葬儀不要の時代がやって来た
人々の宗教意識が変わり、信仰心の希薄な人が増えている。それはもちろん今に始まったことではないが、戦後の高度成長期に育った人以降にそうした傾向は顕著であり、そうした人たちが今、親の死に際して葬儀の喪主を務める時代が到来している。つまり、信仰心がないという心の問題だけではなく、今まさにそれが実際の社会現象として現れてきているのである。これがお寺に与える影響は大きい。この問題について、今年3月に仙台市のある寺で起きた事例をもとに考えてみたい。
それは、ある葬儀社からその寺へ入った一本の電話からはじまる。「貴寺の檀家の○○様のお父さまがお亡くなりになりまして、葬儀の打ち合わせをしたいと思い電話させていただきました」と葬儀社の社員は言った。檀家の人ではなく、葬儀社が電話をしてくること自体がおかしいのだが、「悲しみのあまり号泣していて電話もできない」とのことだった。しかし、それでもやはり直接話す必要があると考えたので「少し落ち着いてからだで良いから」と告げて、その檀家さんにお寺に来てもらうことにした。
数時間後、故人の奥さんと娘さんがお寺にやってきた。奥さんは80歳を過ぎたくらいの優しそうな感じの人だった。娘さんは50歳になるかならないかくらいであったが、挨拶もせずただ立っているような人だった。正直なところ、ちょっと話しづらい人だなという印象を持った。しかし、奥さんは耳がかなり遠いということもあり、また主導権は娘さんが持っているようだったので、娘さんを相手に話しを進めていくことになった。
少しずつ順を追って話し、通夜葬儀の日程や場所などを決めた。そしてその後、その寺ではいつもそうしているように、本堂で仏教の教えを説き、お線香をあげてご本尊に合掌礼拝してもらった。すると今まで強ばっていた娘さんの表情が明るく朗らかな様子に変わった。それを見て、これはだいじょうぶだ、きちんと葬儀を行うことができるだろうと思った。その日はそれで帰っていただいた。ちなみに、お布施の話は一切していない。
その家は、昔からの檀家さんではなく、亡くなったお父さんが生前に境内に墓所を求め、立派なお墓を建立し、新たに檀家さんになった家であった。お父さんが自分で望んで、寺との縁を結んだのである。父親の望みを叶えることに、なにも問題はないように思えた。
だがしかし、今日通夜式を行うという日の朝だった、突然電話がきた。娘さんが受話器の向こうからいきなり「私たちは無宗教なので、葬儀はしません」と告げた。
驚いた。どうして、なぜ、としか思えない。「どうしたんですか。お戒名もつけたし、お手伝いのお坊さんもお願いしたし、塔婆も書いてすべて準備したんですよ」と言ったが、「私も母も無宗教だから葬儀はしない」の一点張り。
とりあえずお寺に来てもらい、話し合ったが、娘さんは「葬儀もしないし、この寺の墓所に埋葬もしない。お墓は市営墓地の抽選を申し込んだ」と言った。そこで、「あなたが無宗教なのはわかりましたが、お父さんはここを安住の地だと望んで自分でお金を出してお墓をお建てになったんですよ、それを無視して良いのでしょうか。お父さんは仏教徒で、ここにお墓まで作ったのだから、せめてお葬式をして、納骨をして、それで時期が来たら改葬しても良いのではないでしょうか」と話したが、まったく聞く耳をもたない。「それは和尚さんの考えであって、私たちにはそんな気持ちはまったくありません」と、何を言ってもそう繰り返すばかりだった。
お布施のことが気になっているのかとも思い、それは気にしなくて良いと説明したが、それでもまったく態度に変化はなかった。聞けば、「火葬の場には親戚も知人も誰一人呼ばず、母と二人だけで立ち会う」と言う。
さて、この事例をどう考えたら良いのだろうか。ほんの短期間のうちになぜこうまで変わってしまったのか。初めにお寺に来た時は納得して帰ったように思えた。しかし、そう思えただけであって、実際には納得していなかったのかもしれない。あるいは後になって費用が気になってきたのかもしれない。実際のところは本人でなければわからない。
重要なのは、葬儀に関してこの人はまったく意味を認めていないことだ。火葬だけを行う直葬が増えている今日、これを特殊な事例だとして無視するわけにもいくまい。お寺を取り巻く環境が大きく変わってきている。
今回この話をして下さった、このお寺の奥さんは「時代の流れと言ってしまうと、とてもさびしく悲しいですが、これが現実ですね。でも、すべての人がそうだということではありません。ご先祖さまを大切に思い、立派にご供養をされている方もたくさんいます。仏さまの教えを求める人が集まってくるような、慕われるお寺でありたいですね」とおっしゃっていました。