お寺の公益性を考えるシンポジウム2008
セッション 1「公益性とは何か?――いま問われる寺院の公益性」
○パネリスト
長谷川正浩/弁護士
世古一穂/金沢大学大学院教授
島薗 進/東京大学教授
○司会
鈴木 晋怜/臨床仏教研究所上席研究員
○主催
(財)全国青少年教化協議会
臨床仏教研究所
三月七日、東京港区の東京グランドホテルで「お寺の公益性を考えるシンポジウム2008」が開催された。古より仏教寺院は、人びとの生活の中で極めて公益的な役割を果たしてきた。こうした寺院の公益性が今、市民社会の成熟とともに注目されている。このシンポジウムは、現在進行している公益法人制度の改革を契機に、改めて寺院の公益性を捉え、仏教寺院はこれからの社会でいかなる公益的役割を果たせるか考えるものである。
今回はこのシンポジウムより、セッション1で行われた三氏の提言とパネルディスカッションの発言を掲載する。
■提言・長谷川正浩
私が与えられテーマは、法律の観点からお寺の公益性の問題を論ずるということです。宗教法人法に基づいてお寺は法人格を取得しているわけでありますが、この宗教法人法は、自由と責任という二つの旗印の下に制定されました。自由というのは国家権力からの自由でありまして、国家は宗教団体に口を出してはいけないということです。その裏返しとしまして、宗教法人は自主性ですね、自分の判断で何事もやっていかなければならないということになります。つまり、自己責任で何事も行い、その責任の裏側に公益性の問題が存在するということです。
宗教法人、宗教団体が行う公益性とは何なのか。宗教行為の公益性は国家の干渉すべきことではない。ですから公益性があるとかないとかいうことを国家権力は言うべきではないという意見がございます。それはそのとおりですけれども、我々の立場から公益性がどのように法で規定されているのか認識をしておく必要があると思います。いわゆる「民の公益性」とは何かということです。
ご存知のように公益法人制度の改革が現在進められておりまして、昨年の六月二日に、新社団財団法が公布されました。この改革はいずれ宗教法人にも及ぶことが予想され、皆さんの関心事になっていると思われます。そこで、新社団財団法では公益がどのように規定されているのか、まず見ていきたいと思います。
福祉の向上ですとか、国民の健康保護ですとか、環境の保全、公共の安全確保、文化の発展、公正・自由な経済活動の機会の確保・促進、信教の自由の尊重または擁護など、二十三の公益事業が掲げられています。これを宗教法人で行えば当然公益になるということです。
しかし、この新社団財団法に準じますと、事業に公益性があるというだけでは公益認定をしないということになっています。事業の公益性を担保する制度というものが必要です。それを公益法人認定法に掲げられた内容をもとに説明しますと、例えば「公益的事業量が全事業量及び管理費の合計の半分以上を占めること」とあります。これは大雑把に言えば、公益と認められるような事業を全事業の半分以上はやっていなければならないということです。
私の知っている宗教法人でも境内地のほとんどが駐車場になっていて、お檀家さんはほとんどいないというお寺があります。そういった例は今後問題になってくると思われます。
それから「株式等を特定の場合を除き保有しないこと」これは株式会社の大株主になって、株式会社を支配して営利活動を行うようなことはダメですよということです。また、「必要な限度を超えて内部留保を有しないこと」とあります。たとえば百億ほどのお金があるにもかかわらず、年間1千万円程度の事業しかしていないというようなこともいけません。
重要なものとして「同一親族等が理事・監事の一定割合以上を占めないこと」との定めがあります。一族支配ができないということですね。宗教法人法では、同一親族の制限条項はありません。住職が代表を務め、奥さんや息子が責任役員を務めているといった構成でも今は認められています。しかしこれからはこの問題が議論されることになると思います。お寺の物は住職のもの、住職の物はお寺のものという考えは通じないということです。
現在でも、役員には善管注意義務・法令等遵守義務がありまして、代表役員である住職がお寺に対して善良な管理者の注意義務を怠ると、お寺から損害賠償を請求されるということになっています。お寺と住職は別人だということです。この意識がはっきりしていない方が時々見受けられます。
