「宗門」とは何か
―宗教集団論の視点から―
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一、「宗教集団」とは?
宗教信仰は所詮個人的なもので、自己の問題だという見解がある。
なるほど世間の喧騒を離れた場所におけるひとりの祈り、ひとりの坐禅、ひとりの行などが行われることはある。それは集団を離れての宗教行為であるから、たしかに「個人的」である。
しかし、その人の「ひとり」の祈りにせよ、坐禅にしろ、その人が独創したものではあるまい。祈る対象、祈り方など、祈りなるものは、当人が属する社会(集団)が伝承し来たった宗教文化の祈りの型を個人レベルで行っているということであり、宗教に個人差はあっても純粋に個人的なものはありえまい。
もしあるとすれば、その個人は宗教の創唱者であり、教祖または開祖と呼ばれて然るべき人であろう。
もっとも、天才的な教祖や開祖にしても、その生まれ育った社会や文化の影響をまったく受けていないような宗教思想や理念を創唱しうるかどうか、問題は残る。
かくして宗教は「集団的」であることを特徴としている。個人の独創的な教理や理念も支え手(信者集団)を欠けば、長続きしないか、雲散霧消するにいたるだろうからだ。
このように宗教は、現実には必ず宗教集団の形をとって機能するわけだが、それでは「宗教集団とは何か」と改めて問われると、答えは決して容易ではない。
宗教集団は社会集団の一つであり、その社会の状況や性格によって「在りよう」に変化を生じるからであり、同じ宗教集団においてもその構造や内容は単純でないからである。
ここではさまざまな宗教集団のうち、とくに伝統的な仏教教団、なかでも曹洞宗教団を主な対象として、宗教集団としての特色と問題点について考えてみたい。
さて曹洞宗の指導的地位にある人びとが挨拶や文章のなかでよく用いる表現に、「宗門は僧俗一体の教化集団である」というのがある。
この表現は半ば常套語のようになっているせいか、語る人も受け取る側もさしたる疑問もなくごく自然に通じてしまう観がある。
ところが少し改まって「宗門」とは何を意味するのか。「僧俗一体」とはどういう概念か。そして「教化集団」とはどういう集団なのか。このようにまともに問われると、答えに窮する向きもあるのではあるまいか。
まず「宗門」である。
「われわれ宗門人は……」という語は、僧侶同士の会話のなかによく出てくる。
この語は「僧侶=出家集団」という「仲間うち」集団を意味するのか、それとも
「檀信徒=在家集団」をも広く包摂する意味をもつのか、もう一つ定かでない。
曹洞宗の檀信徒が仲間うちの会話のなかで「われわれ宗門人は……」という表現を用いるかどうか。「われわれ某寺檀信徒は……」という表現は用いようが、「われわれ宗門人は……」とは多分、例外を除くと言わないのではなかろうか。
ところが宗門僧侶が他教団の僧侶から「御宗門の最近の動きは如何ですか」などと問われると、件の僧侶は単に僧侶集団の事柄に限らず、広く寺檀関係まで含めた話をすることが少なくないようだ。
つまり、僧侶側は「宗門」の概念に僧侶と檀信徒を含めてしまう観がある。「僧俗一体」という表現は、こうした僧侶側の「宗門」意識の延長線上で使われているのではなかろうか。
国語辞典の「宗門」を引くと「宗旨・宗派」とあり、「宗旨」を見ると「(1)宗門の教義の主旨。(2)宗門。宗派」とある。そこで「宗派」を引くと「(1)同一宗教の分派。転じて、広く宗教上の分派。流派。(2)教義の宣布および儀式の執行を目的とし、寺院・教会所その他の所属団体・信徒・僧侶を包括する仏教団体」と出ている(『広辞苑』第四版)。
