曹洞宗の明日を考える
放談……宗門改革のゆくえ
出席者
野田大燈(元總持寺後堂、報四恩精舎住職、財団法人喝破道場理事長)
川岸高眞(東京都・清岸院住職)
藤木隆宣(仏教企画代表)
平成二十一年(二〇〇九)夏、国政では五十数年ぶりに本格的な政権交代が起こった。国民のとにかく変わらなければいけないという意識が劇的な投票結果を生んだ。一方、われわれの曹洞宗においては、抜本的な改革が叫ばれているにもかかわらず、現状は何ひとつ変わっていない。新しい年を迎えるにあたり、今一度、曹洞宗の抱えている問題点を整理し、具体的にどんな行動を起こしていけばよいのか、読者の方々と考えていきたい。そんな思いから、今回は行動派の論客として知られる野田大燈師と、社会学にも詳しい川岸高眞師においでいただき、改革のゆくえを探った。
●今は大鉈を振るうとき
【野田】 先日、兵庫県の過疎地域に講演に行ったのですが、迎えに来て下さったのは大阪ナンバーの車なんです。聞くと、「お寺はこちらにあるが檀家が十五軒しかない。だから住職の私も大阪で働いて生計を立て、必要なときに帰ってお寺を守っている」と。私はそれを聞いて、何とも言えなかった。それから別のあるところで寺族の方とお話すると、「檀家が少なく寺だけではやっていけないので住職は学校に勤めている。息子はなんとか説得して本山に修行に行かせたが、帰ってからはガソリンスタンドに勤めている。これでは結婚だってできるかどうか」という。こうした状況を宗務庁はどう考え、どういう対策を立てているかということです。
宗務総長が愛知県あたりの過疎地の寺を見て回ったというが、実際、大変な問題が進んでいる。過疎化には合併が一番いいと言われているが、しかしお寺はみな、二百年、三百年という歴史を持っているから、それぞれのお檀家は自分のお寺に対してプライドを持っている。隣の寺と合併だなんて許せないという。むしろ新しく寺をつくって合併するのが一番いいらしいが、とにかく、何か大鉈を振るわなければいけない。
私が、本山に後堂としていたときに、能登の祖院が地震で倒壊した。そのときに、「お前はどうしたらいいと思うか」という質問を受けた。そのとき私はこう考えた。今、全国のお寺がどんどん減っていこうとしている。宗侶自体がお寺で食べていけない状態で、本山に修行に上がってくる師弟の数も減ってきている。祖院には僧堂があるが安居者は微々たるものだ。ところが、その僧堂に対して宗務庁から補助金が出ていて維持管理のために職員を置かなければいけない。
そのとき思い起こされたのは、祖院が明治三十一年に焼失したときのことです。当時の石川禅師が、能登ではもう時代に取り残されるということで總持寺を横浜に移した。その決断をして、どれほど石川禅師は周囲から責められたか。能登の門前ではいまだに石川禅師のことを恨んでいる人がいるという。
しかし、石川禅師は正しかった。同じように、私は今回の地震によって祖院がなくなったら、それはそれでいいのではないか、再建はよしたらいいという意見を吐いたら、皆さんから総スカンを食った(笑)。結局、宗費の中から大金を出して再建すると決まったけれど、私は、先々を考えたら、宗門自体、お寺がなくなっていく時代に、なぜまた重いものを背負わなければいけないのか、もっと身軽になって、違った布教の方法を模索したほうがいいのではないかと考えた。わたしが言う大鉈を振るうというのはそういう意味です。
●統治能力の欠如
【川岸】 わたしは、問題点を四つに絞ってお話したいと思います。(1)統治能力の欠如、(2)宗門和平志向、(3)現状維持志向、(4)金あまりの曹洞宗、という四つの論点です。
まず、(1)の「統治能力の欠如」ですが、包括法人曹洞宗はおよそ五十億円という非常に大きな予算で動いている。これは組織運営の経験のないお坊さんが動かせる金額ではない。プロフェッショナルか企業経営の経験のある方でないと年五十億円の予算を持つ組織を動かすことはできない。つまり内局の老師がたには統治能力がないということです。
そうした能力はどういうところで身につくかというと、一つは学校教育です。国の制度では、文科系のキャリア官僚は経済職、行政職、法律職というふうに分かれて国家公務員試験を受けます。これはみんな社会科学系の学問をみっちりやっていないとパスしない分野です。そういう人たちが将来局長になり、次官になり、国を動かすという仕組みになっています。ところが曹洞宗では、大概の方は仏教学部とか文学部出身の方がお坊さんになっておられて、組織を動かすようなトレーニングはしていらっしゃらない。
