対談 葬儀に対する意識はどう変化しているのか[後編]


司会
 佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授)

対談者
 椎名宏雄(千葉県柏市・龍泉院住職)
 大友淑子(仙台市・清水寺寺族)


[佐々木]二〇〇八年九月一六日発行の東京新聞「生きる 心のページ」におきまして、最近、活躍しておられる宗教社会学者、井上治代さんの「家族葬 墓地の最新事情」という記事が掲載されました。そこで井上さんは、「『葬儀にかかわる費用等調査報告書』(東京都生活文化局発表)をみると、自分の葬儀を『親しい人とこぢんまりとしてほしい』とする人々が、二〇〇一年調査で全体の葬儀の約六割ある」と書いています。さらに「『葬儀を行なって欲しくない(家族だけで埋葬)』という回答を加えると、七割を超えている」と。つまり七割を超える人々がこぢんまりとした葬式をしてもらいたいと、こう言っている。葬儀がだんだん小規模化して、お坊さんも一人でいい、という時代が来ているということですね。
 さらに、「全国平均で約四〇万円かかる戒名は、七割が『不要』と答えた」とあります。このような近年の死者儀礼の傾向を、井上さんは「『私化』および『個人化』、そして『脱・宗教化』と捉えている」と言っています。なぜ、こういった私化した葬儀が増えてきているのか。その背景として「戦前の『家』は、家族員である個々人よりも、『家』という『集団』が単位となった社会であったが、現代は『個人』を単位とする社会へ移行した」と指摘しています。かつては、葬儀を簡略化するようなことをしたら、先祖が我々を恨んだり、面白くなかったりというような、そういう定まった位置に、家の先祖があった。「現代は、こういった家や先祖を中心とした考えが希薄化し、自分という個々人が関わりをもった人と結び合って、ネットワークを形成している」つまり「個人化した社会の到来である」と井上さんは結論づけています。さらに「個人と一対一の関係で取り結ばれている関係は、個々人が亡くなれば、集団が単位であった時代のように子どもに受け継がれることはなく、その関係は消滅するのである」と。
 こういう状況で既成仏教は、どうしていけばいいのか。家の系譜尊重から、個人の意志尊重へと変化してきた。そして、世界観やあの世観や死者をどう意味づけるかという死者観が変化してきた。これと、既成仏教がどう対応すべきなのかという問題とは、表裏になっています。ここをめぐって、おふた方のご意見を頂戴したいと思います。

[椎名]対応の前に、もう少し現実を直視しておきたいと思います。普遍的な社会現象というものは、葬送儀礼からファッションに至るまで、だいだい日本では東京が発信地です。東京から関東へ広がり、それが全国へ波及して行くというのが一般的なパターンだったんですが、葬儀の家族葬という携帯は、京都が発信地であって、大阪へ広がって、それから東京へ来たという、従来と違うパターンだったようです。この話をこの前、碑文谷創先生から承りました。もう京都は九割が家族葬で、大阪は七割であると。東京はまだ五割に満たないが、どんどん増えていると、こういう話を承ったのですけれども。今では、もう五割を超えていると思うんですよ。どんどんそれが関東圏に波及してきている。拙寺の檀家でも、最近三軒ほどありました。
 そこで、家族葬を行った方に「どうでした?」って聞きますと、「心からやれたことが一番うれしかった」と、こう言うんです。日本人は近年、「心から」ということを非常に重んじてきておりますので、それがまさに家族葬を肯定する大きな精神的な求めと合致していると言えるのではないでしょうか。個人を単位とする社会にあって、これは一つの象徴的な現象であろうと思われます。
 ですから家族葬は、私はだんだん、地方に波及して行くんではないだろうかな、と思っております。地方ではもう、自宅葬が急激に減ってきまして、斎場葬が圧倒的です。どんな田舎に行っても増えてきているんですね。それが家族葬的なものに変わって行くのは、もうそんなに遠くはない。急速に波及して行くのであろう、これを視野に入れておかねばならない、と思っています。

[佐々木]椎名先生が仰ったように、かつては地縁血縁で成り立っていた葬儀が、家族・親族中心の小規模な葬儀に変わっていると。これは仙台ではどうでしょう?

