ドイツの地に曹洞禅の種を蒔く

 ドイツ南部のミュンヘンからさらに東に百キロ、アルプス台地の美しい自然のなかに、瀟洒な曹洞宗の禅道場がある。正式名称を「ドイツ大悲正法山興聖普門寺」という。
 この禅道場はなにも、曹洞宗の宗務庁や大本山が企画して設立したものではない。
 無名の一宗侶にすぎなかった中川正壽師が、幾多の困難を乗り越えて建立したものだが、それは中川師の曹洞禅に対する一途な思いの結晶でもある。
 少し離れてみたほうが、物の姿はよく見えるという。世界の宗教の中で曹洞禅はどのあたりに位置するのか、グローバルな視点からお話をうかがった。


●酒井得元老師の門下へ

【編集部】 中川さんは昭和二十二年のお生まれで、お寺の出身ではないのですが、そもそもどうして出家されたのですか?

【中川】 わたしは京都の妙心寺の近くに生まれたものですから、小さいころから托鉢する雲水さんを見掛けると、十円玉をお坊さんの鉢に入れたりしていました。中学、高校時代はドストエフスキーとかヘルマン・ヘッセとかもっぱら西洋文学をよく読んでいましたが、倉田百三の『出家とその弟子』や親鸞聖人の『歎異抄』を読んでその思想にも惹かれていました。
 禅に深くかかわるようになったのは十六歳のときで、のちに花園大学の学長になられた盛永宗興老師に友人のおじさんが参禅しているという話を聞いて、わたしも老師に指導していただくようになりました。

【編集部】 十六歳で高名な老師のところへ飛び込むというのは、ずいぶん積極的ですね。

【中川】 わたしはずっとそういうことばかりです。厚かましいやつだと思われても、偉い方だと思ったらすぐ飛び込みました。

【編集部】 当初は臨済禅に興味があったのですね。

【中川】 柴山全慶老師とか山田無文老師が活躍されていたころですからね。曹洞宗に興味を持ち始めたのは、わたしの兄から澤木興道老師の事を聞いたのがきっかけです。その頃「朝日新聞」日曜版に内山興正老師のコメントとともに澤木老師の記事があって、兄と一緒に泣き笑いしながら楽しみに読んでいました。その後まもなく澤木老師が遷化されて、『大法輪』で特集号が出た。その特集で、「求道」という言葉に出合い、これだと自分の道が分かったんです。それが大学受験のときでした。

【編集部】 それで慶應大学に行かれた。哲学科でしたか?

【中川】 そうです。禅を学びたいと思っていましたが、慶應には専門の先生はおられなかったので、一応、西洋哲学のほうに入ったんです。その後、慶應が総合講座というのを始め、いろんな分野の外部の先生たちが一年交代で講座を受け持つようになった。その中の一人の海野厚志先生が西洋哲学と道元禅師の話をされて、非常に感銘を受けたものですから、すぐに教壇に飛んでいって話を聞いた。その時に禅を知るには修行をしなくてはいけない、私のついている老師の所へ連れて行ってあげようと言われて参禅会に出掛けました。それが酒井得元老師との出会いでした。

【編集部】 それが十八歳のときですね。

【中川】 はい。海野先生は天台宗のお寺の長男でしたが、まず『正法眼蔵随聞記』、それから『正法眼蔵啓廸』から読みなさいと言われ、いろいろ本を教えていただいた。それ以降、月に七、八回は酒井老師の参禅会に行きました。

【編集部】 それは駒澤大学の坐禅堂でしたか。

【中川】 いえ。酒井老師は都内寺院十三ヶ所くらいで参禅会を持っておられたので、泉岳寺とかいろんな所へついて歩いていました。

【編集部】 追っ掛けですね。

【中川】 わたしは、そのころ虚無僧になろうかと思うぐらい尺八をやっていまた。それから恋愛もしてましたしね。忙しかった(笑)。親の仕送りでお金には困りませんでしたが、何のために生きるかという人生の意義に一番悩みまして、どう生きるかということばかりに関心があった
 参禅会で聞く老師のお話は分からないことばかりでしたが、それなのにずしんと心に響くということを何回も体験しました。道を求めるという心の動きに揺さぶられ、それが熱い・燃えるような感情になって、恋愛という形で突き詰めるということもありましたし、モーツァルトやバッハの音楽に出会い世界がひっくり返るような心の体験もしました。人はみな何も分からないで、とにかく生きることに一所懸命あがいて、その結果お互いに傷つけあっている。若いときにはそういうことが心の目で直感的によく見えましてね、非常に悲しかった。それで、人々の悲しみを心に抱いて修行していく坊さんになりたいと思いました。
 それで、大学の四年生のときです。父親、母親、兄弟に皆集まってもらって、これまでお世話になりました、何月何日、わたしの出家得度式があるのでぜひ来てくれと、電撃でやってしまった。

