仏教文化研究の課題
――仏教文化の民族宗教性について――(4)

  駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹

一、仏道修行の意味するもの

 「仏教僧侶はなぜ多くの人々から尊敬(崇)され合掌されるのか」。「僧侶はどうして人々の布施や供養の対象になるのか」。
 右のような問題または疑問を提示して、これを討議し深めようとする傾向は、今日にもあるにはあるが数多いとは言えない。現代の「仏教とは何か」についての論議は喧しいが「僧侶とは何か」を正面から問う営みは比較的低調である観がある。
 これは考えてみるとおかしな話である。なぜなら、「僧侶」抜きの「仏教」などありえないことであるし、もしありえたとしても、それは当該時代・社会に意味をもたない(歴史上は意味をもったにしても)「宗教」であるというになろうからでさる。
 冒頭に掲げたような問題や疑問がまともに取りあげられることが少ないのは、あるいは現代における僧侶の存在意義と役割が、かなり低下していることを示しているのであろうか。
 実は、多くの人々から尊敬・合掌される僧侶と、布施・供養される僧侶との関係についてはすでに『仏教企画通信』の前号(16号)において、タイ国の事情を例に述べてある。
 これから記すことと関連する事項なので、あらためてその骨子をここに挙げておきたい。
 (1)タイ国の上座部仏教に属する僧侶(比丘)の究極の目標は解脱にあり、彼らはそこを目指してひたすら仏道修行につとめる。
 (2)僧侶は戒律により一切の世俗的な仕事を禁止されているから、衣食住の全般を在家の人びとの布施に依存しなければならない。
 (3)在家の人びとは、仏道修行に専念する有徳の僧侶は「仏力」を具えており、その力が人びとの運・不運を左右すると信じている。
 (4)そのため有徳の僧侶は人びとの尊敬を一身に集め、手篤い布施と援助の対象となる。
 他方、僧侶に布施する人びとは、布施が多ければ多いほど功徳(力)を積むこととなり、仏力の恩恵に浴することになる。そして布施を受けた僧侶は、生活を支えられてますます修行に励むから、仏力はいよいよ高まることになる。
 (5)逆に修行に専念しえず、超俗性を高めえない僧侶は、人びとの尊敬を失い、布施がえられなくなる。
 つまりタイ国では、僧侶の「仏道修行」と人びとの「布施行」とは、表裏の関係にあると言ってもよいような構造を有するというのである。
 さらに両者の関係を基礎づけているのは、宗教的「力」の観念または信仰であるという事実が見えてくる。
 この仏道修行者(僧侶)が修行により蓄える「仏力」とこれを求める人びとの「布施力」(功徳力)とのすこぶる密な関係の問題は、わが国の仏教文化研究においても少なからぬ意味をもつように思う。
 上座部仏教と大乗仏教とでは、僧俗関係のあり方や生活の仕方にかなりの差異があるのは事実であろう。
 とは言え「僧侶はなぜ人びとから尊敬・合掌されるのか」、「僧侶はどうして人びとの布施・供養の対象になるのか」という問題は、上座部と大乗とを問わず共通性をもつと私は考えている。なぜなら、この問題は「出家」と「在家」、ひいては「聖」と「俗」という宗教の根幹に関わる問題と強く結びついているからである。出家/在家、聖/俗は上座部、大乗に共通の問題ではないとは言えまい。
 僧侶は仏道修行者であり、一般の人びととは異なる資質と性格、換言すれば宗教的な力(仏力)を具えているとの人びと(社会)の共通認識があってこそ、人びとは僧侶に葬儀や祈祷の主宰を依頼するのではないか。
 最近、葬儀や戒名にかかる費用が問題になっており、大都市では無宗教葬ならぬ「無僧侶葬」が増えているというが、この問題は僧侶のもつ「仏力」が以前ほど人びとの心を動かさなくなったことと繋がってはいまいか。それはもしかするとタイ国の例で示した「超俗性を高めない僧侶は、人びとの尊敬を失い、布施がえられなくなる」という事実と連動しているのではないか。
 もしも右の疑問が少しでも当たっているとすれば、現代における「仏力」を捉えなおしてみることは、そう意味のないこととは言えまい。

