曹洞宗の明日を考える
……葬儀はなぜ必要か
出席者
○佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授・曹洞宗総合研究センター客員研究員)
○椎名宏雄(千葉県龍泉院住職・曹洞宗総合研究センター客員研究員)
○佐藤俊晃(秋田県竜泉寺住職・曹洞宗総合研究センター客員研究員)
○浦辺世紀(長崎県宛陵寺住職)
○藤木隆宣(仏教企画代表)
今、宗教学者の島田裕巳氏が書いた『葬式は、要らない』という本がベストセラーになっている。また、僧侶による葬儀を営まず火葬場に遺体を送る直葬もじわじわと拡がっている。
従来、戒名授与を含む葬祭儀礼は曹洞宗のみならず日本仏教が拠って立つベースとなり最大の収入源となってきた。しかし、近年になって、そうした伝統に改めて意味を問う人々も増えている。
今回は葬儀にまつわる檀信徒からの問いかけをめぐって、宗門の研究者、ご住職がた四名の方々にお集まりいただき、葬儀の今後のありかたについて討論した。
●生前受戒と死後受戒はどうちがう?
【佐々木】 今回、この座談会が立案されたのは、本紙の読者である長崎の浦辺老師から、死後授戒に関するお訊ねが編集部に寄せられたことがきっかけと聞いています。まず浦辺老師から質問の概要についてお話いただけますか。
【浦辺】 今日は願ってもない御縁にお招きいただきありがとうございます。わたしの自坊ではもともと先代が檀信徒からの要請があったとき戒名を授けておりました。とにかく書き付けてこれだよというふうなやり方だったようです。昔の帳面を見ますと、誰に何と付けたとずっと書いてあります。
それでわたしが本山から帰ってきて先代と一緒にお葬式をしていたんですが、そのとき既に生前に戒名を受けた方のお葬式も、受けていない方のお葬式も同じようにやっていたんですね。それでわたしは先代に尋ねました。そうしたら、戒名の字だけ授けていただけで、今日、お葬式で晴れて受戒をしたんだと。ああ、そうかと、そのころはわたしも若くてあまりよく分かりませんでした。
その後、先代が平成五年に遷化したのを折りに少し考えまして、せっかく字を授けるんだったら、ご本山の受戒式のようなことまではできないけれども、自分なりに何か儀式をして戒名を授けたいと思い、檀家さんたちにふれましたところ、わたしもわたしもと希望者が出てきた。それまでも梅花講の方々が授戒会や法脈会に参加し禅師さまから授かったりということはあったのですが、字の意味が分からないとかいろいろあって、やはり菩提寺の和尚さんから授かりたいという方が現れてきたわけです。
その儀式の大概は、まず心を定めて坐禅をした後、剃髪偈、懺悔文、十六戒を現代語訳を交えながら授けます。それから輪袈裟、血脈と四文字の戒名を授けます。そしてご本尊様とご先祖さまに報告諷経をつとめ、その後お茶を差し上げながら、血脈披見と戒名の意味を説明しています。これらを大事にして下さいねと伝え、仏法にてらされて、前向きに生きることをお話します。とにかく喜んでいただいています。
そんな中で、今度は生前受戒されたかたのお葬式というのがちらほら出てまいりました。その場合にはわたしは三帰戒を授ける部分を省くようにしたんです。でないと生前に受戒した意味がないと感じたものですから。その場合、入棺諷経から始めるのがわたしのやり方になっているわけです。
ところがそんな中で、生前受戒してまだご存命の方からこんな質問を受けた。戒名というのは、生きているうちにもらっておかないと意味がないと和尚さんがいつもおっしゃっているから生前受戒した。しかし、受戒していなくても葬儀のときに受戒をすればそれで、「ただ今、仏弟子となられました」とご住職はおっしゃる。それだったら生前受戒しなくても同じことではないかと。
そういうところでちょっと分からなくなってしまった。まわりの寺院との整合性という点でも問題があって、「宛陵寺のお葬式は授戒もしない」と変なふうに伝わっておかしいと言われたりしたこともある。そんなことから曹洞宗としての受戒、戒名、引いてはお葬式全般に対する考え方が、何かはっきりしていないような感じがしているわけなんです。
