日本仏教を支えてきたものとは何か
――人びとが僧侶に求めるもの――
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一 はじめに
イギリスの宗教学者イアン・リーダーは日本の宗教文化研究で広く知られる人であるが、その学的関心は各宗教集団の教義や集団機構よりも、集団に属している人びとがどのような宗教行動をとっているかという点に注がれている観がある。
氏は一九九〇年代前半に四国巡礼の調査を行ったが、とくに和歌山県の接待講(施しをする巡礼講)について集中的にフィールド・ワークした。
調査の対象となった接待講の講員の多くは浄土真宗に属しており、三名の役員も門徒であった。
講員たちは彼らの村に弘法大師のお堂を建て、毎月二十一日の縁日には集会を催して大師を礼拝し、人びとから施しを集めたり配ったりするほか、いろいろな地域活動を行っている。
講員たちは、リーダーに大師信仰から得たご利益や病気平癒のような奇跡的出来事について語ったという。また彼らは地元の浄土真宗の僧侶が彼らの活動を心よく思っていないことについて、「なぜ僧侶がかくも懸念するのかわからない」とも語ったそうだ。
接待講を追求したリーダーは、彼らの宗教生活の中心は大師信仰であると見ており、「(彼らは)ある一つの仏教宗派(浄土真宗)に正式に所属していることと、日常生活における宗教的実践との間に矛盾を感じていないのだった。この考え方は『あれは宗教、これが信仰』という言葉に集約されるものである」と帰結している(イアン・リーダー「あれは宗教、これが信仰―現世利益と日本の宗教―」、宮田登・新谷尚紀編『往生考―日本人の生・老・死―』小学館、二〇〇〇)。
イアン・リーダーの研究報告のインパクト(あるとすれば)は、巷間「門徒物知らず」と称されるように、門徒宗徒はひたすら阿弥陀仏のみを頼んで他の宗教や信仰を顧みないとされることが多かったのに、現実には宗教(仏教)を「使い分ける」生活を営んでおり、しかもそのことを何ら問題視していないという事実であろう。「あれ(浄土真宗)は宗教、これ(大師信仰)は信仰」というタイトルは言い得て妙の感がある。この報告内容のなかで当面、私が注目したいのは、第一に門徒の講員たちが弘法大師を信仰している現状にたいして真宗寺院の僧侶が不快感を示していること、そして第二にこの僧侶の不快感を当該門徒たちが「どうしてかわからない」と評していることの二点である。
第一の場合、真宗僧侶が自分の宗派に帰属する門徒衆の信仰対象は当然阿弥陀仏または親鸞聖人であるはずなのに、事もあろうに真言宗の宗祖弘法大師を信仰し、宗教活動までするとは何たることかと慨歎し批判する態度は当然であろう。
宗派を問わずこうした出来事を黙視して済ます僧侶はきわめて少数または例外であろう。
とくに宗祖や宗旨に強くこだわるプロフェッショナルとしての自覚をもつ僧侶においてをやである。これにこだわらないと、終には僧侶としてのアイデンティティを失う恐れなしとしないだろうからである。
第二のケースはどうであろうか。浄土真宗の寺院に門徒として帰属する彼らは、おそらく住職の意向に添って阿弥陀仏を礼拝し、六字の名号を称え、西方浄土に往生した死者・先祖の供養にひたすらであり、必要な寄進その他の義務を果たしてきたに違いない。
そうした門徒として為すべきことを為した上で、彼らは弘法大師を奉じる講の講員としても活動しているということであろう。
そうでなければ、彼らの宗教活動に不快感を示す真宗僧侶にたいして、「その理由がわからない」とは言えないはずである。
彼らはどうして真宗門徒でありながら接待講の講員でもあるのだろうか。その答えは彼らが大師信仰により病気平癒のような「ご利益」を得ているからということになろう。ところが「専修念仏」に立つ住職にとっては、念仏以外の宗教行動に出るなどとても認められないことと映ったに違いない。
さて右の事例は何もひとり真宗のみに見られる特殊な事象とは言えず、程度の差はあれ、どの仏教教団においても僧侶と檀信徒が直接関わる「現場」では常に生じうる問題ではあるまいか。
とくに僧侶が宗門の教義・理念に忠実に拠って立とうとすれば、こうした問題が出てくる可能性はたえず現場に伏在していると言えよう。
それは寺院・僧侶が檀信徒に望むことと、檀信徒が寺院・僧侶に求めるものとの間の落差、ギャップの問題である。
そこで現場で活動する僧侶に、この種の問題について訊ねたら、どのような答えが出てくるだろうか。
