名物和尚の誌上説法
兵庫県篠山市 弘誓寺住職 能勢隆之

能勢隆之
昭和十九年兵庫県生まれ。
駒澤大学大学院卒業。
永平寺安居。
昭和四十八年より弘誓寺住職。



「思うとおりにならない」ということ
苦と無我の認識が自己を解放する


一切は苦であるという認識

 「一切は皆苦しみである(一切皆苦)」。お釈迦さまの求道は、この認識から出発します。私たちもお釈迦さまと同じように、「一切が苦である」ということを認識することが、仏教への大事な入り口になるのです。
 「一切が苦しみ」とは極端だ、楽しいことだってある、厭世的だ、暗すぎる、と思われることでしょう。
 しかしお釈迦さまは、「苦も楽も一切を含めて皆苦しみである」と説かれます。私たちはこの言葉に、抵抗と疑問をおぼえますが、仏教は疑問を感じる所が大事です。
 「苦」ということも大事ですが、なぜ「一切」なのか、そこが更に重要です。

私をこえた因縁によってある

 「苦」は私たちに、「自分の思うとおりにならない」という事実を突きつけます。病みたくないのに病み、老いたくないのに老いる。思うとおりにはなりません。
 思うとおりにできるならば、苦をなくし楽を得ることもできるでしょう。ところが思うとおりにならない。だから苦しむのです。
 でも思うとおりになることだってあります。頑張って試験に合格した。ばんざい!
 もちろん努力しなければ絶対に合格しませんが、努力して「必ず」合格するのでもありません。「歩こう」と思えば歩けますが、歩けない時、歩けない人だってあるのです。
 とすると、「合格した」「歩いた」のは私の努力、私の力だけではない、ということです。私以外の力=「他の力」によっているということです。
 では「他」とは何でしょうか。神を考えたり、運命と考えたり、人間はいろいろと考えますが、仏教では「因縁」と言います。
 あらゆる無数の因と縁とが重なり合ってその結果として、合格がある、今の私がある、ということです。その因も縁も「私(自)」ではありませんから、「他」と言うのです。
 それは私だけではありません。ありとあらゆるもの、チリ一つ、アリ一匹にいたるまで、「因縁」によって、「他」によってある、不可思議の存在です。

無我の認識と自己の解放

 あらゆることが、「思うとおりになった」ことも含めて、根本的に「思うとおりにはならない」ものである。このことを「一切が苦である」と言われるのです。
 「苦」とは「思うとおりにならないこと」と定義すればよいでしょう。
 一切は「思うとおりにならないもの」であるのに、「思うとおりにできる」と誤り、「自分」の思うとおりにしようとして、できないから「苦しむ」のです。この誤認が「苦」の根本原因です。
 したがって人を「苦」から解放するには、この「誤認」を解かねばなりません。この誤認とは、「自分」は「思うとおりにできる主体(これを我と言います)である」と言う誤認です。「そんな主体(我)はない」、つまり「無我」であるという認識が、人を苦から解放し、仏道に導き入れるのです。
 人は「無我」の存在であり、「思うとおりにならない」存在であるということは、情けない、惨めなことのように思われるかも知りませんが、そうではありません。
 このことが明らかになるとき、人は自らが仏と異ならないだけでなく、チリ一つアリ一匹に至る一切のものと、まったく平等の、尊い存在であることに気づくと共に、自らを解放して生きる道を見出すのです。