『レポート』
ドイツアルプスの麓に禅苑開く
―中川正寿師晋山レポート―
宮崎県昌竜寺住職 霊元丈法
「中欧に禅風興(おこ)す普門の坐(ざ)」 丈法
単身ドイツに渡って二十七年、この度晋山式を行った中川正寿師は、太い眉の個性的な風貌をしている。彼は慶大生だった四十年前に、(故)酒井得元老師と出会って出家の道にはいった。私は昭和五十年に永平寺で修行を共にしたが、送行(そうあん)してドイツへ旅立った彼の消息を近年まで知ることはなかった。
中川師は二十年前に、ミュンヘンの東のアルプスの麓に古いホテルを求めた。そして一個半個の坐禅で法縁を募り、コツコツと禅苑を整えていった。平成九年には宮崎奕保禅師を拝請開山して、海外では珍しい永平寺直末(じきまつ)の大悲山普門寺が落慶する。
それからさらに十年、酒井老師やご本山の法縁が実って「ドイツ普門寺国際友の会」が結成され、強力な支援が続けられた。この会は、今般数十名の慶讃団を率いられ、記念講演をされた奈良康明老師や、西堂をつとめられた泉岳寺小坂機融老師等の尽力の賜物だ。
九月九日、南バイエルンは雲一つない青空におおわれ、真青な牧草の丘が幾重にも重なり、こんもりとした森の脇にはレンガ色の屋根が映えている。仮設本堂に、ヨーロッパ布教総監今村源宗老師を筆頭とする尊宿合わせて六十余名は、国内でも得難い豪華な布陣で、両本山の元役寮も十指を越えて勢揃いした。
青い目の首座ハーン玄法師と両班に率いられて晋山(しんざん)した中川新命は、ドイツ語を交えた問答(全くドイツ語は問答にむくリズムだと感心する)をかわされ、西堂の百槌(証明)をいただいた。首座法戦式は古則通りに日本語の問答を立派になされたが、ドイツのテレビ局が総力取材し、百数十名もの現地の方々が参集した式なら、ドイツ語が主の方が布教になったろう。しかし、日本でも檀家さんにはただ大声をはりあげるチンプンカンプンの問答を見せて平気なのだから仕方ないと反省する。
翌日は、宮崎禅師の「ワシが行ってやりたい」との想いを托された開山専使・札幌中央寺南沢道人老師の僧堂開単(かいたん)式だった。この禅センターの中核となる坐禅堂は、屋根裏部屋ながら、南独の陽光をいっぱい取り入れた気持ちのいい坐堂である。南沢老師の柔らかい提唱が心地よく響いた。
このあと、物心両面にわたって支えた(故)黒田武士老師寄贈の観音像と子安地蔵が、遺贈の袈裟を被た山口晴通老師によって開眼されたが、侍者をつとめた遺弟(ゆいてい)黒田博志師共々感激の極みだったろう。子安地蔵は正門脇、色とりどりのゼラニュームが揺れるドイツ農家を背景に、観音像はトウモロコシ畑を背に純白の慈容を見せている。また、永見寺住職は若手の僧を率いて法要を整え、観音懺法で式典に花を添えられた。
圧巻だった祝宴は、当地の大きな教会の経営するレストランだった。ビールやワインはそもそも修道院で造られていたから、教会の経営するパブでは珍しくない。この教会の大聖堂を見学させていただいたが、歓迎の大パイプオルガンには圧倒された。なんとこの奏者が普門寺の参禅会員と知って二度びっくりした。
実は、普門寺はドイツカトリック聖地の真只中に建っている。ローマ法皇ベネディクト16世は隣町の出身で、晋山式と時を同じくして故郷に錦を飾られたので、ミュンヘンには戒厳令がしかれた程だ。日本総領事が祝辞で「何も問題がないより、意見を戦わせた上での和合が大事」と中川師の苦労をねぎらわれたが、数日後の法皇の地元大学での失言が世界のイスラム教徒を怒らせた程の硬派の地に、禅苑を開いたのは特筆すべきことだ。地元市長の祝辞や、法皇歓迎のために欠席した司祭からの祝電は、その間の事情を語って余りあるものだった。
弟子丸師以来、活きた禅苑が花開いた。あとは中川師の法体(ほったい)の堅固を祈るばかりである。
「仏と子笑みは言葉の壁越えて」丈法
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※ 「両祖の言葉」はミュンヘン日本人学校、普門寺図書室、ヨーロッパ総監部等に寄贈しました。