多分、(1)「大いに問題がある」という答えと(2)「まったく問題がない」という答えを両極にさまざまな見解・評価が出されるであろう。
(1)は僧侶が檀信徒の宗教的ニーズに応えられない場合であり、(2)は僧侶が檀信徒のニーズに屈している状況である。いずれの場合・状況も寺院現場のありようとしてはかなり深刻である。
二 人びとが僧侶に求めるもの
話がやや抽象的になってきたので具体的な問題に戻ろう。
二〇〇八年五月十七・十八日に読売新聞社が全国の有権者三〇〇〇人にたいして行った宗教に関する面接調査の結果によると、「あなたは、自分の先祖を敬う気持ちを持っていますか、持っていませんか」の問いにたいして、「持っている」と答えた人は九四・〇%、「持っていない」が四・五%であった。
また「盆や彼岸などにお墓参りをする」が七八・三%、「正月に初詣でに行く」が七三・一%であった(「読売新聞」二〇〇八年五月三〇日朝刊、特集「日本人―宗教観―」)。
最近の各種宗教調査は一様に、日本社会の急激な変化とこれに伴う伝統的な「家」の解体により、家を基盤とする先祖信仰(崇拝)も弱体化するにいたると予測することが多かった。
したがって死者―先祖信仰と深く関わってきた日本仏教とくに各宗寺院は深刻な影響を蒙るだろうと説明する傾向は、学界やメディアにも少なくなかった。
ところが読売新聞の今回の調査は、こうした捉え方や解釈にある種の反省を促すような結果をもたらしたと言えよう。
もっとも「自分の先祖を敬う気持ちを持っているか」と訊かれて、「持っている」と答えた人が九四・〇%であったとしても、その気持ちを行動化している人はどれ程かという問題はある。先祖を敬う「気持ち」を持っていても、それが観念や感覚のレベルに止まるのであれば「先祖信仰(崇拝)」としては問題なしとしないからである。
しかるに今回の調査では「盆や彼岸などに墓参りをする」が七八・三%である。観念(敬う)と行動(墓参りする)との間の落差は一五・七%だ。「しばしば家の仏壇や神棚などに手をあわせる」人も五六・七%いる。かく見てくると、少なくとも当該調査結果に拠る限り、「先祖信仰(崇拝)」の弱体化、崩壊という見通しには慎重でなければなるまい。
いずれにせよ、右のような日本人一般の宗教的傾向は、社会構造と家の急激な変化により、寺院の運営は一層困難になろうとのメディアの声のなかにあっても、「ウチの寺はまだまだ大丈夫」と楽観的に考える僧侶が現に少なくないことを裏付けている観がある。
この傾向についてはより精確かつ多角的な分析が必要である。
問題は先に触れた一宗の教義・理念と一般の人びとの宗教意識・行動とのズレ、つまり僧侶が人びとに望むことと、人びとが僧侶に求めるものとの間のギャップについてである。読売の調査では「経典や聖書などを折にふれ読む」人が八・一%、「写経をする」が四・〇%、「座禅など、瞑想して精神統一をはかる」は二・九%であった。
これらの質問と答えは僧侶が依拠する教義・理念と直接間接に関わっていると考えられるが、三つの答えを平均すると五・〇%を切っている。そしてこのパーセンテージは「先祖を敬う気持ちをもつ」人たち九四・〇%との大きな開きを示している。
これを総括すると「教義志向」と「先祖志向」の差は「五/九〇」%となる。
さらに「身の安全、商売繁昌、入試合格などの祈願をしに行く」が三七・九%、「厄払いをしに行く」が三四・二%、「お守りやお札などを身につける」が三三・二%であった。
これらはいわゆる「ご利益志向」と呼ぶべき内容であり、平均三五・〇%となる。
ここで本稿の冒頭に引用した「あれは宗教、これが信仰」を想起していただきたい。
真宗寺院(宗教)の門徒が大師信仰(信仰)に関わり、「ご利益」をいただいていることにたいして、真宗僧侶が不快感を表明しているという事例である。換言すれば僧侶の主張する「タテマエ」(宗教)と門徒が実践する「ホンネ」(信仰)間のギャップの問題である。
今回の読売の調査から知る限り、「人びとが僧侶に求めているもの」は圧倒的に「先祖」の安泰にあり、「ご利益」の実現であると言えるのではないか。これにたいして僧侶が人びとに求めるもの(教義・理念)への人びとのニーズはきわめて低い。
日本人の宗教(信仰)の特色は、とくに仏教においては先祖信仰とご利益信仰(祈祷)であるとの指摘はかなり以前から見られた。
このたびの全国調査の結果は、この二つの信仰形態の根強さをあらためて示したものとして注目される。
三 僧侶の力
