩行」、「教育」、「布教伝道」の三つの課題別に分かれて座談会を開いた(『中外日報』平成十八年七月二十日)。
この座談会における参加者の発言内容は、今日の「葬祭文化」を考えるための貴重なヒントを与えてくれるように思われる。
なぜなら「布教伝道」班で出された意見は、葬祭をめぐって二つに分かれており、この対照性は現今の葬祭がもつ問題点をかなり鮮明に映しだしていると言えようからである。まず地元で保護司も務めている僧侶は、寺といえば直ちに葬儀をイメージさせるが、この固定化されたイメージを払拭させなければならないとし、仏教は人生に全体的に関わらなければならないと述べた。つまり伝統的な「寺院の役割=葬祭」という枠組みを超えて布教活動をすべきであるとの提言である(これを提言Aとする)。
これにたいして新寺建立して布教活動を進める一僧侶は、布教によって新しい信徒を募っているが、宗教に興味をもたない人は何を語っても駄目であり、寺に人を集めることの大変な難しさに直面しているという。そこで通夜や葬儀で結んだ縁で、地道に信徒を集めているのが現状であるとの報告である(これを提言Bとする)。
いま、現場で布教活動を進める二人の僧侶の事例を挙げたが、提言Aは従来の寺檀関係に立つ寺院活動にあっては、これまでの葬祭オンリーでは不十分であり、葬祭のほかにも広く人生全般の問題に関わるべきであるという考え方である。
最近の仏教文化論の多くは提言A的であり、現場の僧侶の多くもこの提言に原則的に同調するに違いない。
ところが提言Bは新しい寺院現場の布教活動を通じて、「葬祭抜き」の信者集めがいかに困難かという現場の苦しみを吐露している。新寺建立して新たな信者組織を創ろうとするとき、その重要な手掛かりはやはり葬祭であるという事実には、止目せざるをえまい。
提言Aは古き葬祭路線からの脱皮を志向しているのであり、これにたいして提言Bは新しき路線にこだわってはみたが、結局古き路線に頼らざるをえないことの反省である。
A、B二つの見解は、はしなくも現代における「葬祭文化」の問題がきわめて根深く、簡単に結論に導きえないものであることをよく示しているといえよう。
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葬祭問題はどの仏教教団にとっても共通に重要であるにもかかわらず、解決の方法がなかなか見つからないのはどうしてか。
この問題について、まずは現代の識者が「葬祭」をどのように見、かつ展望しているかについて触れておこう。
みずからを仏教原理主義者と位置づけて、独自の仏教論を説いている仏教学者のひろさちや氏は、現在行われている葬式は単なる習俗にすぎず、僧侶が真面に行うべき営みではないと断ずるとともに、僧侶が行いまたはこれから行おうとしている社会事業的な諸活動(老人ホームやボランティア活動など)は政府がやるべき仕事であって仏教が関わる領野ではないと主張する。
なぜそういえるのか。ひろ氏によれば葬祭はどこまでも在家の仕事であって、出家者はひたすら修行に専念すべきであるという。
いまの葬儀や追善供養は霊魂や死者の怨念を鎮めるという一般の人びとの伝統的な観念に基づいているが、そのような観念は迷信である。ところが今の仏教は日本人の習俗に合わせて、教義をわざとねじ曲げて行っている。それではどうすべきか。ひろ氏は葬儀=死者との別れを仏教の原理によって行えという。仏教の基本的な考え方は、「死者のことを忘れよ。私たちが死者を忘れることによって、死者は浮かばれるのだ」である。この考え方のベースは先にも触れたが、釈尊に阿難が葬儀について訊いたとき、釈尊は「それは在家の仕事であり、出家者はただ修行に励め」と答えられたという一点にある(ひろさちや・井上治代他著『葬式仏教は死なない』全日本仏教青年会)。
ひろ氏の論理は徹底しており、原理主義的に一定の意味をもつといえよう。葬儀(祭)論はつねに「縁起/霊魂」という理念的な矛盾がまとわりついており、ひろ氏は縁起に立って霊魂を拒絶しているのである。
この理窟からすると、さきに紹介した提言Aも提言Bもまったく立ち行かなくなる。
これにたいして「葬儀仏教擁護論」を説く学者がいる。
「世間一般には、僧侶が葬式で不当に儲けていると思い込んでいる人も少なくない。たしかに、どう考えても高額すぎる戒名料、あるいは墓地や墓石の価格を見ると、そう思われてもしかたないところがある。識者のなかにも、葬式仏教こそ仏教にとって諸悪の根源であるかのように主張する人がいる。……私もそういう批判に理がないとは思わない。それどころか、いちいちごもっともとすら感じる」と述べるのは、宗教学者の正木晃氏である。
正木氏は続ける。「しかし、である。いま日本仏教が葬式仏教を全面的に否定したら、どうなるだろうか。……アッという間に、日本仏教はあとかたもなく消え去るだろう。そして、歴史の教科書に、かつて日本には仏教という宗教があったと、過去形で書かれるようになるだろう」と記す。
