対談&パネルディスカッション
お坊さん学習塾「10年後のお寺をデザインしよう」


 昨年12月15日に、東京・築地本願寺で開催された東京ボーズコレクション。このイベントのプログラムのひとつとして、寺院の将来を議論する「お坊さん学習塾『10年後のお寺をデザインしよう』」が行われた。
 前号では、「10年後のお寺をデザインしよう」の冒頭で行われた末木文美士先生(東京大学教授)と小谷みどり先生(第一生命経済研究所主任研究員)の基調講演について掲載したが、今号では、この後に行われたお二人の対談と、若手僧侶5人によるパネルディスカッションについて掲載する。
 お寺はこれからの時代も、必要な存在であり続けることができるか。それぞれの立場から熱い意見が交わされた。


対談
「なぜ仏教は元気がないのか?」


● 対談者
 末木文美士(東京大学教授)
        小谷みどり(第一生命経済研究所主任研究員)
● 司会者 薄井 秀夫(寺院デザイン代表)


都合により、HP上からは削除いたしました。
この対談を読みたい方は、「仏教企画」まで連絡ください。
「仏教企画通信12号」が残っている場合は対応できる場合があります。


第二部
パネルディスカッション


● パネリスト
 持田貫信(日蓮宗本久寺副住職/日蓮宗宗務院国際課)
 本間孝継(天台宗観音寺法嗣/仏教情報センター相談員)
 山川弘巳(真言宗智山派圓應寺住職/智山青年連合会会長)
 内藤祥世(真宗大谷派長徳寺住職/全国青少年教化協議会)
 宮寺守正(曹洞宗金澤寺住職/前曹洞宗青年会会長)
● コーディネーター
 薄井秀夫(寺院デザイン代表)


提言

【薄井】続いて、パネルディスカッションに移ります。今日は、5人の若手僧侶の方にお集まりいただいています。まず最初に、それぞれの立場から「10年後のお寺」について簡単に提言をお願いします。

仏教的スタンス

【持田】これから寺院は何をしたら良いか。少子高齢化や檀家制度の崩壊や変質に向けて、そういった危機にどう対処していったら良いのか。私の場合は当たり前のことなのですが、「まず、より仏教的なスタンスを取っていく」ということです。それも一つの方法ではないかと思います。と申しますのも寺院の運営とか、また危機への対処とか、そういったことを考えていると、時々自分をビジネスマンや政治家のように感じてしまう。そういうことは果たして本当に仏教的なのか。そんな気がすることがございます。
 寺院や仏教の未来を考える時、少子高齢化や檀家制度の崩壊といったそういった恐怖や危機感に目がいってしまう。そこにかりたてられて動かされてしまう。それで本当に仏教として良いのか。むしろ、そういう社会が作り出した事象の背後に潜むものや、自分や他人が感じる恐れや怒りを何とかしていきたいと考えます。それが私のスタンスではないかと思います。実際の苦しみや恐怖というものによりそっていくようなスタンス。たとえば、ティク・ナット・ハン(ベトナムのエンゲイジドブッディスト)さんが、9・11テロの直後に「エンブレスアンガー」と言いました。怒りを抱きしめろとか、怒りを抱擁しようということですね。
 なかなかそういうものは社会的なものになりにくいわけですけど、事象上の危機というものにかりたてれていないことも、一つの仏教的なスタンスかなと思います。ですから私の場合は寺院の運営とか、広報とかに関しては、まあそれなりにという具合になってしまいます。
 自分の考えや行いが仏教的に正しいのかどうか、絶えず自問自答していくところから、また色々なあり方が出てくるのではないかと思います。