[大友]そうですね。近くのお寺さんでも結構個人葬が多くなったんだよ、ってチラチラ聞くようになりました。前に話題にしたご葬儀をしなかった檀家さんに「ご親戚に報告しないんですか?」と申し上げましたらね、煩わしいので参列をお断りしたのだそうです。故人のご兄弟、一緒に育ったご家族にお別れさせてあげようという、人としての情が無くなってきているんじゃないかと思いました。それが随分希薄になってきていますね。
 それに、葬儀がイベント的なものになってしまったと思います。葬儀屋さんが作り出したイベントに乗っちゃったんですよ、一般の方が。そしてそれを僧侶が食い止められなかった。僧侶がもっときちんとしたものを持っていなくちゃいけないんだけども。流されてしまったって言えば、情けない話ですけどね。人に人間哲学を教える僧侶がそんなことでは絶対にダメだって思いますよ。その辺のところの怠慢さがツケになったんではないのかとも思います。
 あと、この頃はね、なくなっちゃたんです、水子供養してくださいっていう若い子が。それがここに仏教離れと言うのでしょうか、宜保さんっておばちゃんがいなくなってからこれがなくなった。だから、語らなきゃダメなんですよ。こういうものだ、ってことを言って欲しい。

[佐々木]今、大友さんから非常に重要な指摘があったと思います。現場の経験の中から帰納されたご意見だったと思うのですが、ひとつは、葬儀社に住職が妥協して使われているという問題。葬儀社を善導していくのは僧侶であるはずなのに、もっと葬儀社にものを言わないといけないのではないか。反面、「檀家が少ないと手当てはできるだろうけど、檀家が多いところでは葬儀社にある程度乗らないと仕事にならない」とおっしゃる寺もある。これは非常に危険な考え方ではないかということを、私はある集会で述べたことがあります。今、大友さんはズバリそこをおっしゃったわけでね。しかも、葬儀社に宗教性とか仏教性があって導くならいざしらず、僧侶の方がそれに乗っかって、数十分の間だけ衣を着て携わるっていうことでは、影がだんだん薄くなっていきます。
 第二に、宜保愛子のように、水子が、親の恣意によって犠牲になり、あの世に行って、非常に悲しんで寂しがっているから、あの世のことを慮ってもっとお地蔵さんに手を合わせなさいとか、供養しなさいという見解。宜保さん的なものを我々は「民俗」と呼んでいる。日本社会や文化の底辺にずーっとあった原初からの宗教性みたいなものです。お坊さんがなぜ必要かという理由には、きちっとした葬送をしないと、あの世に行った者がこの世に対して仕返しをするということがあったのです。これは「祟り」とか「障り」と言いました。宗門や仏教界では、人権問題が起きてからそれを説けなくなったということがあります。これも近代化のひとつですが。
 代わりにあの世観を述べる上で学問上の何かがあるのかというと、ない。それで、お坊さんに答えをと求められても答えられない。お坊さんの大部分は大学教育を受けたインテリでありますから、「あの世って何?」ということになる。死者の人格を仮に霊というとして、「霊というものはどういうものか?」と聞いても、答は出てこない。なぜならば、そういう素養を培ってこなかった。大学でも僧堂でも。死者を供養することによってお布施も入っていたのに、死者の行方であるとか、死者とは何ぞやという意味づけについては、どの教団でもそこは欠落している。これが問題なんですよ。
 やっぱりベースにあるのは、霊の観念、魂の観念、あの世の観念です。だから、新宗教であの世を説くのが盛んになってきているし、スピリチュアリズムという新しい動きもそこに焦点をおくのに、実はそこに乗っかってやってきた仏教が、一番手薄になっている。もっと仏教は高度なものであり、高いものであるという立場です。実は高度なものだから民衆になかなか直接に結び付けなかったのですが、そこを支えてくれたのが、祈祷師であるとか宜保さんのような、インテリからみたら眉唾ものの人々が民衆の世界観を支えてきた。そういう人がいなくなったとき、まともにお坊さんに「あの世は何ですか?」と聞いても、「 いや我々は無記だから答えられません」でしょう。「答えられないのに、なんで高いお金を払わなくちゃなりませんか?」 ということになる。これがもっともリアルな問題だろうと思いますが、椎名先生、その辺いかがですか?