宗務総長の渕老師は今年二月の宗議会が終わった後でこう嘆いたそうです。「このごろの宗門は、国会みたいになってきた。賛成だとか反対だとか言って議論をするようになってきた。嘆かわしいことだ」と。これはなかなかおもしろい発言です。
民主主義というのは多数派も少数派もいて、みんな言いたいことを言うようだが、結局は多数派は少数派の意見を聞いて、最終的には多数決の議決に従うというのが根本です。民主主義が無欠ではないけれども、現在のところそれに勝る政治手段はないわけで、そういう民主主義の根本である「議論する」ことを否定する発言をなさっているのには腰を抜かすほど驚きました。そういうお坊さん方が宗門という大組織を運営しているということが、さまざまな問題を引き起こす大きな要因の一つになっていると思うんです。
●宗門和平志向、現状維持志向
【川岸】 (2)番目の「宗門和平志向」というのは、先ほどの話ともつながるわけで、これも民主主義の否定です。総和会と有道会が連立して内局をつくる。議員数も半々というのは、自民党と共産党が政策協定を結んで閣僚も議員も半分ずつというようなもので、こんな気持ちの悪いことはない。ところが宗会議員の皆さんは、何でもかんでも仲良くなることはいいことだと思っているようで、誰も文句を言わない。これも宗門改革が進まない要因の一つです。
それから(3)の「現状維持志向」というのがある。これは、なかなか根強い。どうも変だな、何か変えなきゃいけないなと思っていても、今のままがいいやと思っている人がどのくらいるか、私、勘定してみたんです。宗務庁の役職員、宗議会議員、宗門関係の学校の教職員、それから僧堂役寮、布教師、権大教師、大教師、これらの人たちは現在の制度がないと黄色い衣を着て威張っていられないからとかで大体現状維持派です。これを計算すると総勢三千人ぐらいになる。
そうすると今曹洞宗の住職数は約一万人ですから、そのうちおよそ三分の一ぐらいは現状維持派、守旧派だということになります。もちろんこれは概算ですが、改革にあまり乗り気ではない人が相当数いることは事実で、これでは改革に対する議論が活発にならない。
●金あまりの曹洞宗
【川岸】 (4)番目の「金あまりの曹洞宗」、これが一番大事なんですが、納めた宗費がきちんと使われていないと皆さんがお思いになるのは、一つには人件費など宗務庁を運営すること自体の費用が異様に大きいこと、もう一つは補助金にがばっと使われてしまうからです。例えば、平成七年から二十年までの間に、東京グランドホテル精算費用四十六億円、多々良学園関連費用二十六億円、世田谷学園関係八億円、苫小牧校舎関係三億円と、これだけで八十三億円。それから總持寺祖院僧院改修に十五億円。まだ額は分からないんですが、多々良学園の裁判で和解もしくは敗訴したときの賠償金、それから駒澤大学の投資失敗による損失約百五十億円など、まだまだ増えてくる。
なぜこんな莫大な補助金が湯水のごとく浪費されてきたのか。私は、それは曹洞宗にお金がありすぎるためだと思う。ごく直近では、京都の土地を二億か三億で買うという話があった。あれだって、曹洞宗にお金がなければ、そんな話が持ち上がってくるはずがないわけです。ところが統治能力のない議員や担当部長にはその善悪の判断ができない。お金があるから二億ぐらいならいいかという話になって、乗っかってしまう。曹洞宗にお金がありすぎるため、それを狙って群がってくる人たちがあとを絶たない。
ですから、私は宗費を五十億円も取るのはよした方がよいと思う。ところが、おととしの有道会大会のときに、「質問」と言うから手を挙げて、渕宗務総長に、「どのぐらい予算を減らせますか」と聞いたら、「川岸さんが思うようには減らせないよ」と言われた。減らしてもせいぜい宗費完納奨励金と補助金の一億ぐらいだろうなと言うんです。こんな考え方の人が宗門を動かしているのでは駄目で、これはやっぱり「がらがらぽん」をやらなければいけないなと思っている。
それともう一つ、各寺の宗費に対して不公平感というのがあります。「あっちのほうが経済的に豊かなんだけど、自分のほうが宗費をたくさん払っている」とか、「あそこは檀家数を隠している」とか、「東京などの都市部はもっと負担すべきだ」とかいう話です。そういう不満を一挙に解決する方法として、私は級階賦課金なんてやめてしまえといっている。
平成二十年度の決算を見ると、級階賦課金から約三十億円。それから寺格賦課金が約五億円。それから教師賦課金が約五億円、住職義財とか雑収入で全部で約四十八億円になる。私は、これは寺格賦課金だけにしてしまえといっている。法地の寺は三万円、格地の寺は七万円で、合計約五億円です。そのお金でまかなえるだけの仕事をすればいい。