●没後作僧が曹洞宗の葬儀の慣わし
【椎名】 葬儀や戒名をどう考えるかということは曹洞宗だけではなく仏教界全体の問題となっています。島田裕巳さんは『葬式は、要らない』という本で、大金をかけるような葬式や戒名というようなものはもともと仏教の本質的な教えにはなかったのでないか、ということを指摘しています。それなのに現実には戒名料というものがばか高い。それが大きな原因になって、世間では戒名も葬式も要らないという風潮になる。これをたしかに代弁しているといえるでしょう。
ところが、一方わたしども仏教者の立場としては、長い歴史に育まれた仏教文化を背負ってこんにちまで来ているわけです。寺院を布教教化の場として生きている者にとって葬儀は大事です。しかし、その背景には葬儀は寺院経営の財政的な裏付け、大きな収入源であるということがある。ですから、島田さんの言っておられることとちょうど裏腹になる関係がわたしども寺院住職にはあるわけで、今、そうした問題が突き付けられているというふうに感じます。
わたしどもは没後作僧(死後作僧)という理念で在家の葬儀をつかさどっっていますが、そういう立場からしますと、俗名のままということは許されない。戒名には歴史的にも内面的にも大きな意味があるわけで、現今のさまざまな矛盾を解決していきながら伝統的なものも尊重していくべきではないかと思っています。
【佐藤】 島田さんの提言というのは、葬式はまったく要らないというのではなく、世間体を気にしたぜいたくで形骸化した葬式は要らないという含みがあるようです。戒名についても、亡き人の人生をきちんと見て、そして仏として生まれ変わってさらなる道を歩んでもらいたいという、きちんとした意味のある内容が備わっているものであれば、それほど否定しないという書き方ですね。お葬式にしても、その人の生涯をきちんと認め、その生涯にかかわった人たちと最後のお別れを有意義な時間として過ごすものであれば、それはいいお葬式ではないかと書いている。
浦辺さんが進めておられる生前受戒をもっと広めようという活動は、戒名の意義をお檀家さん一人一人に分かっていただいて、仏弟子となるという信仰を持ちましょうという活動ですから、島田さんの葬式寺院批判に対するとても素晴らしい答えになるのではないかと思います。
それで、さきほど浦辺さんがおっしゃった問題点にかかわることなのですが、本山受戒とか地方受戒に複数回つかれる方がいますね。すると、最初のときに血脈をいただいて戒名をいただくけれども、二回目以降からはもらわない。それについて、明治のころに高田道見老師が、血脈の重受を許容する旨を言っています。わたしは、受戒会は仏法僧の三宝と十六条の戒律にそれぞれ誓願する式であり帰依を誓う式であるから、一回だけでなく何度受けてもよいと思っています。
わたしも浦辺さんと同じように生前受戒した人のお葬式では受戒はしていなかったのですが、どうでしょうか、一方ではやってもよかったかなとちらっと思ったりもします。
道元禅師は、信仰の力によって、亡くなったかたが悪趣に落ちていくのを善趣に転ずることができるのだという言い方をなさっています。生前に仏縁を結べなかった人であっても、死後、導師が受戒葬儀をして引導を渡せばもっとよい方向へ転生していくことができるという裏付けをここに認めてよいのではないでしょうか。そういう意味では没後受戒というのも意義のあることだと考えていいと思います。
それで、生前受戒した人と死後受戒をしていた人が果たして同じかどうかという点なんですが、わたしならこう考えます。受戒することによってどちらも同じお釈迦さまの学校に入れるんです。ただ、同じクラスにもまえまえから勉強している人とこれから始める人とがいるようなものですと。
●葬祭文化は日本人の誇り
【佐々木】 受戒をしないで、そのまま送ってはなぜいけないのか、という点についてはどう思われますか?