それから、任意機関設置による強化。任意機関というのは、たとえば包括宗教法人でいうと宗会ですね。あるいは被包括宗教法人で言うと監事。現在は監事を置く必要はないということになっていますが、この監事規程の欠如も問題になると思います。任意にそれぞれの機関を置いてガバナンスを強化しなけえばならなくなるでしょう。
それから大きな問題としては、残余財産の帰属です。ほとんどの宗教法人は解散の際に包括宗教法人に残余財産が行くということになっています。しかし、そういう規定はなくても良いことに今はなっています。ある宗派の特定のお寺では残余財産は住職個人に行くと規定している場合もあります。これもこれから議論されるでしょう。
これらが新しい社団財団法を参考にした、宗教団体の公益性を考える枠組みですが、その他にも新社団財団法では行政庁の監督が強化されます。もちろん今の法律でも行政の監督を、たてまえとしては受けることになっていますが、これまでは一度認可されたら行政の関与はほとんどありませんでした。しかしこれから厳しい干渉を受けることになろうかと思います。
■提言・世古一穂
私はNPOや市民活動、公共政策を専門にしています。いろいろな組織が集まって作る領域をセクターと言いますが、NPOや市民活動は本来は第三セクターと呼ばれます。セクターは、官と民・営利と非営利の組合せで分類されます。官で非営利の行政を第一セクターと呼び、民で営利の企業を第二セクターと呼びます。そして本来は、民で非営利のNPOや市民活動が第三セクターですが、日本では官で営利の組織を第三セクターと言っています。
なぜ日本だけそうしたことになっているかというと、行政セクターに公共部門をほとんど任せて国を作ってきたという事情があるからです。市民セクターが育っていないために、行政セクターが外郭団体を作って、それが日本の公益部門を担ってきたのです。そうした組織は多くは行政の下請け機関です。本来ならば市民セクターがやるべきことを、行政セクターの下請け機関がやっているというのが日本の非常に特殊な状況です。
本来、公共の領域は、行政セクターと市民セクターが役割分担してやるべきことです。行政セクターの受け持つ公共の領域は、本来は非常に限られたもので、税金で行うべき公共領域などに限定されるものです。つまり誰にでも同じように等しくやっていかなければならないことに関しては行政セクターが受け持つべきですが、それ以外の公共領域は市民セクターが受け持つべきなのです。
お寺の公益性を考える場合でも、公益というのは行政がやるべきだと考えてしまうと、そもそも間違ってしまいます。行政セクター、市民セクター、企業セクターの三つの領域に区分した場合、お寺も市民セクターになると思います。お寺の公益性を考えるには、お寺がこの市民セクターとしてどういう風に成り立っていけばいいのか考えることになると思います。
営利団体と非営利団体という言葉があります。営利団体とは利益を出すことを目的にした団体。非営利団体というのは利益を出してはいけないのではなくて、利益を出してもそれを再配分しないということです。最初にお金を出した人とか、そこで働いている人たちで利益を分けてはいけないということです。給料や経費を差し引いたうえで出た利益を再配分せずに次の社会目的に使うのが非営利団体です。
お寺を市民セクターとして捉えることが、お寺の公益性を考えるうえで重要なことだろうと思います。非営利の民間組織をNPOと言いますから、そういう意味ではお寺もNPOと言えます。ここで重要なのは、公益と共益の概念の違いです。特定の団体やグループに属した人にしか利益を及ぼさないのを共益と言いますね。誰にでも利益が及ぶことを公益と言います。お寺の檀家に入らないとお寺のサービスを受けられないということになると共益ということになってしまいます。しかし、お寺はもともとから市民に開かれているもので、市民セクターそのものではないかと私は考えています。
今は市民が市民社会を作るという時代になってきまして、現在、NPO法人は三万四千くらいあります(二〇〇八年三月現在)。この数は財団法人・社団法人の数を上回ります。サービスプロバイダ型と言って、色々な事業を提供する、NPOも増えてきました。たとえば子育て支援のNPOなどです。ただし忘れてならないのは、アドボガシー型のNPOです。
