随想 自然のなかの私


作家・福聚寺副住職 玄侑宗久
『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞


 もうすぐお彼岸である。
 お彼岸とは、陰陽が相半ばし、太陽が真東から出て真西に沈む。この状態がニュートラルだからだろうか、人間も植物も、この時期にはからだが開くと中国では考えられてきた。だから植物は春秋のお彼岸界隈に枝を伸ばし、人間もこの時期、病気になりやすいのだという。  私のいた道場では、夜明けと日没の時間は必ず坐禅していた。これも、一日の陰陽が交代するその時間に、人は病気になると考えられていたからだろう。からだが開く、ということは、好いものも悪いものも入ってきやすいということだ。
 そんな自然のサイクルが、今なお我々のからだに残っているとは思えなかった。しかし不思議なことに、道場にいる限り誰も風邪はひかなかった。休みをいただいて家に戻り、夜明けには熟睡、日没にはまだ動きまわっている、という状況のなかで、必ず風邪はひくのだった。
 問題にしたいのは風邪のことばかりでない。
 坐禅をしていると、呼吸とともにからだのあちこちに思いを致す。別な言葉でいえば、意識をあちこちに動かす。そのことで、意識を置いたあたりが温かくなり、いわゆる気血が集まってくるのが自覚できた。人体のトータル性と、そのなかを蠢くエネルギーみたいなものを感じるのだが、このエネルギーがいったいどこから来るのか、ということが私には気になる。そしてその際の、意識の働きもだ。
 結論を言ってしまうと、トータルなのは人体ばかりじゃなく、この地球、いや宇宙ぜんたいなのだと、私は思う。その全体を、縦横に満たしつつ全てを繋げているエネルギーのようなものがあり、意識だけが、それと積極的に関わるカギなのではないだろうか。
 中国では「氣」と呼び、キリスト教圏では「精霊」と呼び、またインドの仏教は「シューニャ」と呼んだもの。「シューニャ」はやがて中国で「空」と訳されるが、それらは、自分と宇宙との有機的な繋がり、時間も空間も飛び越えた深い関わりを指した言葉ではないか。
 お彼岸は、『観無量寿経』にも『観経疏』にも、「死者の霊を弔う」期間だなんて書かれてはいない。結跏趺坐して身の内外とも「空」にし、「業相等を知る」ことが大事だと説かれているのである。簡単に言えば自分の命をあらしめている無限の時間的・空間的つながりを観想することだろう。ご先祖さまはそのほんの一部なのだ。
 自然そのものがおかしくなってきている。最近の子どもは、濁った羊水から生まれてくるのだと、産婦人科のお医者さんに聞いた。しかし自然保護の運動も、いかに自分が自然と深く関わっているか、という実感なしには続けようもない。その実感と、我々の意識の可能性を自覚するためにこそ、お彼岸は設けられたのである。