近代に仏教はどう生き残るか

弘誓寺住職 能勢隆之


沈みかけた泥舟

「葬式仏教」と言われながらも、檀家制度と葬式・法事で成り立っているのが、現実の日本仏教である。
 ところが、都市化によって檀家制度の崩壊は止まるところなく進行し、「直葬」に見られるように葬式・法事も不用という考えがこれまた際限なく広まっている。
 これに対して私たちはどう対処すればよいのか。「沈みゆく泥舟」にしがみついている以外ないのか。と言って新しい舟があるのか。

二つの意見と近代

 もはや小手先の対処ではなく、根本的に考え直さなければならない。
 二つの意見がある。
 ○A仏教が葬式をすること自体がおかしい。仏教には葬式はなかった。仏教の本来に帰るべきだ。
 ○B檀家制度の行く末はもう見えている。早く見切りを付けて新しい道を行かなければ将来はない。
 いずれも無視することのできない意見である。
 だが問題は、それが我々にできるかということである。我々は余りにも葬式仏教・檀家制度にどっぷり浸かってしまって、そこから抜け出せない。
 なぜこうなったのかは後に述べるが、もう一つ、より重要なことは、「近代」という時代である。
 これを考察しなければ、日本仏教がどうしてそこに陥っているかの姿も見えず、解決の糸口も見出されないと思う。

近代という時代

「近代とは何か」という問いに答えることはかなり難しい。だが、私の限られた知識の中からではあるけれども、近代に不可欠な次の三つを挙げることができる。
 ?科学。?産業革命。?国民国家成立、このの三つを経ているということである。
 近代にはこの三がある。それ以前にはなかった。この三つを経験した近代という時代は、この三つがなかったそれ以前の時代とは、画然と異なる時代である。
 それ故に、「近代」という時代は、人類がそれまでに経験したことのない「特別」の時代である。
 人類の経験した歴史の長さからは近代以前が圧倒的に長い。時間的には近代などほんの一瞬であが、その近代に、前近代は勝てない。だから後戻りはできない。
 そこに一種の不適応、「混乱」が起こる。それは宗教に著しいが、更にあらゆる分野に及ぶ。
 近代からは、それは「古い」と切って捨てることもできよう。だがそれでよいのか。それは人間そのものを切り捨てることにならないか。だから切り捨てたけれども、人々はどこかに不自然・不満を感じ、困っているのではないか。
 しかも極めて変化が早い多忙な時代だから、日本の近代は既に百数十年を経ているが、「近代という時代」の的確な把握・解明が為されておらず、したがって対応もできていない。そこに近代における「混迷」の原因がある。
 前近代の長い年月の中で人間が行ってきたことは、人間の本質に拘わる人間にはなくてはならないものがあるはずである。
 それが近代によって変わらざるを得なくなったり、捨て去られようとしている。
 それはなぜか。そこに近代の本質が問われなければならない。と同時に、近代・前近代を含めた人間の本質が問われなければならない。
 宗教が近代において体勢を立て直すには、近代を的確に把握し理解することなしには、不可能と考える。

近代と宗教

 まず?を見てみよう。宗教が科学と対立的であることはよく分かる。何よりもまず宗教は「非科学的」なのである。
 科学を経験した近代の人間にとって、宗教は正直言って「分からない」ものであり、「胡散臭い」「いかがわしい」ものである。
 だから僧職にあって葬式・法事にたずさわりながら、自分自身がそれに納得がいっていない。何かいかがわしい、後ろめたいことをしているように思っている。
 だから自信が持てない。僧職なんていやだと思っている。これは一概に不真面目とは言えない。むしろ真面目で正直な人だろう。
 ところが仏教を少し学んでみると、仏教はふつうの宗教と違う。「科学的」である。少なくとも科学と矛盾しない。
 そこで「霊魂なんてものはありません。仏教はもともと霊魂を認めておりません」としたり顔で言う若い僧侶も出てくる(『仏教にもできること』正木晃。大法輪閣)。