政策提言とか社会変革、もっと簡単な言葉で言えば、人々の小さなつぶやきを形にして社会の仕組みを変えていくということに取り組むのがアドボガシー型のNPOです。この、「つぶやきを形に、思いを仕組みにする」というのが、お寺の公益性を考えるうえで一番大きな課題ではないかと思います。
もう一つ考えておかなければならないのが行政との関係です。今、地方分権という言葉が浸透してきていますが、これはどういうことかと言いますと、国から都道府県、市町村に権限を降ろしていくことです。これを垂直分権と言います。そして、もともと国、都道府県、市町村など行政機関には向かないのだけれども、他に公共的、公益的なサービスを行う機会がなかったために、先ほど述べた第三セクターに任せていた部分を市民に分権していく。この部分をこれからお寺も担うようになることができるだろうと考えています。
つまり、お寺が公益性をもって活動していく時に、どんな活動をしていったら良いのかと言うと、国、都道府県、市町村が本来は向かないんだけれども今までやってきたようなことを、市民活動として市民と協働してやることが大切になると思います。
公益性、公共性の概念を整理しますと、行政側つまり官の公益というのがあります。そして民で公益をやるのがNPOセクター、もしくはお寺も含めた市民セクター。これが新しい公共・公益の概念です。
一つ提案があります。私は、「NPO研修・情報センター」というNPOの代表理事をしているのですが、ここでお寺の公益性を活用して地域に根ざしたNPOの事業モデルを展開できないかと思っています。それはコミュニティレストランという取り組みです。
コミュニティレストラン、略してコミレスは五つの機能を持っています。[1]人材養成の機能。[2]食事を提供する機能。[3]食事を提供することで自立生活を支援する機能(お年寄りの方の中には、食の提供があれば自立できる方がかなりいます。[4]働く場を提供する機能。[5]家庭生活支援の機能。
また、循環型まちづくりの機能の中心にもなれると思います。コミレスでは地域の農家等と協働して、地産地消をすすめます。
こうした試みは、お寺という地域密着型の施設で行うのにぴったりなのではないでしょうか。誰でも安心して利用できるような場所で、これからの循環型社会作りに取り組むのです。生産者の顔が見える食材を活用して地域食文化を育て、食育の場、健康作りの場にもなると思います。地域の食卓、共食の場としてお寺を開放すれば、地域課題への取り組みの場にもなってゆくでしょう。食を通じた子育て支援や、高齢者、障害者の自立支援の場にもなります。
地域食堂としてお寺を考え直して、お寺の公益性を高めていくこともできるのではないかと思います。今、全国でコミュニティレストランができてきていますが、お寺を利用したコミュニティレストランはほとんどありません。私はぜひチャレンジしてみたいと思っています。関心のある方はお声を掛けていただければと思います。
■提言・島薗 進
今回のシンポジウムのテーマは「お寺の公益性」ということですが、私は宗教の公益性ということから考え始めたいと思います。たとえば同じ仏教でも、タイの僧院というものを考えると、これが公益的なものであるということを疑うタイ人はほとんどいないと思います。タイの社会の精神的な価値は仏教が支えているのであって、私的な利益を僧侶が追求しているということはないでしょう。
しかし、いくつかの社会では宗教は私事であるかのように現れています。近代社会では、宗教は個人のこと、個人の内面のことであるという理念がなりたってきたわけです。こういった理念は、西欧世界、キリスト教世界で成長してきました。宗教戦争やさまざまなことを経験して、宗教は国家との結びつきを次第に薄め、個人のものになり、個人が集まって団体を作るのが教会だということになってきました。
この理念は、日本の場合には比較的馴染みやすかったのです。どうしてかと言うと、日本ではですね、社会の公的な理念は仏教よりも、むしろ儒教、あるいは神道、それらに委ねられるようになっていたからです。武士は仏教を学ぶよりも儒学を学んだわけです。仏教は主に私生活の精神的な平穏の方を受け持ちました。
