座談会「変わりゆく伝統教団の今と明日を考える」
―浄土真宗と曹洞宗の場合―

出席

大村英昭/(大阪大学名誉教授・浄土真宗僧侶)1942年、大阪生まれ。1970年、京都大学大学院社会学専攻博士課程修了。大阪大学大学院教授などを経て、現在、関西学院大学教授。大阪大学名誉教授。『現代社会と宗教』(岩波書店)、『臨床仏教学のすすめ』(世界思想社)ほか著書多数。

佐々木宏幹/(駒澤大学名誉教授)

乙部活機/(曹洞宗円通寺住職)1959年生まれ。駒澤大学を中退し単身渡米。感ずるところあって、1985年、大本山永平寺に安居。曹洞宗人権委員、青少年教化委員、東京有道会庶務などを歴任。

藤木隆宣/(仏教企画代表)

  曹洞宗の寺檀関係には、昔ながらの菩提寺と檀家の関係と、今後考えなくてはいけない菩提寺と信徒という関係がある。
 家族制度が崩壊し核家族が当たり前と化した現在、旧来の寺檀関係は危機に瀕している。曹洞宗は檀家以外の信徒に対して、今後どのような寺の存在意義を示すことができるか、その存在理由と真価が問われている。
 今回は、社会学者で浄土真宗の僧侶でもある大村英昭先生にご出席いただき、浄土真宗における門徒と寺院との関係などをお話いただき、曹洞宗との比較を通して、既成教団の今後の信仰形態、檀家制度の行く末などについて討論を進めた。


浄土真宗の「講」と寺檀関係の二重構造

【佐々木】 曹洞宗の場合、宗制を見ると、檀家と信徒は別だというふうに書いてある。檀家は寺と家との関係であるのに対して、信徒は個人と寺の住職との関係だということになっている。その辺の関係は二重になっていて、曹洞宗では明確にそれに対する対応の仕方を示していない。ところが、浄土真宗の場合には、もともと檀家と信徒との区別がないように思われる。そのあたりはどうなっているのでしょうか?

【大村】 戦後すぐのことですが、「家の宗教はダメで、個人の宗教でなければいけない」というようなことを、日本のほとんどすべての宗派が言ったと、わたしは記憶しています。今、先生がおっしゃった信徒という言い方も恐らく、そのころから使われはじめた言い方ではないかと思います。それで、浄土真宗の場合で申しますと、門徒という言い方しかございません。

【佐々木】 ああ、なるほど。

【大村】 住職も一介の門徒です。門主からお寺に書状が来ますときも、古くは「門徒衆へ」というように書いてある。住職もそこに含まれていたわけです。あえて申しますが、家から個人へという流れで申せば、浄土真宗にはもともと「講」というのがあるんです。その講がですね、これが実は住職も吹っ飛ばして門主直属なんです。住職が表に出てくるのは戦後、新宗教法人のおかげで、住職が独立法人の主になるわけですが、それ以前は、それぞれの寺は講の会所だった。住職なんて、講の会所の管理者に過ぎなかった。
 もちろん、逮夜参りとかは寺が檀家に差配しているけれども、その各お寺をはるかに超えた講がある。十カ寺とか二十カ寺とかの単位で広がっているわけです。

【佐々木】 そういう講はなんと呼ぶのですか。

【大村】 いろいろあります。たとえば江戸時代から有名な摂津二十日講とかね。そういう講にはものすごくお金があるんです。たとえば顕如という門主が石山本願寺のときに織田信長に攻められますね。そのときに、顕如が志を運んでくれと和歌山の雑賀の門徒に直接、書状を送るわけです。それによって、門徒がもう命がけでわっと集まってきて、有名な石山守備隊ができる。
 そういうものが流れとしてあって、摂津講なんかは石山本願寺の地元意識があるし、雑賀の今の門徒の中心の極楽寺の住職と話すと、「昔からわしのとこは、もう本願寺さんで、いざとなればいざ鎌倉。うちの檀信徒は全部そう思っている。住職の言うことは聞かんでも、門主さまがもし檄を飛ばしたら、わっとお金が上がるでしょう」というぐらいです。
 そういう講は、これは家というより、どちらかといったら個人ですよ。家々の当主が大抵は講のメンバーになるわけですが、それぞれ特色があって、たとえば「お花講」というようなものだと女性を組織する。

