●葬儀の論理 1
兵庫県弘誓寺住職 能勢隆之
一、はじめに
『仏教企画通信』5号に、「葬祭文化の現状を考える」として佐々木宏幹先生が寄稿されている。
これを読んで、宗門の僧侶として「葬儀」というものを明確にしなければならないと感じ、執筆の機会をいただいた。
私たちは、自己の内にも、世間に対しても、葬式法事は何であるかを明らかにする「言語」を持っていなければならない。
二、葬式仏教批判への態度
世に「葬式仏教」という言葉があり、言うまでもなくこれは、寺院の現状に対する批判の言葉である。
この言葉に対する私の態度は、次の二つである。
第一に、この言葉に惑わされてはいけない、ということである。
気をつけなければならないことは、人は言葉に惑わされるということである。
気づかないうちに言葉の影響を受けている。この言葉によって私たちは、葬儀を軽んじてはいないか。
人は軽んじたものから軽んじられる。それは自らを軽んじ卑下するだけではない。寺をも仏教をも軽んずることになる。
批判されて反省する。その謙虚さは大事だが、多くの場合ただの反省に終わってしまっている。
簡単に「反省」してしまうな。先ず自分の立脚地を明らかせよ。そしてそこに「自信」を持て。そのように私は言いたい。それは傲慢でも、言い訳でも、居直りでもない。
人の言葉に従うのではなく、自分自身の経験と思考によって深く掘り下げ、自分の言葉で正当に評価しなければならない。
それを述べようとするのが本論である。先ず自信を持ち、自分の立場を明らかにしたならば、他からの批判も臆することなく受け入れ、反省することもできる。
そこで第二には、この言葉をまっとうな批判として真正面から受け止め、それに答えなければならない、ということである。
それは佐々木先生のご寄稿で言えば、次の二つの意見に答えることに要約されると思う。
a 寺院は仏教の本義からすれば、葬儀に関わるべきではない、という意見。仏教の本分は仏道修行である。それをなおざりにして、葬式法事に明け暮れるとは何ごとか、ということである。
b 科学的には死後の霊魂は認められないのではないか。とすれば葬式や法事をして意味があるのか、という意見。
真正面からの直球といってよい。私たち自身もこういう疑問を持っているのではないか。だから葬儀にどこか自信が持てないのではないか。けれども仏教者は、これを真正面に受け止め、単なる反論ではなく、これに真正面から答えなければならない。私はこの問いに答えたいと思っている。
だが今回は、第一のみについて論じる。第二については項を改め、機会を与えられれば『葬儀の論理(二)』として論じたい。
三、師父の葬儀
私事で恐縮だが、実際の経験の方が具体的と思うので、おゆるし願いたい。
平成十七年十月、私は師父の葬儀をした。私の子どもは女三人。長女が結婚し、婿は責任があるということで姓を継いでくれていた。その時はまだ得度はしていなかった。
葬儀の前日、私は彼に言った。「今日の葬儀は私がする。母はいるが、次の葬儀といえば、私の葬儀だ。それをしてくれるのは君以外にない。その時はよろしく頼む。だから明日の葬儀を他人のことと思わず、そのつもりでいてほしい」。
四、自分の葬儀は誰にしてほしいか
考えてみると、誰にとっても自分の葬儀を「誰にしてほしいか」と言えば、最も望ましいのは「自分のあと取り」であろう。
それは誰にも可能とは限らない。親子の順序が逆になるときもある。子のない人もある。私のように女ばかりならば、どうなるか分からない。もしそれができたならば、それは幸せだった、ということであろう。
逆に言えば、「子供は親の葬儀をする責任がある」ということである。
このことは誰でも考えることである。しかも重要なこと、避けて通ることのできないこと、分かり切ったことである。しかし、分かり切ったことでありながら「意識」されず、見過ごされてしまうことでもある。
だが、いよいよとなると誰にとっても「葬儀」は切実な問題となる。それは「一日で終わる」簡単なことではない。
その切実で重要なことに寺院は関わっている。私たちはそのことを「認識」し「自覚」することから、この問題を考える出発とするべきであろう。
五、「家」と「家庭」は違う
「葬儀」が現実となると、必ず「家」というものが浮かび上がってくる。なぜか。実は私は、葬儀の時に娘婿に対して先に述べた言葉に続けて、次のように言ったのである。
「もう一つ言えば、君自身もいつかは葬式をしてもらわなければならない。それを誰にしてほしいか。自分の葬式をしてくれる者を育てておかなければならない」。
ここに葬儀の重要な本質の一つがあるのではないか。ここから私は、「家と家庭は違う」と言うのである。「家庭」は主に現在だけのものである。それに対して「家」には、過去・現在・未来がある。どういうことか。
「家」には「先祖」がある。「葬儀」が行われる。「仏壇」を持ち、「墓」を持ち、「寺」を持っている。そして「子孫」がある。
「子孫」は未来のことであり、誰にもあるものではない。しかしこれらのことが考えられている、意識されている、更に言えば、自覚されているのが「家」である。
そこから私は、「家」が「意識」され、「自覚」されていなければならない、と言うのである。
六、「家」の見直し