さらに氏はいま日本各地に生じている葬祭文化の衰退現象について事例を挙げながら概観した上で、こう述べている。「今は葬式仏教に鞭打っているときではない。むしろ養護すべきときなのではないか。もし仏教が再生するとすれば、それは葬式がきちんと営まれることからしか始まらないとさえ、私はおもう」(「仏教の可能性」(15)、『大法輪』二〇〇六、二月号)。
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葬祭論の事例として、ひろ氏と正木氏のものを二つ取りあげた。二つの所説を分かりやすく表現しなおすなら、前者は「釈尊の仏法に還れ。それだけが僧侶の道だ」となろうし、後者は「仏法が伝えられた社会の歴史や文化を重視しよう。それを欠くと空論になる」となろうか。このように要約すると、二つの所説はあたかも絶対に相交わらぬ水と油のごときもののように受け取られかねないが、実は決してそうではないと私は考える。
なぜなら理念・タテマエとしての縁起・空と、現実・ホンネとしての霊・魂は、性格的には対立するが、宗教(仏教)文化史を見ると、両者はさまざまなヴァリエーションを示しつつも、常に相互補完関係において存続してきたからである。
理念・タテマエを追求するのはエリートであり、これを生活に都合のよい形で受けとるのがマス(一般生活者)である。
「葬祭仏教」という日本の独特な仏教文化の形は、日本人が長い時間をかけて形成し構築してきたものである。それは「死者」を「仏陀」にする、あるいは近づけるという壮大な営みであったのだが、このことについては改めて取り上げたい。
寺院の現場においても、エリート的理念を強調しすぎると、信者(マス)たちを思わぬ不安と混乱に落としてしまうことがある。その例を正木氏が紹介しているので引用しよう。
作家の藤本義一氏がある宗派の説教会に講師として招かれた。聴衆の大半は年輩の信者たちであった。
講演に先立ち、若い僧侶が挨拶し、「霊魂なんてものはありません。仏教はもともと霊魂を認めておりません」と述べた。若い僧侶にすれば、宗門大学で教わった学問仏教の見解を、そのまま述べたのかもしれない。あるいは、これぞ正しい仏教であり、自分は迷信にまみれた旧来のあり方を正していると考えたのかもしれない。
しかし、それを聞いて善男善女は茫然自失。「じゃあ死んだら私らはどうなるんだ。ご先祖さまたちはどうなってしまっているのか」。その光景を目の当たりにした藤本氏は激怒したという。若い僧侶が善男善女が先祖代々つちかってきた信仰を一瞬にしてぶっ壊してしまったからである(正木、前掲論文)。
これに類することはよく耳にすることである。「本来の仏教は……」と切りだして「葬祭」を一刀両断しさる手口は、エリート仏教者の言動にしばしば見られる。このタイプの主張は、「ではどうしたらよいか」と訊かれると、「なかなか難しい」で終わることが少なくない。
再び冒頭の提言Aと提言Bに戻ろう。
Aは葬儀だけを活動の場にするのではなく、僧侶はすべからく人びとの人生の諸局面に関わっていこうと提言する。Aは葬儀を否定しているのではなく、それだけに安住することなく活動の場を拡大しようといっているのである。この見方は、「葬儀を基礎にしないと他の活動は困難になる」ことを示唆しているのではないか。
そして、そのことを提言しているのがBである。Bは、葬儀に頼らずに新寺の経営ができないかと考え、人びとを集めては説教を重ね、信者の獲得に努めた。その結果、「宗教に興味をもたない人は、何を語っても所詮駄目」であることが分かった。
結局、人びとが宗教(仏教)に興味をもってくれるのは、やはり「葬祭」であることに気づき、現在は通夜や葬儀で結んだ縁で信徒を集めているというのである。
社会的にも観念的にも「葬祭文化」が揺らぎだしていることは事実である。だからといって手を返すように葬祭を見限って「本来の仏教へ」という訳にはいかないことは、提言Bのいうとおりである。
葬祭文化の揺らぎ現象のなかで、「今は寺院にとってすばらしい転換期である」と捉えているのが、社会学者の井上治代氏である。
氏は葬送の山が動いたのは一九九〇年であるとする。この年代に跡継ぎを必要としない永代供養墓や合葬式墓地が登場してきたからである。家は絶家させてはいけない、無縁にしてはいけない、代々の先祖を祀り、家を継承していくという規範が崩れ、継承性をとらない墓が出現したのである。
氏は寺の檀家制度はとりあえず保険として残しておき、一方で会員制とか個を単位とした活動をしてゆくべきではないかと提言する(『子の世話にならずに死にたい―変貌する親子関係―』講談社刊)。
いずれにせよ、葬祭が日本仏教への「入口」であり、その「基盤」であるという認識は依然として妥当であることを各識者は示唆しているといえよう。