【佐々木】 寺の檀家という立場を超えた講の組織がある。これは二重構造ですね。

【大村】 そうなんですが、それがいまは、講がすごく弱体化している。なぜかというと、結局、住職が間へ入ってしまったからです。各寺の住職が講を取り合いましてね。檀家化したわけです。
 かつての講というのは門徒の大信仰団体で、地域地域にあって、住職なんて、まあ言うたら、ばかにしていた。自分たちは直門徒みたいな意識があって、講の長なんかになると問題があるとすぐ門主のところへ駆け込んでいくとかね。

【佐々木】 講の講員は門主直属なんですね。一方、同じ講員が寺の檀家でもある。

【大村】 そうです。そやから、お寺によっては非常に困った。講のほうにばかりお金あげよって、寺のほうへくれへん。そういう問題が起こるんです。講はですね、とにかく親鸞さま、御開山さま直結なんです。ご門主直結ということは、親鸞さまに直結なんです。

【佐々木】 ご住職を通さないで、門主さま信仰でつながっている。

【大村】 おっしゃるとおり。ところが寺の住職は講の人たちを檀家として抱え込んでしまいますから、その結果、講のほうがどんどん衰えてきた。

家業の消滅とともに先祖崇拝も衰退

【佐々木】 戦後、それぞれの寺が独立した宗教法人となったことによって、講が檀家として形式上再編されたわけですね。そうした寺壇関係のありかたというのは、浄土真宗では今現在どうなっていますか?

【大村】 それは動いています。結局、家の先祖崇拝、祖先祭祀の心情がどんどん衰えていっているということがある。その原因はなにかというと、各家庭の「家業」というものが崩壊してしまったということでしょう。

【佐々木】 それはいつごろからの現象ですか。

【大村】 やっぱり九〇年以降。構造改革が本格化してからです。それは、ものすごいですよ。構造改革路線というのは、家業つぶしという点では徹底している。
 たとえば高知市の繁華街を歩いたら、ほとんどシャッターが下りてますわな。個人商店が全部駄目になってきている。空港のそばにブワッと大きなショッピング・モールができて、便利やからみんなそこへ車で買いに行く。

【佐々木】 大企業が進出してごっそり持っていくわけですね。

【乙部】 地元の檀家が代々の家業を失うということは、寺院の地盤沈下につながっていきますね。

【大村】 そうそう。それでわたしが言いたいのは、祖先崇拝というものも、やっぱり家業を代々営んできた人々によって継承されてきたものだということです。

【佐々木】 なるほど、家業だったら、家具屋さんにせよ何にせよ、ご先祖さまから伝わってきた大事な仕事だ、家代々の先祖の魂がこもっている仕事だと、受け取ることができる。今はそれがなくなった。

【大村】 今はもう農家だけじゃないですかね。子どもに先祖を敬う心を教えていけるのは。サラリーマンになったら、子どもに教えることはなにもないでしょう。それでは、祖先崇拝どころじゃない。
 もう、今は家庭教育も全然できない状態になってきている。たとえばね、トラビス・ハーシという人が早くに書いていたんですけど、非行少年というのは尊敬する能力がないというんです。

【佐々木】 ああ、それは的確だ。

【大村】 それからある別の学者は、人間としての能力の九〇%は倣ることだという。それはね、尊敬することが前提です。尊敬する人だからまねをするんです。 そのためには家庭が一番大事で、同性の親、つまり息子は父を、娘は母をまず尊敬することから始まる。ところが、非行少年を見ていると、まず父を尊敬していない。
 したがって、そういう子どもは、学校の先生はもちろん、あらゆる人を尊敬できない。
 日本でも、青少年の非行増加が著しいのは、親を尊敬し、お父さんをまねるという力が養われていないところに問題がある。家が家業であれば、いやでも父親を尊敬せざるを得ないんですよ。そして、尊敬することができれば、模倣することができる。
 浄土真宗でも結局はまねをすることなんですよ。御開山さま(親鸞聖人)もお念仏を(法然上人から)倣ったんです。それをまねしろと言いたいんですよ。

【乙部】 曹洞宗でもそうですよ。修行というのは古仏をまねることです。

【佐々木】 家業の時代がなぜ大事だったかというと、家業は先祖代々ずっと伝わってくる。そうすると、家訓がありますよね。家訓の裏には、ご先祖があり、仏さんがあった。その部分が欠落してしまったということですよね。

【大村】 そうです。家業があれば、自然に親から子へ文化は継承され、子どもは自然に親の模倣をする。ところが最近はこの模倣するということを、非常にけなすんですね。学校でも、「人のまねをしているようではあかん」と言う。