【編集部】 反応はいかがでしたか。

【中川】 みんなびっくり、言う言葉がなくて、あっけにとられていた。

●永平寺で思いがけない出会い

【編集部】 それで酒井得元老師のもとで出家得度された。

【中川】 そうです。それで慶應を卒業後、駒澤に来いと言われた。仏教学部に編入すれば良かったんですが、大学院にすぐ入りましたから、仏教学は何も分からない。大正新脩大蔵経があることも知らない。お経も読めない。それで兄弟子のおられる世田谷の勝光院でお世話になりながら、短時間にすべてを覚えようとした。毎朝四時に起きて坐禅、応量器で食事をして、墓掃除の後、大学に行き勉強して、その後の参禅会には一度も欠かさず出ました。そんな生活をしていたら、線香花火みたいに短い間に燃え尽きてしまったという感じで、すぐに体を壊してしまいました。それで本山に行くのも延びた。

【編集部】 永平寺ですか。

【中川】 そうです。永平寺に四年近くいて首座と書記を勤めました。
 出家得度以降は洋服も靴も持たず、古風な雲水姿で通しました。自分は在家から出た者ですから、お寺のことは何も知らない。理想だけで出家しましたので、日本のお寺の在り方、お坊さんの在り方に非常に不満を覚えていた。それで、自分が信念とし、間違いないと思っている道元禅師の教え、坐禅が、世界に通じるかどうか試してみたい。自分たちは普遍妥当だと主張しているけれども実際にそうだろうか、世界で試して自分の体で納得してみたいと思うようになりました。
 そんな時に永平寺に参禅に来たドイツ人女性の面倒を見ることになり一緒に坐禅をしました。

【編集部】 おいくつぐらいのときですか?

【中川】 接茶寮の接司をしていた二十八歳の時です。いろいろと禅のことを教えようと思ったら、結構よく知っていてドイツで接心もしていると言う。非常にびっくりしました。その後お互いに次第に好意を持ち合うようになりました。当時わたしはアメリカかイギリスの禅センターに行きたかったのですが、ことがうまく運ばなかった。そうしたら文通で交際を続けていたその人からそれならドイツに来てみないかと誘われたので、思い切ってドイツに渡ってみることにしました。お寺も、人脈も、お金もなしで飛び込んだんです。
 昭和五十四年、三十一年前の事でそれ以来ずっとドイツで活動しています。

●ドイツで試行錯誤の連続

【中川】わたしはドイツ語ができませんでしたから当初はドイツ語教室に通い、まず、澤木興道老師と内山興正老師の弟子のヴィアレーさんがフランクフルトにつくった禅堂で、指導と接心をしました。次にミュンヘン郊外にある心理学の先生がつくった小さな禅センターに呼ばれました。

【編集部】 心理学の先生がつくった禅センターとおっしゃいましたが、西洋では心理療法と坐禅とが結びついているようですね。

【中川】 禅に関心のある人は心理治療、瞑想、ヨガとかにいろいろなつながりを感じています。心理療法家自身が自分の心の糧として、心理学では足りない宗教的な根っことして坐禅をするという人が多いです。必ずしも仏教徒になるのではなく、キリスト教の信仰の中で瞑想をするということです。ドイツには特にラサール神父やドゥルックハイム博士がおられたから。

【編集部】 上智大学におられたラサール神父ですね。

【中川】 そうです。ラサール神父は原田祖岳老師について小浜の発心寺で修行され、原田老師が亡くなられてからはお弟子の安谷白雲老師、ついで三宝教団の山田耕雲老師について公案をすべて修得したという人です。その影響で、カトリックの神父やシスターたちがたくさんドイツから日本に来て参禅していた。ですから、ドイツではカトリックの神父たちが禅を指導することが定着しています。

【編集部】 フランスで弟子丸泰仙老師が禅の布教を始めておられたころですね。

【中川】 はい。弟子丸泰仙老師にはぜひお会いしたいと思っていたのですが、お会いできずに終わりました。

【編集部】 それから現在の布教の拠点である普門寺の設立にいたるまでには、まだまだ紆余曲折があったわけですか。

【中川】 そうです。心理治療を根っこに置いている禅センターでの禅の指導は本来の禅とはそぐわないし、自分の道場がほしいと思いました。それで、父親が亡くなって入った少しばかりの遺産でアルゴイ地方で見つけた一軒家を購入し、坐禅道場にしました。その頃は本当によく坐禅をしていました。一人で二週間の接心を何回かして、接心が終わってドアを開けたら雪が一メートルも積もっていてびっくりしたこともあります。(笑)

