対談 仏教寺院(教団)の現在と未来

対談者
島田裕巳(宗教学者)
千代川宗圓
(曹洞宗迎福寺住職)
藤木隆宣
(仏教企画代表)

司会
薄井秀夫(寺院デザイン代表)


島田裕巳(しまだ・ひろみ)
昭和二十八(一九五三)年、東京都生まれ。宗教学者、文筆家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授を経て、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員。主な著書に、『創価学会』(新潮新書)、『新宗教ビジネス』(講談社)、『戒名』(法蔵館)、『日本の十大新宗教』(幻冬舎新書)など。

千代川宗圓(ちよかわ・そうえん)
昭和二十五(一九五〇)年、岩手県生まれ。曹洞宗天長山迎福寺(千葉県印旛村)の三十世住職。駒澤大学仏教学部在学中から、自由民主党の故・山村新治郎代議士(運輸大臣、農林水産大臣などを歴任)の書生となり、のち秘書となる。その間、二十七歳にして、航空業界で起業。航空運行支援会社を経営し、日本航空系企業の取締役も務める。


一般社会と寺との隔たりを、どう埋めてゆくか

藤木:本日は両先生ともお忙しい中ありがとうございます。私自身も仏教界の中の一員でありますけれども、果たしてこの仏教界というものが蘇ることができるのか。あるいは今のままで良いのかどうか。良くないとすれば、どういうところを直すべきなのか。といったところについて、今日はご意見をいただきたいと思います。
 千代川先生は、ブログ等で仏教界の様々な問題について調査をされたものを発表されたり、意見を述べたりされています。今の仏教界のぬるま湯につかっているというか、世間とはかなりズレたところに対して、刺激となるようなご意見をいただければと思います。また島田先生は、宗教学の立場から幅広くこの仏教界を見ていらっしゃいます。仏教界の外側から見た、有益なご意見をたくさんお持ちだと思います。
 お二人の先生方からは色々と情報を具体的にいただきながら、話合い進められればと思っていますのでよろしくお願いします。

司会:それでは島田先生からお願いします。今、お寺と社会の間にどのようなギャップがあるのか、そのギャップはどのような形で表面化しているのか。先生は、今までに色々な形で仏教界を見ていると思いますけれども、その中で感じたことをお話しいただければと思います。

島田:それでは、まず個人的な例から述べます。もともと島田家は、栃木県の佐野にありました。私の祖父母は東京に住んでおりましたけれども、戦争中に祖父の実家がある佐野に疎開をしていました。その時に祖母は「お寺さんは非常にあこぎで、金儲けばかり考えている」といったような印象を受けたらしいです。
 それで、祖父が亡くなった時に東京のお寺に新しく墓地を求めたのですが、「戒名はいらない」と言って俗名のまま葬られました。お寺さんの方も、こころよく受け入れてくれて、その後、それが我が家の慣習のようになってしまいました。祖母自身ももう亡くなり、私の父も二年ほど前に亡くなりましたけど、皆、俗名のまま葬られています。このことは私が『戒名』(法蔵館)という本を書くきっかけにもなりました。
 もう祖父が亡くなってから五十年近くになりますので、お寺さんとのつきあいもかなり長いんですよね。住職さんも、もう三代目になります。「戒名なしで」と、勝手なことを言っているにも関わらず良好な関係でお付き合いさせていただいています。別にこちらから文句を申し上げるような出来事もおこりませんし、ちゃんと供養もしていただいていますので、特にギャップを感じるようなことは個人的なレベルではありませんね。
 ただそれはもしかしたら例外的なことかもしれません。色々とギャップがあるという話も多くの方から聞いていますので。お寺さんとのつきあい方についてのルールのようなものが、現代の日本では教育もされないし、知識としてもあまり伝わってきません。そもそもお寺とは何なのか、供養していただくとはどういうことなのか、そういうことが一般の方にはなかなかわかりにくくて、わかりにくいがゆえに色々と混乱とかトラブルが生じてくる場合もあると思います。
 もう一例だけ言いますと、母方の方は多摩霊園に墓地がありまして、特定のお寺さんの檀家にはなっていません。それで、宗旨に関してはかなりいい加減なところがあります。死者が出るたびに葬儀社にお願いして、お寺さんを紹介していただくのですが、その度に宗派がまちまちです。私が三人分の位牌を見たら戒名がすべてバラバラでした。なんとかしようと、いちおうは言いましたけれど、そのまま、夫婦でも宗派が違うようなことになっています。
 この前、その母方の叔父が亡くなり、ある宗派のお坊さんに導師をお願いしました。私は通夜に行っていないので詳しくはわかりませんが、そのお坊さんの説法が、どうやらうちの家族には評判が悪くてですね、珍しく怒っていました。否定的なことばかり言うので「そんなことを言われる筋合いはないと」いうことでした。
 普段まったくお付き合いのないお坊さんがされた説法ですから、そういうことも起きてくるのだと思います。お付き合いのないお坊さんに葬儀を頼むことも東京ではかなり多いのが現実ですから、こういった例は多いのではないでしょうか。そして、それがきっかけでお寺さんへの不信がでてくる可能性はあると思います。一般の庶民の感覚から言えばそういうところが問題なんじゃないかと思います。