二、宗教(仏教)者と「力」

 いつの頃からか「力」という文字が新聞や雑誌に躍り出るようになった。「政治力」や「経済力」、「企画力」、「語学力」などは、いわば使い古された常套句であるが、最近では「人間力」、「仕事力」、「文化力」、「建築力」などが目につくようになった。これはいかなる理由・背景があってのことであろうか。
 なにやらこの国の経済力、政治力の総体的な低下、端的には景気の悪化現象と結びついているように思えてならない。「〜力」の頻出は国内的にも国際的にも「国力」が低下しているのは事実だが、しかし日本にはまだまだ各分野に潜在「力」があることを国レベルで暗示あるいは誇示するための社会的動向であるとも推察される。
 それにしてもこうした社会的動向のなかにあって、仏教に関係する力、たとえば「仏力」、「法力」、「行力」、「定力」、「信力」などの文字があまり使用されないのは、どうした訳であろうか。ちなみにこれらの文字・用語はすべて『広辞苑』(岩波書店)に収められており、決して特異な語彙ではない。
 これらの文字が人口に膾炙しないということは、あるいは現代の仏教または仏教者の「力」の低下、あるいは衰退を示す徴候かもしれない。
 もしもそうであるとすれば、仏教にとって事態はかなり深刻である。人びとにとって仏力・法力・行力・定力・信力などと表示される「力」は、宗教(仏教)と宗教者(仏教者)だけが具えている特異な「はたらき」(機能)であるからだ。
 先にも触れたが、どうして人びとは死者(霊)を仏国土に送るのに僧侶を必要とするのであろうか。答えは「余人をもって替え難い」からである。なぜ替え難いのか。葬送の営みには、政治家の政治力、経済人の経営力、文化人の文化力では役割を果たしえない、僧侶(宗教者)のみが有する力、すなわち「仏力」が欠かせないからである。
 この力を具えた僧侶を人びとは「あのお坊さんは有り難い」とか、時には「和尚さんから力を頂いた」などと表現することがある。逆に「あのお坊さんからは引導を渡してもらいたくない」と告白する人びともいる。
 宗教(仏教)のもつ「力」は人びと(社会)によって認知・感覚されるものであり、宗教(仏教)者みずからがその具有者たることを誇示すべき性格のものではない。宗教(仏教)のもつ「力」の評価は実に難しい。
 神仏の効験や利益を説き、多数の信者を集めて巨億の不当な富を得たとして告訴される宗教集団は少なくない。こうした霊感商法的な宗教は論外だが、宗教(仏教)は現代人にとってそれほどに「力」をもつ文化であることに目を背けてはなるまい。
 そうした「低俗な宗教者」と一線を画するのあまり、宗教的な「力」からは距離をおき、専ら高邁な哲学的人生・社会論を説く宗教(仏教)者が増えるとすれば、それは宗教(仏教)にとって実に危険な兆候であると言えよう。
 人間の生死をめぐる人生・社会論ならば、宗教(仏教)者以上に巧みに説ける一般の人びと(俗人)は世間にわんさといるではないか。
 僧侶のなかには「自分は袈裟を身につけてはいるが、皆さんと同じ”普通の人間”ですよ」と、しきりに「普通」を強調する人がいる。愚かな表現である。同じ普通の人(僧侶)に対して、どうして普通の人(俗人)が合掌し布施をする必要があろうか。
 現代社会から「仏力」、「行力」など「力」の文字が消えかかっている理由は、この辺にもあるのではないかと思う。
 ところでさきにタイ国の上座部仏教の事例から「在家の人びとは仏道修行に専念する僧侶は”力”を具えており、その力が人びとの運・不運を左右すると信じている」とし、だから一般の人びとは幸運を求めて僧侶に布施するのだとした。
 「仏力」を考える場合、このところが実は問題になる。具体的には修行者に布施をする在家者・信者たちの布施をする動機、・理由についての問題である。それには大別して二つある。
 一つは、仏道修行に専念する僧侶は一般の人びとよりも人格が高貴で、行動が誠実かつ智慧を具えている。だから布施をする価値があるという社会通念があるから、布施が成り立つという解釈(たとえば佐々木閑『日々是修行―現代人のための仏教一〇〇話』筑摩書房、二〇〇九)。
 他は、僧侶は世俗の生活を離れて仏道を実践し、戒律を遵守するから、自動的に力を具えるにいたる。人びとは他の力ある諸存在(仏像・経典など)と同様に僧侶に布施をすることにより、その力を得ようとするという見方(たとえばN・タンネンバウム『世界に対抗できるのは誰か―シャン族の世界観における守護力―』アジア研究協会、一九九五)。
 僧侶の仏道修行と在俗の人びとの布施についての両者の見方は、基本的に同じ視点に立っている。僧侶が仏道修行に専念する人たちであるから、布施に価するという見方では、両者に差はない。
 しかし僧侶の何にたいして布施をするのかという、布施行の理由・動機について、両者の解釈は大きく異なる。
 前者は、修行僧は一般の人びとよりも「人格高貴、行動誠実、智慧者」であるから、人びとの布施の対象となるとしているのにたいして、後者は、修行僧は「超俗生活、仏道実践、持戒者」であり、「仏力」の所持者であるから人びとの布施に価するというのである。
 両者の差異点は「仏力」の一点にある。
 前者は、仏道修行者の超俗的な姿形とみずからが具えた智慧に人びとが感じ入って、布施をするのだと解釈する。
 後者は仏道修行者は「仏力」をもっているから、人びとはそれにあやかって布施をすると見る。
 「修行」と「布施」との関係に関する解釈や見方に、どうしてかくも差異が生じるのであろうか。これは重要な問題であり軽々な判断は危険であるあが、若干の私見を述べてみたい。
 前者の佐々木閑氏は仏教学者であり、釈尊の生涯と思想(教え)の研究を通して”本来の仏教”の姿を明らかにしようとしている。「絶対者(神)の存在を欠いても、法則性の世界で最高の自己を実現することができるというのが仏教のおおもとの理念である」(『犀の角たち』大蔵出版、二〇〇八)と説く氏にとって、僧侶の属性としての「力」は認め難い概念であろう。
 他方、後者のタンネンバウムは人類学者であり、タイ国シァン族の現地調査により、一般の人びとの仏教信仰の特質に迫ろうとしている。そして人びとが僧侶(仏教)に願い求めるのは「守護力」(Power-Protection)であると帰結する(『前掲書』)。
 このように記すと、両者の間に決定的な断絶があるように見えるかもしれない。いわばテクスト研究とコンテクスト研究との差異である。
 ところが必ずしもそうとは言えない。タンネンバウムは大要かく述べているからである。「シァン族の高僧は次のように説いた。人びとが利益を求めていかに僧侶(仏教)に力を求めようと、所詮人間は生老病死の法(法則性)に対抗することはできない」(『前掲書』)と。
 この部分は佐々木氏が述べていることとよく重なる。
 したがって両説のいずれが正しいかという二者択一論では「仏教文化」の問題は済まない。現実は、「本来の仏教」の理念を説き続けるためにも「僧侶の仏力」が欠かせないということではなかろうか。