真面目な自信喪失者

 ○Aの意見は、これと深く関係している。
 仏教は本来「解脱」とか「悟り」「安心」とかに関わる教えである。葬式をするためにあるのではない。だから「仏教の本来に帰れ」と言うのは全く正しい。
 だが○Aの意見の本音は、「科学」を知ってしまった近代人の「宗教」への不信である。
 霊魂なんて非科学的なものは存在しない。霊魂はないのに、葬式や法事をする意味なんてない。そう思っている。
 だがそれでは、「あなたがお寺でやっていることは何ですか。ほとんどが葬式か法事じゃないですか。お布施を返してください」と言われることになる。
 そこで、不本意だが葬式・法事をやっている、けれども私の本意は、仏教の本来に帰ることですよ、と言いたいのではないか。
 本当に仏教の本来に帰るべきだと思うなら、真剣に仏教を学び修行すればよい。だがどうもそうではないようだ。
 つまり僧職として自分のやっていることに自信が持てない。いかがわしいことをしているように思っている。その「言い訳」をしているのだ。
 自分の生き方に自信がなくて、どうして本当の生き方ができるか。堕落してしまう。仏教の復興などあり得ない。
 その根本原因に「近代」がある。みんなそこで悩み苦しむ。それは不真面目だからではない。
「霊魂」を私たちはどう考えればよいのか。これを我々は、答を見いだせないまま、曖昧に放置して、お茶を濁してきた。
「科学」では「霊魂」は認められない。では「霊魂」はないのか。人間に「宗教」は必要ないのか。
 これは近代科学を経験した者なら、誰でもぶつかる問題である。

仏教と宗教の関係

 実は私自身がそうであった。私は科学的人間であり、宗教など信じられなかった。ただ私は仏教には入ることができた。
 宗教なんて曖昧なものは信じられない。だが仏教は違う。疑いようのない明白さをもって信じられる。私は仏教と宗教を分けて、仏教に参ずることにした。
 ところが切り離したはずの宗教が、仏教の中に入り込んでくる。仏教から宗教を完全に切り離すことができるのか。と言うより、人間から宗教を切り捨てることはできないのではないか。
 では「宗教とはいったい何なのか」。これが私にとって長い間の問題であった。「仏教」と「宗教」とは「区別」しなければならない。だが同時に、深い関係がある。それは何か。
 これを曖昧に放置してはいけない。仏教から宗教を切り離したつもりでも、住職としての実際の活動は、「宗教そのもの」だ。この問題を放置するのは住職として誠実ではない。放置して曖昧なままだから住職として自信が持てない。それでは仏教の復活などない。
 今私が「近代」を論じようとするのは、このことを抜きにしては仏教の復興はないと思うからである。
 近代に不可欠な三つを挙げた中、?は○Aと関係がある。これが今論ずるところである。
 ?は○B檀家制度と関係が深い。これは別の機会に論じたい。

理性至上主義

 この頃あまり言われなくなったが、真・善・美をそれぞれ学問・倫理・芸術に当てはめる言い方があった。
 これで言うと、科学・理性は学問の分野で、真を対象とする。だがそれが人間の全てではない。倫理の分野は、科学・理性の範囲を越える。芸術もまた科学・理性で包みきることはできない。人間は、善悪に対する心も、美を感受し創造する心も持っている。
 つまり、「理性」が「人間の全て」ではないということである。
 ところが、ルネッサンス以降の西欧では「理性」を重んじる。他の動物と人間、「野蛮」と「文明」を区別するのも「理性」である。
 野蛮人は理性がないから、神が信じられない。そういう野蛮人は動物と同じだ。何をしてもよい。植民地にし、虐殺し、残りは奴隷にした。神を信じさせなければならない、とキリスト教を押しつけ、それを「文明を教えた」とした。
 理性至上主義と言ってよい。それは同時に、合理主義でもある。
 カントは「実践理性」という語で「倫理」を論じ、「倫理」にまで「理性」を結び付けているが、ここにも理性至上主義が感じられる。
 だが我々からすれば、倫理・道徳は理性の範囲外で、理性が人間の全てではない、そう考える方が自然で分かりやすい。

理性が人間の全てではない

 明治維新以降の日本は、この西洋近代を取り入れる以外、生き残る道はなかった。そうしなければ、他のアジア・アフリカ・新大陸の諸国のように、植民地にされてしまう。その恐怖心から、必死で西洋近代を取り入れた。
 その中で、理性至上主義、言い換えれば科学万能主義も日本の常識となった。科学の威力は余りにも絶大であった。
 だから現代の我々は、理性で考えたものが「全て」だと思っている。それ以外のものは、迷妄である、いかがわしい、そう決めつける。それに最も当てはまるのが「宗教」である。
 しかもその「宗教」なるものは、西洋キリスト教流で考えた「宗教」である。だから余計ややこしい。
 理性至上・科学万能は今問題に突き当たっている。人々はどこかでそれを感じている。だが、科学技術の絶大な威力のために、科学について行かざるを得ない。
 その中で、「科学とは何か」「近代とは何か」が明らかにされないまま、お預けになっている。本家の西洋でも同じだ。
 従って我々は、「理性で考えたことが全てだ」という思い込みから離脱しなければならない。理性・学問が人間の全てではない。