[椎名]はい。まず最初の葬儀社の問題。これは各寺の住職が、葬儀がどこで行なわれ、どんな規模で行なわれるに関わらず自分が主宰者である、という気持ちをもっていかないとならないと思っております。私は「導師は葬儀全体のチェアマン、主宰者である。宗教的なチェアマンである」と書いて、その都度、葬儀社に印刷物を渡しております。なぜチェアマンなのかとか、施主はこの位置に坐ってもらうとか、そういう個々の事をたくさん書いております。遠くの場合でも電話で前もってポイントだけをいくつか話しておいて、当日三〇分前には遅くとも行って打ち合わせをする、というようなことで徹底を図っております。それがやっぱり大事じゃないかなぁと思うんですね。どんな規模であろうと、そんなことは問題じゃないんです。
 それからもう一つ。水子供養と霊の問題ですね。これ、非常に重要な問題だと思います。実は私のところで毎年、水子供養と言わないで、「嬰児慰霊供養」を、春、三月の末か四月の初めの土曜日に盛大にやっております。
 というのは、私のところには赤ちゃん専門のお墓があるんです。千葉県では五〜六社、産院から早流産等の嬰児を引き取る業者がありまして、自分たちで火葬場を持って、火葬しているんです。そのうちの二社が私のところに入っていて、墓地に施設を作って納骨しています。その業者が、納骨の時に持ってくる埋火葬許可証を見ると、半分以上は両親の名前がありません。お母さんの名前だけですね。
 その中から厳選して供養の案内を出すわけですが、それでも一五〇〜二〇〇人位のお参りがあります。そういう人たちに対して、私は「罪」というものの意味をお話しします。早流産や中絶した赤ちゃんを、余計なものが出来ちゃったといって、引き取りもしないで業者任せにしてしまう。そしてヤレヤレ、と。こういうような者は罪を背負わなくてはならない。今日おいでになった皆さんは、逆に善業を積んでいる。あなた方が善業を積むことによって、赤ちゃんの霊は浮かばれる、成仏できる、というような施食会と同じような意味の説明をいたしまして、列席者たちが、宗教儀礼や悼む心は大切なんだということを少しは分かってもらうようにしております。そういう宗教的な契機を与える努力が住職の大事なつとめであると思います。そしてまた、亡くなった人は見えないけれども、それは存続しているんだということを、葬儀の場でも嬰児供養の場でも努めてお話するようにしています。

[佐々木]ここがね、椎名先生、教養のある人ほど言えなくなっているんです。「うちの霊はこれだけの葬式をしてどうなっているんでしょう?」って言うと、「さぁ、お経にはこう書かれてある」とか、「先生からこう教えられたから」というところで止まってしまう。意識的には仏教は空無を説く宗教であって、霊や魂とは関係ないのだから、そこを肯定したら、後ろめたさが残るというような、知的なものが坊さん方にあって、それが現場の僧侶の立場を弱めているのではないでしょうか。
 仏教にもいろいろな歴史や展開があるけれども、日本仏教ではやはり仏様の力によって亡き人をあの世で浮かばせることが大切な役割を果たしてきました。ここを日本人が望んだからこそ、仏教はこれだけ民衆化したのです。そして浄土真宗であれ、法華宗であれ、禅宗であれ共通項となっているのは、霊をどれだけ安定させ、そして守護神化、守護仏化させて一門を守ってくれる存在にするかということだと私は思っています。そこのところを、これまで学問は強調できなかったと思うのです。
 ひと口に仏教といってもたいへん大きな概念であって、お釈迦さんの教理、両祖の教理も仏教ですが、私はそういう仏教を、教義仏教とか教理仏教と言っています。その教理仏教を踏まえて現場で民衆と接するところが寺院仏教。機能上はそういうふうに一応区別していますが、この二つは重なっています。教理仏教と寺院仏教は別々のものであって別々のものではないのですが、どうも仏教というとすぐ「縁起です」「空です」ということになってしまう。それを求めて檀信徒は寺に来ますか?、ということです。もちろんそれを求めて来る人もいます。でも大部分は、水子の問題だとか、施食会はどうしましょうとかの用事で来ているわけです。ところが教義を背景にすると、なかなかそれに応じられないというのが現実なのではないでしょうか。
 最後になりますが、現在の仏教環境、宗教環境っていうものを背景にして、これからお寺さんはどうあればいいかということを、大友さんの方から問題提起していただければ。

[大友]よくお檀家さんを知ること、そして慕われることだと思います。それは寺族の務めだと思っています。寺族はやっぱりお寺に入って、方丈さんの補佐をしていくことが大切です。補佐という言葉を良くないっていう人もいるけども、私は補佐で十分だと思います。なぜなら、衣を着て引導を渡す側ではないから。方丈さんがお寺をきちんと守って、自分の本来の仏教をきちんと語って、筋を通してくれたら、寺族は一生懸命それのお手伝いができます。それをうまくコミュニケーション化していくことが寺族の務めです。
 うちの方丈さんは教員辞めてから僧堂に入ったんですよね。そこでお茶を出すことを覚えました、五〇歳にして。今までヨコのものもタテにしなかった人が、お茶を出すことになり、お茶碗も洗えるようになり…。修行に行ってから本当に変わりました。だから、和尚さんの修行ってすごいなぁと思いました。やっぱり、そういうことを越えてきている人、だからそれを私たちが補佐する。
 例えば、婦人会があって、本堂掃除ということがありますね。そうすると、皆さんが灰ならしから、全てをやってくれます。でも須弥壇上には方丈さんしか上げません。方丈さんが自らお釈迦様の掃除をします。皆さんはそれを補佐します。そういう風に、「須弥壇は和尚さんしか上がれない大変大切なところ」というのを皆さんに自覚してもらえます。だから誰かが上がろうとすると「ダメだよ、そんなところに上がっては罰が当たるよ」って。檀信徒と一緒の行動をして、でもそこにきちんとした尊厳を見せている。こういうんだっていうことを位置づけておく。そういう形に自分でなりたくてなるんじゃなくて、自然にそうなっていきます。
 それに、悩みのある人は必ずだいたい覚えています。嫁と喧嘩して死にたいと言って来た婆ちゃんがいたら、まず坐らせといて、そして熱いお茶を持って来て、「どうしたの?」とか話をします。その間二〜三時間、うちの方丈は一歩たりとも本堂に入りません。「また始まったな、うちのお母ちゃん」って見てて。それは協力してくださることになる。それで、檀信徒さんとの心のコミュニケーションができます。
 私は自分の考え方で、生き方で、そういうことをやってきました。宗教とかそういうことじゃなくて、人間対人間として、そして先祖を預かる側と、預ける側とのコミュニケーション。それを形式ばったものじゃなく、もっと柔らかくなっていくといいのかなあって。そうすることで、自然についてくるんじゃないかなって思います。