司会:菩提寺を持たない方が、今は都内に半数以上いると言われている中で、島田先生のお話は、東京に住んでいる人の典型的な例だと思います。千代川先生はずっと実業家としてやってこられて、今は僧侶として活躍されています。今のお話をふまえて千代川先生のご意見をお聞かせ下さい。

千代川:島田先生が言われていることはごもっともですけど、まず、日本の既成仏教教団が今の衰退した状況を招く元凶になっている檀家制度について述べたいですね。檀家制度ができたのは、寛文5年だと思います。徳川幕府がキリスト教を禁制にして、寺請制度を作り、お寺を戸籍係や身元調査等々に使うようになった。今のお寺と檀家さんの関係はそこからスタートしてきています。
 その時から、人々は自分の宗派を選べなくなりました。その地域のお寺に属するしかなくなった。属したお寺が、たまたま曹洞宗であったり、浄土宗であったり、それは強制的に決められました。それと同時に、お寺は寺領を与えられて生活が安定してきた。そして、その時から日本の仏教は衰退をはじめたわけです。僧侶が勉強をしなくなったのもそこからなんですね。そして、一般の人に対して仏事や仏教についての説明もできなくなった。する必要もなくなったということかもしれません。ここでいう説明というのは、一般の人にわかりやすく行う説明のことで、僧侶どうしで議論するような難しい説明のことではありません。
 私は最近、『坊主の常識は世間の非常識』という本を書きました。非常にセンセーショナルな内容の本ですが、この本の中で、檀家制度の問題も、お戒名の問題も書いています。先ほど島田先生から、一般の人がお寺や供養について理解する機会ない、という話が出ましたのでそれに関連して述べましょう。たとえば「戒名とはいったい何なんだ」という疑問が多くの人にはあります。
 私はこう説明します。「仏の旅に出る時に、血脈をパスポートとして持って行く、そのパスポートに書いてある名前が戒名です。仏の世界では俗名は通用しないらしいので」と。この説明はよく理解してもらえます。一般の社会で行われていることにあてはめて仏事や仏教を説明するとよくわかってもらえる。正しい説明かどうかはわからないけれども、一般の人に理解してもらうためには、説明の仕方を工夫することが必要だと思います。
 それから、お寺の問題点として、上から下を見るような姿勢で檀家さんに対する傾向があります。その姿勢が、お寺と一般社会を隔ててしまうのです。同じ目線になれば、同じ立場で物事を理解できるようになります。お寺と檀家さんの信頼関係はコミュニケーションによって築かれるのです。同じ立場で物事を理解しなかったらコミュニケーションもとれないでしょう。
 私は五十五歳で晋山式をしてから本格的に住職をはじめましたが、それまでは実業界で生きてきました。住職になってまだ四年です。しかし、その間ずっと世間さまがお寺に何を求めているのかを考え、調査をしてきました。企業であれば、マーケティングリサーチをしてお客さまが望むものを提供するが当たり前ですよね。お寺も同じことだと思います。人々がお寺に求めているものを提供するのが当たり前です。
 さらに、どんなことを発信すれば世間さまから信頼を得られるのかを調査し、提供しなければなりません。お寺の檀家にならないで、公営の霊園などにお墓を持つ人が多い。それは、檀家になると寄付を要求されると思っている人が多いからです。だったら、寄付を要求することを止めるのは当然ですし、寄付を要求しないということを発信していかければなりません。私のお寺の看板には「当山は寄進は一切いただきません」と書いてあります。