【佐藤】 それは、曹洞宗が葬儀を始めた当初から宗門儀礼として未得度のものに対する葬送儀礼はないからです。得度した者に対しての葬送儀礼は亡僧諷経とか尊宿葬儀とかありますが、受戒をしていない者に対する葬儀法というのはありません。
【佐々木】 それは宗侶の立場からの話ですよね。一般からのどうして受戒しなければいけないのかという疑問の答えにはならないのでは?
【浦辺】 わたしもどうして受戒が必要かと聞かれると、曹洞宗の葬儀はお戒名を持った方を送る式なので、持っていない方にはまずお戒名を授けないと告別ができない。そういうしきたりになっておりますというような言い方をしてきました。ところが昨年、たまたま、直葬というのを経験いたしました。
ある檀家の男性がアパートで死後何日も立って発見された。すでに腐乱してどうしようもないということで、兄弟の方々はこちらに連絡したあとすぐに火葬を手配した。で、お骨になってみると、別にお葬式をしなくても問題はないじゃないかと安心してしまって、あとは先祖の墓に納骨すればそれでいいということになってしまった。わたしとしては、火葬の前に葬儀をして戒名を授け位牌を書いてと言いたかったのですが、いろいろ事情があるようだったので妥協してしまったということがあります。
【佐藤】 うちの地方では火葬を先にしてお骨を祭壇に上げて葬儀をします。そのときに血脈と戒名を授からないと仏さんは成仏しないという考えがわりと浸透している。もし曹洞宗として受戒・得度をしなくても葬式はできますというような設定をしてしまうと、世間的な要求のほうへ流れていきかねないという気がします。
【佐々木】 島田さんは、今後は従来のようなしきたりはますます壊れていく、地域共同体が解体の過程にあり、家という集団性の強いものが個人化してばらばらになってきている、それに伴って儀礼のほうも変わらざるを得ない、ということを社会的下敷きで論じているわけです。
一方、椎名先生がおっしゃったように葬儀というものは地域文化的なものに支えられているという見方もある。そこは深いところに棹をさせばさすほど、簡単には変わりにくい。既成仏教はその変わりにくい部分をよりどころにしながら今までやってきた。それが今、社会科学者や宗教学者が言うように変わりつつある。それに対処して、宗教者はどういう立ち位置を保っていけばいいのか。
【椎名】 わたしの千葉の寺は都心から三十何キロしか離れていないところで、以前は農村地帯だったんですが、今では檀家の半数近くが市街地に住んでいるということで、葬儀のやり方も法事のやり方もどんどん変わっている。
たとえば先般、三回忌になる方の葬儀をやりました。というのはこの方は献体されましたので、ご遺骨が帰ってきた時点で葬儀と三回忌と一緒にしたわけです。そのとき遺族の方々は、とくに葬儀をしなくても三回忌と納骨式だけやればいいのではないかと簡単に考えていたのですね。
そこでわたしはお戒名はどうするんですかと聞いた。そうすると、それはぜひいただきたいですねと。それでは、ご葬儀をやらないとお戒名は付けられないですよということで、葬儀を執行し、引き続き三回忌をやって、納骨ということにしました。献体もしておられるし、生前お寺にも貢献がございましたので居士戒名をお付けしましたら大変喜ばれました。そういうふうに、今の若い方は、無頓着と言いますか、葬祭文化の基本的なことについては非常に無知なんですね。
かつて農村地帯だったころは、農村の決まりがございまして、初七日はどのぐらいの規模でやるとか、細かく決まっていた。ところが、地域共同体の解体にともなって葬祭文化の基本的なものが崩れてきている。わたしはできるだけ隣近所とか葬式組でやっていたことをぜひ継続していってもらいたいと思っています。
実際、お清めのことや、石で棺のくぎを打つのはこういう意味があるんですとか説明すると、業者さんですら感心して聞いてくれるんですね。何百年、何千年と続いてきた葬祭文化というものは、日本人の誇るべき文化です。大切にしていくべきではないかと思います。
●なぜ葬式をしなくてはいけないのか
【佐々木】 ここで話を少し原点に立ち返らせてみたいと思います。さきほど浦辺老師から直葬の話もでましたが、近ごろではなぜ葬式をしなくてはいけないのかという根源的な質問をする世代も出てきています。
