柳緑花紅

遥かなるものの美しさ

長徳寺住職 酒井大岳
著書に、『あったかい仏教』大法輪閣)、『わたしはふしぎでならない』(鴻盟社)、『りんりんと生きる』(家の光協会)など多数。


 季語は「炎天」なのだが、どうもこの句は秋を感じさせる。

  炎天にそよぎをる彼の一樹かな 虚子

 じりじりと照りつける炎天下だが、遥か彼方には一樹があって、風にそよいでいるという。この「そよぎ」がいかにも涼しく秋を感じさせるのだ。
 若いとき、この句に出会って救われた。どんなに苦しかろうが、前方にこの一樹を見ると、耐えられ、生きるちからが湧いてくるのであった。「おいで、ここは涼しいよ」、それはまさしくお釈迦さまのお声であった。
 人間には苦しみ悲しみがつきまとうが、遥か前方に自分を招いてくれる一樹のあることは幸せである。遠くを見ることで、人は歩み出せるのではないかと思う。



 童謡詩人・金子みすゞさんに、こういう詩がある。

    

  港に着いた舟の帆は、
  みんな古びて黒いのに、
  はるかの沖をゆく舟は、
  光りかがやく白い帆ばかり。
  はるかの沖の、あの舟は、
  いつも、港へつかないで、
  海とお空のさかいめばかり、
  はるかに遠く行くんだよ。
  かがやきながら、行くんだよ。


 いま、この詩に励まされて生きている人は多い。「はるか」に希望をいだいて元気を出しているのである。
 「はるかの沖」という言葉がいい。「光りかがやく白い帆」はもっといい。それは自分と遠い世界のものであって、自分の足下に引き寄せることはできない。
 しかし、遠くの白い帆を見つめて生きる人は、自分の足下をもしっかり見とどけられる人でもある。すぐれた俳人が、遠くを見ながら自分のこころを詠んでいるのがそれだ。

  炎天の遠き帆やわがこころの帆 誓子

 病中の作だが、さわやかだ。この炎天もふしぎに秋を思わせる。それは作者のこころの宇宙に帆があるからである。その帆は遠いが、自分自身でもある。

 「照顧脚下」(足下を見よ)と禅は教える。だが、その前に、「遥かを見やるまなざし」があってほしい、とわたしは思うのである。


(注)詩は『金子みすゞ』全集(JULA出版局)より。