藤木:特に最初の出会いが肝心だと思います。通夜や葬儀で初めて出会う人たちには、私は自分の宗派である曹洞宗のこと、戒名のこと、それから仏事のこと、そういったことについて、きちんと話をさせていただくようにしています。
 それから、お経を一緒に読むということを、この二十年間必ずやっています。都市部では、お葬式の時に戒名をいただいて、それが終わるとそれ以上の関係性を持たない、あるいは持たなくても良い、持ちたくないと考えている人が多いと思います。それを打破するために、一つの入り口として、一緒にお経を読むということを続けているのです。わかりやすいお経があるということを知っていただき、仏教に関心を持ってもらうための、一つのアプローチの方法です。
 こうしたことを続けていると、葬儀で出会った人たちとの関係がその後も続くこともありますし、私自身が気づかされることがたくさんあって、勉強にもなります。

納得のうえで、布施をしていただくことの重要性

司会:お寺と社会の間にあるギャップについて、また、そのギャップをどう解消していくかについてお話しいただきました。そこで次に、一般の人になかなか理解してもらえない布施についてお話をいただきたいと思います。特に戒名のお布施については、色々とトラブルを起こすことも多いようで、お寺に対して不信感を抱いてしまう大きな要因にもなっているようですが。

千代川:先ほど島田先生が、お戒名がバラバラに付いている例をあげましたけど、私はそれでも良いと思います。仏の世界には、菩薩と如来しかいません。宗派の違いは仏の世界に登る道の違いにすぎません。カタカナの戒名であっても私は良いと思っています。学問的に捉えたら問題はあるかもしれませんね。でも、一般の人に学問的に戒名を説明しても理解できないでしょう。そもそもお坊さんが理解できているのかわからないです(笑)。私は若い坊さんとよく話しをしますが、「大学で戒名について学んだことがありますか? 僧堂で学んだことがありますか?」と聞くことがあります。「ない」と答えます。学問として戒名を教える機関はないのです。それで、師匠に習うわけですけど、師匠も理解しているかあやしいです(笑)。
 私の寺には、自分で戒名をつけて持ってくる人もいます。私は、それはそれでいいとします。戒名は自分で好きなのをつければいいと。けれども、私はこの戒名をつけてみたよ、こっちはどうだろうと見せます。すると、こっちにして下さいとか、そういうことになることもあります。話し合いで決めればいいんです。お互いに納得いく形で。つまり私が言いたいのは、お坊さんも世間の目線に立って、檀家さんや信者さんと話しをすれば、寺檀トラブルなんて起きません。お寺から人が離れていくってなんてことはないのです。

島田:一般的には、やはり説明が足りていないのでしょうね。お坊さんに葬儀をしてもらって戒名をつけてもらって、いくらですかと聞くと、最初は「これは気持ちの問題ですから」と答えます。それではわからないので、もう一度聞くと、「目安として、これくらいの人はこれくらいされてます」と答えると思います。
 しかし、布施が何かということを檀家の方はよくわかっていないわけですから、本来はまず布施について説明しなければならないはずです。そして、お寺を維持するためには布施は必要なものであることも説明しなければなりません。全体的な仕組みを説明して納得してもらわないと、ただ目安ということだけを言われても、目安にただ従っているだけで一番大切な納得するということが欠けてしまいます。
 日本の社会は納得社会で、納得しなないと人間は動かないわけですよ。多数決で決めてもだめです。会社にしても社員それぞれが納得して動かないとだめなんです。そうしないと業績は上がりません。それが日本の社会の特徴なんですよ。ですから、いかに納得してもらうかが重要です。納得して布施をしてもらえば、お寺さんに対する不信感は生まれてきませんし、批判さえることもないはずです。

千代川:その通りだと思います。大事なのは世間の感覚です。お坊さんの感覚に世間を合わせようとするのではなく、お坊さんの方を世間の感覚に合わせれば良いのです。世間の感覚で説明すれば納得してもらえます。

皆に元気をつけてやるのがお坊さんの仕事

司会:次に現代社会におけるお寺と僧侶の役割についてお話しいただきたいと思います。先ほど千代川先生から「人々がお寺に求めているものを提供するべきだ」といった意見を伺いましたが、人々はお寺や僧侶になにを求めているのでしょうか。

島田:たとえば、世の中の常識だとか当たり前の発想というものがあると思いますが、そういったことに縛られて悩んだり苦しんだりしている人は多いですよね。自分というものは何かということもよくわからなくて、まわりから言われている評価とか社会的属性とかで自分自身を縛っている。自分はこれだけの学校しか出ていないとか、これだけの企業にしか勤めていないとか、この程度のことしかできないとか。だいたいマイナスに自己評価をおいてしまいます。しかし、多くの人の自己評価は低すぎます。低すぎることによって自分が持っている可能性を活かせなくなくなっている場合が多いです。それを変えてあげるのも、お坊さんの役割ではないかと思います。
 それは他人でなければできません。自分ではできないものです。しかも世間からちょっと離れたところにいて、利害関係も何もないところからアドバイスをしてあげることが大事なのですが、そういう人がなかなかいないわけです。こうした役割を担うのは、お坊さんがまさにうってつけなのではないでしょうか。自己評価が変わることによって、劇的に人生が開けてくることも多いと思います。