かくして「宗門」と「宗派」とは同義語であり、「宗門」は僧侶と檀信徒すなわち僧俗を含む概念であるということになる。
とすると国語辞典の「宗門」は多くの僧侶が理解しているものと一致することになる。
はたしてこの理解は当をえているのであろうか。
二、「宗門」の内部構造について
「宗門」という宗教集団の内容(構造)をわかり易くするため、社会集団の概念を借りてその特徴を挙げると、(1)特定の共通目標をもつ、(2)帰属意識が強い、(3)相互交流が盛ん、となる(見田宗介外編『社会学事典』弘文堂)。
この三項に照らして宗門の実情を見ると、何が見えてくるか。
まず宗教法人曹洞宗の「目的」は宗旨と教義にわかれており、宗旨は「仏祖単伝の正法に遵い、只管打坐、即心是仏を承当すること」であり、教義は「修証義の四大綱領に則り、禅戒一如、修証不二の妙諦を実践すること」となっている。
そしてこの宗旨と教義に基づいて教えを弘め、儀式・行事を行い、僧侶と檀信徒を育成することが宗門の目的であるとされる。要は「坐禅に打ちこんで仏心に目覚め、仏戒に則って生きること」が僧侶の共通目的(目標)である。実情はどうか。
これを検証するのに当面役立つ資料としては、宗門当局が十年ごとに行っている『曹洞宗宗勢調査報告書』および一九八四(昭和五九)年に刊行された『檀信徒意識調査(宗勢実態調査)報告書』(『宗教集団の明日への課題』)の二点がある。
二点のうちとくに後者は二十三年前の調査結果ではあるが、その後この種の調査が行われていないことからして、依然として実に貴重な資料である。
この報告書の「まとめ」から重要部分を引用すると、こうなる。(1)宗門の基本教理は檀信徒にほとんど浸透していない(例―本尊名を知っている人約一三%、両祖名を知っている人約一〇%)。(2)坐禅を普及させることは非常に困難である(例―参禅経験者約二〇%、希望者約二三%)。(3)檀信徒の宗門意識は非常に薄い(例―菩提寺との結びつきは堅くても、宗門への帰属意識とはなり難い)。(4)地域を問わず檀信徒が僧侶・寺院に求めるものは、葬祭である(例―僧侶を訪ねる理由、「葬式・法事」六六・二%、寺へ行く目的、「葬式・法事」七七・四%)。
これらのデータから知られることは、次のとおりである。
(1)僧侶と檀信徒では宗教的目的・目標に著しい差がある。僧侶は一仏両祖信仰と坐禅を掲げるが、檀信徒は死者・先祖信仰に傾いている。(2)(1)と連動していると見られるが、宗門への帰属意識は総じて弱い。(3)僧侶と檀信徒との相互交流は、主に死者・先祖供養を通してである。
もしも以上の見方が見当はずれではないとすれば、宗教集団としての宗門の内部構造は、一般の宗教集団の構成要件を満足しえていない独特な成り立ちをしていると考えなければなるまい。
ありていに言えば、出家性の強い集団と在家性の強い集団、教義志向集団と葬祭志向集団とが重なり合って「宗門」を構成しているということになろう。
三、創唱的――自然的宗教集団の課題
宗教集団の分類についてはさまざまな試みがなされてきた。日本の宗教集団の理解に資するものとして、私はとりあえず「創唱宗教集団」と「自然宗教集団」を挙げたい。「創唱宗教」と「自然宗教」という用語は、もともと宗教文化の形態分類に用いられたものである。前者は特定の教祖・開祖が唱え創りだした宗教であり、その思想・理念は人種、民族、国家の枠を超えて普及する普遍的性格をもつ。
これにたいして後者は、家族、集落、部族、民族などの諸社会において、自然に生成した宗教であり、古来の宗教観念と儀礼・慣行から成り、他社会への伝道性を欠く特殊的性格を具えている。
創唱宗教は世界宗教とか成立宗教などと呼ばれるのにたいして、自然宗教は土着宗教とか民族宗教などと称される。