社会制度の方は儒教、あるいは儒教と融合した神道の役割に任せて、仏教は小さな集団、家族、親族あるいは個人のことがらに影響を持ちました。そのかわりに日本の全国隅々までお寺が浸透しました。二重構造になっていたわけですね。これが最初の問題です。そもそも宗教が私的なものに見えるのには、日本の歴史的な事情も反映しています。そしてそれは一見したところ近代的な理念と合うということがある。これは戦後、私たちが育った頃には当たり前のことでした。近代世界は皆そうなっているという前提のもと、アメリカ的な宗教制度を受け入れて政教分離を徹底し、お寺や宗教団体は個人の事柄に関わるのが当然と理解してきたのです。
しかし、イラン革命の後、決してそういった西ヨーロッパの制度こそ人類社会の発展というわけではないということに気がついてきます。イスラム世界では、公的な秩序と宗教は不可分です。政教分離とういうことはありえません。そういう世界も考慮に入れて考えれば、そもそも宗教は公的な理念を持っていると考えることができます。
近代制度に従って、宗教を私的なものとして考えすぎてきたために色々とおかしなことが起こっているのではないかと思います。たとえば病院に行けば患者さんはさまざまな痛みを持って苦しんでいます。しかし、仏教界は、苦しんでいる人がまさに必要としているような精神的価値を提供することができないでいるようです。今、日本では、宗教の公的な面を見直してみることが必要になっているのではないかと思います。
では次に、日本の寺院は公的活動としてまず何をするべきなのかを考えます。仏教は宗教ですから、宗教らしいことでこそ、まず人々のニーズに応えるべきであると思います。それは例えば死の問題であり、さまざまな心の痛み、人間関係の困難、あるいは人生の生きがいをいかにして見いだしていくかということですね。
それこそまさに宗教の基礎的な価値だと思います。それは決して私的なことではないはずです。社会全体で共有されている問いを一人ひとりの人間がニーズとして持っていることでもあります。これに対して宗教には何ができるのかということが大事なんだろうと思います。それこそ仏教の公益性の基礎で、その中に公益的なものがあるんだということをもう一回確認していくべきだと思います。
病院で癌に苦しみ悩んでいる人がいるとします。死のことを考えたい、なんとか死にゆく自分の運命について納得したいと思っている人がいるとします。それに応えるのが宗教の役割でしょう。しかし、その場に直接行くということは、必ずしも必要ではありません。お寺が支えている宗門があり、宗門大学があり、あるいは日本の仏教文化があり、それが病院で悩んでいる個人に非常に大事なものを提供しているはずです。間接的ではありますけれども、そういう風なあり方も大変重要なお寺の公益的な機能だろうと思います。ですから、基礎的な宗教的ニーズに応えようとすることで、それが宗教文化としての日本の精神的文化の非常に大事なものを保持し、現代社会にふさわしい形で展開している。たとえば有名な作家が仏教について本を書く、それを人々が読んで生きるヒントをもらう。そうした仏教文化を支えているのは一軒いっけんのお寺の日常的な活動です。これもお寺の非常に重要な公益的な機能だと思います。
確かに目に見えて公益的であること、ボランティア的なことやNPO的なことも、ぜひ積極的にやってほしいと私は思います。そうした活動を通じて、僧侶は現在あるさまざまな痛みの近くにいることができます。そういうことから離れてしまうと、基礎的な宗教の機能も果たせなくなってしまいます。人の悩みがどこにあるかということに鋭敏であれば従来のお寺の活動とはちょっと違うところにも活動が伸びていくのは自然だと思います。しかし、そうした活動は、本来の宗教の場ということにはなりません。
最後に、宗教が公的なものであっても、すべてが公益的だということではなくて、公害的な面もありということを述べておく必要があります。なぜ政教分離が必要であるか。多元的な宗教のそれぞれの自由が大切であるかということとも繋がります。宗教の中にはやはり、ある限られた集団の利益と結びつく側面があると思います。そして他の人たちを排除する方向へ向かうことがある。世界の宗教史を見ればそういう場面がたくさん見えてくるので市民は常にそういう疑いを持っている。
