仏教文化研究の課題
――仏教文化の民族宗教性について――(3)
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一、「仏教」への関わり方の差異
あるカルチャー講座で宗教文化について講義していたとき、現代における仏教理解の一例として、生命科学者の柳沢桂子さんの著書から次の文を引用したことがある。
「ひとはなぜ苦しむのでしょう ほんとうは 野の花のように 私たちも生きられるのです もしあなたが 目も見えず 耳も聞こえず 味わうこともできず 触覚もなかったら あなたは自分の存在を どのように感じるでしょうか これが「空」の感覚です」(『生きて死ぬ智慧』小学館・二〇〇四)。
私は右の文を手がかりにして、仏教教理の六根、六境、六識について概説し、「六根清浄」とはその対象である六境への執着・渇愛をコントロールすることであり、そうなれば仏教で言う「苦」は主体的に乗り越えられるはずと柳沢さんは述べているのだと説明した。 この説明について受講者から質問というよりは意見がだされた。
第一に柳沢さんは当代切っての科学者・知識人である。知識人はとかく仏教好みであると言われるが、それはそれで結構。
しかし仏教徒と言われる人びとの層は厚く、さまざまな人がいる。こうした講座において、代表的な知識人の仏教理解が当たり前のようにまかり通るのは、問題ではないか。
第二に多くの人びとにとって日本の仏教とは、各家の死者の慰霊・供養であり先祖信仰である。また寺院では家内安全・無病息災などの御祈祷を行っているところが多い。
そうした寺院で営まれる儀礼や行事と、仏教教理の六根、六境、六識などはどう関わっているのか、関わりがないのかよくわからない……。
右の意見に類似する問題提起は「宗教(仏教)講座」などでは決して珍しいことではない。言うなれば宗教(仏教)に見られる建前と現実の矛盾・ギャップの問題の指摘であり、指摘する当人自身が相当の知識人であることが少なくない。
そしてこの「建前と現実の矛盾・ギャップの問題」に答えるのはそう簡単ではない。
先の柳沢さんの論旨を要約すると「野の花のようにさまざまな対象にとらわれる(執着する)ことのない心・感覚で生きることが「空」を生きることであり、それが「苦」を乗り越えることである」ということになろう。
とはいえ右のような境涯の実現は容易な事ではないことも事実である。釈尊の生涯が示しているように、それは世界と人生への深い智慧と厳しい修行によって実現される境涯であるからである。この境涯を知的言語で「説明する」ことは可能である。だがこの境涯を「生きる」ことは至難の業である。だからこそ「建前としての仏教」と「現実としての仏教」との乖離が生じるのである。
そしてこの乖離・ギャップ現象は、何も仏教に特有のものではない。程度に差はあれキリスト教、イスラームのような創唱宗教・普遍宗教もまた例外ではないからである。
宗教(仏教)における「建前と現実のギャップ」については、すでに本通信でも何度か触れている(『仏教企画通信』一〇号、二〇〇七・一一他)ので、ここで詳述することは省き、肝心なことのみ記したい。
仏教を含む創唱宗教の教義・理念は、壮大な知的体系として築き上げられているので、一般に知識人、文化人好みにできている。その内容は通常の人間生活のありようを批判し、人間の心の深奥に潜む欲望(煩悩)の調御(コントロール)を強調する。それは人間論としても世界観としても文句のつけようのない一貫した論理としてある。これにたいして「仏教徒」(檀信徒)と呼ばれる一般の人びとの多くは、概して自己と一族の安泰と向上を願い求めて仏教に関わっている。人間生活の現状は肯定され、未来に向けて改善され、「幸福」なるものが実現されることを期待して、人びとは「仏」に祈り頼るのである。
仏教の理念は究極的におのれの欲望の調御を目指すが、仏教徒の多くは自分の欲望の実現をこそ切望する。両者間にギャップが生じる所以である。以上、宗教(仏教)における「建前と現実のギャップ」について略述したが、問題はこの先にある。
二、仏教的ダイナミズムの研究
その問題というのは、仏教が実際に機能する、たとえば「寺院の現場」では、これまで述べてきたような建前と現実との乖離・ギャップが深刻かつ重大な危機的状況を作り出すようなことはきわめて少なく、むしろ両者が連繋・結合して宗教的「複合(体)」としてあるという現実である。