仏教者としての視点

【本間】今、日本の仏教が抱えている最も大きな問題は、智慧の欠如ではないかと思います。たとえば、修行というのは各宗派にありますが、実際は研修のようなもので、お経をどう唱えるかとか、儀式でどういうことをするか等を教えているだけで、仏教においては一番究極的な目標である成仏の概念、成仏とは何かを探究しているわけではありません。お坊さんとして、これからやっていく心構えくらいは得られるでしょうが、そこには仏教者として一番大事なものが欠落しているといえます。
 つまり、社会参加をするにしても本来仏教者である以上、内観というか、静慮というか、天台宗では止観と言いますけれど、そういったことによって自分の内面に深く入り込んで智慧を深め、そこから物事を洞察する姿勢を見失ってはいないか。無批判な現実肯定的な方向に流されていないかということを考えてしまいます。
 例えばイベントを行ったとしても、現実追従的で、僧侶としてのアイデンティティを欠けば、その次に何をすべきかわからないということにもなりかねません。闇雲に目先の流行を追えば、なだらかな凋落傾向は避けられないというのが私の見方です。現実的な視点とは別に、いわば聖的な感性を鍛え、それに立脚した言動に努めなければ、イベントがどんなに立派でも、我々を取り巻く環境や、僧侶であるが故に日々感じる漠然とした居心地の悪さは、何年経って変わらない気がします。

伝 え る

【山川】私は12歳の時にお寺に預けられまして、そこで育てられました。そして大学を卒業するとすぐに住職が遷化しましたので、突然住職になってしまいました。本当に小さなお寺ですから正直なところ食べていけないです。そのため、他のお寺にいる師匠と相談して大正大学に勤めました。
 15年ほど住職と職員と二足の草鞋を履いていましたが、ある時ふと「僧侶としてそれでいいのかと思ったのですね。今日のテーマと同じですが、このままいったら自分が住職をするお寺である圓應寺の10年後はどうなってしまうのだろうと。山川個人はこのまま職員を続ければ安泰ですけれども。坊さんとして住職になったからには最低限でも任されたお寺をきちんとしていかなければならないだろうと思いました。それで大学を辞めました。
 それから、とにかく皆さんがお寺に来る機会を増やすことから始めようと考えました。それで写経をやったり、写仏をやったり、御詠歌をやったり、まず人に来てもらうために門を開けようとしました。今そうした活動を始めて4年になりますけど、少しずつではありますが皆さんに来てもらっています。檀家さんじゃない人も来ている。そういうお寺になりつつあります。
 今は「伝える」というキーワードで動こうと思っています。もちろん仏教とか宗祖の教えを伝えるのは基本線にあるかと思いますが、それだけでなく、今生きている檀信徒たちのことを次の世代に伝えることですね。これも菩提寺の住職として大事なことだと思います。私は、10年後にもお寺が元気であるように伝え続けていきたいと思っています。

女性住職の意義

【内藤】私は今日のパネリストの中で唯一女性でありますので、その点からお話をさせていただきます。今日いらしている方は僧侶の方が多いと思いますが、女性はあまりいらっしゃいませんね。どのお坊さんの集まりに行きましても女性の数は少ないです。
 真宗大谷派では坊守制度というのがございまして、ご住職の配偶者を坊守とするとなっています。つい先日、坊守会の集まりがあり、私は住職なんですけれども女だからということで参加させていただきました。集まってお食事でもして、お話をしましょうという集まりです。その中での主な話題は「うちの息子がお寺を継いでくれるかしら」とか「うちは娘しかいないのですが、離婚した娘が連れて帰ってきた孫息子が継いでくれるかしら」といったことです。それが皆さんの一番の心配事なんです。しかし、どういうわけだか、「娘が継いでくれるかしら」という話には、なかなかならないんですね。
 葬儀の現場でも喪主を務めるのは、亡くなられた夫をずっと介護してきた奥さんではなくて、その時だけ東京から戻ってきた息子だったりします。お葬式の現場というのは男衆が仕切る所で「女は引っ込んでろ」という現状があるように感じます。そんな中で、女性の僧侶、女性の住職が頑張っていくことが、悲しみの現場の中でも後ろに追いやられている女性たちに対して救いになるのではないかと思います。そして保守的な仏教界の現状を良い方向へ向けることにもなると考えています。