戦後私たちは「家」を否定してきた。「家」は「個人」を縛る、封建的で古い制度であると考えられてきた。「家父長的イエ制度」という言葉がそれを端的に表している。
「個人」を自覚せよ、確立せよ、と教えられてきた。そこでは「家」はいつも非難され、否定されてきたのである。
私も戦後のそういう教育に力が注がれた中で育ってきた。しかも私自身「進歩的」な部類に属する人間であったから、それをまともに受け取っていた。
しかも長男として、家から自由になりたい、自分の好きな道に進めたらどんなによいか、うらめしく思ってきたものである。だから自分を束縛する「家」などない方がよかったのである。
家という非人間的なものは否定すべきである。そんなものはなくしてしまえ。なくなればそこから新しいものが生まれてくる。ラジカル(急進的)に、あるいは漫然と、そう考えてきた。
したがってそこから「家」という言葉自体が敬遠されるようになった。「家」ということには触れない、考えない。距離を取ろうとした。それを言うことさえ、まして
肯定することなど軽蔑の対象となるように思ってきた。
だが戦後六十余年、家をなくして、そこから新しいものが生まれたか。家は放置されて、荒廃しただけではなかったか。
私たちは今、「家」の本当にあるべき姿をじっくり考え直し、見定めなければならない時に来ている。
それが「家の自覚」である。それは「家庭」からもう一歩進んで「家」でなければならない。「家」をもう一度見直さなければならない。
その中心に「葬儀」がある。寺院は、そこに極めて重要な役割を持ち、深く関わっている。
七、親の葬儀ができる子孫を育てる
「家」が自覚される時、「家の未来」すなわち、(1)子孫の生き残り、(2)物的・知的財産の相続が意識されるであろう。
(1)は全ての生物が持っている本能である。あらゆる生命は、自分の子孫が生き残るために、厳しい生存競争を繰り広げている。
ところが現在の日本人は、この本能が劣化しているのではないか。今の刹那の生の楽しむだけで、その先を考えていない。未来への意味を見失っている、意味を見出せなくなっている、分からなくなっているのである。
それは自分の生きる意味と方向を見失っていることと同義であろう。だから今を楽しむことしか知らない。これだけの豊かさを手に入れながら、それは現代の悲惨でさえある。
「家」を考えると、「子孫」を考えざるを得ない。それは端的に「仏壇・墓を誰が守るか」と言うことに尽きる。娘三人の場合、結局この問題につきあたる。
先祖があり、親の葬儀をし、年回供養をして仏壇・墓を守る、それが先祖から自分に与えられた役目なのである。
それだけではない。これを永遠に続けて行く子孫を、生み、育てなければならない。これも自分に与えられた役目であり、義務である。
子孫を生み育てる具体的目標は、ふつうは、教育と就職と結婚であろう。だがこれでは不十分である。もっと具体的で、はっきりした目標・基準がある。それこそが、親の葬式と供養、仏壇・墓を守るということである。それができる人になることを目標に我が子を育てる、ということである。
八、子が子を育てる
だから私は「私の葬式は君がつとめてくれ」と言ったのである。それだけではない。続けてこう言った。
「もう一つ言えば、君自身もいつかは葬式をされねばならない。その為には、自分の葬式をしてくれる後継ぎを生み、葬儀をしっかりつとめてくれるように育てなければならない」。
学校を出、就職し、結婚して一家を持った、それだけでは育てたと言うに不十分である。自分の葬儀をし、供養をきちんとしてくれることを目標に育てなければならない。
そうすると子供は、親から「朝早く起きなさい。行儀よくしなさい。手伝いをしなさい。勉強をしなさい」と言われている苦い言葉を、そっくりそのまま我が子に言わなければならないことになる。
子供を育てるには、結婚をしなければならない。一家を支える経済力を身につけなければならない。歯を食いしばっても働かなければならない。
その為には勉強をして学力をつけておかなければならない。それは働いて人の役に立つ有能な人間になることである。役に立つから、それに対価が支払われ、所得が得られるのである。
この能力を身につけなければ、親の葬儀をすることはできない。葬儀をすることは容易ではない。大ごとである。出費も大きいし、神経も使う。自分の葬儀をしてもらう為には、子供にこの能力が身に付くように育てなければならない。
このように「親の葬儀」ということが意識されるところに、自分の役目と生きる道筋が、意識され、見えてくる。それだけではない。子孫が育ち、生きてゆく道筋、生き残りの道筋も、意識され見えてくるのである。
これについて思い出されることは、恩師・小川弘貫先生(元駒澤学園学長・駒澤大学教授)の言葉である。
「師匠は弟子を育てるだけでは、役目を果たしたことにはならない。弟子が一人前になって、しかもその弟子が、自分の弟子を育てられるようになる。そこまで含めて、それが師匠の責任である」。
気になる言葉として心に留めていたが、初めはそれほどに思わなかった。今は至言と思っている。
師匠と弟子の関係は、そのまま親と子に当てはまる。親は子を育てるだけではなく、子がその子を育てることまで考慮するところに、真に子を育てたと言いうるであろう。
(以下次号)