仏教文化研究の課題
――最近の葬式(祭)論について――(7)

  駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹

一、はじめに

 かつて日本の地方社会とくに村(ムラ)や町(マチ)の家々で最大の行事といえば、それは結婚式と葬式であった。これら二つの行事(儀式)が催されるとき人びとは、普段は箪笥のなかに大切にしまっておいた晴れ着を身につけて参加した。
 晴れ着には家紋が付いており、これを身につけた人は、まさに「当家」の代表であった。結婚式にも葬式にも当然相当の費用が要ったはずであるが、費用をケチらずできるだけ盛大に行うのが当家にとって当然のこととされた。両行事(儀式)を無事に成し終えることは、その社会における当家の経済的、社会的、あるいは政治的地位・格づけと密接に関わっていた。費用のかからない地味な葬式を営んだりすると、人びとは「あの家も落ちぶれたものだ」と噂し合った。
 そして結婚式は神道で、葬式は仏教で行うのが社会の常識であった。ムラやマチで人が亡くなると、あちこちに「知らせ」が飛んだが、いの一番に知らせが訪ねるのはお寺であった。住職の予定を聞いてから葬式の日程を決めるためである。
 住職の都合がつかないと、葬式が延期された。「お坊さん」がいないと葬式は成り立たないというのが、ムラやマチの社会常識であり文化であった。この常識や文化に異議を唱える者がいるとすれば、彼(彼女)は「変わり者」とされた。通過儀礼(人生儀礼)の実施は当該社会の義務であった。
 お坊さんを頼まないと、どうして葬式が成立しないのか。死者が生者と切り離され、来世(あの世)の存在として安定するためには、お坊さんの読経と引導が不可欠と考えられていたからである。
 僧侶は神主とともに通過儀礼のプロフェッショナルであり、社会的に一目置かれる特別な人とされていた。彼らは丁重に遇され、移動には送迎が伴い、高い座席が用意された。
 とくに明治初期以前の僧侶は文字どおり「出家者」であり、世間的な世俗性を超えた時空に生きる異形者と見られていた。「聖職者」という呼称は格別な響きをもっていた。
 人びとは聖なる資質(力)と働きを具えた僧侶に死者の運命を托せば、死者は疑いなく「先祖」になり「ほとけ」(仏)となってこの世の人びとを守護し、幸運に導いてくれると考えかつ感じてきた。
 一般に「葬式仏教」とか「先祖供養」と呼ばれる宗教形態を概観的に解説すればおおよそ以上のようになるであろう。そして客観的、社会・文化的に見るなら、この葬式仏教と先祖供養こそが日本仏教を下支えしてきた、現に支えている宗教形態である。各種宗教調査によると、宗派を問わず各寺院の年間収入の約八〇%が葬式と先祖供養に負うているという事実が、これを裏書きしている。

