日本人の「あの世」観(感)は衰弱しているか
―盂蘭盆会を迎えるにあたって―
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
◆ 「芋たこなんきん」が物語るもの
この春、好評のうちに終わったNHK朝の連続テレビ・ドラマ「芋たこなんきん」は、平均的日本人の宗教または仏教生活の一端を示すものとしても興味深い番組であった。
時代設定は約四十年前であった。平均的家族の生活における喜怒哀楽が登場人物の面々により、淡々と演じられた。
他人から品物を貰うと、まず仏壇に供えていたし、食卓を囲んで食事をとるときには共に合掌していた。
ドラマが最終段階を迎えた際に、ヒロインの夫が入院し、病状が悪化するという事態が生じた。
病床に付き添った妻(藤山晴美)は夫の手を握りしめ、家族の亡くなった人び
と(先祖)の名をいちいち口にしながら「どうかどうかこの人を助けて下さい。お願いいたします」と必死になって祈った。
同じ時刻ごろ、妻の母(香川京子)は家の奥座敷にある仏壇の扉を開け、仏前に灯明と線香を供え、両手でしきりに数珠をもみながら、某々さん、某々さんと亡き親族・縁者の名を挙げ、「どうか、どうか娘の夫を救ってあげて下さい」と、ひたすら願い続けていた。
立派な仏壇の最上段には、釈迦仏あるいは阿弥陀仏らしい仏像が安置されており、下段にはいくつかの先祖の位牌が祀られていた。
この家族が仏教徒であることは言うまでもあるまい。
そして彼らが仏教徒であるとすれば、家族の一人が生命の危機に陥った際に助けを願い求めるのは、第一に仏壇最上位に在す釈迦仏や阿弥陀仏であるはず、と考えるのが普通であろう。
ところが彼らが助けを求め祈ったのは、本尊の仏陀ではなく彼らの身内の先祖たちであった。
宗派に関わらず仏教徒が信仰・帰依の対象とすべきは仏法僧の三宝であり、彼らが唱える「南無帰依仏」は三宝の第一である。
しかるに彼らが家族員の限界状況に遭って必死に唱えたのは「仏」ではなくて「死者」や「先祖」であった。
これはどういう訳であろうか。NHKのテレビ・ドラマは、ことさらに例外的な事例を取りあげたのであろうか。答えは否である。
各種の宗教意識調査のデータによると、この国の伝統的仏教教団に属する「仏教徒」の多くは、特別な人たちを除くと、その宗教意識(感覚)において、本尊の「仏」よりも身内の「死者」や「先祖」により強い親近感をもつとされるからである。
それは、一般の仏教徒にとって「仏」が大切な存在であるのは、仏が身内の「死者・先祖」を守護し平安ならしめる役割をもつ限りにおいてであることを意味するであろう。
俗な言葉で表現するなら、多くの仏教徒にとって「仏」はいわば建前であり、「死者・先祖」は本音であると言えようか。
こうした日本仏教における「仏」と「死者・先祖」との構造的な関係は、アジア仏教諸社会にあってもきわめてユニークなありようであると考えられる。
伝統的な仏教教団の僧侶、とくに若手の自覚的な僧侶は、以前から仏教徒の信仰内容を「死者・先祖」から本尊の「仏」に方向づけるべくそれなりの努力を重ねてきているが、なお大勢は大きく変化している状況にはないと見られる。
一般の仏教徒の宗教意識においては、依然として「仏」は「死者・先祖」の上に乗っかっているのではないか。そしてこの構造が続く限り、総じて教団仏教は安泰ではないか。
ある僧侶の研修会で以上のような仮説的見解を述べたら、僧侶方からさまざまな意見や批判が出された。
要約すると、一つはあなたの言うとおりで、死者・先祖信仰をとおしての本尊信仰という型はそう変化するはずがないという、どちらかと言えば楽観的な意見。
他は、あなたが例として挙げた「芋たこなんきん」は四十年以上も前の話であり、この間の日本社会と文化の変化は想像以上のものだ。「死者・先祖」観(感)も「あの世」観(感)もこの四十年間に大きく衰弱しているのではないかという、かなり悲観的な見解。この二つの意見をどう考えたらよいのだろうか。
◆盂蘭盆会を前にして
間もなく「お盆」の季節がやってくる。多くの日本人にとって夏のお盆は冬のお正月と並んで特別な意味をもっている。
日本各地から大都市圏に出て働いている人たちも、この期間には故郷の地に帰り、墓参りをして「死者・先祖」に合掌・礼拝する。
このため交通機関が大混乱を起こすことが多い。人呼んで「民族の大移動」と言う。
人びとはどうしてお盆の時期に故郷の我が家を目指すのであろうか。さまざまな理由があろうが、基本的には、その日々に我が家の「死者・先祖」が「あの世」から家に戻ってくるからである。
故郷帰り行動のベースには、自分が今ここにあり元気に生きているのは、かかって先行世代である「ご先祖さまのお蔭である」という宗教意識が、少なくとも最近まではあった。
人びとはお盆の日々を故郷で過ごし、「死者・先祖」とご馳走を共にし、その力を頂いてリフレッシュした気持ちになって再び勤務地に戻った。
この人びとの気持ちを忖度するなら「見えるこの世は、見えないあの世に支えられている」ということになろう。