どうして分析上、理念上矛盾し乖離するものが、仏教のプロフェッショナルが活動し役割を果たす現場では複合化するにいたるのか。この問題への答えは仏教の教理・理念的な視点からは出難いであろうということはすでに述べた(『企画通信』一五号)。
この問題に答えるためには、第一に「出家」か「在家」か、「欲望制御の宗教」か「欲望充足の宗教」か、「教理宗教(仏教)」か「自然宗教(民俗)」かといった二分論的な見方に立たないことが基本となろう。
そして第二に仏教の現場では「出家」と「在家」、「教理」(仏教)と「民俗」とがいかに関わり合って一つの仏教(宗教)的複合を成しているかを多角的かつ詳細に検討することが不可欠である。
さらに第三に両者の「関わり合い」を可能にさせている「当体」あるいは「根拠」は何かを明らかにすることである。
以上のような視点またはアプローチの立場を本稿では「仏教文化」のそれとしてきた。
それは仏教(宗教)を建前か現実かではなく両者を包括的に問題にする視点または立場であることは、今や自明であろう。
それはまた仏教(宗教)を静態的にではなく動態的に考察・検討することである。「仏教的ダイナミズム」の用語を用いるゆえんである。
そして「仏教的ダイナミズム」の研究に大きく貢献してきたと考えられるのが、欧米の宗教または仏教人類学者たちであった。
彼らは主に東南アジアの仏教地域において、長期にわたり現地調査を行い、たとえば「出家」と「在家」とか「解脱志向」と「利益志向」など理念的には相反し矛盾するはずの二つの宗教形態が、現実には相互依存し合い、「互恵的複合(体)」(reciprocal
complex)としてあることを明らかにしたのである。
しかも、相互間に「互恵性」があるとはいえ、そのことが仏教の「出家性」や「解脱志向性」を侵したり害したりすることがない実に巧妙な仕組みにおいてあることを実証的に説明したのである。この宗教(仏教)人類学的研究の一連の成果について私は、その視点や方法と資料がわが国の仏教文化の研究にもすこぶる有意義と考え、拙著で紹介している(『〈ほとけ〉と力?日本仏教文化の実像?』吉川弘文館、二〇〇二、『仏力?生活仏教のダイナミズム?』春秋社、二〇〇四その他)。
したがって、ここで研究成果の内容紹介を繰り返すことは避け、「動態的」(ダイナミック)なアプローチの特色と有効性に絞って述べてみたい。
一般にスタンダードな仏教研究は第一に仏教の思想や理念に焦点を置くのにたいして、人類学的な仏教研究は仏教者(僧侶=僧伽)の人物、とりわけ生活の仕方を重視する。ありていに言えば、僧侶はどうして合掌されるのか、僧侶の衣食住は誰により供給されるのか、また衣食住の供給者は何のために布施(供給)行為に出るのか、僧侶は布施者にどう対応するのかなどの問題を解くことからアプローチする。
こうしたアプローチを採ると、「出家」か「在家」か、「空」か「霊」かなど二分論的視点では見えない、きわめて動的な「仏教文化」の全貌が顕わになってくる。
この点についてタイ国の上座部仏教の例を見てみよう。
周知のとおり上座部仏教の僧伽(サンガ)に属する僧侶は、戒律により一切の世俗的な仕事から隔離されており、世俗的な仕事は田畑の耕作を含めて堅く禁止されてきた。
このため僧伽自体では経済的な自律は不可能であり、衣食住全般を在家者に依存しなければならない。僧伽の究極の目標は解脱にこそあり、そのためには超世俗的な生活=修行に専念しなければならない。
そこで困難な問題が生じてくる。僧伽は一方では在家者の世俗的な価値(豊かさを含む幸福の追求など)を強く否定しながら、他方では物質的な面を在家者に依存せざるをえないという矛盾である。
この矛盾を解決に導いているのが、「出家」と「在家」の間で共有されている「仏教文化」である。その重要な一つが在家社会に普く滲透している「タンブン」(功徳を積む)という思想である。
ブン(bun=功徳)を積むとは善行に励むことであるが、善行にもいろいろあるなかで最も重視されているのが僧侶(僧伽)への貢献である。僧伽にたいして貢献度が高ければ高いほど、功徳は大となり、その功徳力により当人の願望が果たされるとされるのである。