[佐々木]「これからの寺院仏教の在り方」という、大きなテーマであったのが、今の話で、清水寺さんの寺族というか、奥さんのあり方は、大変参考になります。寺族が出すぎると、方丈さんの影が薄くなるという場合もあるんだけど、ちゃんとそこを意識なさって、自分の役割と方丈さんの役割を、きちっと分けて考えておられる。
 それからもう一つ大事な点は、方丈さんが五〇歳になってから修行をして、修行から帰って来たら、非常に変わったと言われたこと。須弥壇上にあがって本尊様のお掃除をするのは、なぜご住職でなくてはいけないのか。それは、まさに修行であり、その修行が坐禅だとすれば、坐禅から滲み出す、禅定力のようなものが存在するからです。その禅定力が、檀信徒に対しても仏教の核心を突くようなお話になっていき、そしてまたインテリたちに対しては知的なレベルで作用していくわけです。
 こうした禅定力と寺族の問題で、椎名先生、最後にひとことお願いします。

[椎名]禅定力というお話でございますが、葬祭でもご祈祷でも、まさしくそれが一番大事ではないかと思います。歴史的に見ても、禅宗のお坊さんがなぜ民衆から信用されてきたか、何をして一人前の資格を得てきたのかといえば、坐禅が中心なんですよね。その坐禅がなぜ、今は行われていない寺が圧倒的に多いのか? そいうことでは曹洞宗が死んでしまう、と思いますねぇ。住職の力量の基本は禅定力だと思います。
 坐禅会に集まってくる人達も、何かを悟るためじゃない、何か力を持つためじゃない、ということだとですね、目標が定まらない。私はそうじゃなくって、坐禅をし抜いていった先にはみんな、悟りとまでは言えなくても、何かがあるんだ、具わるものがあるんだ、ということが大切だと思います。それは宗門の先輩方、偉大な方々を見ればもう、この通りだという事例はいくらでも指摘できる訳でございます。
 それにはやっぱり住職が自ら坐るということが大事なんですね。人が来ても来なくても坐る姿勢をもって。私は寺離れは必ず進行して行くと思います。これからは、個人が個人を求める時代だと思うんですね。そういう時代に問われるのは、やっぱり寺院住職の力量であろうと思いますね。民衆が聖なる僧を求める基準は、曹洞宗の場合は禅定力であろうと。これを具えている者が求められると風に思います。あの人は坐り込んでるからやっぱり違う、というものがなければ自然淘汰されてしまうんじゃないかな、こういう風に思っております。そういう意味からも、住職たる者は宗教者としての力を発揮して頂きたいですね。

[佐々木]ありがとうございました。今、椎名先生から、今日も中心課題のひとつであったお寺離れ現象は今後、ますます進むであろう、とありました。個人個人の時代だから、個人が寺を選び、住職を選ぶような時代が到来すると。それで、修行を積んだ尊敬されるようなお坊さんと、そうでない人がいるとすれば、そうでない人は自然淘汰されて行くに違いない。私もそう思います。
 そこで、お坊さんらしいお坊さんというのも原点はどこかというと、曹洞宗は坐禅宗であり、つまりそれは坐禅にあると。とにかく坐っているという迫力が、普通の人ではできない霊界の存在を成仏させる。それだけの力が坐禅する身には備わっているのだという言葉は、人を納得させます。力の原点は坐禅にある。坐禅と葬儀や祈祷の儀礼というのは、分離してはだめだということを椎名先生は強調されましたが、私もその通りだろうと考えてるわけです。
 今日はいろいろな立場から話ができましたことを非常に有意義だと思っております。それでは、これで終わりたいと思います。ありがとうございました。