千代川:この間、「相談に乗って下さい」と、深刻な顔をして私のところにみえたご夫婦がありました。その家にはお墓が二つあるといことで、墓相の本を読んだら、それは非常に良くないと、それが原因でさまざまな災いが降りかかるというようなことを真剣に悩んでいました。
 そこで私は、あなたたちはどうしたいのかと聞きました。そして、あなたたちのやりたいようにやったら良いと、それであなたたちの気がすむならそうしなさいと答えました。そして、「それがあたなたちの選んだ道なのだから、後は自信を持って生きることが大切なんだ」と言いました。

島田:ちょっとした後押しですね。

千代川:そうです。それが救うということだと思います。その夫婦はたった一冊の本で悩み苦しんでしまったのです。墓相学とか、風水とか色々と言う人がいますが、墓相学って大学で勉強しましたか。しませんよね。それほど大切だったら大学で教えてくれるはずでしょう(笑)。皆に元気つけてやるのが信仰。皆に元気つけてやるのがお坊さんの仕事だと思います。

島田:幸いなことに、日本の社会は豊かですよね。色々なものが整備されています。日本の社会で解決できないような悩みは、そうそうあるわけではありません。大概のことはちょっとしたことでほぼ解決しますが、そのちょっとした部分に気がつかなかったり、自信がなかったりするわけです。
 他の国の社会に較べたらはるかに有利です。本当にどうにも解決できないことや悩みを引きずって生きていかなければならない社会なんて世界にはいっぱいあります。それに較べたら簡単に解決できますよ。ほんの少しアドバイスをしてやればいいのです。

千代川:私はフィリピンのスラム街に行ったこともあります。ゴミの山があって、子どもたちが、ゴミ拾いをして生活しているところです。そこにある教会のミサに出たら、神父さんの話を子どもたちがものすごく真剣に聞いていました。子どもたちは、必ず同じ時間に話しを聴きに行って、最後に食べるものをもらって帰るんです。教会に行かないと生きられない、食べられないから子どもたちは一所懸命に教会に通います。
 日本の子どもたちは、お寺に話を聞きになんか来ません。お寺で饅頭をやると言ったって来やしませんよ。それだけ日本というのは信仰の必要のない国なんですよ。それが現実です。
 それでも、日本はこれだけ仏教徒の多い国です。お坊さんは、偉そうなことばかりを言っているのではなくて、生活に密着した話をすれば良いのです。そして皆さんに納得してもらえれば、信者さんや檀信徒は必ず増えますよ。何も悲観することはありません。悲観するのは自分に自信がないからです。実際に私の寺は増えています。

司会:どのくらい増えたのでしょうか。そして、具体的にどのような方法で増やしたのでしょうか。

千代川:私の寺は千葉県の印旛郡にあります。駅で言うと北総線の印旛日本医大駅で、人口の急増地帯です。もともとの檀家さんは二百軒ですが、今はお盆になると六百人以上が必ず来ますね。春と秋の彼岸が二百五十人くらい。お施餓鬼になると本堂をあふれ出ます。檀家さんの他に信者さんが千人以上いて、毎日のように増えています。
 今までのお寺は地域に飛び込んで行く努力をしていないでしょう。それに宣伝もしない。私は地域新聞や、折り込みなどで宣伝をしています。駅にも、「仏事でお悩みの方ご相談ください」という広告を出しています。インターネットでもやっていますし、お寺の便りをはじめ、さまざまな印刷物も刊行しています。
 それに先行投資だと思って資金を投入して、お寺の建物を修繕し、設備も整えました。お寺に来る近所の人たちの意見を聞いて決めたことです。本堂は椅子にして、空調も完備しました。脚が痛くて、暑くて寒かったら誰も来ませんよ。来やすい環境を作ることがまず大事です。
 お爺さんお婆さんも当然来ますが、私のお寺には、小学生・中学生・高校生も多く来るという特徴があります。なぜそういうことができるかというと、先ほども説明しましたけど、分かりやすく話すからです。そうすると、分かりやすくておもしろい話をしてくれるお坊さんがいると口コミで伝わります。
 私は法話が終わると必ず質問を受けます。一方的に話すだけではありません。この間は、茶髪の女の子が、「方丈さん、方丈さんの話を聞いていたら、亡くなった婆さんが今こころの中にいるんだよね、今、私は婆さんに怒られた」と言って泣き出しました。私は「それがご供養だ」と説明しました。登校拒否の子も来ます。そして、そういう子たちが必ずお彼岸、お盆に来てお線香をあげて焼香するようになるんですよ。
 住職になってたった四年ですよ。新米の私にここまでできるんですから、他のお坊さんもやる気になれば、もっともっとできるのではないでしょうか。