わたしが小さいころは、そんな質問をしたら変わり者だと思われましたね。子どもが生まれたら誕生の祝いがあって、やがて成人式とか結婚式とかやって、死ぬときはまた盛大な葬儀で送るというのが人としての道であるというのを誰も疑わなかった。経済的に犠牲を払っても、こうした儀式を精一杯勤めることが社会人としての誇りであり、自分のアイデンティティーにとって大事なことだというのは人々の常識になっていた。
それが都市化とか世俗化などの影響によって、そういう価値観が壊れてきた。そこからなぜ葬式をしなくてはいけないのかといった質問も出てくる。成人式などもまったく宗教性抜きになって、地域社会の首長が来て挨拶をして、紅白のもちなどをもらって、そこで袴をはいた連中が大暴れして終わりという具合で、もう意味がなくなっている。結婚式もお金をかけないのが当たり前になってきて、わたしが先日出たところでも、宗教性も何もない。仲人も立てないし、誰か友人が、こういうことで二人は一緒になりましたと挨拶すると、新郎新婦はチョコレートか何かをやり取りして、リングを交換してそれで終わり。神に対してあるいは仏さまに対して、一生涯きずなが壊れないようにお誓いを立てるというふうな意識が、だんだん弱くなっている。
昔は生老病死の「生」は大変なことで、産婆さんが手を尽くしても、半分ぐらいは母子とも危険にさらされた。それが今はほとんど大丈夫になってきたとなると、生まれるということに対する祈願やお祈りの意味も薄れてきた。つまり宗教文化というものでくくられるものの出番が、だんだんと少なくなってきたことは事実だと思うんです。
しかし、椎名先生がおっしゃったように、日本人にとって葬儀というのは非常に大事な意味を持つ。一神教のような絶対の神を持たない日本において、殺すな、盗むな、嘘をつくなといった道徳心のベースを形成してきたのは何だろうというと、そんなことをしたらご先祖さまが悲しむよとか、亡くなったおじいちゃんおばあちゃんが嘆くよ、といった心情ではなかったのか。おまえは嘘をついてうまくやったと思っているかもしれないが、ご先祖さまの向こうからのまなざしが、いつでも仏壇とかお墓を通して注がれている、というような意識があった。
ところが、今はそうしたことを説く機会が、教育からも地域共同体からも消えてしまいつつある。そこでお坊さんは声を大にして葬儀の意味を説かなくてはならないのですが、宗門の上層部では高等な論議ばかりやっていて、なかなか現場のかゆいところには手が届かないというのが実情ではないですか。
●葬儀に自信のない若い僧侶たち
【佐藤】 とくに若いお坊さんたちに多いように思うのですが、葬式仏教という世間の批判がある中で、法事やお葬式に対してだんだん自信が持てなくなっていますね。僧堂で勉強したことがお寺に帰るとそのまま使えるわけではない。僧堂では葬式の仕方、引導の仕方を教えてくれない。うちへ帰ってからお檀家さんと向き合ったときに、枕経やお通夜をどうしようとか、死んだ人に授戒して血脈を渡して何か意味があるのかなとか、そういったことを日々考えなくてはいけない。しかし答えは簡単には見つからないから、現場のお坊さん自身が自信が持てないまま葬祭をやっている、というのが現状だと思うんですね。今、佐々木先生が言われたように、曹洞宗として答えを提示できるようなものがなかなかない。その辺が問題だと思います。
【椎名】 東京の近郊では、若手のお坊さん達は葬祭に明け暮れているようです。ここ四、五十年の間に檀家は三倍も五倍もどんどん増える一方です。ですから、葬祭屋さんになっちゃって、それだけ無難にやっていれば、どんどん収入があるわけです。したがって、梅花も坐禅会も写経も布教的なことはほとんど身を入れてする暇もないのが実情ですね。むろんやっている方もいますけれど。
ですから、お坊さん達の集まりでも、宗侶らしい発言は何も出てこないで、経営的なことは花盛り。お祖師さまでこういう偉い方がいたとか、仏教文化にこういう素晴らしいものがあるとか、そんな話をわたしはほとんど聞いたことがない。ちょっと情けない状態ですね。考えると、お金というものの力によってそうなってしまうんです。
