仏教文化研究の課題
――仏教文化の民族宗教性について――
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一 はじめに
五十年近く前になるが、私の大学院時代の指導教授であった宗教人類学者の古野清人は、常に宗教文化における原始宗教的要素や性格の重要性を強調していた。
仏教であれキリスト教であれ、およそ宗教文化なるものは、原始宗教的な要素や性格と無縁ではない。無縁ではないどころか不可欠でさえあるというのである。
この古野の主張に最初私は少なからず戸惑った。当時の私の宗教に関する知識では、仏教と原始宗教とはたがいに相容れぬ対極に位置する宗教形態であったからである。
仏教は高度で知的な普遍性をもつ宗教であるのにたいして、原始宗教は未開民族の粗野にして非知的な土着性の濃い宗教形態である――こうした二分論的な宗教理解の枠組みを当時の私は脱し切れていなかった。戸惑わざるをえなかったわけである。
寺で生まれ育ち仏教大学に学んだ私は、専攻は仏教(学)ではなかったものの、仏教専攻の学友たちや宗教(仏教)教育(一年から四年まであった)の影響もあって、学部時代はかなり「仏教」づいていたことは否めない。
IBI(国際仏教研究会)の一員にもなり、仏教を英語により世界に弘めようと努力したこともある。
当時IBIに所属していた先輩や仲間のなかから、その後著名な仏教学者や仏教系大学の学長(総長)になった人もいる。
そうした先輩や仲間の間でよく話題になったのは、"釈尊や祖師の仏教は高く素晴らしい。しかし日本仏教の現実は「葬式仏教」だ。もしも釈尊や祖師が日本仏教の現在を目にされたら大いに嘆かれるに違いない"という類の内容であり、結論としては"釈尊に還れ"、"祖師に還れ"となることが多かった。
この傾向は、とくに仏教系のエリートや文化人にあっては、今日も半世紀前と比較してそう変化したとは思われない。
昨今、仏教大学の学部や大学院で仏教学を専攻したのち、各地の寺院現場で活躍するエリート僧は、仏教の縁起や無常・無我の?説を「仏教」として一応自信をもって説けるのにたいして、主な役割である「葬儀」の意義すなわち霊魂・精霊や来世については堂々と説きえないか、腰が引けている観がある。
これは半世紀前に議論した問題、つまり宗教(仏教)的二分論が、なお現場を拘束している証左ともいえよう。
どうしてこういう傾向や状況が生じ、かつ存続するのであろうか。こうした疑問は研究者であれ現場の僧侶であれ、現実の仏教の相を正直に見れば容易に抱くはずであるし、これまでも抱いてきたに違いない。
ところが一見常識的かつ素朴なこの疑問に答えるのは容易な業ではない。 私自身寡聞にしてまだこの疑問にたいして説得的な回答を耳目にしていない。
この疑問・問題に敏感であるはずの現場の声は、実にさまざまであるが、主なものに"われわれが教化活動を積極的に行っていないから"というのがある。
この種の声の基礎または背景には、仏教の教理・理念が一般の人びとに浸透し、人びとを真の仏教徒に化しえないのは、かかって僧侶側の「努力不足」にあるという共通認識があるようだ。
はたしてそうであろうか。以下ではこの問題について宗教人類学(宗教文化における原始・原初的要素を重視する立場とここではしておく)的な視点と方法から考察してみたい。
二 仏教と仏教文化
現在、寺院の現場で営まれ生きている仏教はしばしば「寺院仏教」の名で示される。そして寺院(僧侶)の主な役割が葬式・葬祭であることから、この国の仏教は「葬式仏教」であると呼ばれて久しい。また多くの寺院ではさまざまな祈祷・祈願の儀礼を行うことから「祈祷仏教」と称されることがある。
近頃は寺院が教化活動の一環としていろいろな催しごとをすることから「イベント仏教」という語が使用されることが多くなった。
いま、寺院現場の主な役割または活動を「葬式仏教」、「祈祷仏教」そして「イベント仏教」の三種に分類してみたが、これらはあくまでも寺院の主な役割や活動についての呼称であり、実際に寺院で実施されている行事や儀礼は実に多様多種にわたっている。
葬式と祈祷とイベントを併せ営む寺院もまた少なくない。
ところがすでに触れたように葬式仏教や祈祷仏教は仏教系エリートや文化人にすこぶる評判が悪い。その大きな理由の一つは、「本来の仏教」とは似て非なる宗教儀礼形態であるからだという。
その「本来の仏教」とは換言すれば「教理仏教」もしくは「教義仏教」、つまり釈尊の説かれたとされる?説をはじめ各宗の宗祖たちの教示内容、さらに数多くの学僧等が思弁的に練り上げた理知的かつ高度な言説を意味する。
この教理仏教とよく対比的、対立的に位置づけられるのが「寺院仏教」である。「教理仏教」の担い手は概して大学や研究所あるいは本山などを場として活動する教理志向的な研究者または研究者的性格の強い僧侶たちである。