これからの寺院活動と布教

藤木:この間、ある有名寺院へ取材に行きました。そこは以前なら、普段の日でも一般の参拝者が多い寺院でしたが、今は閑散としてしまっていました。もちろん、お正月など、年に何回は人がどっと押し寄せることはありますが、普段の日はほとんど参拝者はいません。当然、収入が大きく減っていますから、なかなか大変な状況にあるようです。これは一例に過ぎませんが、今の仏教界が置かれた状況の一面を表しているように思えるのですがいかがでしょう。

千代川:全国に、お寺は七万六千から八万カ寺あります。お坊さんはだいたい三〇万人くらいいます。比較のために挙げれば、警察官は全国でだいたい二十九万人くらいです。コンビニエンスストアは三万八千店くらい。歯科医院は四万五千ほどです。
 コンビニは潰れています。歯科医院は高額な医療機器リース費用で破産しています。なぜお寺は破産しないのでしょうか。私はこういう話も、法話でするんですよ。そして私は、うちの寺が危機に陥ることは絶対にありませんと言います。まったくそんな心配はしていません。努力しているからです。
 しかし努力していないお寺は潰れるでしょうね。そもそも日本に、お寺が7万も8万も必要なのでしょうか。これからは、お寺の吸収合併、M&Aもあるかもしれません。

島田:地域的な偏りもありますね。都会にはお寺が少ないわけですから。

千代川:そうです。企業なら経営不振の会社は自然淘汰されていくわけです。お寺の場合も、M&Aで吸収合併して経営が成り立つような大きな基盤を作る。そのくらい大胆な発想でなかったら日本の伝統仏教教団は駄目になりますよ。

藤木:これからの布教活動や、寺院活動の活性化ということに関してはどうお考えでしょうか。お盆やお彼岸にお寺に来る人の数もかなり減ってきてしまっているように思えますが。

島田:布教の余地はいくらでもあると思いますね。たとえば、栃木県の佐野には佐野厄除大師があります。今のように有名になったのは、厄年の人にダイレクトメールを出して厄除けをするということをはじめてからですね。以前は今のように個人情報の扱いが厳しくなかったからできたのですが、それでも、周りからは顰蹙をかったそうです。
 しかし、そのおかげで相当に人が来るようになった。これは企業努力のひとつですね。お正月になると人がたくさん来て厄除けします。しかし、普段は閑散としています。
 でも、閑散としている普段の時に、来る人たちもいます。多いのは若いカップルで、水子供養のために来るわけですよ。毎日あそこでは護摩を焚いてますからね。
 佐野厄除大師で水子供養をして、お札をもらって帰るという若い人たちを、私は実際に行って見てきました。実は、水子供養という風習自体が新しいことで、本当に広まったのは二〇〜三〇年前くらいからでしょうか。昔はそんなことはしていなかった。
 水子供養に関しても色々と批判がありますね、営利目的だとか。でも、一方では現実に人工妊娠中絶をする人はいるわけです。子供を産んでも育てる経済力がないとか、まだ結婚していないとか、事情があるからそうせざるを得ないわけです。でも、それがずっと引っかかっている。何か悪いことが起こったりすると、それが原因なんじゃないかと思う。 この感覚は日本人の中に埋め込まれているものなので、どうしようもない。その後に、新たに子供が産まれて幸せになったとしても、最初に中絶してしまった子はどうなるのか、という意識が働いてくるわけですね。それを解決してくれるのは供養というやり方以外にない。他のどんなやり方をしても、解消もしなければ心も落ち着かないわけです。
 私はそこに教育的な意味があると考えていて、高校生なども水子供養をやっている場へ一回は行かせた方がいいのではないかと思っています。そういうことをずっと考えていたので、昨年、中央大学で授業をしていた時、学生にレポートを書かせるために水子供養の現場に行って来るように課題を出しました。
 その結果、強い印象を受けた学生が多かったです。泣いたという学生も二人いました。ああいう場には人間の切ないものがありますから、他の場では絶対に感じないことを感じるわけです。レポートでも、絶対に人工妊娠中絶はしないとか、そういうことを書いてくる学生もいました。
 どうしようもない部分を抱えていたら、いったい何が解決してくれるかと言うと、宗教であり信仰であり、日本でいうと仏教的なものでないと、鎮まらないわけです。