これは冷戦の時代にはあまり見えなかったことです。冷戦の時代はイデオロギーこそ集団利益に向かうもので、宗教はもっと普遍的に人類のために貢献できると考えられていました。しかし冷戦が終わってみると、まさに宗教こそ分断に貢献しているという面が見えるようになってきました。これには、世界秩序のグローバル化が進んだにも関わらず、国連など国際機関の機能が非常に限定されていること、それに大国の利益に引っ張られて経済至上主義みたいなものがいき渡っている、そういうことが背景にあります。
宗教は公害的な面を持っています。自己利益、集団利益のために他者を排除し、そして被害者を生む、あるいは戦争を起こす、暴力を起こすのに貢献してしまうということもあります。そういう面に対する批判はよく行われていますが、逆に自分たちこそ正しいという信念で自分たちの勢力を広げることこそ公益なんだと思いこんでしまうこともあります。
宗教は基礎的な機能を果たしているだけでも公益的な役割を担っています。しかしそれと同時に、分裂・分断・排除に寄与する面もあるということを反省し批判していくことも必要だと考えています。
■パネルディスカッション
[司会]三人の先生方から貴重なご提言をいただきました。ではそれぞれのご提言を踏まえて、現在の伝統教団に属する寺院、あるいは僧侶を見て、どのように思われているか、ご意見をいただきたいと思います。
[世古]先ほど、共益と公益の違いを申し上げましたが、今のお寺は共益的、もしくは金儲け主義になってしまっていると、一般の人には見られているのではないかと思います。
先ほどの話しの繋がりからもう少し言いますと、今まで私たちの考え方は、公私二元論で来たのですね。公=行政・私=個人の、公私二元論です。この二元論ですと、宗教というのは公の方にも私の方にも両方に行ったり来たりするものになります。でもこれからの市民社会では、公・私・公共の三元論で考えていくことが必要だろうと思っています。行政の公に、個人の私、そして人々の共同によって作り出す公共です。
そう考えていけば、お寺は公共の一つとして大きな位置づけが得られるのではないかと思います。公私二元論から三元論へ転換すればお寺の位置づけも変わってくるのではないでしょうか。
[島薗]たとえば、自分が病気で苦しんで、それを自分で受けとめてなんとかそれを克服していくこと。これは私的なことですけれども、これを苦しんでいる人たちと分け合っていくこともできるわけです。腎臓病患者の人たちが助け合いの運動をやっています。これは腎臓病患者同士の助け合いですから共益にも見えますが、その集まり方の中には公共的なことがあると思います。お寺の中で、個人的な苦しみとか悩み、あるいは死というものに取り組んでいること、それは必ずしも公共的ではないということにはならないと思います。
お寺の活動の中には公共的なものが普段からあります。ただし、それにも関わらず共益的な、狭く閉じこもる側面もあるのではないでしょうか。どうやってそれを開いて、ともに分かちあい広げていけるのかを考える必要があると思います。
[長谷川]世古先生の方から「お寺のやっていることは、一般の人からは共益的に見えてしまうのではないか」という指摘がありました。しかし、たとえば大学では入試に受かった学生だけを対象にしています。また、病院なら通院、あるいは入院している人だけが対象になります。つまり、特定の人しか対象にしないから共益だ、とは言えないと思います。しかし、一般の人からは共益的に見えてしまうかもしれない。その原因は、我々僧侶にあるのではないかと思います。
たとえば「お葬式のお布施は高過ぎる」という批判が世間一般にあります。これはお布施をする人がお布施をする意味をわかっていないからですよね。宗教的サービスの対価だと考えているからお布施は高いと思ってしまう。サービス業だと捉えられれば、お寺の行っているのは檀家さんだけを対象にした共益事業だと思われてもしかたがないでしょう。
