大本山總持寺後堂 盛田正孝老師に聞く


まさとみ☆ 盛田さんが仏門に入るきっかけは何でしたか?

盛田 私はお寺の子ですから、出家の動機はないのです。やるものだから。ところが、在家から出家してくる人がいます。その人は明確なる意識をもって坊さんになるのです。心を起こす「発心」、または道を求める心「道心」をおこしてくるのです。その人の能力のあるなしではありません。だから、その道心とか発心がありますから、自分の一生を支えることができるのです。
 ところが、お寺の子には発心する間もなくて、やるのが当たり前。分かっていても分からなくても、実際に坊さんだからやる。まず、親が、師匠が、そう思う。檀家さんや周囲が期待する。そうしたら、「出家の方、いわゆる在家からの出家の方の道心、一生を支えるもの。それに代わるものはお寺の子にはありますか?」という問いがなくちゃならないでしょう。

まさとみ☆ それは何ですか?

盛田 私が出した答えは使命感です。お寺に生まれたという意味です。私は人間として命を頂きました。ましてお寺に生まれたのだから、それは意味があるだろう。お寺に生まれたことはご縁ですし、その縁は縁として生かしていく。
 道元禅師は出家功徳の巻でこうおっしゃった。「自分の意思で出家したと思ったらどんでもない。如来の誓願力により、お釈迦様の誓願によって後世の人たちは坊さんになるのだ。そうやって受け止めているのです。だから自分の力ではない。お釈迦様のお力によって出家させて頂いた」と書いてあるのです。
 だから私はお寺に生まれたので、そこに意味を見出して能力のあるなしに関わらず、自分のできることをしていく。それが「命を、何のために、どのように使いますか?」いうことに対する答えです。

まさとみ☆ それはおいくつのときに思われたのですか?

盛田 大人になってから出した答えです。

まさとみ☆ 現在の総持寺後堂という役職に至るまで、どういったステップを踏まれたのですか?

盛田 教えをいかにして伝えるか。布教師畑を歩んで参りました。もともとしゃべれない人間。それが二十歳の誕生日を機に、檀家さんなどに話しをさせていただくことで、だんだんとやってきた。布教するのは僧侶ですが、布教師という肩書きで規定されるのは嫌なのです。
 禅僧はやっぱり理想はお師家さん。いかに修行して、それを指導していくのか。布教師であって師家である。その両方があったら一番良いのではないですか。

まさとみ☆ 仏教の思想は円ではく、楕円形であるという思想につながっていきますね。

盛田 布教している場所が修行の場です。衆生、大勢の方に向かっているときに、仏様は私を見ていてくれる。「僧仏に向かうとき、お釈迦様に向かうとき、仏僧に向かわず」といいます。つまり、仏様と向き合って修行しているのに、仏様は僧侶の方を向いてくれないという。これは逆説ですよね。
 普通は、お釈迦様、お釈迦様といったら向いてくれると思っている。でも、お釈迦様は向いてくれない。僧衆生に向かうとき、すなわち一般の人に向かっている時こそ、お釈迦様は見ていてくれる。ならば、お釈迦様に背を向けて衆生に向かって教えをしていくしかならないじゃないですか。それこそ布教師の道ですよ。

まさとみ☆ 布教師とは実際に各地で講演活動をするのですか?

盛田 そう。お寺に行って話をしたり、いわゆる言葉をもって生きている。時には口
先だけになるのです。だから、その歯止めとして上求菩提を求めていかなくちゃなら
ない。

まさとみ☆ 後堂という役職はどんなお仕事なのですか?

盛田 最終的には修行僧を指導していきます。指導僧は3人います。後堂、単頭、維那。一番修行僧に近い人が維那といって、お経の上手な方で、お経のリーダーになります。
 指導者だから楽かというと、とんでもない。率先垂範という言葉があるけど、何でも先頭に立ってやらなくては。私が一番前にいる。前にいるということは、背中を見られている。社長のことをプレジデントといいますが、この言葉を分解すれば、前を見て座っている人。社長は、自分の前を見る。リーダーには真似をする人がいない。後ろ、社長を見る人、リーダーを見る人はいくらもでもいるのです。だから、先に行く者は生き方を問われる。
 背中ではなくて胸で教えろと言った学校の先生がいますが、意味が違うって(笑)。胸をもって、言葉では駄目なのです。言葉をもっては通じない。だから、生き方をもってするしかないのです。
 「後堂が怠けていては、修行僧がかわいそうだ」これは私がついていたお坊さんの言葉です。それを継承したいのです。「修行僧は1年とか2年で修行を終えて帰ってしまうのだから。その時の後堂が怠けていていい加減だったら、その時に入った修行僧はかわいそうだ」。その言葉を、私は肝に銘じております。だから、つい無理をしてしまいますね。