千代川:私が新しく建立した寺にも、とてつもなく大きな水子地蔵をつくりました。インターネットでも、どう供養するかなど水子供養について掲載していますが、非常にアクセスが多いです。
 結婚していないカップルが、私に直接会ってご供養をお願いしたいと、寺に来たこともあります。私は「春の夢」というエッセイを書き、小さな舟形のお地蔵さんをつくって奉納しました。たいへん感謝されましたね。
 布教に関して言えば、葬儀の場、特に通夜説法、これがそのお坊さんにファンをつけるかどうかのターニングポイントになると思います。お通夜の出会い、これで決まると思うんですよ。お通夜に参列して、私の説法を聞いて、私に「死んだら導師を頼みたい」と言う人が結構いますよ。
 通夜の場で、自分が宗教者として、仏教者として、どれだけお釈迦さまの教えを伝えられるかが問題です。伝え方がうまければ、「私はこの人の世話になりたい」と思ってもらえるのです。

島田:教えを伝えるためには修行をしなければいけませんね。しかし、それは僧堂で修行するということだけではなくて、いかに表現するかという修行です。実際に檀家さんに対して説くことを繰り返すうちに、絵解きをやった方が良いのか、金箔のありがたい阿弥陀さんを作ったら良いのか、色々な選択肢が出てくると思います。伝えるための訓練をするのが修行であって、そういうことをやらないと本人も楽しくないし檀家さんも楽しくないです。それがないとお布施もできないですよ。
 今は、そういう構造がうまくできていないようです。でも、昔はそこを努力しました。浄土真宗の節談説教とか、お説教の伝統など、そういう形で工夫して、いかにお金を出していただくかってことをやらなければならないでしょう。
 私も、お坊さんの前で色々とお話をさせていただきますが、うまく伝えることを考えて話をしないと、次はもう呼んでいただけません。そうなれば、自分の考えを伝える場もできません。
 幸いなことに仏教には、話題はものすごくあります。こんなに話題がある宗教は他にはないですよ。おそらく、キリスト教などよりも仏教の方がはるかに多いはずです。それをお坊さんたちが利用しないのは、もったいないことです。

千代川:実は私は修行をしてない坊主なんです。私が大学を出た頃は認定試験があり、それに受かれば坊主になれましたので。でも、私は修行をしていないからこれだけ自由な発想ができたのだと思います。
 私は、五〇歳過ぎまで生き馬の眼を抜くような厳しい実業界の世界で生きてきました。本山で一年間くらいの修行するのに較べたら、極めて厳しい世界で生きてきたわけです。何十億という借金もしましたし、それも返しました。
 たとえば法話などで、他のお坊さんは「最後に皆さんで合掌して」なんていうでしょう。でも私の法話の場合は、最後は自然に起きる本堂いっぱいの拍手で終わります。それが布教だと思うんですよね。どうして本堂いっぱいの拍手が起きるような法話ができるかと言えば、それは私が厳しい世界で生きて、経験を積んできたからだと思います。
 もちろん本山で修行をすることに意味はあるでしょう。でも今、本山に行くのは、ただ資格を得るためだけになっていませんか。今、曹洞宗では、大学を出ても最低半年間は安居生活しなければお坊さんの資格をくれませんからね。ライセンスをもらうためだけに本山に行っているのでは修行の意味はないのではないでしょうか。

僧侶が持つべき自信

司会:修行という話が出ましたが、僧侶の育成ということでは、僧堂での修行と宗門大学での教育があると思いますが、これらはうまく機能しているのでしょうか。

千代川:我が宗門の大学が資産運用に失敗して一五四億円の損失を出したことをすっぱ抜いたのが私ですからね。これで私は怒られているわけですけど、大学の運営を心配しているからしたことですし、大学の一般職員の中にも心配している人はたくさんいます。

