柳緑花紅
安楽の法門

作家・福聚寺副住職 玄侑宗久
(『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞)
お釈迦さまは六年間の苦行の末にそれをやめ、菩提樹の元に七日間坐禅しつづけた。
それだって苦行だろうと、普通の人は思うかもしれない。しかしお釈迦さまにとっては、それくらいは苦行じゃなかった。苦行林のなかには、一生右手を挙げたまま使わない人や、爪を絶対に切らずに伸ばし続ける人、また体に蜜を塗って裸で地面に横たわる人など、想像を絶する苦しみを求める人々がいたのである。
彼らは、肉体を苦しめることで魂が浄化されるのではないかと考えていた。しかしお釈迦さまはご自分もそれを経験された挙げ句、決してそのようなことは起こらないと気づかれた。むしろ苦行は、心を汚すと思われたのである。
なぜかというと、苦行をしていると、まずそれをしていない人を軽蔑する気持ちが起こる。また他の苦行者と競い合う気持ちも起こってくる。軽蔑心や競争心だけでも、これは立派な心の汚れである。だから苦行は、心を汚しこそすれ、浄化なんてとんでもないことだと結論されたのである。
しかしお釈迦さまのこの結論は、受け止め方がとても難しい。今のままが安楽だとそこに居座れば、修練の意義が見いだせなくなってしまうからだ。
冒頭にも書いたように、お釈迦さまにとっては七日間坐り続けることが、既になんでもないことになっていた。これもそれまでの修練のお陰である。禅宗では坐禅そのものを安楽の法門とよぶ。修練によって、人はある程度の苦痛も含めて、安楽と感じるようになるのだ。
苦痛を忍んでいる、そう思えば心は汚れる。しかし人は習慣によって、何を苦痛と感じるかが変化する生き物だ。初めは苦痛でも、そのうち慣れて体が変化し、そこもここも安楽になってくるから楽しい。
だから、お寺という場所にはその両面があると思っておけば間違いない。
たとえば急な階段、寒い本堂、険しい参道。そんなものは不便だから、もっと福祉を考慮して、便利にしようと考える方は多いと思うが、それでは修練ができなくなってしまう。そんなことを言い始めたら、お寺は市街地にあるべき、ということになってしまうではないか。
不便さや苦痛は、単独でそれだけ除くことは難しい。それを除くと、失われてしまう美点もたくさんあると知るべきだろう。
初夏から夏にかけては、山の中の不便な寺の風情が最も素敵に思える季節だ。薫風南より来たり、殿閣微涼を生ず。夏向きに造られた本堂に佇み、菩提寺の不便さの奥の、安楽の法門を味わってみては如何だろう。お盆やお彼岸じゃないときにこそ、それは感じやすいはずである。
◎近著として『死んだらどうなるの』『三世をみつめる』『仏教・キリスト教 死に方・生き方』。