結局それは包括法人曹洞宗は何をする団体なのかという問いに行き着いてしまう話なんですが、それはひとまず置いて、では五億円あると何ができるか。まず包括法人が存在するためには名簿が必要です。これは事務所に事務員二、三人とパソコンが三、四台あればすむ。それから、民主主義ですから、どんな仕事をするかを決める宗議会が必要です。現在は宗議会運営に大体一億二千万円ぐらいかかっているのですが、本来一億円あれば十分なんです。都合、二億円あれば曹洞宗を動かすことはできる。そうするとあと三億余るから、その範囲でできる仕事だけやればいい。そうすると宗費の不満も解消するし、それから曹洞宗の金をねらう悪い連中も寄って来なくなる。(笑)
●中央集権から地方分権に
【藤木】 私は、年間五十億円近い金が、中央に集まりすぎていることが問題で、地方分権をすべきだと思っています。実際、東京あたりの宗務所はそれなりの予算を持っておられるかもしれませんが、地方へ行けば行くほどそんな予算はない。東京の宗務庁にいて北海道、九州、四国など地域単位の布教なんてできるはずがないんです。
包括法人としての曹洞宗は必要な最低ラインの経費を確定し、それ以外の予算は各県の宗務所が持って、主体的に動いたほうがいい。それによって地元寺院が活性化し、布教の原動力が生まれると思うんです。そういうことを言うとある方が、「いや、宗務所単位では人材がいない」とおっしゃた。それはいないのではなく育ててこなかったんだろうと思うんです。
【川岸】 仮に寺格賦課金だけで中央の組織を五億円で動かし、他を各宗務所にまわすということにすると、宗務所の予算は十倍になるわけです。そうしたら各地で自由に、瀬戸内寂聴さんでも誰でも頼めばいいじゃないですか。
ところが、今現在の状況をご説明しますと、歳費約五十億円のうち六十七%、約三十億円という金が、宗務庁の施設維持管理や職員の給料など曹洞宗という包括法人組織自体を維持するために使われています。こんなものは一割ですますべきで、とんでもない浪費です。
【野田】 民主党が実施した行政刷新会議の事業仕分けが話題になりましたが、私が関係している厚労省関係の若者自立塾というのも、ばっさり一刀両断で廃止になった。現場のわれわれからすると「えっ、なぜ?」と思いますが、じつはその塾を運営するために天下りの財団がつくられていて、数億の予算があっても財団の理事や職員の給料でがっぽり取られてしまうから、実際の現場で事業に使われる金額は微々たるものになってしまう。その点を指摘されて廃止となったわけですが、宗門に置き換えてみると、宗費というのはいわば税金です。宗費の使い方は厳密に査定していただかなくては困りますね。
●いっそ、お寺を株式会社に
【藤木】 個人的なことなんですが、私の自坊も檀家が二十軒で、寺としての収入はほとんどないのですが、両親が始めた保育園などを運営してなんとかやっている。そうしたものもない寺では大変ですね、かつては学校の先生がお坊さんの一つの職業だったんですが、今は公務員にはなりにくい。
【野田】 宗報に寺族の方が書いておられたのですが、戦後、住職が復員して来た際、檀家が減ったりして食べられないときには、何か仕事を持ちなさいと宗務庁が勧めたそうですね。だからあの時代に、寺が保育所とか戦災孤児を預かる養護施設とか始めたのが、今日にまで続いている。
ところで、先ほど言った事業仕分けにも関連するのですが、民主党は今後公益法人の査定を厳しく行おうとしている。まず財団法人から始めて、福祉法人、そして最後に宗教法人ですね。民主党が問題にしているのは、とにかく公益性ということです。そうなると例えば檀家が減って、会社に勤めたり学校の先生をしながらお寺を維持していた場合、この寺は公益性があるのかと問われたら、どうなんでしょうか。今の寺院の主な宗教活動であるお葬式や法事が公益性のある活動なのかと問われて、ふるいにかけられたら…。
なかには、お檀家さんを対象にデイサービスのようなことを始めたお寺もあるし、NPО法人をつくったお寺もある。その辺りの問題は宗務庁が全国の調査をして、もっとも現実を知っているわけですから、寺院の公益性ということについて指針を示し、積極的に動いてほしいなという気はします。