島田:特定の大学に限らず、宗門系の大学を見ていると、どこも押し出しが弱いと思うんですよね。仏教系だとか宗門の大学であることを表に出さないようにしてますね。駒澤大学と聞いて道元の名前が浮かぶ人はあまりいません。総合大学の道を歩んで、現実にそうなっているわけですから、世間一般の人は一般の大学だと受け取ります。各大学が宗派色を薄め、仏教色を薄めて、ずっとやってきているわけですけれども、それが本当に正しい道なのかどうか。これはマーケティングを考えても相当あやしいと思うんです。

千代川:これからは少子化になって、大学を維持するのは大変になりますから、宗門大学として原点回帰するでしょう。

島田
:大正大学で教えたことがあるのですが、大正大学が四宗派の大学であるというような事情を学生は知らないです。それはいかがなものかと思うのです。私は学生たちに「あなたたちは、仏教系の大学を出るわけだから、仏教のことについて知らないと恥ずかしいよ」とおどしてみましたが、そんなこと大学で言われたことがないようでしたね
 要するに、大学の方にそういう姿勢がないのです。自分たちの大学が仏教の大学であることに対する自信のなさみたいなものが、あまりにも強すぎるわけですよ。それなら、それ以外のところで自信を持てるかと言ったら、持てるわけがないので、仏教の大学であることに自信を持つしかないと思うのですが。

千代川:自身がないというのは、お坊さんにも言えます。お坊さんも、自分に自信がないから自分の思った行動を起こせない。自分の信じるものを表に出して行動すれば必ず帰ってくるものがあるはずなのに。

島田:自信はどうやって生まれるか。修行というのは、おそらく自信をつけるためのものだと思います。それなのに修行だけが自己目的化してしまって本来の目的を見失っているのではないでしょうか。自信をつけるためのものだとわかれば、修行に対する取り組みかたや、具体的に何をするかも、変わってくるはずです。
 人間というのは、自信を持った人から言ってもらわないとそれを信頼することはできじゃないですか。お坊さんは自信を持たなくてはなりません。

藤木:今の本山は、学生が自主的に行ってみようっていうところには、まったくなっていないということですよね。

千代川:安居生活もね、七五〇年間まったく同じでは駄目でしょう。今でも七五〇年前の真似をしてやっているんですよ。そうじゃなくてね、今の時代に合う修行方法を曹洞宗は考え出すような努力しなければ駄目ですよ。

サービス業としての寺院活動

司会:寺院がこれから果たすべき役割についてどのようにお考えでしょうか。

島田:私は新宗教を主に研究していますけれど、新宗教を経ることで日本人は宗教を卒業していくのではないかと思うんです。もう宗教なんていらない。新宗教が教勢を拡大した時期は、まだ切実なものがあって、戦後貧しい人たちがそこに群がったわけじゃないですか。それが最後の段階ですよ。それを通り抜けたら別に宗教にすがらなくても、もう現実のレベルで解決できることしか、悩みも苦しみも残っていないのです。ですから、宗教に救いを求めるような段階には、もう日本社会はないのですよ。

司会:深刻な悩みはないかもしれませんが、今も、悩んだり、自殺したりする人がたくさんいる社会ではないでしょうか。

島田:それはコミュニティの問題です。人間関係のネットワークが乏しくなってしまった。ネットカフェ難民とか、なんであの人たちはああなってしまうかと言うと、ネットワークがないからですよ。最後のところで救ってくれる、部屋に住ませてくれるそういう友だちもいないからああいう風になってしまう。

司会:そのネットワークを宗教が提供していた面もあるのではないですか。

島田:もちろんそうです。新宗教はまさにそうで、創価学会などは典型です。だからそういうネットワークも宗教が作っています。本当に望むならそこへ行けば解決するのです。 自殺する人たちもコミュニケーション的な問題ですよ。抱えている問題は深刻かもしれませんが、借金だって今は解決できますよ。それで首を括る必要なんてありません。しかし、誰にも相談できずに追い詰められてしまう。ちょっとしたコミュニケーションの回路さえ持っていれば、今の社会で死ぬなんてありえないんですよ。

司会:そういう部分をこれからお寺が提供していけば良いのではないでしょうか。

島田:それは無理です。お寺にそんなことは誰も期待していないですから。お寺はあくまでエンターテイメントですよ。ある種の余剰の部分です。なぜなら、たとえばお葬式にしても、別にしなくても良いわけですから。ちゃんとしたお葬式をするってことが、ある種の余剰であり贅沢なのです。
 たとえば、車の値段を考えた時に、私は中古車の値段が標準だと思います。新車は付加価値であり、贅沢なんですよ。服なら、たとえばユニクロが標準の値段であって、それ以上の服は贅沢なんです。
 お葬式も完全にそうです。今、お葬式に三〇〇万円くらいかけるのが当たり前になっています。そんなにかけなくてもお葬式はできます。でも、それだけのお金をかける、その上にお寺は成り立っているのです。