ニ、最近の葬式(祭)論から

 最近、とくに大都市とその周辺地域では、葬式の形式が多様化し、形式の違いによって「〜〜葬」と呼ばれる傾向が見られる。いわく「直葬」(遺体を一時的な安置所に運び、納棺後近親者のみで通夜をつとめ、翌日火葬し、収骨する)、「家族葬」(近親者だけで行う小規模葬)、「自然葬」(遺骨〈灰〉を海や山に撒く)、「樹木葬」(墓石を建てる代わりに植樹し、その下に遺骨を埋葬する)、「宇宙葬」(遺骨をカプセルに入れ、人工衛星に乗せて宇宙に打ち上げる)、「手元葬」(遺骨を埋葬せず、手元に置いて供養する)、「友人葬」(創価学会の会員が遺体〈骨〉に法華経を読誦し、題目を唱える)、「無宗教葬」(宗教者〈僧侶〉を呼ばない葬式。正しくは「無宗教者または無僧侶葬」と呼ぶべきではないか)。
 これら「〜〜葬」という呼称は葬式の形式が従来と違っている点を示すために、メディアや葬祭業者が便宜上用いていることが多く、葬式の内容の確かな分析に基づいてのものではないようだ。たとえば「直葬」と「家族葬」の内容が殆んど同じであることがあるらしいし、「自然葬」や「樹木葬」にしても、「家族葬」の一環として捉えた方がよいものもあるらしい。
 「無宗教葬」は僧侶(宗教者)を呼ばない葬式であるとすれば、「直葬」、「家族葬」も僧侶(宗教者)が関与しないのであれば「無宗教葬」の枠に入ることになろう。よくわからないのが「無宗教葬」なる名称である。すでに触れたようにこの形式は「無僧侶(宗教者)葬」と呼ぶべきではないか。なぜなら僧侶(宗教者)がそこにいなくても会葬者は死者にたいして合掌し懇ろに念じているからである。この行為はまさに「宗教行為」そのものといえないだろうか。
 とにかく葬式の形式が本稿の「はじめに」に記したような伝統的な型からはみ出したものになっていることは事実で、この現象は大都市社会において著しい。この現象が大都市と地方とを問わず進行するとすれば、それは日本人の人生を構造づけてきた人生儀礼(通過儀礼)の意味の崩壊をきたす深刻な問題であることはいうまでもあるまい。
 日本の社会が大きく変化し、多様化する事態は避けられないとして、それに伴って日本人の人生観、社会観、死生観、宗教観がどのように変化・変質するのかということは、宗教(仏教)に関わる者にとって黙視することのできない問題である。
 たとえば葬式の形式が「直葬」、「家族葬」のように小規模化し、「無僧侶葬」が増加するとすれば、それは各仏教教団傘下の寺院と僧侶にとっては恒常的な経済基盤をもろに侵されることを意味しよう。こうした状況のなかで最近識者によるいろいろな「葬式(祭)論」が刊行されている。そのなかから幾つかを取りあげ、葬式を考えるための資料として提供したい。
 まず宗教社会学者の島田裕巳氏による『葬式は、要らない』(幻冬舎、二〇一〇)がある。本書は一月三十日に発行されたが、二月十五日には第三刷になっている。三月半ばには二十六万部、一説には六〇万部も出たという。事実とすれば、宗教学関係では稀にみるベスト・セラーであるといえよう。いったいどういう人たちが本書を買いかつ読んだのであろうか。
 想像するところ、主な買い手は大都市のサラリーマン、しかも団塊の世代以上の年配の人たちではあるまいか。人生の黄昏をひしひしと感じだし、その最終段階にも想いを馳せざるをえない人たちである。経済的にゆとりのない人ほど、本書のピンクの帯に記された「平均費用二三一万円は、ダントツ世界一!葬式大国。日本の葬式無用論」という惹句に注目したのではあるまいか。
 葬式の現場を取り仕切る住職各位も大売れしているとされる「葬式無用論」は気になるらしく、私も何人かのご住職から意見を求められた。私はかく答えた。「頭にくる部分もあるかもしれないが、これからの葬式を考える上で参考になる本である」と。本書は「葬式は贅沢である」という文で始まる。贅沢とは何か。「それは、必要の限度を超えて、金銭や物などを惜しみなく消費することである」という。
 その例として財団法人日本消費者協会が二〇〇七年に行った第八回葬儀についてのアンケートの結果では、葬儀費用の全国平均は二三一万円であるが、これは世界のそれと比較しても飛び抜けて高いと記す(一九九〇年代のデータでは、アメリカの費用は四四万四千円、ドイツ一九万八千円、イギリス一二万三千円)。ちなみに葬儀費用が最も高いのは東北地方の二八二万五千円であるとされる。
 全国平均の葬儀費用二三一万円のうち、寺・住職などへの布施・心付けは五四万九千円で、これは全費用の約二三%にあたる。葬式が贅沢だとされるなかで、この布施・心付けの額をどう捉えるべきか、今後の課題となろう。
 葬式が贅沢化した理由として著者が挙げているのは、日本人一般が共有してきた「世間体」の感覚である。この感覚は、自分の行動が世間からどう見られているかを気にすることであり、この感覚(意識)が布施や香典の相場にもあらわれているという。そしてこの世間体の感覚を育む上で決定的な働きをしたのが近世の村落共同体であるとする。
 村落共同体つまり村(ムラ)では、その成立過程において豊かな家(イエ)とそうでない家が出現する。こうなると当然家々の「格」や序列が生じてくる。この格は普段の生活レベルでは潜在化しているが、明確な形で表に出るのが「戒名」を通してであると著者は見る。
 島田氏は五年前に『戒名―なぜ死後に名前を変えるのか―』(法蔵館、二〇〇五)の刊行によって仏教界に知られた人だが、本書においても戒名について縦横に論じている。戒名とは何かから始まって、院号の由来、戒名料、仏教界の対応など豊富なデータを用いての戒名論はその是非は別として現場の住職にとって参考になろう。
 結論部分で著者は、従来の葬式を支えてきた村落共同体の力が衰え、もう一つの共同体である家族の役割が低下するに伴って、共同体の行事としての葬式の意味が変化し、死はあくまでも個人のものとなったので、葬式の必要性は薄れてゆくと説く。さらに近年、葬式の簡略化が大幅に進んできており、それはやがて、葬式を実質的に無用なものにしていくであろうと予測する。
 以上は島田氏の『葬式は、要らない』のなかから私が重要であると思う点の荒筋を紹介したものである。詳しく知りたい方は本書に直にあたってほしい。本書をめぐってさまざまな論評が見られるが、私の目についた一点を紹介したい。
 『週刊文春』で内田樹氏(神戸女学院大学教授)と釈徹宗氏(兵庫大学教授)が以下のような対談をしている。釈「島田先生は…葬式が無用だと主調しているわけではない。…ただ葬式の簡略化は進み、今のような葬式は無用になるだろうといった発言をされている。…いずれにせよ、葬式を含めた「死者儀礼」自体は、どのような形態であるにせよ、決してなくならないと思う」。内田「なくならない。人類の条件であるから。人類と霊長類の分岐点は葬送儀礼をするかどうか。しないというのはサルに戻るということだ」。釈「宗教儀礼、死者儀礼は、ずっと変化してきた。儀礼も生きモノだから、もはや現在のお手盛り化した葬式が宗教心を共振させることもなく、悲しみにも寄りそえないのであれば、寿命がつきかかっているのだろう。今、まさに、その曲り角にいる」(四月一日号。口語体を文章体にしました)。
 二人の対話には大筋で同感である。「葬式(儀)文化」はそう「ヤワ」なものではないと考えるからである。しかし、それは葬式が現行のままでよいという意味ではない。
 本稿の「はじめに」に記したような、私が幼少の頃に経験した葬式は今では形態的にも意味的にも少なからず変化した感があるからだ。今、「葬式(儀)文化」が曲り角にあることは事実であろう。島田裕巳氏の著書が「参考になる本である」としたゆえんである。