ですから、僧は清貧なるべしという祖師方の言葉の素晴らしさというものをつくづく感じますが、それはそれとして、わたしは葬祭というものの重要性を、われわれ宗侶が本当にヒシヒシと自覚することが大切だと思います。実際に檀家あるいはその周辺の人ともっとも深く接触するのは葬祭の場なんですね。その機会を最大限に布教教化の場としなくてはいけない。葬祭にかかわるようなことであれば、檀家の人も聞く耳を持っています。真っ向から仏教の教義とか本質的なことをいっても駄目です。葬儀で具体的にやっていることに対して興味を持ってもらうようなお話の中で教義的なものを入れていく。
わたしは通夜でも普段の法事でもお話をしていますが、要するに葬祭はやらなくてはいけない、ありがたい大切なことなんだということを、普段から檀信徒に納得してもらう、理解してもらうということが、わたしは一番大切ではないかと思います。
●坐禅と葬儀は一つながりのもの
【佐々木】 都市部の人口の増えているようなところでは、お坊さんは修行もしないで葬式を専門にしていれば、それで布施がどんどん入ってくるという状況は、それ自体が本末転倒だと思うんですね。
歴史的な話をすれば、そもそもどうして曹洞宗のお坊さんに葬式を頼むようになったかというと、坐禅をし修行をしている人の法力、禅定力といったものが亡き人を浮かばせるというか、成仏させるのにあずかって力があるという感じ方、考え方がある。それを人々や社会が受け入れたから、葬式仏教と言われながらも、今のような状況が出てきたわけです。ですから、これは最後は、僧侶の自覚の問題に収斂されるのだろうと思います。
ところがそうした状況のなかで、また別の思潮が出てきている。それは、もう葬式仏教の時代は終わりつつある、これからは、本来のところに帰って教義を一生懸命勉強するとか、あるいはかつては托鉢だけでやっていたのだから、何かそういったお坊さんらしい生活をするほうがいいというような主張です。
そこでは葬儀というのは暗いものであり民俗的なものだから、それはそちらのほうに置いておいて、われわれは知識人の宗教者として、宗教文化を活性化するに当たってもっと教義を振りかざしていくべきだというようなことを言う。そして実際、布教師さんや中央から派遣された学者さんたちがそういうようなことを説くようになっている。
それは文化人類学者の上田紀行さんの、『がんばれ仏教』という本の影響もあって、非常に合理化した現代的なお坊さん像を追求しようという傾向です。上田さんはそれを「仏教ルネッサンス」とも言っている。
【浦辺】 それは両方やっていかないといけないのではないでしょうか。わたしは坐禅会で「無所得、何もならない坐禅」ということを強調しているわけですが、そうした坐禅を勤めることによって、お葬式への思いもまた変わってくるのではないかと思うんです。
うちでは数年前から摂心会も始めることができました。托鉢も自分一人だけですけれども、とにかく宣伝せずに歩いてみようかなと思って始めました。それから地元の曹青会を中心に三日間の眼蔵会を毎年開いていて、今年で二十二回目になります。最初は酒井得元老師に八年来ていただき、ついで水野弥穂子先生に三年、現在は兵庫の能勢隆之老師にずっと来ていただいています。そんなことも大事だと思っているし、もちろんお葬式も片手間にはしたくないと思っています。
【椎名】 今、葬祭と坐禅を分けておっしゃいましたが、それが実はつながっているんだということを論文できちっとお書きになったのが佐藤俊晃先生なんですよ。わたしもそれを一部受け売りさせていただいているんですが、葬祭を行として成り立たせているのは導師さんの力、宗教的な全体的な力なんですね。その力は一体どこから出てくるかというと坐禅だと思うんです。さらに作務とか托鉢とか、そういう基本的な行から出てきている。
それを考えますと、よく坐禅と葬祭は両極端だと思われますが、そうではなくてつながっている。わたしは、中国禅が専門なものですから、中国の語録なんかを読んでいて以前からそういう感じがしていたんですが、日本の場合、佐藤先生がきちっとそのことを論文で証明されましたので、わが意を得たりという気持ちです。
●死後にも人格は残るのか?