対話から始めよう

【宮寺】私はよく若い和尚に、通夜でもご葬儀でももちろんご法事の席でも「読経の前後に必ずご法話をして下さい」と話しをします。そして、その後の供養の席にも着いていただきたいと言います。お話を聞かれた方々がお酒が入ってきたりしますと近寄ってきて「先ほどの話のこここが良くわからなかった」とか「あそこが良かった」とか言ってくる。そして対話が生まれてくるんですね。話すだけですと一方通行ですけれども、ご法話に対する相手の意見をも受け止めると、檀信徒や縁者の方々とのしっかりとしたコミュニケーションがとれてくるのではないかと思います。
 それによって相手の求めているニーズ、需要に応えることができるようになるし、私たちも同じ話をいつもできないですから、自然と勉強するようにもなります。ご法話の幅も広がってくるのではないかと思います。
 檀信徒のニーズがコミュニケーションによって聞き取ることができるようになると寺の活動も広がってくると思います。
 私のお寺では「親父の背中を見せる会」というお寺の青年会を持っています。青年会のメンバーは境内掃除やその行事の準備から後かたづけまで汗だくになってやってくれます。子どもたちにその背中を見せようという会です。そこで子どもたちから「お父さん、何で今日はお寺にいかなくちゃいけないの、今日は何の日なの」と言われたら、それはしめたものだと私はお話をしています。
 檀信徒ばかりではなく地域に生きる寺として社会の声をきちんと傾聴することができるようになり、全国に10万軒あると言われている寺がきちんと地域に密着して活動することができたならば、どんなにか素晴らしいことでしょう。そうした取組みをすることで自然と10年後のお寺の姿も見えてくるのではないでしょうか。


パネルディスカッション

コミュンケーションの重要性

【薄井】それではパネルディスカンションに移ります。まず、第一部でも第二部でも檀家さんあるいは地域の方々とのコミュニケーションの問題について話題になっています。現代では、いろんな意味で、仏教のコミュニケーション力が問われてように思います。持田先生、その点、どう考えられますか?

【持田】私自身の体験から話します。私はアメリカのシアトルにある日系人の教会(寺院)にいたことがあります。50軒くらいの檀信徒しかいない小さなお寺でした。ここではバザーなどもありまして、そのために毎週お婆ちゃんたちを私が迎えにいっていました。それに、老人ホームなどにも慰問に行ったりして、かなり親密に付き合っていたんですね。そして、お婆ちゃんたちの最期も看取りました。
 そういう密な関係は非常に素晴らしいのですが、同時に気をつけなければならない面もあります。その人の死が、家族と同じように悲しいわけです。日常付き合っている人たちですから、友だちが亡くなっていくような辛さがありました。ですからコミュニケーションは大切ですけれど、親しい方が亡くなったような場合でも、精神的に耐えうる能力を、単なるスキルではなくて養っていかなければならないということもあると思います。

【薄井】本間先生は、お寺のコミュニケーションについて、どうお考えですか。

【本間】うちの寺の場合は、昭和3年にできた新しい寺で、境内地に墓地はありません。もともとは土地もなくて借地からはじまった寺です。近くには江戸時代以前から続く寺が2つありますけれども、地方から出て新しく移り住んだ人たちの葬儀や法事を、そういった寺は、必ずしも積極的にやらなかったそうです。そこで、「とりあえず供養だけでもしてくれ」という人たちと少しずつ関係を作りながらやってきた寺です。登録された檀家さんは、一応900軒くらいありますけれども、引っ越して離れてしまったり、その代わりにまた新しい方が入檀するという、いってみれば流動性の高いお寺といえます。
 境内に墓地がないですから、うちの檀家さんは公園墓地とかにお墓を持っています。それなのになぜ、うちのお寺との関係を持つかと言えばそれは祖父や父の人柄というか、人間的な結びつきでどうにか繋がってきたということでしょう。先ほどお話しにでたファンクラブじゃないですけれども、いわば「住職力」に左右されるといえます。父親のコアなファンが、私が跡を継いだら一気にいなくなってしまう可能性もあるので、その危機感は持っています。ですからコミュニケーションを私も非常に大事にしています。
 ただし、お寺を中心にコミュニティを作るという主張は理解できますが、そこに仏教の教義とかがなく、地域の結びつきの核となるだけで良いのか、ただのコミュニティならお寺でなくてもよいのではないか。先ほど申しあげた成仏の問題をはじめ、仏教の教えをどう伝えるか。あるいはそういうことは必ずしも重要でなく、寺は場の提供をするだけでよいのか等、いろいろ考えてしまいます。