【佐々木】 独創性がいいというわけですね。

【大村】 そう、今大事にされるのは個性とか独創性。おかしいでしょう。そんなことをやってるから人は生意気になる。さらに、わたしが今言いたいと思っているのは「憧憬力」ということです。「憧れる」という能力ですね。たとえば、お浄土というのは憧憬の対象、憧れなんです。曹洞宗で言えば、たとえば良寛さまは道元さまに憧れておられたでしょう。

【佐々木】 その道元さまはお釈迦さまに憧れておられた。

【大村】 そうなんです。憧れるから、倣う、まねをするわけですよ。

祖先崇拝からメモリアリズムへ

【佐々木】 家業社会が近代化過程においてどんどん崩れてきてしまった。それで、非行少年が山のように出てきた。これは、つまり尊敬能力のない、模倣能力のない子ども達が出てきたからだというお話がありましたが、そうした社会の変化の中で、真宗のお寺はどういうふうに変わってきたのですか?

【大村】 原則的には弱りました。

【佐々木】 弱った?

【大村】 はい。寺院も弱っています。たとえば、ぼくのところでは構造改革のあおりで家業を営んできた檀家総代三軒が倒産して、寄付を集めようと思っても難しい。それから、葬儀規模も急激に縮小されてきた。これは東京でも言われていますね。しかし、根本的に考えなくてはいけないのは、祖先崇拝というのは、続くかということですが、これはなくなります。

【佐々木】 なくなる? でも、死者信仰は残るんでしょう?

【大村】
 ええ。メモリアリズム(私的追憶)としてはね。祖先崇拝というのは、ぼくに言わせたら、「おかげ・アンド・たたりコンプレックス」です。教団のきれいごとでは「おかげ」のほうを強調するんです。おかげさまの毎日ですとね。
 だけど、門信徒さんの本音はそうではない。何であんな熱心に、毎月毎月お坊さんを呼んでお経をあげてもらうかというと、それは言わず語らずですが、「たたりへの畏れ」なんですよ。
 たとえば孫のお嫁さんが身重になっている。そうするとひょっとして障害を持った子どもが生まれるのではないかといった恐れを抱く。そういうときに、やはり、「お経さんが一番のご馳走でんな」という言い方をしはる。
 とくに今までに水子があったりした場合は切実で、死者への恐れの心が先祖崇拝の根底にある。霊友会も立正佼成会も、要はみんなそれで来たんですよ。霊友会の、妻側のご先祖も一緒に祀れという総戒名運動というのもそうです。
 ところが今は、一般の人に「たたり」といったことを言っても通じません。完全にメモリアリズムになってきている。ぼくの弟子はそれを「私的追憶」と訳しているんですが、身近な親愛なる故人の記憶を大切にするという風潮です。そこに恐れという感情はない。どっちかというと、死者に遠いところへ行ってほしくない。そばにいてほしいんです。
 「手元供養」といういいかたがありますが、家族の遺骨を仏壇ではなく、自室においてかわいがるように安置したり、遺骨灰の一部をダイヤモンドに再生したり、ペンダントにする人も多い。先祖崇拝が消えて、このメモリアリズムによる供養になってきているんです。

【佐々木】 なるほど、先祖代々の諸精霊を供養対象にするという形は崩れていって、一代か二代前までの記憶に新しい人を拝むという形に変化してきているということですね。その点、東京の曹洞宗寺院の一つとして、乙部さんはどう思われますか。

【乙部】 わたしは先祖供養とメモリアリズムの両方を満足させないとダメだと思いますよ。曹洞宗の寺院としては、遺骨は、教義的にはすぐ埋葬させなければいけない。しかし、遺族の心のケアをするためには、すぐに埋葬を薦めないほうがいい場合もある。そこでは、教義上の矛盾は矛盾として受け止めていくしかない。 たとえば、お施餓鬼というのは先祖崇拝ですが、檀信徒に案内を出せば参加するし、もはや記憶にない先祖の五十回忌でも、通知すると法要を営まれることが多い。
 大村先生がおっしゃったとおり、先祖供養はもともとたたりに対する恐れから発生しているのかもしれないが、それならそれで、檀信徒の不安を解消するような寺院の態勢があってもいいと思う。