大学は学生だけしか相手にしない。けれども大学の先生は教育活動に公益性があると思っていらっしゃると思うんです。あるいは、学問の研究をするということには公益性があると考えていると思うんですね。同じように、お坊さんも仏教の理論を研究をして、先ほど島薗先々がおっしゃっていたように、巡りめぐって人間の生き方とか人間の死に方とかといったものを一般の人が考える際に貢献しているはずです。
しかし、我々僧侶には、怠慢があったのではないかと思います。お葬式の時にお布施を貰うのに、お布施というものはどういう意味を持っているのか説明してこなかった。「サービスへの対価ではなく、布施行である」と説明するべきでした。布施行であれば、高いとか安いとかいうことは起きてこないと私は思います。 少し話しがずれましたが、公益性の議論を機会に、私たち僧侶は自分を見つめ直して自分のやっていることを一つ上のランクに上げる良い機会だとだと考えなければいけないと思います。
[司会]もう一つ質問があります。一般の人を対象にしたアンケートによれば、九割以上の方が「お寺は社会に開かれていかなければならい」と考えています。しかし、社会、つまり外に向かって開いていくだけでなく、宗教的な問題について真剣に自分の中で洞察していくことも僧侶には不可欠だと思います。いわば、内に向かっていくということです。そうした内側に向かっていくことと、外側に向かっていくことは両立するものなのか。あるいはその関係性についてお聞きしたいと思います。
[島薗]人間には色々な人たちがおり、興味の向かうところも違うわけです。多様であって当然だと思いますね。キリスト教の世界でも一時期、対立が起きたことがあります。社会的な関心を持つ人は内面性が足りない、内面に入っていくと聖書絶対主義になって内向的になっていく。そういう分裂が起きました。今でもこれはキリスト教社会の大きな問題であるかもしれません。
望ましいあり方としては、社会的な関心を持つからこそ内面の深まりも良い方向で進んでいくこと。そして、内面の深まりを持てば持つほど社会的なものにも関心を持つ。こういった往復運動があるのが理想的です。両方があってこそ宗教が深まっていくのだと思っています。
もちろん、場合によっては対立したり、分裂したりする要因になることもあります。ですから、その両方を注意深く見守ることも重要です。あるいは両者を媒介するような人も必要になってくると思います。
[世古]そもそもお寺は、地域社会に開かれるものだと思います。お寺は本来、社会的な機能を持つものですよね。お寺を地域に開いて、NPO的な場に、どのようにしていくかが大切な課題だと思います。
たとえば高齢化の問題に取り組むとした場合、お寺の場を解放しつつ、その地域で高齢化の問題に取り組んでいるグループと一緒にやれば良いわけです。先ほど申し上げたコミュニティレストランのようなものを一緒に運営するということもできるのではないでしょうか。それには地域にある色々な団体との協力関係を作ることが必要でしょう。協力関係を作っていくのは、住職でなくても良いのかもしれません。お寺と地域の団体を媒介するコーディネーター機能を持った人がいて、お寺と地域の団体を結ぶ。そういった人の存在が重要になっているのではないかと思います。
全国青少年教化協議会とは
全国青少年教化協議会(略称・全青協)とは、故読売新聞社社主正力松太郎氏の提唱により、仏教教団六十余宗派などが協力し、青少年の豊かな生活と未来を願い昭和三十七年に結成(翌三十八年設立認可)された財団法人。「仏教子ども会・日曜学校」の推進をはじめ、子どものころから仏教に親しみ、世の中の移り変わりに押し流されることのないその教えによって、たくましい心をもった人間に育ってほしいと、様々な事業を展開してきた。
さらには、いじめ、不登校、少年犯罪など、ますます多様化する青少年に関する課題に対し、仏教や仏教者が果たす役割を常に考え、青少年はもとより、彼らとともに歩む青少年教化活動者を支援している。
ここに掲載したシンポジウムは、全青協の創立四十五周年事業となる臨床仏教研究所の設立を記念して開催されたものである。シンポジウムは「お寺の公益性を考えるシンポジウム」と題され、同研究所の活動プレゼンテーションと寺院意識調査の報告を行うとともに、2つのセッションにより議論がなされた。
特に今回はセッション1「公益性とは何か?――今、問われる寺院の公益性」取りあげたが、この後にはセッション2「社会とつながる寺院の可能性」が行われた。