いま問われるべき「僧侶の品格」

 宗教学者 正木 晃



 仏教界の危機が叫ばれて、すでに久しい。たしかに、いま、仏教界は未曾有の危機にある。それは、危機感をいだくいだかないの話ではない。危機そのものである。危機の実態は、二つある。一つは仏教離れ、寺離れ、葬式離れ。もう一つは宗教法人法の改定、わかりやすくいえば、これまでは特別な優遇措置がとられてきた宗教法人にたいする課税の強化である。
 この両者は、まさに暴流のごとく、仏教界を呑みこもうとしている。このままでいけば、そのあとに残るのは仏教の無残な痕跡だけだろう。やがて、仏教は歴史の教科書に、「昔は日本にも仏教という宗教がありました」と、過去形で書かれるようになるかもしれない。
 私の認識では、仏教離れ・寺離れ・葬式離れと宗教法人法の改定は、軌を一にしている。けっして別々の問題ではない。
 そもそも、仏教離れ、寺離れ、葬式離れの本質は、あるいは根本的な動機は、仏教や寺や葬式そのものにあるのではない。僧侶離れである。阿修羅像をはじめとするかつてない仏像ブーム、聖地霊場(パワースポット)ブーム、巡礼ブームをみれば、それは誰の目にも一目瞭然だ。映画『おくりびと』が大ヒットした事実を見れば、ちゃんとした葬式をして欲しいという声は、あいかわらず高い。ただし、「僧侶は要らない」という声が、どこでもかしましい事実が、大問題である。
 ベストセラーになっている島田裕巳氏の『葬式は、要らない』にしても、じつは葬式そのものにたいし、やみくもに要らないと主張しているのではない。葬式はちゃんとすべきだ。しかし、現状のような、亡くなられた方や遺族のことは二の次で、葬儀社が主導権をにぎり、僧侶がその利得にあずかるようなかたちの葬式は要らないと述べている。つまり、島田氏の『葬式は、要らない』の真意は、たぶんに「僧侶は要らない」なのである。
 宗教法人法の改定も、根底にあるものは同断だ。僧侶の行動が、いわゆる「坊主丸儲け」と指弾されるように、多くの国民から不審の目で見られているからこそ、現実の日程にのぼってきている。もし僧侶の行動一般が、国民から「さすが立派な宗教者だ!」と敬意をもって受けとめられているならば、「坊主丸儲け」とは誰もいわず、ましてや宗教法人法の改定など、提起されるわけがない。
 しかし、残念ながら、現実は異なる。この期に及んでも、どの宗派宗門といわず、僧侶の品格を問われかねない事例が、はっきりいって、かなりある。そのなかには、金銭の授受や遊興や飲食はもとより、日常的な生活態度において、ここに書くのをはばかられるくらい、ひどいケースも見聞きする。俗人よりもはるかに俗な行動をとりつつ、「まじめだけが僧侶じゃない。われこそは、酸いも甘いも知り尽くした、良い僧侶だ」と、居直っている者すらいる。
 むろん、それはごくごく一部にかぎられる。しかし、そのごくごく一部の行動が、宗門全体の評価にあたえている影響は甚大である。
 また、そういうひどい事例が、本来なら指導的な立場にあるはずの年長者にもないではない。宗門の支部会などで、いやおうなくそれを目の当たりにさせられた若年者たちが嫌悪感をいだいて、年長者との交流をこばみ、宗門の結束にマイナスに働いているという話も耳にする。
 他宗派の話で恐縮だが、この件にかんし、日蓮宗ではすでに対策を講じはじめている。去る一月二十六日、日蓮宗宗務院において開催された「次世代教化研修会」では、私が「生活仏教のすすめ〜智慧と実践」と題して基調講演をおこなったあと、三十歳/四十歳代/団塊世代というぐあいに、席をならべかえ、互いに問題点を指摘しあうという挙に出た。この種の研修会としては、異例の措置である。
 そこで提示された結論は、問題を解決するための根源は、やはり僧侶の品格にあるということだった。僧侶に、僧侶としての品格なしに、仏教界はなにごともなしえないのである。この点を、世代を超え、あらためて確認できたことは、大きな成果だった。
 昭和の御代、労働運動の華やかりしころ、教員は聖職者か労働者か?という論争があった。実際問題としては、両面をもつに決まっているが、とかく労働者としての面ばかりが強調され、聖職者としての面がなおざりにされがちだった。その結果、教育の荒廃がもたらされたことに、疑いのよちはない。
 その点、僧侶は聖職者だということは、まったく論をまたない。そして、聖職者ならば、聖職者として、だれ恥じることのない行動をとらなければならないことも、まったく論をまたない。
 私は、その後、日蓮宗からもとめられた原稿に、とくに若手の僧侶にむけて、いわば檄文を書いた。これは、なにも日蓮宗だけに限った提案ではないので、参考までに、多少の文言をかえるのみで、そのまま引用したい。
 みなさんは日本仏教界の精鋭である。日本仏教界をリードするエリート集団である。みなさんが率先して、伝統ある宗門の僧侶しての自覚と誇りをもち、品格ある僧侶としての行動をとるならば、宗門の未来はけっして暗くない。逆にいえば、みなさんが品格ある僧侶としての行動をとらないならば、ひとりわが宗門のみならず、日本仏教界の未来はない。結論は明らかだ。品格ある僧侶の寺院は生き残り、品格なき僧侶の寺院は淘汰される。これは祖師がたの教えといとなみに照らして、確実である。


「僧侶の品格」の五条件

@僧侶は聖職者であるという自覚をもっていること。
 すなわち、僧侶としてのけじめは付いているか否か?つねに自問自答すること。現在の日本では、釈尊時代の戒律をそのまま順守することは不可能に近い。したがって、現実的な対応としては、聖なる時間と俗なる時間を生き分ける覚悟が必要になる。

A修行に完成はなく、自分はまだ途上にあるという自覚をもっていること。
 「自分は偉いのだ」というような、増長慢などもってのほか。言動や態度などにおいて、つねに謙虚でなければならない。謙虚さこそ、真の敬意を生む。僧侶の多くは、ともすれば社会性に乏しく、壇信徒から学ぶことも多々あることを認識する必要がある。

B僧侶にとって、いちばん大切なものは、地域とのかかわりであり、僧侶は地域の精神的指導者であるという自覚をもっていること。
 その際、対治ではなく、同治の立場にあることが重要。すなわち、悩み苦しみ人々にたいしては、相手を否定して、一方的に指導するのではなく、まず相手を肯定し、共感した上で、あいともに問題解決の道をさぐる。

C宗門の専門家だけでなく、檀信徒にわかる、やさしい言葉で、仏教を語れること。
 いかにも偉そうな顔をして、専門用語や難しい言葉を使わず、しかもより具体的に、実践に即して、話をする。もちろん、実践をともなわない言葉は、なんの意味ももたない。

D金銭や物質的な欲望に執着しないこと。
 僧侶として当然のことだが、かつてはいざ知らず、現代のような欲望肯定の社会では、順守するのがもっとも難しいことでもある。同時に、世間の目がもっとも厳しく注がれている領域でもある。「清貧」とまでは言わないが、僧侶としての分を超えず、つつましくあれ。