道徳・宗教・仏道

「理性」以外に、人間には「道徳心」がある。この心から「道徳」が生まれる。
 理性・道徳だけが人間ではない。人間には「宗教心」がある。そこから「宗教」が生まれる。
 ふつう考えられるのは、ここまでだろう。だがそれが人間の全てではない。それは何か。それこそが「仏道」である。
 人間には「宗教心」の外に、或いはその奥に、「求道心」がある。自分では何か分からないが、言うならば「真実の道」とでも言おうか、自分の生きていく本当の「道」を心の奥で求めているのである。
 自分は何のために生きるのか、どう生きればよいのか、そういう問題、その道を求めている。
 「生をあきらめ死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり」。「生」「死」と言うと分かりにくいが、生でも死でも、何と言ってももよい、自分でも分からないが、「何か」を、我々は「明らかにしたい」のである。
 誰かに問うて、答えてほしいのだが、本当は自分に問うしかない。何と問うてよいかも分からない。誰かが答えても、どんなに偉大な権威、たとえお釈迦さまが答えられても、自分がうなずく以外納得できないだろう。
 そんな難しいことを考えるのは止めよう、答などあるものか。そう思っても、矢張り心の奥では、また求めている。
 全ての水が、海に至って始めて止まるように、答を見出すまで、心は彷徨い、この心が安まることはない。それが「安心」の問題である。
 そしてこの人間の「問い」に真の意味で「答え」るのは「仏の教え」以外にない。
 我々が仏の教えに出合う時、「求道心」は「菩提心」となる。そしてそこから「仏道」が始まる。
「菩提心」が発ってみれば、この心は自分に元から具わっていたのである。「仏の心」と言ってもよい。この心が道を求めさせていた。それが求道心だったのである。

三はつながっている

 このように人間は、理性だけの存在ではなく、理性の奥には道徳心がある、そしてその更に奥に宗教心がある、そしてまた更に奥に求道心・菩提心を持っている。
 道徳心は道徳を生み、宗教心は宗教を生み、求道心(菩提心)は仏道を生む。
 道徳心は一般にも分かり易いが、宗教心はその奥にあって分かりにくい。求道心・菩提心は、更にその奥にある深い隠れた心であるから、もっと分かりにくい。
 そしてこれらはともに、理性の守備範囲外の心である。理性で扱えないものは迷妄だとしてこれらを切り捨ててしまうとすれば、人間の最も深く高貴なものを切り捨てることになる。
 道徳・宗教・仏道、この三はつながっている。そして順に深くなる。深いものほど分からない。そして理性で扱えない。だから近代では放置されてきた。
 近代はこれを明らかにしなければならない時に来ている。私は今これを解明することを試みたいと思う。
 付け加えると、仏道は仏道の本来に帰るべきだ、宗教とは関係がない、と思う方があるかも知れない。○Aの考えがそうである。
 だがこの三は、つながっていて切り離せない。実際、人々がお寺に求めているものは、「普通の宗教」そのものである。宗教は関係ありません、私は仏道だけです、などとは言っていられない。
 そこでまず道徳、次ぎに宗教、そして最後に仏道、の順で論じたいと思う。

