政治が両本山を反目させるようなことがあってはならない

佐賀県・長得寺住職 長井福雄


 仏教企画によるアンケートは、八〇〇〇カ寺に配布されて、六月十九日までに回答が寄せられたのは二二四通である。設問の内容がハガキにあるために、余りに大雑把すぎて、回答者の真意は計りがたい。
 多々良学園問題に端を発した宗門への不信感をもとにして行われたアンケート調査であるから、そのことに対する寺院の関心度と、できれば寺院の個々の意見を集約発表することを目的にしたものと思われる。
 今回のアンケートでまず感じたことは、回答の少なさである。八〇〇〇カ寺中、回答を得たのは〇・三%に過ぎない。その無関心さは、今日の宗門寺院の本当の姿なのかもしれない。
 我々は余りにも長くぬるま湯に浸かりすぎたのではないか。その間に世の中は葬儀においても、佐々木宏幹先生が指摘される通り僧侶を必要としない風潮が現れ、僧侶の存在意義が問われるようになり、檀家制度を支える家の崩壊が始まり、心理学者、哲学者、評論家、仏教関係以外の学者、科学者が仏教を語り、お経の解説書を書いてベストセラーになっている。しかし彼らの言説の中で、僧侶が語られることはない。僧侶が仏教を代表するものではなく、僧侶は仏教に寄生する者であるといった程度にしか考えられなくなってしまった。
 哲学者の梅原猛は、朝日新聞に一文を草し、現代社会と仏教の役割を論じている。彼は「最近、仏教書がよく売れていて仏教復活の空気が生まれてきたというが、残念ながら私は否と答えたい」という。彼は、どのような宗教でも、その内面に厳しく規定された道徳を持っている(彼のいう道徳とは「戒律」に近い)。だから繁栄し続けたのであって、道徳を失った宗教は滅びざるを得ないという。しかし明治以来、仏教が優れた教えであることを説いた者は多くいたが、仏教の道徳をしっかり己の身につけ、それを守ることの重要さを説いた僧は少ないという。今、日本の道徳は衰え、このままでは日本は精神的に再び亡国への道を進むだろうという。「仏教者は、仏教が優れた教えであると語る前に、自らの生活において十善戒を守り、六波羅密の徳を実践しているかを心に深く問うべきではないか」と書いている。仏に成ろうと精進してこそ僧ではないかといっているのだ。
 厳しい言葉であるが、我々はこれに反論することはできない。百歩譲って妻帯し家庭を持つとしても、かつて世間では「寺の嫁、特に禅宗の寺の嫁になるものではない。禅宗の寺は朝は早いし、一日中掃除に明け暮れ、行儀作法も非常に厳しいから」といわれていた。これが禅宗の寺の家庭生活であったのだ。ここには身を律した宗教生活、すなわち聖性を護持した生活がある。自省を込めていえば、今日の我々は俗人と何ら変わるところはない。
 しかも今日の厳しい社会の中にあって、呻吟苦悩する人々に無関心で、精神的支柱にもなり得ない僧であれば、現代的存在意義といわれても答えようがない。ぬるま湯に浸っているうちはいいが、あがれば寒さが身に滲みるものだ。現実はすでに十分に冷え込んでいることを知るべきだろう。
 設問(1)の選挙制度の見直しには九九%が賛同している。多々良学園に渡した二十三億円は無駄になったが、拠出するにあたりどう説明を受け、どのような見通しのもとに行ったか、十分な議会での討議がなされたのかという不信にもとづいているのだろう。両会派同数の弊害が十分な審議をさせなかったのではないか、ということであろう。
 両山護持を宗憲で謳いながら、それを旗印に掲げて争うのは矛盾しているし、永平寺系、總持寺系という会派の区分の仕方が、政治理念のなさを語っている。連記制を定めて、いずれの会派にも属さない中立の立場を認めないことは民主主義の理念にも反する。主義主張を掲げて支持を得る選挙でなければ意味はない。政治が、両山を反目させるようなことがあってはならないのだ。
 本庁には選挙法改正の審議会が設置されているが、会議が開かれているのか、開店休業中なのかは定かではない。真剣に審議しなければ恥ずかしいだろう。
 備考欄に宗議会制の廃止を記された人もいたようだし、また、地方寺院の中にも議会不要論を説く寺院もある。しかし民主主義を標榜する以上、議会制度は必要である。ただ内容が問題なのだ。
 現在の宗門の議会は形骸化してはいないか。執行部の議案を承認するための単なるセレモニーと化しているように思える。
 質疑者は、通告質問であるから、質問に先立って質問内容を提出しなければならない。そして、その質問が適正であるかどうかのチェックを受ける。これはまた議会の議事がスムーズに進むために前もって関係者は書類を整えておく必要もあるからだ。その時、問題になりそうな質問は許可されない。しかし問題になりそうなものこそ必要であるが、だいたいそれは拒否されるか、問題の箇所を削られる。
 そして質疑が行われ、それに対して関係者から答弁を得る。通り一遍の答弁で、中には答弁にならぬものもある。しかし質疑者には再問は許されていない。答弁に納得がいかなくても、引き下がるよりない。
 国会で野党議員が関係大臣に質疑を糺す場合、時として熾烈を極めて真相を追求する時があるが、宗議会ではそういうことはない。一通りの答弁が済むと終わりである。
 これでは質疑者から真剣さを失わせ、答弁はおざなりになる。これでは民主主義にもとづく議会とはいえない。
 議員は、自らの選挙区の寺院の意向を受けて、その総意を代表して質疑を行っているのだ。それに対して一遍の返答で済ますことは、選挙人を愚弄するものであり、議会を冒涜するものである。
 議会の堕落は、行政の堕落に通じる。こうした議会のあり方は、有能で情熱を持った人材を選出し、議会に送っても彼らは幻滅するだけだろう。
 優秀な議員さん達が数多くいることは知っている。そういう人達が、持っている能力を十分に発揮できるような機構に変革することが必要だ。親分政治という前近代的政治に、権威主義的体質の宗門は陥りやすい。それの弊害は今回のことでも明らかである。
 そして、勝縁を得て仏子の末席に連なることを得た宗侶一人一人が、僧としての本来の在りように目覚め、苦渋に沈む市井の人々の傍らに立ち、菩薩道を行じ、そのことによって自らが仏にならんとする大勇猛心を奮い立たせる宗門の未来像を描きがたい。今始めなければ、宗門のみならず長い歴史を有する既成仏教の未来はないだろう。