【薄井】山川先生は先ほど「伝える」ということをキャッチフレーズにして活動しているということをおっしゃいましたが。

【山川】お寺というのは、非常に狭い地域を対象に活動している場合が多いですね。私も理想論として広く外に伝えたいという思いはありますけれど、まず足下を見て圓應寺というお寺で伝えられることを伝えたいと今は思っています。
 檀信徒の在りし日の姿を次の世代に伝えれば次の世代が死というものを考えるでしょうし先祖供養にも目を向けるでしょう。命とか、生きていた姿を伝えるということを主に考えています。

【薄井】内藤先生、女性の場合は伝えるではなくて、逆に向こうから伝えやすいということもあると思うのですが、いかがでしょう。

【内藤】そうですね、葬儀の場面でも、長い間自宅で看ていらっしゃったりすると、一番お辛い思いをしているのは女性であることが多いですから、そういう話を聞かせていただくことは確かに多いですね。あるいは亡くなられた方の娘さんが私と同年代だったりすると「話を聞いて欲しい」と言って電話をしてきたりメールをくれたりすることもあります。そんな時に、私は年齢が上の「ご立派なご住職」とは別のポジションをいただいているということを感じることはあります。
 私はそれがメリットだと思ってもいますが、一方でお話を聞いていても、まだ私にそれを受けとめる能力がないということも感じています。聞いていて、私の方がギブアップしてしまう。これは、これからの私の課題だと思っています。【薄井】宮寺先生は、対話の中から色々な活動が生まれたとおっしゃっていましたが。

【宮寺】私の場合には、5歳の時に父親を亡くしまして、叔父の寺に預けられました。そこで文字通りの師匠と弟子の生活が始まったわけです。大学を卒業し、本山で修行の後、はじめは師匠が受け持っていた2つの寺のうちの兼務寺の方で生活していました。ところが、私が27歳の時に師匠が遷化してしまいまして。今から14年前ですね。それで私が突然住職になってしまったわけですね。
 私は小さい頃から衣を着てお檀家さんとつき合いがありましたし、若い住職ということで意見が言いやすかったのだと思うのですね。それに師匠は学校の教員をしておりましたから教え子も多かったです。そういった中で先生の恩に応えようということで、お寺を中心に何かこれからの時代にあったものをやっていこうと、自然にコミュニティが作られてゆきました。
 だからといって、伝統的なもの、また古くから守られている曹洞宗の形とかそういったものを壊しているわけではないんですね。それを守りつつも、今の時代の若い人たちの気持ちに訴えるような活動をしていきたいということで始まりました。それぞれの活動を通じて、秘めつつも仏の教えが伝わるように工夫しています。あからさまに出すと抵抗感を持つ人もいますから。
 ここにはこういうお寺があって何かの時には相談に乗ってくれるよ、というようなニュアンスを含ませつつ色々な行事をやってきました。最近は様々な行事を実施しながら、伝統教団の寺としての威厳をどう保って次の世代に伝えていくのか、ということを改めて考えています。

イベントの有効性

【薄井】先ほどの末木先生のお話しにイベントということが出てきました。イベントというのは見知らぬ人、あるいはお寺と縁のない人と縁を作るという意味では非常に有効なものだと思いますが、先ほど先生方もおっしゃっていましたように、その先に何があるのかという問題もあると思います。このことにつきまして、一人づつお話しをお聞きしたいと思います。