道徳についての三つの考え

 これまでの「道徳」についての考えは、次の三つであろう。
 第一は、道徳は宗教に基づく、という考え。神さまに見られているなら、悪いことはできない。西洋ではこの考えが強い。神を信じるから道徳的であることができる。「私は無宗教です」と言えば、道徳を否定しているのと同義に受け取られてしまう。
 では日本の道徳は何に基づいているのか。日本では「無宗教です」と言う人が多いが、それは道徳を否定しているのではない。いったい「日本の宗教」は何なのか。よく分からなくなってしまう。
 第二は、孔子さまや孟子さまなどの「教え」に基づいたのが道徳だという考えである。これは日本人ふつうの考えだろう。
 だが、孔子さまの教えで道徳を教えるのか。それはだいぶ古い。それに、これは正しいという道徳があるのか。
 第三は、道徳は権力者が民衆を支配する道具だ、という考えである。マルキストやその影響を受けた人たちの考えで、こう考える人は今も結構多い。
 この人たちは、道徳教育に反対する。忠義孝行、忠君愛国、それで民衆を支配し、戦争をした。
 封建社会・資本主義社会では、社会体制の必然として、権力が民衆を支配し、搾取する構造であり、矛盾と非道徳の社会だ。
 戦争・人権侵害・環境破壊・不平等・貧困、これらはみな資本主義という社会体制の矛盾に由来する。道徳もその社会体制維持の道具だ。我々はそういう道徳を拒否する。
 資本主義社会の矛盾は増大し、社会発展の必然として、やがて社会主義社会が実現する。そうすればあらゆる矛盾は一挙に解決する。泥棒する必要も、嘘をつく必要もなくなる。
 さんざん聞かされたが、それは幻想だった。公害のない北京の空は青く、子供たちの眼は澄んで輝き、泥棒などいないはずだったが、その逆だった。
 社会主義国の実態は、悲惨なものだった。そんな社会などまっぴらご免だ。それでもまだ道徳教育に反対なのか。道徳はどこで教える。道徳はどうなる。
 この三つの考えが全て間違っているとは言わない。宗教も、孔子の教えも、道徳を形作る大きな役目を果たしている。道徳が支配の道具とされた面も否定できない。
 今、道徳教育の必要を、国民の多くが感じ、国民的合意が得られていると言えよう。だがそれで道徳教育を具体的にうまく進められるのか。上の三つの考えでは、何かが足りないように思われる。
 そこで「道徳とは何か」を、改めて考え直さなければならない。
 そこから私の思うことは「道徳は、共同体が作る」という考え方である。この方向から「道徳」に光を当ててみてはどうか。
 だがその前に、「道徳」を生みだす人間の心、「道徳心」を見てみなければならない。

道徳心

「道徳」は人間が、「善悪」を知っている、というところから生まれる。善悪を知る心、これを「道徳心」と言おう。「道徳心」が「道徳」を生む。
 善悪を知る心、道徳心は人間のみに与えられた心である。
「善悪といふこと定め難し」(『随聞記』)とある。我々は、仏の知りたまうほどに善悪が分かっているわけではない。善悪の境目は人によって異なるし、「そのどこが悪い」と言われると返答に困る。
 だが人は善悪をちゃんと知っている。その証拠に、自分の悪事は「隠す」。恥ずかしいのである。
 人間だけが隠し所を持っている。だから下着を付ける。「みんな同じじゃないか。なぜ隠す」と言われても、答えられないが、隠すのが人間、隠さなければサルと同じである。
 悪事は恥ずかしいだけではない。罪を感じる。更には報いを受けないかと恐れる。恥ずかしさ、罪、報い、この相乗で人は苦しむ。それが人間である。
 一方、善事に対しては、人は賞賛し敬服し、自分も従いたいと思う。高祖は「賢を見ては斉しからんと思う」(もと論語の言葉。賢は聖に次ぐ人)と言われる。自分もあのようになりたい、あのようにしたい、と思う心である。
 人間は善・悪を知っている。それだけでなく、善を慕い悪を恥じ憎む。この心を「道徳心」と言うとすれば、人間は誰でもこの心を持っている。
 ところが人間は同時に、非道徳的、反道徳的でもある。なぜか。
 それは人間が「自分中心」に生きる者だからである。自分中心の時は、善悪のことなど吹っ飛んでしまっている。
 道徳的でありたいというのも人間の「本心」なら、自分中心で、そんなこと知るものか、好き勝手なことがしたい、というのも人間の「本心」である。そこに人間の心の相克・葛藤がある。