創唱宗教とこれを信奉する人びと(集団)を示す概念が「創唱宗教集団」であり、自然宗教を担う集団を意味する用語が「自然宗教集団」である。
仏陀が唱え各宗の祖師たちが伝え来たった教えに従い、これを信奉する集団が創唱宗教集団であり、「宗門」は当然このカテゴリーに属す。僧侶も檀信徒も「宗門人」である限りこのカテゴリーに含まれるべきである。
ところがすでに見てきたように、僧侶(集団)と檀信徒(集団)が目指すところ(信仰上の目標)には相当の?ギャップ?(へだたり・食い違い)がある。仏陀を目指し、只管打坐を掲げる僧侶集団と一族・一家の死者が先祖・守護者になることを請い願う在家集団とは、性格も機能も異なる。
一方は「成仏」を目指し、他は「成祖」を願うからである(拙著『仏力│生活仏教のダイナミズム│』春秋社)。
しかるに日本仏教はその展開過程において、目標も方向も異なる「成仏」志向集団と「成祖」志向集団、換言すれば創唱宗教集団と自然宗教集団を上下に重ねて「宗門」なる独特の宗教集団を生み出した。
したがて「宗門」は正確には「創唱的―自然的宗教集団」と呼ぶべきであろう。
どうしてこのような独特の宗教集団が出現するにいたったのであろうか。
実に複雑にして多岐な要因、背景が挙げられようが、有力な一つに幕藩体制下における宗教政策があったことは明白であろう。
「宗門改(あらため)」、「宗門請合」、「宗門人別帳」などの用語は、権力が宗教的目標や理念、信仰とは関わりなく「僧俗」を拘束し、方向づけた事実を物語っているが、詳しくは専門家に任せよう。
もう一つの要因は、本山僧堂をはじめ各地の修行センター(地方僧堂)で修行に打ち込んだ僧侶が、「禅定力」、「威神力」、「仏力」と称されるような宗教的パワーの具備者として人びと(民衆)から畏敬・尊崇視されたことである。他方、一般の人びとは一家・一族の死者をいかにして来世で安定させ、一家・一族の守護神に化せるかに強い関心があり、これをよく成しうる「力」をもつ宗教者を渇望していた。
僧侶集団が地方に教線を拡張する過程において、「力」を具えた僧侶の出現と、「力」を求めていた人びととの宗教的ニーズが合致した。
粗っぽく仮説するなら広義の「宗門」成立の要因の一つには、大筋で以上のような宗教―社会的状況があったと私は考える。
「成仏」を期しての修行により蓄えた僧侶の「力」と、この「力」を求め、死者の「成祖」を願った人びとが自然に結合して成ったのがわが国独特の「葬祭仏教」である。
「葬祭仏教」の社会的側面は、解脱・涅槃=「成仏」を期す僧侶集団と、死者の安泰・守護神化=「成祖」を願う在家集団とが、宗教的な「力」を介して成った二重構造であると言えよう。
したがってすでに述べたように「宗門」は異なる理念を抱く二つの集団を包蔵する宗教集団である。実態としては「僧俗一体」とは言えない構造としてある。
キリスト教のような一神教にあっては、創唱宗教集団と自然宗教宗集団が自然に重なり合って一つの宗教集団を形成することは、理念的にも実際的にも至難の業であるはずである。
創唱宗教にとって自然宗教は「異教」、「異端」であり、克服すべき対象であるからだ。
これにたいして「宗門」は創唱性と自然性を包みこむ宗教集団としてこれまで存続してきた。
この「宗門」の性格は何も曹洞宗に独特のものではない。この国の多くの既成仏教教団に共通の性格であると見られる。
今、わが国未曾有の社会―文化変動のただ中にあって、「宗門」を構成する自然宗教的部分が著しく変化し弱体化している。
これまでの二(多)重構造が今後も存続しうるのか、それとも解体を余儀なくされ、新しい「宗門」が出現するにいたるのか。
まずは実態を正確に把握し、複眼的視点から慎重に検討を重ねることが超宗派的に喫緊の課題となろう。