千代川:お葬式の坊さんなんてオプションなんですよ。埋葬許可証さえもらえれば、葬式なんかしなくても法的には問題ないのですから。ですから、お坊さんが、お寺が行っているのは、仏事サービスなのです。

島田:その部分で努力しないから駄目になるんですよ。

千代川:まったくその通りですね。だからお坊さんは良いエンターティナーでなければいけないのです。付加価値です。それは法話のしかたや内容であり、読経のしかたであり、受戒のしかたであるわけです。

島田:いかに納得してもらえる葬儀をあげるか。そういうことを考えると、それなら「仏になる」とはどういうことなのか、自分の宗派はどうなのか、と考えると思います。考えなければ納得した葬儀はあげられません。発想の方向を変えて、産業にしてしまえばいいんです。

千代川:それを産業と言うと、お坊さんは、なんだかんだと文句を言うんですよ。

時代から必要とされる僧侶の育成

藤木:今の時代、これからの時代ということを見据えて考えた時に、これからの僧侶教育は、塾のようなものが良いのかと私は考えています。塾で師匠から習うわけです。従来のイメージの和尚さんとは違ってくると思います。千代川先生や、他にもいらっしゃると思いますが。そういう師匠に個人的に師事する形で学んでいかないと、僧侶として必要なものを身につけるのは難しいのかなと思います。

千代川:私は、同じ教区の五〜六人の若いお坊さんに葬儀を手伝ってもらっています。それで、通夜や葬儀で私の法話を聞くと、彼らは皆、メモを取っていますね。私は悲しい話をすることもあるのですが、そうすると一緒にいる坊さん二人が泣いてしまうこともあります。それで、彼らの修行というか勉強にもなっているのではないでしょうか。

島田:私は、演劇をやったら良いと思うんです。演劇をやると拍手をもらうことの喜びも味わえますし、人にもの伝えるのがいかに難しいことなのかも、わかると思うんですよ。そういう経験が少しでもあるかどうかという違いは、お坊さんの表現力などの面でかなり大きく出てくると思います。

千代川:大学で法話実習は必ずやらせたほうがいいですね。

島田:それに、実技的なものの実習もきちんとやった方が良いですね。難しいことをやるよりも、こちらの方が必要なことです。
 仏教界ではずっと難しい議論があって、お坊さんたちが論争しているのは良く知っていますよ。各宗派でそれぞれに。けれども、一般の人に一番接するのは葬儀なのですから、その葬儀をちゃんとあげることに集中して取り組んだ方が良いと思います。
 曹洞宗ということについて言えば、もう一つ重要なことがあると思うのは、曹洞宗から日本の葬式仏教ははじまっているといことです。その経緯というのはとても大切だと思います。要するに本来なら供養の対象にあたらない人をいかに救うかというシステムを作ったわけです。そのシステムができあがることによって他の宗派が真似をして、今日の葬式仏教があるわけです。
 その原点に曹洞宗は戻ればいいんですよ。自分たちはこういう趣旨で葬式仏教を作ったんだということを、ちゃんと自分たちの誇りとしてアピールするべきなんですよ。

千代川:ところがそれを隠しているが今の曹洞宗なんですよ。それを隠して、たとえば只管打坐とか、脚下照顧とか、そんなことばかり言っている。何もいわないで坐れ。足下を見ろ。そんなことを言っても誰もついてきませんよ。なんのことかわからない。私なんてね、禅哲学なんてやったってわからないから、せいぜい一般の人がわかりやすいような話しをするための勉強をするわけですよ。
 我々伝達する側が、仏の教えを読んで、自分の考えを入れてまとめてどう伝えるかですよ。あんまり難しいことを言っても、一般の人にはわかりません。そんなことは私にもわからないんだもの。でも他の坊さんは説法で難しい話をしてるでしょう。理解しないで話をしているお坊さんもいるんじゃないでしょうかね。
 私は、難しいことは言わないで簡単なことを一つだけ言うようにしています。その日の参列している人を見てから、私は通夜説法を行います。その場の雰囲気を見てから話す内容をきめます。難しく考え過ぎているお坊さんが多いのではないかと思います。つまり、人の付き合いですよ宗教は。檀家さんと私の付き合い。信仰心というものは、そこから生まれてくるのですよ。