仏教文化研究の課題
――「霊」の説き方考――(8)
駒澤大学名誉教授・文学博士 佐々木 宏幹
一、お盆とお彼岸にちなんで
日本人にとって八月と九月は「仏教の季節」である。盂蘭盆会と秋の彼岸会とが連続して営まれる両月だからである。
今年も八月中旬の十日間程は、全国の主要道路の大渋滞が予想されている。
盂蘭盆会と彼岸会は仏教行事だが、行事の中味は「死者供養」である。
仏教語の「供養」は、「尊敬の念をもってねんごろにもてなすこと。具体的には仏・法・僧の三宝や父母・師長・亡者などに香華・灯明・飲食など物を捧げること」と解説されることが多い(『各種仏教辞典』)
仏教の理念からすれば、「供養」の意味は右のとおりなのだが、檀信徒や世間一般の人びとにとって、とくにお盆とお彼岸の供養は専ら亡者(死者)と先祖にたいするものである観がある。
盆や彼岸には「お寺参り」をすると答えた人びとの行動を調べてみると、「お寺参り」の主な目的は、「墓参り」であるか、「墓参り」のための「塔婆」を寺で受けとるためであることが少なくない。つまり「お寺参り」は人びとの身内や縁者の「死者・先祖」供養が主な目的なのであり、仏・法・僧の三宝の供養は、主な目的をはたすための手続きになっているというのが実情のようだ。
具体的には、墓に建てる塔婆は寺で行われる儀礼によって、仏・法・僧の功徳(力)を帯びている物であるから、墓に在す死者・先祖を喜ばせ、安定させうるとの認識を人びとは共有しているということである。
この仏教の理念と結びついた死者・先祖供養という宗教形態こそが、日本仏教の特色であり、僧侶と寺を下支えしてきたものであることについては、本『仏教企画通信』において視点を変えながら何度も記してきた。
ところで、「死者」、「先祖」という語はまた「死霊」とか「祖霊」の語で示される。
死を看取ることの多い医師にとって「死者」はすなわち「死体」または「遺体」を意味するだろうことは言うまでもあるまい。彼らは「死体」、「遺体」の意味で「死者」の語を用いることが多いのではあるまいか。
「死霊」についてはどうか。現代医学用語のなかに「死霊」の語があるかどうか、私は知らない。多分、「死体」、「遺体」の意味での「死者」はあっても、「死霊」の語は欠けているのではなかろうか。
いま私は、「死者」は「死霊」とも呼ばれる(語で示される)としたが、他方で医学用語には「死者」(死体・遺体)の語はあっても「死霊」の語は欠けているのではないかとした。
ここではっきりしたことは、「死霊」は医学(または科学)の領域を超えた存在、つまり宗教の領域に位置する存在であるのにたいして、「死者」は「死霊」を指すとともに「死体(遺体)を意味するという点で、科学(医学)と宗教の両者に関わる、いわば両義的存在であるということである。
重要なのは「死者」の語が「死体(遺体)」つまり「物」体を意味すると同時に物を越えた「霊」体を示すというダイナミックなありようではないか。
この「死者」が含意する医学的―宗教的両義性は、医療関係者にとっても宗教者にとっても実に重要な性格であるように思われる。
私はかつて東京のある大病院で、さる人の臨終に立ち会った主治医が、看護師と一緒に地下の霊安室を訪れ、遺体に向かって懇ろに合掌したことを目にしている。
合掌した彼らの心に去来したのはおそらく「死者」であったのではなかろうか。
また私は知人の葬儀に出る機会が最近とみに増えているが、通夜の儀礼の前後に僧侶が行う説教では「仏教の葬儀は死せる人=i故人)をみ仏の世界にお送りする儀礼である」旨を述べるのが一般的である観がある。
僧侶により表現にヴァリエーションがあるのは当然だが、「死せる人」とか「故人」という表現は、「死体(遺体)」とは異なるし、「死霊」とも違う。
この場合の「死せる人」とか(故人)は、さきに問題にした「死者」に重なるように思う。
既述のように私は「死者」は医学的な「死体」と宗教的な「死霊」とを共に包摂する語であろうとした。「死者」の語は場合により「死体」の、またときにより「霊(体)」の同義語として使用されるからである。