【佐々木】 ところで島田さんが葬式は要らないと述べているのは、日本人は葬式に世界一金をかけている、お布施が高い、戒名料が高い、そうした庶民の心情をおもんばかったところから発言しているのだと思いますが、そこでは、なぜ葬式をしなければならないのかという論点がやや欠けているような気がします。
人間は死んでしまったらただの骸(むくろ)に過ぎないという世界観をみんなが持つようになったら、葬式は意味がなくなりますよね。われわれ仏教者は、死んだ後にも死者は生前と同じような人格の所有者として存続するのだという大前提があるから戒を授けるし、釈尊のところへ送ってそこで修行していただきたいという願いを持つわけです。
その辺のところをもう少し聞きたいのですが、死者は死後にも人格を持ち、喜怒哀楽の情を持っている、だからねんごろに供養すれば死者の人格は仏の御子として喜んでくださるし、修行も続けていけるのだというふうな、そういうイメージというか、感性というか、あるいは硬い言葉では思想ですが、今そうした死後の存在に対する思想や観念自体が社会から薄くなりかけているのではないでしょうか。お坊さん自体も社会のそうした風潮というか、流れに影響されて、葬儀に自信を失い迷っている。
教義では、特に原始経典では死者の人格をはっきりとは認めていない。しかし現実には葬儀を勤めなければいけない。ですから死者の位置付けをめぐる観念をまずお坊さんのほうで、もっと突っ込んで考える必要があるのではないか。それがあやふやだと、「なんで葬儀をするのですか」と訊(き)かれたときに、「当たり前だ。葬儀をしなかったら、向こうに行って迷うだけだぞ」というようなことを言い切れるかどうか。
これを最初に堂々と論文に書いたのは、五来
重(ごらいしげる)という仏教民俗学者でありまして、お坊さん自体が、来世のことを信ずることができず、仏力のような力を信じていないから、祈祷も葬式も自信満々でやれないんだ。そこをまず反省すべきであるということを言っているわけですね。
その辺も宗侶の内側の問題として、葬式は行の一つだと、椎名先生からの話がありました。わたしもそういうふうに考えたいし、佐藤さんの論考もそういうことを言っておられるので、その辺のところを何となくタブー視してきている今の学会というか、知的仏教界の雰囲気というものを変えていく必要があるというふうに考えておりますが。
【佐藤】 一般に使われている言葉で言えば霊魂とか魂、明治時代には「神識」という言葉も使われたのですが、今の言葉で言えば「霊的な存在」、それをどう考えるかということですね。
じつは曹洞宗でも、そうした「霊的な存在」をどういうふうに前提として、われわれがやっている追善供養や葬儀を意味付けているのか検証しようと取り組んだことがあるんです。曹洞宗の公的な立場で、明治の初めころ霊について幾つか書かれたものがあるんですが、そうしたものも、今一度真摯に見直して、今の僧侶が直面している問題と関係するものとして取り上げる姿勢がないといけない。そうしなければ追善供養やお葬式といった宗教儀礼をやって、布施をいただいてお寺の経営を成り立たせているということの意味がまじめに考えられなくなると思います。
●遺族の安心を忘れている
【佐々木】 おっしゃるとおりですね。これは保坂正康さんというノンフィクション作家が息子さんを亡くしたときのお話なんですけれども、浄土真宗か浄土宗か分かりませんけれども、お寺に行って、息子はどこへ行ったんでしょうかと聞いたんですね。そうするとお坊さんは、無量寿経にはこういうふうに説かれています、阿弥陀経にはこうありますとただお経を紹介するだけで、お坊さん自身の確信として、間違いなくお浄土に行っているから安心しなさいとは言ってくださらなかった。あれでは遺族は非常に迷ってしまうと書いている。
それで保坂氏は結局どういうふうに自分で納得されたかというと、息子は二十歳で亡くなったけれども、自分と女房の心の中には永遠に生きている。その気持ちを尊重しながら、遺骨の埋められているお墓にも定期的に行って拝む。それから心の中とかお墓だけではなくて、遠くお浄土、仏界・仏国土というようなところにも息子がいる。そう二重に了解して、今わたしは生きていますと述べている。