浄土真宗の本質は家族を持つことによる悲しみ

【佐々木】 冒頭に、仏教教団は戦後、「家の宗教から個の信仰へ脱皮すべきだ」と言われてきたという話がありました。これは日本の戦後の民主化過程で、キリスト教のまねをしたというところがあるわけですが、それは成功したのか、しなかったのかという問題。
 それからもう一つ、「葬祭の時代は終わった。死者を供養する仏教から、現実に苦しみの中に懊悩している人々、生者を救済する仏教へと変わるべきだ」という主張がある。
 それに対して、そんなことは理念であり、きれいごと論であって、日本人にはそうはいかないという意見と両方あるんですが、その点はいかがですか。

【大村】 家の宗教から個の宗教へという点について言うと、問題は非常にはっきりしていると思います。家と個人の間にある「家庭」を忘れていたんです。
 日本で従来、家族主義というと、先祖崇拝とか家父長制の意味になる。しかし現代で家というと、マイホームです。それを大切にする「ファミリズム」こそが、先ほどから言っている「メモリアリズム」を担う単位としての家庭であり、最小の宗教団体、祈りの共同体なんです。そういう「家庭」の位置づけが忘れられてきた。
 じつはそういう家庭こそ、蓮如がつくろうとしていたものですよ。浄土真宗は御開山、親鸞さまからしてホームを持たれた。在家主義で、出家主義を捨てた。そして家庭を持たれた。そしてそれは何を意味するかというと、家族を持つということは、「家族員の死を経験する」ということです。
 親鸞さまの場合、家族が死んだ悲しみというのは今のところ、ご文章で見当たらない。友人が死んだというのは出てきますけどね。それに対して、蓮如上人の場合は沢山子どもをつくりましたから、十三人も子どもを先に亡くされてるんです。それから妻も四人、先に亡くされている。だから、子どもが、妻が、亡くなって悲しいというご文章がございます。
 そういうわけで、家族を持てば、そういう悲しみを背負いますね。それを背負って、なおかつ「悟る」というのが浄土真宗です。昔の人は必ずと言っていいほど子どもを亡くしています。浄土真宗では、永代供養料というのは死んだ子どものために、というのが多いということが調査で分かっている。それほど親は悲しんだんですよ。子どもは頑是ないから、お寺で一生懸命供養してほしいと願ったんです。
 そいうときにね、子どもが死んで悲しんでいる親に対して、浄土真宗で慰める説教にはパターンがあるんです。これはですね、「あなたの亡くなった子どもさんはもともと成仏されていたのが、仏さまのお差し向けで、あなたの手元にわざわざ還って来ておられたのだ。仏さまが、『あの人の子どもになるのはたった五年の間やけど、それでも行くかえ?』とおっしゃられて、菩薩さまが『行きます』と言って、来てくださったのが、あなたの子どもや。五年のお仕事をされて、またお還りになった。それを、「あんた何やと思ってるんねん? 何のために五年おられた? なあ、考えてみ」と…。
 わたしも、これはもう実感なんですけど、わたしの父も間違いなく「還った」方だと思っています。これ、「還相回向論」なんですが、すぐれた現場説教者はみな、その意義に気づいていたんです。

【佐々木】 最近よくいわれる「死者の仏教から生者の仏教へ帰れ」と言う主張については、どう思われますか。

【大村】 それはぼく、台湾、東南アジア、タイとか実際行ってきまして実感しました。福祉制度などが全然できていない。ですから日本ではほかの人がやっている役を、インテリゲンチャとしてお坊さんがやっている。その意義はすこぶる高いですね。
 ところが、日本の場合は、福祉でも医療でも国や行政のほうが充実していて、"参加仏教"みたいな僧侶っていりませんよ。そうすると、ぼくは、やっぱり僧侶の「分」というものがあると思う。要するに宗教者にしかできないことをやるということですが、それは何かというと、「死者の魂の行く末」を説くこと、これしかないとぼくは思っています。

【乙部】まったく同感です。

魂の行く末を説くことのできない僧侶

【乙部】 現場で葬儀をしているときに、「霊魂はありません」なんていうことは愚の骨頂です。やっぱり対機に合わせなければいけませんから、霊魂の存在を肯定してあげたほうがいい場合には肯定したほうがいい。ですが、曹洞宗が浄土信仰でやるのは、やっぱりぼくは問題があるような気がします。

【佐々木】 先だって、京都大学名誉教授の上田閑照先生とご一緒する機会があったんですがね。あの世がどこにあるかといったことになると、「学問とか知性の網を掛けて分かるようなものではない。『いずこへか』でいいんだ。知的にあんまりカテゴライズしないほうがいい」とおっしゃっていた。ぼくはそのとおりだと思った。