【川岸】 どうですかね。難しい問題ですけれど。今のようなお話、例えば、小さいお寺で、過疎地で、方丈さんが学校の先生をなさりながら、二十軒、三十軒の檀家方の面倒を見ていらっしゃる。そういう場合に、それが公益性うんぬんということを問われたら、私の直感としては、お寺を株式会社にしてしまいます。そうすれば、先生としてのボーナスで本堂の畳替えをしているのに、檀家でもない人から「公共性」を追及されることもなくなる。
【藤木】 それはたしかにひとつの方法かもしれませんが、株式会社にしてしまうというのは従来の寺というイメージに反するという問題があると思うんです。たしかに、今の葬祭を中心とした宗教法人は今後公益法人としては見なされない可能性がある。現実には、お檀家を中心にした一つの組合みたいなものですから。ですから、行政的にどういう方向で判断されようと、納めるべきものは納めて、よしとしなければいけないのではないか。そのあたりは割り切ってしまったほうがいいと思います。
●檀家制度に乗っかって牙を抜かれた
【藤木】 佐々木宏幹先生がよくおっしゃることですが、僧侶は僧侶としての修行を積むことによって仏力を持つ。その仏力があるからこそ、死者を弔い供養してもらいたいと一般から思われる。だから、仏力を得るための修行はきちんとするのが僧侶としての原点だということもありますね。
【野田】 坊さんというのは、普通のサラリーマンではない何かなんだという、みんなそのために修行してきたはずなんです。ところがいまやみんな普通の人になってしまった。それが結果的に、一般の人々の宗教離れを引き起こしている。
この間も私が愕然としたのは、名古屋では「直葬二十五万」と葬儀社が広告している。で、そういう話を大阪に行ったときしたら、「何言ってるんですか、大阪では、バスの後ろに葬儀社が『直葬十五万』と書いていますよ」と言われた。
「和尚さんに葬儀をしてもらって、戒名を頂いて」というような、住職のカリスマ性を信じるというか、そういうものがだんだんなくなっている。それを取り戻すにはどうしたらいいかということなんです。
【川岸】 お葬式をやって生活しているということから、お坊さんがそろそろ離れなければならないのかなという気がします。お坊さんはお葬式、法事をやるものだという社会通念があって、それにわれわれも寄りかかっているけれども、そこから離れて、お坊さんは修行をして真理の道を見極める人たちなんだというふうに転換していかなければいけないのかもしれない。
托鉢で今どき暮らせるとは思いませんけれども、むしろそっちのほうへ全体としてのかじを切っていかないと、教え自体が衰退していってしまうような気がします。
【野田】 要するに、檀家制度以前に戻るということですね。
【川岸】 そうそう。
【野田】 檀家制度に乗っかって、われわれは牙を抜かれてしまった。
●聖なる世界と俗なる世界
【川岸】 こういうことを議論していく過程で絶えず問題になってくるのは、「聖なる世界と俗なる世界」という問題なんです。例えば道元禅師や瑩山禅師の教えが日本全国にいきわたるとか、人々によく理解してもらうということに全力を挙げようとする。それは聖なる世界です。一方、現実に今の曹洞宗では檀家が減り寺は減っていく。そうすると、寺族の将来をどうするかというような問題が出てくる。これは俗なる世界です。今や、曹洞宗が聖なる方向に進むべきなのか、俗なる方向に進むべきなのかということが、まず考えられなければならない問題だと思うんです。
【野田】 曹洞宗がかつて二万カ寺にもなったその原動力は何かというと、授戒会だったらしいんですね。とくに江戸庶民に授戒会が人気になり、いわゆる生前戒名がはやった。それは、あの時代には娯楽が少なかったかったからなんです。今でも確かに授戒会というのは宗教的な雰囲気をうまくつくっている。暗くしてみたり、松明をたいてみたりとか。人々は一週間、日常を離れてそういう聖なる世界に浸ることができたわけです、
ですから、道元禅師の坐禅の教えだけで曹洞宗がここまできたわけではない。実際に今、曹洞宗宗侶一万人のうち、どれほどの人が日常坐禅に励んでいるかというと微々たるものでしょう。まして檀信徒がどれだけ坐禅をしているか。ですから、私はかつての授戒会のような何か聖なる雰囲気に浸ることができるようなものを考えるべきではないかと思います、
【藤木】 われわれは現実に生きているわけですから、聖なる世界と俗なる世界を完全に分けるということはできないわけですね。ですから、例えば、寺院がさまざまな社会福祉活動を行うというようなことは、ちょうどその中間、聖なるものと俗なる者を結ぶ接点のような役割を果たすことになるのではないかと思います。
●直葬とお別れ会