この文章にわたしは非常に感銘を受けました。浄土教の影響があって日本に葬式が根付いたという説もありますが、西方極楽浄土への憧憬が日本人の心情にはあるということがよく理解できます。そして、お浄土にもお墓にも仏壇にも亡き人はいるという、こういう重層的なあの世観の中で、日本人は霊とか魂とかあるいはそれを総括したほとけ様という対象をとらえているのではないかと思う。
ところが、その辺のところがなかなか肝心のお坊さん方に理解されないんですね。空だ、無自性だ、縁起だというようなことはみんな勉強するけれども、現場での遺族の安心というようなものをないがしろにしてきたのではないか。
【浦辺】 死んだら何もないとおっしゃるお坊さんがおられます。
【佐々木】 それでは、葬式をする意味がない。
【佐藤】 布教師のかたでも、霊魂はお釈迦さまも道元禅師も認めておられない、霊魂なんてありませんと説法する方がいます。ところが、そう言っておきながら、お葬式をするときは曹洞宗の正しいお葬式をしてくださいと言うんですよ。
【浦辺】 ちょっと論理矛盾ですね。だって、何にもないのに、正しいも間違いもないじゃないですか。
【椎名】 今は資格さえ得ればもう住職になれるわけですからね。信仰の中身の問題ではないわけです。その辺に問題がありますね。
●何が若い僧侶をだめにした?
【藤木】 今、若い青年僧侶の人たちが、葬祭に自信が持てなくなってしまっているのはいったいどうしてなのか。宗門大学の教育でそうなってしまったのか、あるいは時代背景が関係しているのか、そういったことを一つ一つ解決していかなければいけないと思います。これは曹洞宗という宗門にとって、非常に大事な問題です。
寺檀制度の中で、菩提寺の和尚さんに戒名を付けてもらいたいという気持ちは檀家のなかにまだまだあると思う。そういうことを根付かせてきた歴史もあるし、それが死者の成仏とか遺族の安心につながっていくという共通認識がある。ところが、そういう意識をどういうふうに教化活動の場で育てていくかという努力がないし、そういった発想すらみられない。
すぐに宗務庁にそれを期待するのは無理でしょうから、一番身近なところで言うと宗務所単位でしょう。宗務所の僧侶研修講座がありますよね。
【佐藤】 現職講習ですか。
【藤木】 そうですね。宗務所長や役員の方々に問題意識があれば、そうした現職講習会などで葬儀の重要性を徹底的に教えるということもできるのではないでしょうか。
先ほどからお話に出ているように、島田裕巳さんのような仏教学者からも、葬儀のようなものは消えて行っても仕方がないというような主張が出てきている時代です。わたしたちはとにかく自分たちの牙城をどう守るか、どんどん崩されていくのを具体的にどう守るかという、そういう議論をしっかりやらないといけないと思います。
【佐々木】 今のは藤木さんの前からの持論ですね。理論理念レベルで論じるのも結構だけれども、現場での具体的な実践にそれをどう伴わせていくかということが大事だというお話です。
それで、今の状況を生み出したのには宗門大学の教育に問題があったのではないかという問いかけもあったわけですが、宗門大学だけではなく仏教学界のエリートたちがつくった近年の仏教研究なるものにも、わたしは一端の責任があると思います。
エリートたちの見解では、日本は葬式祈祷の仏教になってしまっているけれども、本来の仏教はそうではなかったというわけです。そのときに、釈尊をいきなり出す人と各宗派の宗祖、開祖を出す人とありますが、いずれにしてもそこから見ると、現在の宗門はまちがったことをやっているという自己否定が出てくる。
それからもう一つ、社会的背景の変化ということですが、これは明治、大正、昭和、平成と比べてみれば、脱宗教というか、「脱あの世」とでも言うか、あるいは世俗化と言うのか、それがどんどん進んでいることは明白です。それに対して、仏教界は研究者も現場も含めて、どう対応するかというところが遅れに遅れてしまった。それなのにいまだに、何とかなるという意識で来てしまっている。