【持田】イベントというのは何かの目的のために、その過程で意識を向上させるために行うものだと思います。今、地域のお寺の集まりでも災害に関する活動などをやっていますが、これは地域の人に災害に対する意識を深めてもらう目的もあります。
 宗派の方でも、ミャンマーの軍事政権の問題について色々な活動が起こっていますが、いまひとつ認識が高まっていかない。何をやって良いかわからないと認識が高まらないのですね。イベントを通じて認識が高まり声をあげてゆくということになれば、イベントには非常に重要な意味があると思いますね。

【本間】もちろんイベントはどんどんやった方がいいと思います、自己を相対化するために。これは、仏教で言う「自利利他」の自利の自覚といいますか、ついつい自己を絶対化しがちであることへの反省として有意といえるからです。
 僧侶に顕著な傾向として自分の言動や、自分の寺とか宗派が、一番だと考えてしまうところがあります。とりわけ外部との接触が少ないほど、無批判な自己正当化や、甘えの体質が目立つといえ、これは長い目でみた場合、仏教全体の衰退に直結する危険な兆候のように思われます。この点、このようなイベントが活発に行われ、自分自身を相対化できる機会が増えれば、僧侶としての資質を磨くことができるし、うまくいけば仏教を現代に活かすためのヒントを見つけられるかもしれない。
 ただ、イベントには、相当のお金がかかるわけですし、メディアが注目してくれれば人も集まって注目されます。まずは自利として、僧侶たることの意味をもう少し地道に、謙虚に追究していかないとメッキが剥がれるのではないかという危惧もあります。

【山川】私もイベントはやれるのならやった方がいいと考えますし、また内容の深さも必要になってくると思います。特に組織でやる場合のイベントは内容のしっかりしたものを行うべきでしょう。一方自坊で行うようなものであれば緩やかなものでも良いかと思います。それがより深いところへ行くきっかけになるようなイベントもあっていいと思います。

【内藤】私の場合、年に一度の報恩講が、現在自坊で行っている唯一のイベントらしい活動です。これには門徒さん全員に来て欲しいという思いで案内しているのですが、門徒さんの方では「仏さんがいない(身内に亡くなった方がいない)家は行っていけない」と勝手に思ってしまっています。私はそんなことは一言も言っていませんし、おそらく先代も言ったことはないと思うのですが、何となく、そういう不文律ができてしまっています。そういうことがお寺を近寄り難いものにしているとしたら、それを打ち破るためにもイベントを開いてお寺に来てもらうことは大切なことだと思います。
 それに、そのイベントにどれだけ広範な人が集まっているかというのも気になります。つまり大勢の人が集まったとしても、来て下さった方が毎回同じ人ばかりではどうなのかなと思うのです。そうではなくて色々な人、仏教にまったく関心がないような人たちにも本当にお寺に気軽に来てもらえるような、そういうイベントというが本当に行われているのだろうか。そういうところに若干懸念が残りますね。そういったところにイベントの役割はまだまだあるのではないかと思っています。

【薄井】時間が来てしまったようなので、宮寺先生には、まとめも含めてお話ししていただければと思います。

【宮寺】今日のお話しの中で一番ショックだったのは、末木先生の言われた「葬儀のプロデューサーは葬儀社であって、坊さんは役者でしかない」というものでした。
 私たちは、寺の生活にどっぷり浸かっていますから、ついつい閉鎖的な考えを持つようになってしまうのだろうと思います。僧侶と、檀信徒をはじめとする寺の外にいる人たちとの間には、ズレが生じていると思います。ですから私たちには多くの人と、もっとコミュニケーションを取ることが求められているのだと思います。その手段としてイベントであったり行事であったりと色々な方法があるわけです。こうした活動を通じて多くの人から話を聞くこと、傾聴することができたなら次のステップにも繋がっていくのだと考えます。

【薄井】結論らしい結論はでませんでしたが、「10年後のお寺」のあり方は、ひとつではなく、それぞれの立場で考えていくべきものだということだと思います。その意味で、いろんなご意見の出た今回のディスカッションは、とても参考になるものでした。ほんとうにありがとうございました。