共同体が道徳を作る

 人間は一人で生きるのではない。必ず集まり、「共同体」を作って生きる。
 働かざる者は食うべからず。働かなければ食っていけない。働く、つまり「生産活動」をするところに必ず共同体ができる。
 だから共同体は、「単なる集まり」ではない。共同体と生産活動は切り離せない。
 共同体の中で、個人がそれぞれ自分中心に勝手なことをやられたのでは、お互いが困る。生産活動がうまくいかない。そこで共同体の中である種のルールができる。それが「道徳」である。
 だから道徳は不変ではない。場所・時代が違えば、共同体も違い、道徳も違ってくる。共同体が変化すれば、道徳も変化する。共同体が壊れれば、道徳も壊れる。
 道徳がうまくいけば、共同体の生産活動もうまくいく。道徳と経済は無関係、あるいは相反すると思われるかも知れないが、それは間違いである。
 日本が経済大国になったのも、日本人が道徳的だったからだ。人間に信頼がなく非道徳なら、生産活動もうまくいかず、製品にも信頼がない。日本の道徳が低下すると、経済力も必ず低下する。
 家庭も学校も、生産活動の場ではない。だから道徳教育は、家でも学校でもうまくいかない。
 企業は学校教育に期待していない。新入社員は行儀もなっていない。採用してから教育する。つまり、生産活動が行われる共同体(職場)の中で道徳が身に付くのである。
 日本人は道徳的に高いと言える。海外に容易に行けるようになって、そのことに気付いた。
 平和な島国、日本は恵まれている。大陸のように根こそぎの殺戮破壊の繰り返しがない。
 そして日本の共同体は、稲作を中心とする農業を基本として作られている。イザヤ・ベンダサンが「キャンペーン型農業」と言っているように(『日本人とユダヤ人』)、一致協力型の共同体は、結びつきがきわめて強い。村社会はうるさいのである。だからその中では勝手なことはできない。
 そこには日本独特の共同体が形作られ、そこで文化・道徳ができた。侍の武士道だけではない、農民、職人、商人、それぞれに高い道徳があり、今もそれが受け継がれている。それが日本の高い経済力の根源である。
 だが近代の産業革命は、生産活動のあり方、したがって共同体そのものを根本的に変えた「革命」であった。そこに大きな混乱がある。道徳もその中に含まれる。ただしそれは?として別に述べる。
 日本の道徳が悪くなっているのも事実であろう。それは古い共同体が崩壊したからで、道徳も従って崩れたのだ。しかも道徳教育は有効に行われていない。
 しかし新しい生産現場=職場にはルールがあり、それは旧来の共同体原理によっている。昔の家や村や藩の焼き直しだ。
 だが職場を離れると共同体の縛りがなくなる。村を離れると「旅の恥はかき捨て」だったように、街や電車では行儀が悪くなり、みんな困ったものだと思っている。

道徳教育は共同体で

 このように、「道徳」の元は人間の「道徳心」であり、その「道徳心」に基づいて、「共同体」が「道徳」を作る。
 宗教や孔孟の教えが道徳の元だと言っても、人間に道徳心がなければ、その教えを感得することはできない。
 だが道徳は、個人の道徳心に止まるものではない。具体的な道徳は、共同体の中で作られる。
 だから「道徳は、共同体の中で作られる」と言うことができる。
 そこではもちろん、個人の資質、すなわちその人に具わっている道徳心の質が大きく関わっている。だが人の人格は、共同体の人間関係の中で形成される。
 だから道徳から共同体を除外することはできない。また共同体から生産活動を除外することはできない。そして生産活動の中で道徳が身に付く。
 実際、若者も就職すると挨拶ができるようになる。「よろしくお願いします」「お世話になります」と言うようになる。職場という共同体にとけ込んだ証拠である。
 家庭・学校での道徳教育も、このことを踏まえればよい。教育とは、職場で仕事ができる実力を付けることだ。人と付き合う力、道徳の教育は行われて当然である。
 道徳は権力支配の道具だ、などという古い思想はもう無意味である。道徳教育を否定する必要など、どこにもない。

宗教心

 道徳心の、善を慕う心が更に進むと、「聖」なるものを「拝む」という心になる。これが「宗教心」である。この宗教心から「宗教」が生まれる。
 人間の「宗教心」を見ようと思えば、人が死者に対する時、端的に現れる。
 科学・理性からすれば、死者の遺体は「物質」でしかない。だがいかなる科学原理主義者も、その遺体を単なる物質として扱うことができるであろうか。
 もしそれができるとすれば、彼はよほど無理をしているか、そうでなければ人間性を欠いている。
 人間は遺体に対して、ふつうごく自然に、物質を越えたある種の精神的なもの、「魂」とか「霊魂」とか言われるものを認め、遺体を単なる「物質」として扱うことはできない。
 アフガニスタンの洞窟でネアンデルタール人の骨が多くの花粉と共に見つかった。遺体を単に埋めて処理したのではなく、花を捧げた、「葬った」のである。
 学者は、ここにサルと人間の違いがある、と言っている。全くそのとおりである。
 母ザルは、死んだ我が子がミイラになっても離さない。母の子への愛情は人間と変わらない。だがあきらめた時は、そのまま捨て去る。人間との大きな違いがある。
「葬る」心の中には、悲しみや愛着、死者への恐れなど、様々な心があるだろう。だがその中には必ず「拝む」心、日本で言えば「掌を合わす」心があるはずである。
 この心は、理性の心でも道徳心でもない。「宗教心」である。
 この心は、旧人と言われる数万年前のネアンデルタール人の時からある。新人であるホモサピエンスより前の人類である。
人類が数万年にわたって持ち続けた「宗教心」が、わずか数百年の近代科学によって無くなると考えるならば、その方がよほど非科学的であろう。


  (次号に続く)