多くの日本人が仏教・僧侶に求めているのは先祖供養と祈祷であることを見てきた。先祖供養の前提には当然死者を弔う葬儀・葬祭がある。だからほとんどの葬儀を一手に引き受けるこの国の仏教は「葬式仏教」と呼ばれる。また宗派の特徴を表現する語として、「祈祷仏教」がある。
二つの用語ともやや批判的、揶揄的な意味をこめて使われることが多い。批判者や揶揄者の多くは概して知識人・文化人である。
彼らが葬式仏教や祈祷仏教に批判的なのは、葬式、祈祷という宗教・儀礼形態が「本来の仏教」から逸脱しているからだという。
こうした批判に応えようとして心ある僧侶は葬式仏教からの脱却、あるいは葬式仏教とともに「本来の仏教」を実践するべく懸命に努力してきたし、現に努力している。
結果はどうか。管見ではそれほど成功していないように思われる。
どうしてか。日本人・檀信徒の多くが「本来の仏教」=「教義・理念」の方に動いてくれないからである。先に引用したデータからすると、教義と葬祭の志向的差違は「五/九〇」であるのだ。
この現実は曹洞宗の場合とて例外ではない。最近の調査資料によって、寺院の恒例法要への檀信徒参加者を多い順に示すと、(1)施食会、(2)盂蘭盆会、(3)春彼岸会、(4)大般若会、(5)他の恒例法要、(6)秋彼岸会、(7)釈尊降誕会、(8)涅槃会、(9)修証会、(10)開山忌ほかとなる。
第一位から第三位までが「先祖信仰」に関する儀礼、そして四位が「祈祷儀礼」である。
これにたいして「本来の仏教」の実践である「坐禅」の開催寺院は一四、〇五二ヶ寺のうち三、七四九ヶ寺(二六・六%)であるが、開催数は一九八五年から減少傾向にある(『曹洞宗宗勢総合調査報告書』曹洞宗宗務庁、二〇〇五)。
このように見てくると檀信徒や一般の人びとが僧侶に求めるものは、ごく少数の人たち(篤信者とエリート)を除くと葬祭儀礼と祈祷儀礼の執行であることがよくわかる。
わかりやすい表現をするなら、人びとは身内や縁者の死者を来世において安定させ、先祖=「ほとけ」に成ってもらうために「僧侶の力」を必要とし、現世では自身および家族の幸福実現と持続を請い願って僧侶の力に頼るのである。
ここで言うところの「僧侶の力」とは、僧侶みずからが「本来の仏教」(縁起・空の思想・信心と実践)に参学・修行し、その過程で身につけた資質と力能を意味する。
人びとは僧侶が具えている修行力・法力・仏力が、死者を安定させ自身の幸運の実現に資するとの「想い」(観念・感覚)を、なお保持しているからこそ僧侶に頼り、寺を守るのである。
僧侶はこうした人びとの宗教的想いを大切にし、この想いに誠実に応えてやることが肝要ではなかろうか。
何を言いたいのかというと、最近の僧侶のなかに葬儀や祈祷の修行に及び腰になっている、または腰が引けている人が少なくないのではないかということである。ことに若い僧侶にたいしてこの感を深くする。
その原因は何かと探っていくと、どうやらこれまで述べてきた教義・理念と現場で行う儀礼との間のギャップにあるらしい。
自分たちが学び修めてきた深くて合理的で普遍的な思想や信条と、死者や先祖の霊を供養し、大般若経を転翻して人びとの幸せを願うこととがなかなか結びつかない。この「結びつかなさ」を生きざるをえないところに、彼らが積極性をもてない主な理由があるようだ。
そのためか説教でもいきなり教義・説の解説から入る場合が多く、霊やあの世について触れることを避ける僧侶が少なくない。
ところが多くの日本人が僧侶に求めているのは、依然として教理・理念よりも死者を浮かばすことのできる「超常的な力」である。
誤解を避けるために言いたい。僧侶にとって教理・?学が不必要であるなどと言っているのではない。教理・理念は一生参学の大事として生涯かけて修行しなければならない。
だからと言って人びとが僧侶に求めるものに及び腰になる必要はないのではないか。彼らの生なましいニーズに積極的に対応しつつ、これを教理・理念に引き上げる努力こそ、今求められているのではないか。
直木賞作家の三浦しおんさんは、愛する祖父の葬儀に関わった高齢の僧侶に「お坊さんの力」を感じとったという。
彼女はこう記す。「お坊さんは大変失礼ながら、仏教理論研究の最新の成果に詳しいようには見受けられなかった。……読経のときにはお坊さんの背筋がのび、毅然とした態度で一心にお経を読んでくれた。(それは)〈思う存分悲しんでもいいが、悲しみつづけなくてもいいのだ〉と告げているかのようだった。〈仏さまが必ず救ってくださる〉と、お坊さんは確信しているようだった」(三浦しおん「お坊さんの力」、『寺門興隆』興山舎、二〇〇八、七)。