それでは通夜説教において、僧侶が「死体」でもなく「死霊」でもない、死せる人=i故人)=「死者」の語を用いることが多いのは、どういうわけであろうか。「死者の霊」(死霊)の語にある種のためらいがあるからであろうか。「霊」の語におどろおどろしさが付きまとっているからであろうか。近代合理主義の影響であろうか。
他方、盂蘭盆会に行われることの多い施食会では、「三界萬霊等」の牌を安置し、檀信徒用の塔婆には「〜居士霊位」と記すのが一般的である。
いずれにせよ今日、「霊」の語で示される対象の意味は改めて検討するに十分価するのではないか。
二、人間と「霊」感覚
「霊」という語は、現代人とくに理や知にこだわるエリートにとっては、おどろおどろしくまがまがしい対象に映るようである。エリートが書く宗教についての文章を見ると「私は宗教はもっていない(あるいは関わらない)が……」とまず自己限定をした後、宗教について論じることが多い。
詳しく分析した結果ではないが、そうしたエリートの思いには宗教を「霊」や「呪力」と同一視し、そうしたおどろおどろしい領域に踏みこむことはエリートとしての沽券に関わるとの誤解または偏見があるらしい。
彼らは「人間」を近現代の理・知の枠内でしか捉えられないという傾向から逃れられないようだ。
もっとも「霊」なるものにはエリートだけではなく一般世間の顰蹙を買うような事態(たとえば霊感商法など)を引き起こす可能性もあることは否定できない。霊がまがまがしい存在と見られるゆえんである。
それではエリートなる人びとは霊から完全に自由でありうるかというと、答えは否である。どんな知識人・文化人も「霊」なるものに否応なく関わらざるをえない時が、人生には必ずある。人の「死」である。
身内の人や親しい者(ペットも含む)の「死」に直面した際、人びとは好むと否とに関わらず非日常的な時空に直面し、引きずりこまれる。「死」は日常的に営まれている人間関係(社会)を構成する個人または集団の存在性が欠除することであるから、「生」者は当然非日常性が支配する時空を経験せざるをえない。
どんな知識人でも例外を除いて、おのれの「死」を喜ぶ者はいまい。
その好まない「死」が親しい者に生じたとき、残された人はどう対処するか。対処法は各社会の葬儀文化に拠ってきたことは、人類史が明らかにしてきたとおりである。
これを現代の場合について見ると、葬儀は「生者」であった「人」(ペットでも人扱いされることが少なくない)を「死者」と認め、現世(この世)から来世(あの世)に遷し安定させるための一連の手続きである。「お別れの式」とか「告別式」の呼称が、そのことをよく示している。
葬儀において死者に捧げられる別れの挨拶が弔辞であるが、読み手は死者を「生きている人」として語りかけ訴えるのが常である。
この際、読み手も聴き手(参列者)も一様に非日常的な雰囲気に包みこまれる。なぜか。「死」自体が非日常的であり、「死せる人」を「生きている人」=「死者」として扱うことが非日常的であるからだ。
そしてこの「死してもなお生きている人」を表現する用語が「死霊」である。
「死してもなお生きている人」とは何か。
この表現自体が矛盾していると指摘する向きは少なくあるまい。そういう批判者は「死者=霊」を日常的な時空で合理的(科学的)に説明しようとしているのではないか。「霊」を知性一辺倒で証明し尽くそうとしているのではないか。この方法による限り、「死者=霊」は現成しないはずだ。
それは「机の上にリンゴがある」という類の認識方法を、非日常的な次元(広義の宗教的次元)に無理矢理押しつけようとしているからである。
宗教的な時空、次元は科学的知性では把握し切れない事柄で満ちみちている。どうしたらその次元に接しうるか。「死者=霊」を鋭敏に感覚する感性こそが根本条件ではないか。知性よりも感性・感覚の問題である。
さきの例で言えば、「机の上にリンゴがある」と認識することではなくて、「リンゴのいのち=vを感覚することである。
この感覚のはたらきは、たとえば掛替えのない独り息子(娘)を失った母が、この遺体や遺骨、位牌、遺影あるいは墓に親しく語りかける場面などに示される。