これにたいして「寺院仏教」の担い手は、深浅の差はあれ大学や僧堂で仏教教理を学習・修行した上で、寺院を場として檀信徒や一般人にたいして教理を説き、彼らを仏道に導くことを使命とする教化・布教志向的な僧侶たちである。
ところが「寺院仏教」をかく述べたのでは不十分である。寺院は僧侶の仏教的信念と理念だけで成り立っている場では決してないからである。
いうまでもなく「寺院仏教」は檀信徒や一般人に信望され支えられることなしには成り立たない。寺院住職(僧侶)が仏教教理に精通した高格の人物であれば寺院はうまくいくかというと、必ずしもそうはならない例は少なくない。
どうしてか。肝心な点をのみ指摘すると、寺院を支える人びとには、寺院を必要とする「宗教的ニーズ」があるからである。そしてこのニーズが寺院住職の「仏教的ニーズ」(仏教の教理や理念を弘めることなど)と常に一致するとは限らない。ここが肝心な点であり、深刻な問題点でもある。
日本仏教の特色の一つは、「教理仏教」の掲げる高邁な理念が、それが生かされるべき主要な場である「寺院」において十分に生きていないか不発に終わっていることであろう。
そしてこの「寺院仏教」の状況を「教理仏教」の立場から皮肉をこめて貼りつけてきたラベルが「葬式仏教」であり「祈祷仏教」であった。
このことは、多くの日本人が仏教に求める主な宗教的ニーズが死者の弔いとしての「葬式」であり、現当二世の利益を願う「祈祷」であることを明らかに示している。「教理仏教」から見れば、葬式や祈祷は「本来の仏教」から程遠い営みであり、理念的には霊魂(葬式の対象)や呪力(祈祷において求める超常力)は無我・空の?説に反するということになろう。
ところが日本人の「宗教意識」に関する最近の各種調査を見る限り、多くの日本人が仏教に求めるニーズは依然として葬式と祈祷である(たとえば読売新聞の全国調査では、「先祖を敬う気持ちをもっている人」九四・〇%、「盆や彼岸などにお墓参りをする人」七八・三%、「身の安全、商売繁昌、入試合格などの祈願に行く」三七・九%など、『読売新聞』二〇〇八・五・三〇朝刊)。
このように仏教を「説く」側と寺を「支える」側との間には大きなズレがあることは明白である。両者のニーズにかなりの差異があるからだ。
こうした宗教的状況は「説かれる仏教」と「生きられる仏教」との間の矛盾と表現されることがある。
また檀信徒や一般人が寺と僧侶に願い求める葬式や祈祷が民俗的性格が濃いことから、「教理仏教」VS「民俗宗教」と表示されることもある。私はこの構造的状況を「成仏」と「成祖」(先祖になること)の関係と捉えてきた(拙著『仏力―生活仏教のダイナミズム―』春秋社、二〇〇〇)。
いずれにせよ、日本仏教の「現場」についての一般的な評価は常に低く、かつしばしば揶揄的でさえある。
どうしてか。こうした評価や説明のほとんどは仏教系エリートの「教理仏教」的視点からなされるからである。現実に寺と僧侶を支える側(檀信徒や一般人)はいつも受け身に立たされ、慨歎の対象とされる。
ところが「現場」の状況を子細に観てみると意外な事実が見えてくる。
まず寺院の現場では「教理仏教」VS「民俗宗教」のような構図は無意味化していることである。学問や研究上「深刻な問題」とされている事柄は現場では見事に溶解しているかに見える。理由・背景は多様であろうが、事例を一つ挙げよう。
仏教系エリート(大学の教員や研究所員)には僧籍をもっている人が少なくない。つまり学僧が多い。こうしたエリートは学会やメディアでは「教理仏教」の意義と正当性を主張し「成仏」の意義を説く。
他面、同じエリート僧が自坊では葬式や祈祷の導師を務め、「成祖」や「ご利益」を求める人びとのニーズにきちんと応えているのである。そこには「教理」VS「現場(民俗)」は少なくとも表面的にはない。
何を言いたいかというと、「生きている仏教」を真に理解するためには、「教理」か「現場」または「民俗」かという捉え方は、あまり意味をなさないということである。
私は、何も仏教界の現状を単純に肯定しているわけではない。矛盾や問題は数知れず存在する。とは言え、多くの矛盾を抱えつつも寺院を中心に日本仏教は現に存在しているのはどうしてか。これが大きな問題である。
この問題に答えるためには、従来型の「教理」VS「現場(民俗)」の視点では不十分かつ間に合わない。特質的に相矛盾する両者を含む視点と枠組みが要請される。さしずめ「仏教文化」という枠組みである。何だ、今さら使い古された概念ではないかと批判されるかもしれないが、決してそうではない。
この弾力的で曖昧な枠組みによってこそ、矛盾し対立する状況がなぜ存続するのかという問題の性格が見えてくるのではないか。そこが今後の「生きている仏教」研究に向けての出発点ではないか。
三 仏教文化研究の問題点
仏教民俗学者としてつとに知られる五来重(故人)は、「日本仏教と民間信仰―仏教でない仏教―」という文をものしている。
