柳緑花紅
三輪空寂(さんりんくうじゃく)の布施
社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)
大菅俊幸
ボランティアの根底にある心
「お布施って、お寺にあげるお金のことでしょう?
『お経料』とか、『戒名料』とか、お坊さんに対するお礼だよね」。かつての私の知識はこんな程度でした。布施とは、ひと様に何かを「あげる」こと、「してあげる」こと、といわれます。でも、曹洞宗経典『修証義』の「発願利生」にも出てくるように、布施にはもっと広く、深い意味があるようです。労力、時間、知識、アイディアなど、自分がもっているものを使って、見返りを求めず、誰かのために何かしてさしあげる行いも布施といわれます。金品がなくてもお布施はできるのです。ですから、ボランティア活動や奉仕活動も本来りっぱな布施なのだと思います。
私は、現在、「シャンティ国際ボランティア会(SVA)」というボランティア団体で働いています。そもそも曹洞宗から出発した団体で、1980年から27年間、学校建設や図書館活動など、教育の機会に恵まれないアジアの子どもたちの支援活動を続けています。現場で活動していると、「何かをしてあげる」つもりでいながら、逆に、そんな思い上がりを一喝され、人間として大切なことを教わる体験も少なくありません。
たとえば、1980年、私たちの団体の前身、「曹洞宗東南アジア難民救済会議(JSRC)」の草創期、多くの青年宗侶のボランティアたちがタイにあったカンボジア難民キャンプに入った時のことです。鉄条網に囲まれたキャンプの中に入ると、家に入りきれない難民たちが集まってきました。法要が行われることになっていたのです。そして、そののち、突然、挨拶をするように言われました。急なことであり、現状のすごさを目の当たりにしていたので、代表で挨拶に立った僧侶は、「何をしたらいいのかわかりません。私も仏教徒の一人です」と、正直に伝えるのがやっとでした。すると、一人の年老いた難民がそばに来てこう言うのでした。
「何もしなくてもいい。今、あなたは私の隣にいる。私たちに友人がいるんだということを教えてくれただけで大きな安らぎと励ましになった。今夜はとても嬉しい」。
そう言って、その老人はお鉢に入れたミルクを差し出したのです。日本の僧侶たちはショック以外の何ものでもありませんでした。喰うや喰わずの状況なのに、難民たちはミルクを布施してくれたのです。「助けようと思って行ったのに、こちらが布施をいただいた。痛棒で一喝された思いだった。仏教のボランティアはチャリティではない。『三輪空寂』の布施にこそ、その理想の姿があると思う。難民たちからそれを教えられた」。当時の忘れがたい記憶を僧侶たちはこのように伝えてくれました。
「布施する人」「布施を受ける人」「布施されるもの」。この三者が対等に支え合い、助け合うのが「三輪空寂」と呼ばれます。僧侶たちは難民を助けに行ったつもりでしたが、むしろ難民たちから大きなことを学びました。助ける側、助けられる側の分け隔てなく、お互いに助け合い、学び合う。まさに、そこに「三輪空寂」が現成していたとはいえないでしょうか。それは、単に恵まれた人が困っている人に憐れみをほどこす、いわゆるチャリティではありません。
キリスト教にくらべ、仏教はボランティア活動や社会活動にあまり熱心でないと言われることがあります。でも、私は、仏教こそボランティアの根底にある考えをじつに的確に表現している宗教なのだと思っています。