なかには「死んだ子が母さん頑張れ!と語りかけてきた」という事例もある。「そんなこと気のせいだよ」と一蹴する立場もあろう。
しかしこうした立場に固執する限り、「死者=霊」は言うに及ばず、宗教(精神)世界の重要部分を遠ざけてしまう結果をもたらすこと必定と言えよう。
これまで述べてきた「死後にもなお生きている人」つまり「死者=霊」は人類によって太古から感覚され経験されてきた「実在」であると論じたのは、心理学者C・G・ユングである。ユングは「死者=霊」に相当する語として「不死」を用いている。
彼は不死(死者)の観念は全地球上に遍在する心的生活の特徴であるから、それが「真実」であるとの証拠を必要としないと述べる。また彼は不死の観念は人間の心が正常に機能するのに必要なものであると納得すべきものであり、それ以上のところまで踏み込んで、不死が本当に存在するかしないかについて一つの見解をあえて述べようとするのは、いくらか愚鈍な人間だけだろうとしている。
さらにユングは「不死について考えることは正常であり、それらを考えないこと、あるいはそれを気にしないことこそ異常である。誰もが塩を食べるのであれば、それは正常な行為であって、食べないことは異常なのである」と論じている(C・G・ユング『オカルトの心理学―生と死の謎―』島津・松田編訳、サイマル出版会、一九八九)。
ユングは「死後にもなお生きている人」つまり不死の観念や感覚を「神話的観念」とも呼んでいる。人類の始源より遍在する観念・感覚であると捉えているからである。
しかも人間の心が正常に機能するのには「不死=死者」が必要であることを強調する。
私はユングの右の見解は、葬祭の意義や役割を問題にするときに、大変参考になる内容を含んでいると考える。
葬祭はそもそも「死者=死霊」を認めることなしには成り立たない宗教文化であるからだ。
ところがエリートはもとより僧侶のなかにも「死者=死霊」の存在を訊かれて答えに窮する人が現に少なくない。どうして窮するのか。もともと科学的な証明の及ばない神話的(宗教的)領域を知的に証明しようとするからである。
ユング流に答えるなら、それは人間であることに伴う「心の真実」であり、これを軽はずみに否定したりすると心が正常ではなくなりますよ、ということになろう。
この国の現代社会の殺伐たる状況は何に起因するか。答えは決して単純ではない。十分に答えるためには詳細な調査と検討が必要である。
とは言え、現代の非倫理的な社会的状況と宗教者が「死者=死霊」を積極的に説けなくなったこと、または説き難くなったこととの間には何らかの相関関係があるのではないかという問題は、よく検討するに価すると考える。
エリート僧ほど「無我・空」のような仏教的理念と「死者=死霊」を直接突き合わせて問題化し、その矛盾を声高に指摘し、やがて両者の関係の問題から腰を退くにいたる観がある。腰を退きながら、葬祭は営まざるをえない。なぜか。一般生活者が仏教・僧侶に求めるのは、なお「死者=死霊」感覚に立つ死者の死後における安泰であるからである。
僧侶は死者=死霊の有無について説くよりも、むしろ「普遍的な心的真実」である死者=死霊の認識・感覚が弱体化すると、人間存在自体が持たなくなることを強く説くべきではないか。
一神教を信奉する社会ではないこの国の一般生活者にとって「宗教的なもの」とは何か。一般的には諸神諸仏であるとされようが、諸仏のなかでも人びとの宗教行動を促す対象は何か。
それは「仏」と重なっている「死者=死霊」または「祖先=祖霊」ではないか。「ほとけ」と呼ばれる宗教的対象である。
墓参りをする人約九〇パーセント、仏壇を拝む人約八〇パーセントというパーセンテージが日本人の仏教的行動の特色をよく示している。「仏」と連動する「ほとけ」をこそ仏教者は重視すべきであろう。「ほとけ」こそは人類の始源より遍在する宗教観念・感覚の上に築き上げられた日本仏教的な宗教的存在であるからだ(「ほとけ」の概念については拙著『〈ほとけ〉と力―日本仏教文化の実像―』吉川弘文館、二〇〇二、『仏力―生活仏教のダイナミズム―』春秋社、二〇〇四参照)。