名物和尚の誌上説法
福井県西方寺住職 宮崎慈空
宮崎慈空
1943年高知県生まれ。
神戸商科大学卒業。
高校教師、出版社勤務を経て1978年出家得度。
原田雪渓、青野敬宗老師等に参ず
ご先祖と一体となって 解脱の道を行ずる
人の世の別れというものは辛く悲しいものです。仮りにこの世に生まれてきたご褒美に、何かひとつ願い事を叶えてあげようと言われれば、「別れ」というものをなくして欲しいと願い出たくなるほどです。そのような別れを縷々経験し、最後に自らの死という別れをして去っていった人達が、その親族にとってのご先祖ということです。
そのご先祖は亡くなられた後、どこにいらっしゃるのでしょうか。
この問題につき、通常私達には三つの答えが考えられます。ひとつは、魂と言われるようなものがあって、あの世と呼ばれるところに生まれて、多くは先亡の同族の集まりの中に暮らすということ。二つ目は、人は死んだ後、身心共に完全に活動を停止して無に帰すということ。三つ目は、死後の世界のことは理解不能だ、ということです。
これら三つの答えには、ひとつの共通点があります。それは、これらの答えのどれもが、自分の今生きている「この世」という「我(が)」の世界を基盤にし、その延長線上に、あるいは願望し、あるいは観察し、あるいは思索したものだということです。それでは死の向こう側の様子を明かす本当の答えにはなりません。それに対し、お釈迦さまは「諸法は無我である」とお説きになられました。無我ですから、生死に惑いがない、と。――実はこれが生死の問題についての正しい答えなのです。
―無我――我(が)が無い――それはどういう意味なのでしょう。―
例えば、ローソクの火をよく見てください。油が炎となり気化していくのですが、今の火という部分を限定して取り出すことができるでしょうか。今のこの火と思う暇もなく瞬時に連続して新たな炎になって燃えているのです。無我の働きというものも、このようなものです。炎が気化するのも無我のひとつの様子です。したがってどこからが「生」で、どこからが「死」だということもないのが真相です。同様に、普段私達が「自分」だと思っているものは、どこにも捉えられません。全てのものは、ありのままにそのもの自体であって、「我(が)」というような中核となって物事を主宰する不変のものは存在しません。言い換えれば、ひとつひとつのことがありながらに底が抜けているのです。般若心経では「五蘊皆空」と言い、また「色即是空」とも言い表しています。
しかし私達は日常生活のなかで、自分という堅い殻の世界をつくり、その前後にあれこれの私的な物語をまとわりつかせながら、因縁のままに生死を繰り返すのです。夢の中で夢とも知らずに四苦八苦、悪戦苦闘しているのと何の違いがあるでしょう。
夢路をば嬉し悲しと辿り来ぬ 醒むればもとのみほとけの家――ということで、ご先祖も私達も共々に夢から覚醒する必要があるのは、迷子が親の元に帰ってその懐に抱かれなければ安心できないのと同じです。みほとけの家では、「悲しい別れ」もすっかり底が抜けていて、ないのと同じです。むしろ仏の悟られた無我の世界においてこそ、真実の意味で倶会一處(阿弥陀経)――「共に同じ処で会う」ことができるのです。葬儀などが仏法に依るべき本当の理由も、生死の解脱という根本の安心(あんじん)のところにあると言えるでしょう。
法要とは、仏法の要義ということです。毎日の勤行、お盆行事、年忌法要など、仏事の縁に会う時は、たんなる儀式としてでなく、ご先祖と一体となって解脱の道を行ずるのだという気持ちで、読経も供物も無心の真心(直心)で行って欲しいものです。―なぜなら私達の精進が、ご先祖の成仏に不可分に直結しているからです。―道元禅師は「我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり」と言われています。成仏(諸仏の大道)といっても、他処の話、特別な人達の話ではない、今ここの私達自身の修行の中に実現していくものなのです。