【大村】 だから、さっき申しましたように、憧憬力なんですよね。道元禅師も「慕古心」とおっしゃっているわけですが、われわれのほうではお浄土への「願求」です。浄土というのは、あらゆる生きとし生ける者が生を全うせよと願われた仏さまがおられる世界だ。しかし、そんなものはこの地上にはあり得ない。だから、ひたすら憧れるしかないんです。
 それがね、わたしの場合でも、亡くなった父が還って行ったところだと言えるようになるまで、だいぶ時間がかかった。だから、わたしは皆さんに、「いつも、死者の魂の行く末についてきちっとお考えなさい」と言っている。
 ところが、今の日本では、たとえば大きな事故で人が亡くなったりした場合、亡くなったその場所へ花束を持って行ったり、お線香を供えたりしている。なのに、いざお葬式になると、必ず「天国の○○ちゃん」という。まったく混乱している。なぜ明快に、お浄土に行っておられると言えないのか…。

【佐々木】 そうするとですね、真宗の一部の学者が主張しているように、「十万億土の浄土なんていうのはこの科学時代には認められないから、地上にこそ浄土がある」という言い方は?

【大村】 それはもう、憧憬対象に自分で蓋をしてるようなものです。
【佐々木】 さっきの上田先生の話でいうと、知的な網を掛けて矮小化させています
よね。
【乙部】 今の状況では、現場の青年僧侶たちがあの世を説けないでいる。これが大問題です。ぼくは、「構わず、あの世を説きなさい。そして、葬儀の現場で遺族をケアできなければ何の意味もない。宗教者の存在価値がない」と言っているんです。

【佐々木】 たしかに、「今の」あの世を説かなくてはいけない。そうしなかったら、お布施を出してどうして死者をあの世へ送る儀式が必要なのかということになりますね。
 そこで、あの世の説き方が問題になるわけですが、近代の理性だとか知性で説こうとするからダメなので、感性に訴えないと実感として納得できないということがある。上田先生はそれを幻とおっしゃっている。幻としての感性ですね。

【大村】 それは、イメージトレーニングということですね。ぼくら浄土真宗、浄土教団の者ですと、法然さまの法然伝とか、親鸞聖人の「御消息」とかに自然に出てくるわけです。
 法然さまは「蓮の上にて共に語り合わん」とおっしゃる。親鸞さまも、「必ず必ず待ちまいらせ候」とおっしゃる。浄土がどこにあるかなんて、そんなん書いてない。だけど、「必ず必ず、一つところにまいりあふべく候」と、なんどもおっしゃってくださっている。
 ところが、これが皆さん分からないのですよね、いきなり言っても。だから、一つは憧憬力ですけど、もう一つの受け皿は悲哀、「悲しみの体験」なんです。ですから、その悲しみを具体的に慰め導く方法が大切なんですが、幸いなことに、浄土真宗はそういうものを持っているんです。

家庭を中心とした宗教コミュニティーを

【佐々木】 最後のテーマになるわけですが、今後の寺檀関係はどうなると思われますか

【大村】 祖先崇拝は、死者への恐れという形では残っていくでしょうし、もう一つは、メモリアリズムという形で現実に残り得ているわけです。今、ペットが死んでも、誰もごみ扱いしないでしょう。共に生きたというメモリアリズムの典型みたいな形で、ファミリーのなかで生きているわけですね。そこを大切に考えてあげて、それにふさわしい形でわれわれがニーズに応えれば、寺檀関係は十分、存続する。そして、それを維持するのは明らかに個人じゃない、家庭なんです。
 クリスチャンの教会の方は異口同音におっしゃいます、キリスト教会の会員は激減している。とにかく個人主義で来たからダメですと。結局、子や孫につながらないんです。霊友会だって立正佼成会だって、全部、家族単位です。それを個人なんていうようなことを言うから失敗する。

【佐々木】 そうすると、曹洞宗では、「家とのつながりから個人の信者の発掘へ」というようなことを言っているが、それは難しい。家庭を中心に新しいコミュニティーをつくらなくてはいけないということですね。

【大村】 そうです。それを強化しなきゃいけない。

【佐々木】 そのあたりの問題で、寺檀関係の基礎というのは、言い古されているけれども、葬儀を入り口とした墓と仏壇だと言われているわけですが…。

【乙部】 まったくそのとおりです。それから、うちの寺なんか、葬儀の時間を長くしたんです。お通夜では、普通三十分とか四十分ぐらいで終わるのを、わたしは一時間やるようにした。

