宮崎禅師さまをお偲びして

堀池祖道(兵庫県丹波市浄泉寺東堂)


 平成二十年一月五日午前五時四十三分、永平寺七十八世貫首・宮崎奕保禅師さまが遷化されました。故禅師さまのご高徳を仰げば、哀悼尽きることはありません。
 思えば、宮崎老師さまは昭和五年三月、加古川市福田寺で、神戸市福昌寺住職・秦慧昭老師を西堂に拝請して晋山結制を修行されました。そのとき秦慧昭老師は制中の間、雲衲十八名を手伝いにまわされておりました。
 宮崎老師は結制終了後ただちに福昌寺に赴き、秦慧昭老師より印可証明を受けられるとともに、福昌寺般若林僧堂の単頭に拝請され、その任に就かれました。これは、古参の方からわたしが直接お聞きしたことです。
 当時、般若林僧堂は雲衲がつねに三十数名を下らない盛会で、若き宮崎単頭老師の厳格な指導のもと、雲衲は親しみ深く修行に精進していました。
 その後、昭和八年十一月、永平寺後住選挙で秦慧昭老師が永平寺貫首に選ばれ、福昌寺の後住には名古屋市福寿院住職・加藤晃堂老師が迎えられました。しかし何分、加藤老師は福寿院と福昌寺の掛け持ちで留守勝ちでしたので、宮崎単頭さまは福昌寺の般若林僧堂の指導に一段の努力を注がれておりました。
 そのころ、大阪市妙義寺住職・栖川俊道老師が般若林僧堂の維那を務め、宮崎老師の片腕となって僧堂を立派に運営されていました。昭和九年、宮崎単頭老師、栖川維那老師ともに送行され、単頭には後任がなく、維那には兵庫県三木市地蔵寺住職・細川道仙老師が就任され般若林僧堂は続いておりました。
 宮崎老師さまは、神戸市満福寺認可禅林準師家に就任されておりましたが、あるとき、般若林僧堂の雲衲たちを前に法話をされました。それは、高祖道元禅師さまの教えの流れのもと、和合一致して修行していこうという趣旨のお示しでした。それを聞いた雲衲一同は感動、般若林で修行した同参の雲衲を「合流会」と名づけ、ともに精進努力していこうと誓い合いました。
 わたしは昭和十二年三月、般若林僧堂を乞暇いたしました。なにぶんその年、中国で盧溝橋事件が勃発、十一月にはわたしも招集され五年ほど軍隊生活をいたしました。
 復員後、般若林に安居していた法友の方と再開し、送行者で「合流会」を開こうという話になり、加古川市福田寺に宮崎老師を訪ねました。老師のご快諾をいただいたわたしたちは、昭和五十四年四月、第一回の「合流会」を「ホテル神戸」で開催、三十七名の参加を得ました。
 こうして、「合流会」は、宮崎禅師を中心に平成十七年まで毎年続けられましたが、会員が禅師さまより先につぎつぎと遷化、ついに「合流会」も解散となりました。 このたびの宮崎禅師さまの御遷化を悼み、切に御冥福を祈念してやみません。

合掌