その要点をパラフレーズしてみよう。
(1)日本仏教の根底には宗派にかかわりなく民間信仰が横たわっている。その民間信仰としての仏教に、それが仏教的でないからとか、卑俗だからという理由で目をつむる訳にはゆかない。
(2)大多数の庶民は民間信仰的仏教によって日常生活に安心をえてきたし、そのゆえにこそ民間の寺と僧侶を必要としたのである。これを自嘲的に「葬式仏教」とか「祈祷仏教」といってけなすのは、いささか傲慢不遜である。
(3)われわれは仏教を支配者や教団や僧侶の側からばかり見てきた。とくに明治の廃仏毀釈から立ちあがった仏教復興に、原典研究によるインド仏教をオーソドックスとして日本仏教を評価することが一般的になった。このため研究者の主張する仏教と一般庶民の仏教との間に矛盾が生じた。
(4)民衆の側は、農民、漁民、職人、商人として、その日その日の生活に追い回され、哲学や思想をもてあそぶ余裕はもちあわせていない。彼らは生活上の不安、苦痛、悩みや不幸があると、彼らが平素支えてきた仏教に救済を求めた。それを仏教は葬式仏教ではないとか祈祷仏教ではないとされたのでは、民衆は立つ瀬がない。
(5)もともと葬式仏教が卑しめられたのは、霊魂を信じないインテリ僧が形ばかりの葬儀を執行するからだし、祈祷仏教が嫌われるのは、僧侶が奇跡の実在を信じなくなったからである。しかし霊魂と奇跡を信じない宗教は、およそ宗教としての資格はない(『日本の庶民仏教』角川書店、一九八五、傍点筆者)。五来のこの文は一九七四(昭和四九)年夏から一九七八(昭和五三)年秋まで仏教誌『大法輪』に連載されたものである。
初版から二十年以上経っているが、その論点と主張の内容は現代においても新鮮さを失っていないと私は思う。
氏の文章を五つの論点に絞りこんだが、傍点を付した部分は、私がとくに重要と考えた箇所である。寺院の現場に生きている仏教を論じる場合に、決してはずせない問題点である。
ことに現場の問題としては(5)の所述が論議を呼びそうだが、私にとって関心がとりわけ高いのは「霊魂と奇跡を信じない宗教は、およそ宗教としての資格はない」という主張である。
どうしてか。この主張は本文の冒頭で記したように、私が宗教人類学の領野を徘徊していた頃、恩師古野清人が語った言葉「仏教であれ、キリスト教であれ、およそ宗教文化なるものは、原始宗教的な要素や性格と無縁ではない。無縁ではないどころか不可欠でさえある」の内容とピッタリ一致するからである。
古野が述べた「原始宗教的な要素」とは具体的には霊魂(霊的存在)や奇跡(呪力信仰)への信仰と行動を意味した。今日では「民俗宗教的な諸要素」という表現が適していると考える。
他の用語で示せば「アニミズム」、「アニマティズム」や「マナイズム」などとなろうか。ところが私が仏教と結びつけて「アニミズム」とか「アニマティズム」、「マナイズム」などの語を用いた際に、「仏教と原始宗教を一緒にして論じて欲しくない」と中堅の仏教学者から強く指弾されたこともあった。
彼は仏教教理を「仏教」だと捉えていたのにたいして、私は僧侶も一般人も含めて仏教徒(者)と自認する人びとの生活の中に生きている仏教つまり「仏教文化」を「仏教」と理解していたのである。
彼は学僧として研究対象としている仏教教理こそが「仏教」であり、檀信徒の求めに応じて死者(霊)を対象に引導を渡す仏教儀礼は「仏教」ではないと考えていたのであろうか。それとも学界人として立つ際の「仏教」と僧侶として葬儀を主宰する場合の「仏教」とを区別していたのであろうか。
いずれにせよ「教理としての仏教」か「儀礼(生活)としての仏教」かの二分論では「仏教」をトータルに把握することはできまい。
現実には縁起・空の教えを高々と掲げて知られるその同じ人物(僧侶)が、霊的存在に関わる葬儀を営み、無病息災・家内安全を期する祈祷を行っていることが少なくないからである。
教理もアニミズムも、僧侶も一般人も包みこんだ枠組み、「仏教文化」の概念が重要であるゆえんである。
五来説はすこぶる説得性をもつが、問題は「エリート僧侶」VS「庶民・民衆」、「教理仏教
」VS「民間信仰」という対比において、もっぱら「庶民・民衆」と「民間信仰」の方に力点を置き、「エリート僧侶」と「教理仏教」は意図的に批判の対象とした点にある。このアプローチは「仏教文化論」としてはいささか問題がある。「庶民・民衆と民間信仰」のみでは「仏教」は成り立たないからである。現実の仏教は「仏教文化(ダイナミズム)」として捉える必要がある理由である。
そして仏教文化のダイナミズムを問題にする限り、「仏教」と「民俗(原始)宗教」(アニミズムその他)は、概念的には対立的ではあるが決して敵対的ではない事実が浮かび上がってくるはずと、私は考えている。
この視点は日本仏教の各寺院が批判されつつも野太く存在し続けている真の理由の解明につながるはずである。