僧侶としての使命

 坊さん、僧侶としての使命というのはもう決まっています。お釈迦様とか、我々なら道元禅師、瑩山禅師の教えを伝えること。平たく言えば、その教えによってその方の人生を全うしてもらう。または幸せになってもらう。その教えを、たゆまなく伝えていくということが坊さんの使命です。それは、時と場所によってやり方が違うだけです。ある人によってはこうやってやる、ある人にとってはこうやる。
 例えば、学校の先生をしながら僧侶をしている方がいます。背広姿でいかにも坊さんの格好はしていません。でも、役場にいたってどこにいたって、その人の人格を通して法を伝えることができるのです。
 理想とすれば、利益衆生。生きとし生けるものを済度する。救っていく。我々は救うなんて偉そうなことはいえません。どこまでできるかわかりませんが、誓願を立てて、それをしょって生きていくのです。
 我々僧侶が、また仏教者がどのように生きていくのか。仏の御命として仏の命を、仏様と同じものを頂いているというのが信仰としてある。仏様の命を頂いて、仏様の命を生きていくということです。
 本来、仏であることを信じて、そして行けども行けども到達することのない仏道。限りない仏の道をたゆまなく歩んでいくわけです。それが私たちの使命です。

自分自身の使命

 私は禅僧のはしくれです。家族を持っていませんから、命を頂いただけ。だから、それをいかに生かしていくか。命をどう使うか。何のために、どのように使うかということで、私はこの道を行っているのです。
 お釈迦様は、人が人として生まれてくることは難しいとおっしゃった。「人身(にんしん)得ること難し」といことが『修証義』というお経に書かれています。人が人として生まれてくることは難しいという教え。これは仏教の教えです。仏教は人が人として生まれてきて、命を頂くことは難しいと受け止めて生きていく。それが大海の一針という教えです。海の中に一本の針が落ちているのですよ。探せといったって無理。でも、それを拾うが如しですから。私たちの命を頂くというのは、それをどれほどまでに難しいのかというたとえなのです。それをあなたは信じられますか? ということです。
 それを今の人に納得してもらうために、言葉を変えるわけです。筑波大の村上和雄先生が書かれた『遺伝子からのメッセージ』にはこんなことが書かれています。
 両親から子供がうまれます。例えば子供が5人いたら5人全部違う。数式だけいうと、二の二十三乗×二の二十三乗で、二の四十六乗。答えは70兆通り。わずか両親ふたりの間から、人が生まれているというのは七十兆の一の確率で生まれてくるのだといっています。
 お釈迦様は七十兆分の一を一本の針と言っているのだから、すごいよね。人類が誕生してから、どんなに探しても同じ人はいません。一人ひとりは絶対に侵すことのできない存在として生まれてくる。そういう存在として、私たちは、しかも七十兆分の一の確率で命を頂いてきた。その命を下さったのが両親です。さらにその両親がいる。
 仏教は本来先祖供養ではないが先祖供養せずにはおれない。「するな」といわれても、しなくてはいられないのが供養なのです。「やるな」といわれて、その教えを知ってしまったら、知ったら最後。親の顔は違って見えてくるはずです。間違っても、「頼みもしないのに勝手に生んだ」なんて、親に向かって言うことはないわけです。
 さらにいけば、その命。尊い命をあなたは何のために、どのように使うのですかという使命の問題になる。みんなはそれぞれの役目があって生まれてくる。そして、自分は何のために生まれてきたのかを自分で意味付けをしていく。意味を見出していく。だから人生観、人生論が問題になるわけです。
 仮に、自分は人生論とかそんなの面倒くさいから嫌だという人がいますね。それも人生論です。人生観です。人生観がいらないという人生観です。考えないという人生観です。
 良い悪いは別にして、誰でも人生論、人生観はあるのです。ただ、立派な人生観かお粗末な人生観かの違いだけはあるけれど、それが価値観としてその人の生き方になるわけです。これが便利なものである。また、自分にとって必要なものであると思った時点で、これには価値が生じてくるのです。
 今、世の中はこの価値観で動いている。役に立つか立たないかでしょう。