【野田】 さきほど、直葬がはやっているということを話題にしましたが、直送になるとお寺もボイコットになりますが、葬儀社だってそうなんですね。普通の葬儀だったら今、全国平均で二百五十万円ぐらい費用がかかるらしい。これは多分戒名料も入っているんでしょうが、その中で葬儀社が得る収入はそれなりのものがあると思うんです。ところが直葬になると二十五万とか十五万円ですから葬儀社も大変になってくる。先日、たまたま先輩に頼まれて伴僧で広島に行ったんですが、何と葬儀社さんが、映画「おくりびと」の納棺師と全く同じことをやっているんです。葬儀社の方が葬儀の場で「おくりびと」の主人公の顔をして、遺族に体を拭かせたりしてセレモニーをする。葬儀社も生き残りに必死なんですね。
それに対して、お寺さんは必死さがあるのかというと何もやっていない。「ああ、やっぱりお坊さんに来てもらってよかった。これで亡くなった父は、母は、極楽に行けた」という思いを与えなければならないのに、そんな要素はない。だから、「別にお坊さんを呼ばなくても問題ないじゃない」となる。
ちょうどこちらにくる前に、高松市の日航ホテルが主催をして、「もう葬儀をしなくても、ホテルでこんなお別れ会ができますよ」とお別れ会の紹介をしていた。私は、「これは大変なことになった」と思いましたが、それに対して、仏教界はただ唖然としているだけで何もしていない。
【川岸】 私は、お別れ会というのは、何回か自分でも出席するうちに、「ああ、こういうものか」とだんだん分かってきたような気します。例えばどなたか、男の方で五十代、六十代の方が亡くなったとする。そうすると、今までは親戚ばかりでなく、友だちだとか会社関係の方とか、取引先の方なんかが大勢集まって、お葬式をやりましたね。ところが今は、親族とか、生前本当に親しかった人とか二、三十人が集まって通夜、お葬式をやる。
私が見ている限りでは、その三十人くらいのお葬式というのはかなり快適です。要するに、義理で来る人はいないわけです。身内とか友人たちだけで故人を偲んで、「ああ、お骨になっちゃったね」とか言いながらお葬式をする。お別れ会というのはそれとは別に大規模に人をあつめて食事をしながら故人の思い出を語り合う。そのお別れ会自体はお寺が関与すべきことではないと思います。
●今や僧侶も一市民
【川岸】 今、神道の方々が神葬祭という、神式のお葬式を普及しようと一所懸命やっている。どうしてかというと、それは、例えば江戸時代にあれだけ日本を席巻した儒教がなくなってしまったことを考えれば分かる。儒教にはお葬式がないからです。お葬式をやらないと、その宗教が滅びてしまうというのは、私は七割ぐらい本当かなと思っています。
そうすると曹洞宗には聖なる道元禅師の世界、あるいは良寛和和尚の托鉢だけで生きていく尊い生き方が一方にあると同時に、在家のお葬式の面倒をみるという俗の世界もある。その両方をやっていかないと、曹洞宗自身が滅びてしまうということです。
【藤木】 僕も同感です。聖か俗かどちらかに片寄るのではなく、現実を踏まえてやっていかなければならない。
【川岸】 葬式離れの一つの原因はお坊さんにお金がかかるからではないですか。これが、わずかのお金で済むんだったら葬式離れなんか起こらない。お寺がそれで苦しくなるというのなら寺の生活レベルを下げればいいだけの話でしょう。
【野田】 しかし、そうは言っても今は道元禅師や良寛さんの時代とは違う。僧侶といえども一市民なんです。電気代、水道代、ガス料金など生きている限り金がかかるから、収入がなくても税金を払わなければならない。托鉢一本というわけにはいかない。市民として生きて、市民の務めを果たしながら、僧侶としてどう「聖」を実現していくか。やはり自利利他だから、自分の宗侶としての悟りを求めながら、お葬式をやっていくことも必要だと思います。亡くなった人を弔うというのは、株式会社ではできない。修行してきた僧侶がやるから、「ああ良かった」という安心感を与えることができる。その辺をもう少し見直していくことが必要ではないでしょうか。
【川岸】 たしかに、曹洞宗のお葬式はこうなんだと、自分たちはこうやって亡くなった人を送ってあげるんだということを、一般社会に理解してもらう努力をするべきでしょうね。宗務庁でつくっている布教資料にいいものがないわけではないですが、印刷物では人に影響を与えることはできない。やはり現場に立ち会う生身のお坊さん一人一人が積極的に働きかけないと駄目ですね。
【野田】 それはもう、娑婆抜きにして坊さんはあり得ませんからね。
(平成二十一年十一月二十五日収録)