【藤木】 そうした状況が常に底流にあるんですね。
【佐々木】 学者やメディアが何か深刻なマイナスのことばかり書くけれど、一カ寺一カ寺はちゃんとやっている、まだまだ大丈夫だとなってくるんです。そういうことで、現場の状況や意識の実態を知らずに、上では宗門改革の理念だけ論じて空回りしているところがある。だから本当はきちんとした総合的な意識調査を行う必要があるんです。前に宗門が能化者と所化者と両方にわたって総合的に調査をしたのはもう二十五年前の話です。その後、教化者の意識調査は十年ごとに調査しているけれど、教化の対象になる人々については二十五年前にやったきりなんです。わたしは、多少規模は小さくなってもやったほうがいいということを当局に進言しているのですが、予算の問題も絡んできますからね。
【藤木】 わたしは曹洞宗だけにこだわらず、どこかの新聞社とか雑誌社とタイアップして、ひろく読者に意識調査の輪を拡大してみたらいいと思います。アンケートも幅を広げて一般市民の葬祭観念だとか仏教文化に関する観念だとかも含めてですね。
存続の危機にさらされているのは曹洞宗だけではない、日本の仏教界全体の問題ですから、意識調査というのはそこまで広げたほうがいいと思います。
●仏作仏行としての葬儀
【佐々木】 最後に、椎名・佐藤両先生からなにかひと言。
【椎名】 今日は、生前受戒に真剣に取り組んでおられる浦辺老師から真剣なご質問がありました。それに対して、宗門ではこうなっているというような頭ごなしの話ではなく、問題を真摯に受け止めて話し合う機会を得たことは心からありがたいことだと思います。
わたしは、曹洞宗の宗門人としての一番素晴らしい命脈を支えているのは地方だという考えを、持論としてずっと以前から持っております。都会とか組織の中では駄目なのです。結局は素晴らしい方々が地方に点在しておられて、そういった方々の力で宗門の命脈が支えられているのだということを再認識しました。ですから、地方でまじめに努力している方々は、どうか大きな自信を持っていただきたいと思います。ありがとうございました。
【佐藤】 今日、お話を聞いていて思ったのは、幕末と明治の初めごろの近代の曹洞宗の禅者たち、例えば西有穆山(にしありぼくざん)といった方々ですね。あのころの人たちは『正法眼蔵』の提唱もするし、坐禅もしっかりやる。でも、お葬式もしっかりやって、そして幽霊が出たら、その幽霊の退散のさせ方まできちっと示しておられる。
そういうのは宗門の口伝とか、切紙の中できちんと伝えられていたはずなんです。幽霊を押さえる力、人を引導する力、亡くなった人を成仏させる力というのは、坐禅から来ているんだとか、あるいは『正法眼蔵』のこうした記述からそれが分かるというふうなことを自信を持って縦横無尽に説いている。今、わたしたちがやりたくてもなかなかできないことを、あのころの人たちはやっていた。
そうした伝統というものは伝えられていたはずなんだけれど、それがいつか、近年の宗門の学問の傾向というか流行みたいなものによって無視され見失われてしまった。とても残念な状況だと思います。
【佐々木】 今日のお話をまとめると、葬儀こそは仏教信仰への動機付けの一つであるし、また日本人の死生観や人生観の核をつくるのにあずかって大きな力を持っている。そして僧侶にとって、葬祭をすることは決して後ろめたいことではなく、仏作仏行としての葬祭であり、行としての葬祭なのだということを自覚し、そのことをわれわれは強調していかなくてはならない。これが一つ。
そのためには、宗侶自身の修行が必要不可欠なのであって、只管打坐の持つ力がそのままお坊さんを通じて発散され、檀信徒が合掌し布施するような葬儀になるのだということですね。今日の討論では以上のような重要なポイントを深めさせていただくことができたと思います。
【藤木】 長時間にわたって、ありがとうございました。
(平成二十二年二月二十六日収録)