まさとみ☆ 「あいつ、使えない」とか、人に対して言いますよね。

盛田 それは、役に立つか立たないかというものさし、ものの価値判断です。どんなに言ったって、社会はそれで動くのです。日本人は大きな変化の中にある。そんな中でお盆がなぜ大切かといったら、今の社会は役に立つか立たないかの、ものの価値で動いている。社会がそれを求めている。大学、高校、まして幼稚園や保育園までがそうなる。
 ところが仏教は、命を問題にする。役に立つか立たないかというものさしで測れないものがあるでしょうと説いている。そこにいるだけで、存在するだけで侵すことの出来ないありよう。それが命なのです。
 生まれたばかりの赤ちゃんだって捨てることはできません。動けない寝たきり老人を、役に立たないからといって除外するような理論はでてきません。生まれた時から身体に障害を持って生まれてくる人がいるのです。もし、ものだけを見たら人さまの世話になって生きていかなければならない人間は、小さくなって生きていくみたいな話になりかねない危険が、今の価値観にはあることを知るべきです。
 確かに、役に立つ、役に立たないの価値観は大事です。その最たるものはお金です。しかし、その前に、普遍的な価値として、ひとりひとりは絶対に侵すことのできない尊い存在だということを認めた上で、何が出来るか出来ないかでしょう。じゃなければ、命のリレーといいったって薄っぺらなものになりかねないのです。

日本の仏教・お盆で学ぶ命の尊さ

 命の流れを通して、命の尊さは教え伝えてきました。それが今はあやふやになってきた。価値観が変わってしまったのです。日本人として、人間として、これだけは大事にするもの、それをやってしまったら駄目なもの。それをしなかったら人間じゃないというものがあった。それが伝統として伝承されてきたわけです。その中に、命というものがなぜ尊いのかというものがある。それが一番大切なのです。だから、親子だから、命の流れだし、当然先祖供養につながってくるのです。

まさとみ☆ そうですね。

盛田 あなたが生まれるには両親が必要です。十代さかのぼれば1024人。その中でひとりいなくても、私たちは生まれてこない。先祖は直接育ててもらったわけでも、世話になったわけでもない。見たことも、会ったこともないから、情が移らないのです。

まさとみ☆ 確かに、そうですね。

盛田 そうすると、先祖には情が移らないから供養する気になれない人が出てしてしまう。 でも、仏教徒は違います。情は移らないけれど、先祖がいなければ生まれてくることができない。その方々がそこにいて下さった、いたというだけで尊いという価値観。それは私の考えです。「千の風になって」という歌だって、お墓の中にいないのかという話になる。それは確かに、時間、空間を越えている世界ならどこにでもいるといえる。でも、どこかひとつに決めなかったら、多分人は落ち着かない。だから、お墓の中にいると決めたと私は思うのです。

親子で分かる命のリレー

 「あなたの尊い命は誰に頂いたのですか? それは、両親です。「頼まなかったのによくぞ生んでくれました」。これが大人の言葉の遣い方になるわけです。
 しかし、親が子供に親の尊さは言えません。偉いよとか、尊敬しろとか言ったら、それこそ子供に「頼みもしないのに!」って言われちゃうわけだから(笑)。

まさとみ☆ 確かに、悪態つきたくなってしまいますね。

盛田 やっぱり親は尊いと伝えたいのです。「自分は子供から尊敬されなくていい」とか、「ありがたいと思われなくてもよい。子供は子供の人生があるからそれを全うしてくれればいいのだ」なんて、いかにも格好よさそうなセリフを言う大人がいます。私に言わせれば、分かってないよね。
 子供が親を思う。ああ、親は良いなぁと思ってもらわなくちゃならない。親はやっぱりありがたいよと思って生きていくほうが幸せでしょう。くだらない、あんなの親じゃねぇやと思って生きていく子供もいるのです。ではどっちが幸せですか?

まさとみ☆ 自分の親は素晴らしいと思って生きていったほうが幸せです。

盛田 言葉をもって親の尊さは伝えることができない。だから、ただひたすらに生きていくしかないのです。必死だから、後ろを見ていない。後ろをみながら、「俺が一生懸命やっていればきっと影響力があるぞ。これはいい教育になるぞ」なんて思っていたら、本当に一生懸命生きていない。
 ただただ生きていく。禅でいえば只管です。そこには何の恩着せがましいこともない。だから感動も感激もする。いざとなったら、やっぱりおやじはありがたいな。おじいちゃん、おばあちゃんありがたいなぁと子供は思うのです。それが大事。
 だからこそ、親に代わって、誰かがどこかで親の尊さを教えていかなくてはならないのです。それは学校の先生だったり僧侶の役目であるはずなのです。だって、本来親が子供に言葉では教えることができないのだから。


(大本山總持寺にて)