柳緑花紅
冬は寒いか涼しいか?

作家・福聚寺副住職 玄侑宗久
(『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞)
このところ地球が温まっているらしい。先日テレビで視たところでは、この百年で地球全体の気温は〇・七度あがり、日本だけでは一度あがり、東京に限れば三度もあがっているということだ。異常に暑かったり寒かったり、世界が変調をきたしているようにも感じるこの頃だが、ここで申し上げたいのはそういう問題ではない。道元禅師がこんな歌を詠まれている。
春は花
夏ほととぎす
秋は月
冬雪冴えて涼しかりけり
『傘松道詠集』
ここで禅師のおっしゃる「冬の涼しさ」とは何か、ということである。
へそ曲がりな、いや、マットウな感覚からは、冬は寒いもんじゃないか、と思うだろう。夏の涼しさなら気持ちもいいしありがたいが、冬が涼しいと言われたらヤセ我慢と感じる人もいるのではないだろうか。あるいは、鎌倉時代も温暖化の傾向があったのか、なんて考える人もいるかもしれない。しかし「寒さ」と「涼しさ」とは、実は根本的に違う状況なのだとご理解いただきたい。それは、温度の差なのではなく、実は温度が低いという現状を、その人がどう受け止めているか、という区別なのである。
現状に否定的、つまり温度が低いことを嫌がっていれば「寒い」となるし、場合によっては「凍えそうだ」なんて言うこともあるだろう。しかしその寒さを肯定し、どこかで楽しむ気分であれば「涼しい」と表現される。じつは「涼しい」と思えば「寒さ」も和らぐのである。じっさい我々禅僧は、炎暑の夏でも「あったかいですね」なんて挨拶する。これも「暑い」と言う場合とはまったく違ったニュアンスになることは、ご理解いただけると思う。
仏教では、独立した主観も客観もじつは認めてはいない。暑さも寒さも、それを感じる主体との出逢い、あるいは「できごと」としてのみ存在していると考えるのである。私も涼しさも、「縁起」のなかにある、と言い換えてもいい。
当然、道元禅師のあの歌では、その「縁起」を楽しむ境地が表明されている。花やほととぎすや月に対しては何も言及されていないが、我々はそれらを肯定的に楽しんでいる禅師のお姿をありありと浮かべることができるだろう。
現状を肯定してしまっては地球の温暖化はどうするのか、と突っ込む人もいるだろうか。その心配も理解できるが、まずは落ち着いて肯定的に世界をみまわすことで、智慧も湧き出てくるのだと思う。