タイ中央部のバングァード村の農民は功徳を積む方法として(1)出家すること、(2)寺院建設の費用を寄進すること、(3)息子を出家させること、(4)全国の仏跡を巡礼すること、(5)寺院改修の費用を寄進すること、(6)毎日の托鉢に応ずること、(7)聖日に寺参りし八戒を守ること、(8)常に五戒を守ること、(9)カティン祭のとき僧に金品を寄進すること、などを挙げたという(H・K・カウフマン『バングァード村?タイ国の一共同体の研究?』、J・J・オーガスティン・インコーポレーション、一九六〇(原英文))。
右のタイ農民の功徳積み行為が、タイ国の僧侶と寺院の維持と存続を可能にさせていることは言うまでもない。
僧伽は「ナー・ブン」(功徳を生む田圃)つまり「福田」と呼ばれる。福田とは善行の種子を蒔いて功徳の収穫を得ることを意味するが、現実には「出家者」(僧伽)と「在家者」との間で交わされる宗教(仏教)的価値(力)の交換という形で示される。
つまり在家者が僧伽を支援する(種子を蒔く)ことが大であるほど、僧伽から大きな功徳(幸福を生む力)が反対給付(収穫)されるのである。その基盤には「修行者(宗教者)は聖なる力を具えている」との、宗教発生以来の宗教的認識または感覚が社会の側にあると私は考えている。
タイ国においては、修行を積んだ有徳の僧侶ほど大きなブン(功徳)をもたらすとされ、このゆえに有徳の僧に布施が集中するという(小野沢正善「タイ仏教徒の宗教と世界観」、綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいタイ』弘文堂、二〇〇一)。
修行を積んだ僧侶ほど在家者に功徳(利益)を与えるとされるから、在家者は立派な僧侶を選んで布施を行ない、布施された僧侶はそれによってさらに修行に励むから、ますます功徳力を蓄えることになるという「出家?在家」の互恵関係は、すでに釈尊の時代からあったとされる。仏教学者の佐々木閑氏はこう述べる。「一般の人たちは立派な人としての仏教修行者に布施をし、それによって将来の果報を期待する。布施はただのボランティアではなく、あくまで自分の利益のための行為なのである。一方、その布施を受ける出家者は……布施者の期待に応えるような立派な生活を送ることが要求される」(『犀の角たち』大蔵出版、二〇〇六)。
このように、仏教を「出家」か「在家」か、「欲望制御の宗教」か「欲望充足の宗教」か、のような二分論的視点からではなく、両者が現場でいかに関わり合っているかという機能的・文化論的視座のなかで問題にしてみると、両者間のすぐれてダイナミックな機能関係がよく見えてくる。
こうした知見は主に上座部仏教社会の調査・研究から得られたものであるが、大乗仏教に属するこの国の仏教の現場に展開する「仏教文化」の究明にもきわめて有効な視点になりうることは言うまでもあるまい。
とは言っても彼我の間に相当の差異があることも事実である。
上座部仏教では言うまでもなく「出家」と「在家」の間の区分が実に明確である。だから両者間の宗教的関係の構造がよく見えるのである。それにたいしてこの国の仏教は「出家」?「在家」あるいは「聖」?「俗」の区分・理念はあるものの、その意味内容は上座部仏教に比してかなり変質し曖昧化していることは、つとに知られている。
こうした現実について仏教界には「それが大乗仏教の特徴だ!」とひらき直る向きもある。しかしその種の見方が大勢を占めることはない、と私は思う。仏教界や各宗派では若手僧侶を中心に、たえず「僧侶とは何か」、「仏教者とは何か」というテーマの研究会やシンポジウムが開催されているからである。
そしてこの種の集会において「僧侶像」のモデルとして上座部仏教の僧侶の事例が引かれることは少なくない。
上座部の僧侶は、見てきたように在家者の篤い帰依の対象であり、惜しみない布施の相手である。どうしてか。
くり返しになるが、ひたすら仏道に精進して止まない出家者は、在家者の人生の運・不運を変える「力」を有するとの思想が社会の宗教的通年となっているからである。したがって有(高)徳の高僧ほど強い「仏力」を具えているとされるので、そうした僧侶の下に善男善女は雲集する。高僧が仏力をこめた小仏像の護符(プラ・クルアン)は、保持する人を不死身にしたり、幸運をもたらすとされ、高額で取り引きされることがある(前掲小野沢論文参照)。
世俗性を脱却する程度が大になればなるほど、その人物(宗教者)の「力」が反転して世俗に生きる人びとの為になるという「宗教(仏教)文化」の構造と機能は、より注目されて然るべきであろう。この事実はまた、超俗性を喪って世俗化の度合いを深めた宗教(仏教)者は魅力なき人と映るであろうことを示している。