脚下照顧の重さ
 〜宗門改革にむけて〜

青森県 雲祥寺 住職 一戸彰晃(青森県・曹洞宗々政研究会代表)


 10月10日、山口地裁においていわゆる多々良裁判(事件番号:山口地裁民事部「平成18年(ワ)第151号および第152号」)「第一回口頭弁論」が開かれた。ついに司法の場において曹洞宗の責任が問われることになった。裁判情報がなんらかの形で伝えられはしないかと夕刻からインターネットで記事検索やらブログ検索をしていた時である……衝撃的なニュースが某掲示板に書き込まれた。山口地裁が曹洞宗宗務庁などが入る曹洞ビルと土地の仮差し押さえ決定をしたというのだ。仮差し押さえとは「債務者が返済を滞納している等の事情があり、債務者の財産状況が著しく悪化していることが明らかである場合には、債権者は裁判所に対して、債務者の財産(不動産など)の売却等を一時的に禁止することを申請することができる」というものだ。「仮」が付くとはいえその内容は実に深刻である。これは山口地裁が原告金融団の主張を容れ被告曹洞宗の責任を認めたということに他ならない。曹洞宗史上最悪の事態だ。自浄能力を失ったものは外圧によってしか変革できないのではなさけないことだ。
 宗門改革への提言は過去の通信で既に多く述べられている。また今号でも諸師が熱く語られていることと思うので、わたしは角度を変えて「宗門改革を仏教者として主体的に捉える」というラジカルな視点でことを述べてみたい。
 昨年の『週刊文春』の衝撃に接し、大抵の宗侶は「恥ずかしい」という感想を漏らした。目前の悲惨さに出遭ったとき「同情」する人によく似ている。このような人は問題を解決できない。「同情は(悲惨に打ちひしがれている人との)連帯を拒否したときに生まれる(岡村昭彦)」ものだ。大切なのは悲惨さを共有し自らの問題として立つことにある。恥ずかしがる人が頬を赤らめ無口になることは知っているが、それが勇敢に立ち上がったという話をわたしは寡聞にしていまだ知らない。仏教者とは他の悲しみを吾が悲しみとする自覚である。お釈迦さま両祖さまが頑として拒否した不正(十重禁戒)を身命を挺して護るのが仏教者のありかたである。恥ずかしがり沈黙していては宗門は到底改革されないし、宗侶も本分を尽すことはできない。
 また、今回の多々良問題は宗門全寺院にも責任があるという声を聞く。これは一見美しく、しかし実に危険な発想だ。この国が十五年戦争を敗戦で終えたとき、奪い失ったもののあまりの多さに耐え切れず東久邇内閣が「一億総懺悔」と喧伝し、戦争責任を曖昧にしたことを忘れてはならない。今回の宗門の混乱は一部の利権にあることはだれの目にも明らかだ。黙しているだけだ。わたしども一般寺院にその責任の矛先を向けることは到底赦されるものではない。
 しかし別の意味で、やはりわたしたちにも責任はあるのだ。東京グランドホテル問題で真摯な反省と解決を怠ったがために、いま第二の東京グランドホテル問題(多々良問題)が勃発した。その規模と社会的影響は前回と比較にならないほど肥大している。再発を防ぎ得なかった……だから、とてもしんどいのだ。それは、わたしたち宗侶の仏教者としての自覚の欠落がもたらしたとも言えなくもないからだ。
 仏教者とはどんな人間だろうか。私は仏教によって自己実現をめざす人と考える。自己実現とは、この世に人として貴重な生を享けたのだから、納得のゆく人生を生き抜くことである。
 自己実現には五つのプロセスがあると言われる。これはわたしたち仏教者にも当てはまるだろう。

 1 「自己認識」…まずは自分が何なのか? を考えること。親だったり子だったり、やむを得ず坊さんだったり、日本人だったり……。「認識」することは不可能と本覚思想に陥るものも多い。

 2「自己決定」…目前の矛盾や不正や悲惨に出会い、仏教者として「自分はこうあるべきだ」と決定する。このとき初めて自己が立つ。

 3 「自己変革」…自己が立ったとき初めて自分は非力で無能であることを知る。自己実現を妨げてきたものは怯懦・打算などを内包する自己自身であることを知る。よって仏教者として自己を変革する。生まれ変わるのだ。

 4 「社会参加」…仏教者は無論、社会との関わりあいのなかで存在している。社会とは人間の相互関系である。社会を無視するものは自己実現などありえない。宇宙にでも飛び出すしかあるまい。

 5 「社会変革」…仏教者としての自己実現は自分の属する社会が仏教的に見て正しいか、それとも正しくないかに繋る。よって、仏教者は自己実現を完結させるために社会変革へと至る(宗門という社会もこの観点から変革せざるべからず)。

 宗門は多々良問題を正しく捉え正しく乗り越えなければならない。実はこのテーマは宗侶個々人の仏教者としての自己実現に繋がっているのである。その意味で私は、宗門への批判と提言を臆すことなく実名で堂々と展開し続ける千代川師および仏教企画に強いシンパシーを感じるものだ。たとえば署名など現場寺院の声を反映する運動もあっていいが、さて宗侶に実名を記す勇気があるかどうか? このことに想いをいたすとき、乗り越えるべき壁の厚さに呆然とせざるを得ない。
 「麻痺」(J・ジョイス)した曹洞宗の、三権の実現。魯迅の言うところの「寂寞」からの突破。宗侶の「仏教者としての自己実現」……「脚下照顧」という仏教者の根本命題がいまわたしたちに突きつけられている。