【佐々木】 長過ぎるという批判はないですか。

【乙部】 ないですね。檀家たちは結局喜びます。いずれにしても信者を増やすためには、やっぱり住職のキャラクターによるところが非常に大きいと思います。
 宗門の教義とか布教方法で檀家が増えるとか、檀家をすくい上げようなんて考えているうちは、これは机上の空論ですよ。やっぱり、現場の人たちの力で曹洞宗が成り立っている。

【藤木】 そう思いますね。わたしも葬祭を執行する際、たとえば故人の兄弟姉妹が来たりすると、その人たちがみなこれからのお客さんだという感覚でやっています。兄弟なり子どもなりをいかに取り込むか、そして、田舎を離れて都会にいっても、田舎の寺に対する菩提寺意識を失わせないようにすること、それが大事だと思う。

【乙部】 わたしのところみたいに寺墓地があるところは、墓地があってその継承者がいれば檀家は減らないんですよ。そこが信徒と檀家の差で、信徒の場合はほかに墓所があるから、檀家だった世代が終わったらいなくなってしまう。
 檀家を多くするというのが一番重要で、これはメンバーシップ、会員権と一緒ですから、お墓を供与し法要などの仏事をすべて寺で引き受けますという形をつくって、メンバーシップをいかに増やすかということが重要でしょう。メンバーシップさえ増やせば、檀家の世代の葬儀が終わった時点でも、寺の檀信徒の数は確保できる。

【大村】 お骨取りですね。

【佐々木】 結局、お墓が「かすがい」なんですね。

【乙部】 はい。それは間違いないと思います。

曹洞宗の出家主義は見直すべきか?

【佐々木】 それから、大村先生から、「倣う、模倣するということが大切だが、現代では模倣する対象がない」というお話があった。しかし、そこで思うのは、やはりお坊さんがその地域のコミュニティーのなかで、模倣されるべき人物でなくてはいけないのではないかということです。少なくとも宗教的に模倣されるのはお坊さんだという、その理念を捨ててはいけないのでは?

【乙部】 当然です。わたしの友人でお子さんを亡くされた人が、こう言ったことがあります。「今まで、お寺の坊さんなんて、わけの分からないお経を唱えて、ばかなことをやっているなと思っていたが、自分の子どもの葬儀のとき初めて、お坊さんというのはすごいことをやっている。お経というのはありがたいと思った」と。

【藤木】 そういうことなんですね。

【乙部】
 自分の家族の死に出くわさない限り、理解できないところがある。

【大村】 それがメモリアリズムなんですね。

【乙部】
 わたしも最初、僧侶になったときはいろいろ疑問を持っていたが、だんだん「自分は出家だ」と自覚するようになったのは、赤ちゃんの葬儀をしたり、若いお母さんの葬儀をしたりして、残された遺族の深い悲しみを見てきたからだと思います。僧侶は誰よりそういう悲劇、無常に出くわす回数が一番多いわけですから。

【佐々木】 徐々に薫習されていくんですね。葬儀を主な仏教文化とする日本のような社会では、独身の僧よりも、結婚して自分の子どもや家族が間近に死ぬのを見て、改めて発心していくということもあると思います。
 ぼくはね、お悟りというのは一瞬にパアッと開くというだけではなく、一生涯かけての気づきであり、うなずきであると思う。若いとき『正法眼蔵』を読んで理屈をこねていたころと、自分の子どもを亡くして『正法眼蔵』を読んだのと、老境になって死が近いころ『正法眼蔵』を読んだのとでは、当然、解釈の中身が違ってくる。
 だから、そういう点で、宗門には妻帯を卑下するむきもあるが、その功徳も非常に大きいものがある。他人事ではなく、自分の子どもや肉親を亡くすことは、自分自身の実存的な体験ですからね。

【大村】 そのとおりです。

【佐々木】 そういう意味では、曹洞宗では妻帯しても「禅戒」でもって出家であることをカバーできるとか、できないとか、いろいろ議論があるが、そういう理屈ではなく、人間としての感性の観点からも考え直さなくてはいけないときが来ているかも知れませんね。

【藤木】 今日は、多方面にわたって、伝統仏教の根幹に関わるお話を展開していただきました。ありがとうございました。

(平成十九年九月二十八日収録)