そしてこの気持ち、あるいは感性を日本人の固有・土着信仰として捉えたのが、民俗学者の柳田国男であった。
柳田説の骨子は、死者は生者の世界(この世)を遠く離れることはなく、両者はつねに親密な交流を行い、先祖は子孫の行く末を案じ見守るのみならず、また子孫となって生まれ代わる、という点にある。
この「近くに在す死者・先祖」にたいして、仏教とくに浄土教が説く「西方十万億土に往生する死者」の思想・観念は、したがって柳田にとって容易に承認しえないものであった。柳田はこう述べる。「(人)はたとへ肉体は朽ちてしまはうとも、なおこの国土との縁は断たず……子孫の家と行き通ひ、幼い者の段々世に出て働く様子を見たいと思って居たらうのに、最後は成仏であり……頻りに遠い処へ送り付けようとする態度を僧たちが示したのは、余りにも一つの民族の感情に反した話であった」
(『定本柳田国男集第十巻』筑摩書房)。
柳田は仏教の普及に伴って、身近かな処に住むとされていた「死者・先祖」が途方もなく遠い処(浄土)に送りこまれるにいたったことを慨歎しているのである。
しかし柳田の慨歎は単に杞憂であったにすぎないのではないか。
なぜなら、仏教行事であるお盆に、「死者・先祖」は迎え火に迎えられて、「あの世」から帰宅するからである。
お盆に帰宅する「死者・先祖」は「近くのあの世(墓)」から来るのであろうか、それとも「十万億土のあの世」から来るのであろうか。一体どちらの「あの世」に住んでいるのであろうか。
仏教徒の儀礼や行事を見る限り、「死者・先祖」は決して遠近いずれか一方に住んでいるのではなく、遠近双方に存在すると言えるだろう。それだけではない。「死者・先祖」は遠い浄土・仏国土にも、墓にも、仏壇にも、寺院の位牌堂にも、さらに死んだ場所にも在すのである。私はこのような捉え方を「多重的あの世」観(感)と呼んでいる。
日本人の信仰対象が「本尊」か「死者・先祖」かと二者択一的に決められないことは、右のことからも明らかであると言えよう。
問題はこの四十余年の社会・文化的変動のなかで、いま「多重的あの世」観(感)がどのような状態にあるかということである。
◆「千の風になって」について思う
近頃、東京では「直葬」(病院から直接火葬場にいき荼毘に付した遺骨を埋葬する)が増え、また無宗教葬を行い、後に「散骨」する例も少なくないという。
この現象が特殊大都市圏現象なのか、全国に波及するものかについては慎重な判断が必要である。
もしも直葬や散骨が今後拡大するのであれば、それは伝統的な葬送文化の大きな変化であると言わなければならない。それは柳田国男が述べた伝統的な「死者・あの世」観(感)の著しい衰弱化または変容を意味するであろう。
この現象の絡みですこぶる気になるのは、最近、作家・新井満訳詞作曲の「千の風になって」が多くの日本人の心を捉え、老若を問わず迎えられていることである。
この歌は「私のお墓の前で/泣かないで下さい/私はお墓になんて/いません/千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています」というもので、昨年末のNHK紅白歌合戦でテノール歌手・秋川雅史が歌って以来、大きなブームを巻き起こした。
英語の原詩は「作詞者不詳」とされているがメロディーは日本人好みの感があり、身内を亡くして悲しい想いをしている人を励ます癒しの効果を持っているようだ。
この歌に籠る「私は死んでも生きている」という意味は容易に受けいれられるとして、「お墓になんていません」という捉え方はどうか。これはこの国の「お墓参り文化」の否定につながらないだろうか。
かりに歌詞が「私はお墓だけに/いるのではありません」という表現なら、それほど問題はないと思うのだが……。
とにかくこの歌が何の疑問もなく、ごく自然に多くの人びとに歌われているということは、日本人の在来の「死者・あの世」観(感)が変容をきたしていることを暗に示唆しているのかもしれないのである。「千の風」はただ大きな空を吹きわたっているだけではない。
さきの歌は続く。「秋には光になって/畑にふりそそぐ/冬はダイヤのように/きらめく雪になる/朝は鳥になって/あなたを目覚めさせる/夜は星になって/あなたを見守る」。死者は光になり、雪になり、鳥や星になる。ここには転生の思想または感覚が読み取れる。
現代の人びとに好まれる海、山、野への「散骨」とこの歌は、思想・感覚的に重なっている。
これからはこのような「死者・あの世」観(感)が多くの人びとにより受けいれられ、日本の宗教(仏教)文化として定着するにいたるのだろうか。
いずれにせよ、現代の仏教者は「芋たこなんきん」を例に述べたような「仏壇」や「墓」に在す「死者・先祖」観(感)と、「千の風になって」のように自由に自然を吹きわたる「死者」観(感)とが今後人びとによって、どのように受けとられていくかに強く着目する必要があると考える。
間もなくやってくる、盂蘭盆会に墓参りにくる人びとの行動や態度が、変わってているか否かを含めて。