三、されど葬式仏教

 この「されど、葬式仏教」という表現は、村井幸三氏(仏教研究家)が、新潮社発行の『波』(四月号)に掲載した一文のタイトルである。村井氏は三年前に『お坊さんが困る仏教の話』(新潮新書、二〇〇七)を刊行したが、主な内容は日本仏教(大乗仏教)の特色を釈尊仏教と比較しつつ論じたもので、一部島田氏の主張と重なるところもある本である。
 村井氏はこのたび前著の続篇『お坊さんが隠すお寺の話』(新潮新書、二〇一〇)を出版した。前記『波』の一文は、この新書にちなんだものである。その内容を要約して紹介し参考に供したい。
 (1)前著の反響は大きく沢山の便りを頂いたが、とくに「戒名」について触れている人が多く、この問題で迷い悩んでいる人が多いことを知った。
 (2)機会があれば戒名の問題について書いてみたいと思っているうちに、社会の状況は戒名問題を越えて葬儀自体の必要性を問うまでにエスカレートしてしまった。
 (3)これまで寺院を支えてきた檀家が、過疎化などの影響で減少し、寺門を閉じるところが続出するなど、日本仏教は明治の廃仏毀釈以来の危機を迎えようとしている。
 (4)「葬式仏教」という言葉に、寺院や住職への批判と軽蔑の気分が濃厚に込められていることは言うまでもない。マンネリ葬儀に法外な戒名料を要求されるばかりでは、それも致し方あるまい。
 (5)なぜかくも仏教への信頼が崩れてしまったのか。一口ではまとめ難いが、仏教全宗派が社会構造の変化や宗教への関心の低さなどを見落としたこと、仏を売り物にしようとする心ない一部の僧侶が、国民の不信を深めたことを、大きな要因として挙げることができる。
 (6)今日、寺院や仏教に頼らない直葬や自由葬が急増して、最後の牙城である「葬式仏教」ももはや磐石ではなくなった。寺院がやせ細る一方で葬儀社が焼け太るという状況に陥っているのが現状である。
 (7)「きちんと葬式仏教をすることでしか、日本仏教に未来はない」と思う。葬儀は、現代の日本人が仏教的儀礼に接する数少ない貴重な機会である。みすみす手放してはなるまい。
 (8)ただしこれまでのように伝統にあぐらをかき、国民に法外な負担を掛け続けることは論外。今一度、葬儀において仏教が果たす役割とは何かを真剣に考えるべきである。以上。
 厚生労働省の統計では、二〇〇七年の死亡者数は約一一〇万人であり、無宗教の人もいるとはいえ、死亡者数に近い件数の葬儀が営まれている。無宗教葬儀は一%弱、多く見積っても数%程度であるという(柿田睦夫・北添真和編著『宗教のないお葬式』(文理閣、二〇一〇)。
 こうした現状を踏まえ、今こそ仏教界を挙げて「葬式(祭)仏教」の現代における意義と課題に取りくむべきであることを、これら著書は強く訴えかけている。