【編集部】 それを知らずに坐禅をしていたんですね。

【中川】 一週間分のご飯を炊いて、それに梅干を入れてお湯をかけて食事は終わり。外には出ませんからね。そうこうしているうちに、以前、出張で坐禅を教えていた人たち十四、五人も加わって接心を続けました。初心者は一日八?、中級者で十二?、あとの人は十四?。必ず結跏か半跏趺坐することになっていて、できない人は呼ばない。非常に充実していました。苦労して坐禅した仲間は今も続いています。わたしにとっても非常に大きな転機になりましたし、そのころの経験が今も根っこになっています。
 ところが、体を壊しましてね。しりもちをついて、尾てい骨を散々に打って筋肉収縮異常を起こし、何年間もまともに坐禅ができなくなった。いろいろな治療、とくに深層筋肉のマッサージなどをしてようやく回復したのですが、その間にアルゴイの家を手放してミュンヘンの市内に直心庵という禅道場をつくった。そこで指導をしながら、一緒に接心をしていた人たちといっしょに新しい道場探しをして、ついに見つけたのがアイゼンブッフにある今の普門寺の原型になる家なんです。

● ティク・ナット・ハン師との出会い

【中川】 当時わたしが一番悩んでいたのは、坐禅の指導法です。これまで結跏、半跏趺坐のできる人だけを対象に指導してきましたが、体を悪くして坐禅ができなくなり、事情があり坐ることができない人達を坐禅から排除していたことに気づきました。そういう課題を抱えていた頃に、ティク・ナット・ハン師に出会いました。このベトナム人僧侶が発散する人格の力に非常に圧倒されました。
 この方は、ベトナム戦争のときに敵味方を超えた国際的な平和運動をされていて、ノーベル平和賞候補になったこともある人です。今でも世界では、ダライ・ラマの次に一番よく知られている仏教僧です。わたしは、その方を通して、「癒しとしての仏教」に出合いました。日本での禅の修行は鍛えることですよね。トラが子どもを崖から落として、はい上がって来た子どもだけを育てるというような感じの指導をします。ところがこのティク・ナット・ハンという人のやり方は、本当に悩んでいる人の懐に手が届くような、そういうタイプの修行です。

【編集部】 具体的にはどういう修行ですか?

【中川】 まず全然坐禅を強制しない。それぞれが自分の呼吸に目覚めて、心を落ち着けていくというような修行。ですから、どんなことでも心を込めて生活する。相手を思いやる話の聴き方、話し方、生活の仕方、コーヒー一杯、散歩にいたるまですべてに心を集中し、気付きの生活を送る。そういう仏教の根本の教えを日常のなかに展開しておられた。非常に徳のある人ですから、アメリカから一回のリトリート(修養期間)に参加するため当時四百人、五百人の人が師の活動の本拠地のフランスに来ていました。

【編集部】 ベトナム戦争では敵だったアメリカからというのはすごいですね。

【中川】 そのティク・ナット・ハンさんに出会ったことが、のちの普門寺の二つの柱の一つの健康と瞑想になるわけです。一つは日本の伝統的な坐禅の道。もう一つは、生活全部を目覚めとして、癒しと健康の道を修行していくということです。

【編集部】 今の日本仏教でも、それは大事かもしれませんね。

【中川】 そうだと思います。坐禅をする前に、まず心も体も健康になる道をちゃんと身に付けないといけない。それで普門寺ができてからは、まずは禅の接心のほうをわたしが固め、レリア・ヴェッカーが癒しの方を中心に担当するという形で活動をしています。

●「建物と出会う」という不思議

【編集部】 普門寺が設立されたアイゼンブッフという場所とは、何かご縁があったんでしょうか。

【中川】 ドイツには土地・建物の使用目的を制限する法律があるので宿泊可能な禅センターとして使える可能性のある建物は最初からあまりないのですが、参禅会のメンバーといろいろ探して、三十件くらい物件を見てまわりました。たとえ購入できたとしても異教徒のセンターが近所にできるのは嫌だと地方自治体が強い反対をして挫折する可能性もあるし、もう諦めかけていた頃、不動産屋さんに、ちょうどあなたの探しているような物件があると言われて見に行った。それがホテルに改装されていた農家で、現在の「普門寺」です。
 最初に見に行って、道の端に立った瞬間に感じるところがありました。まだ家の中は見ていないのに、これだとすっと分かった。さらには自分がなぜドイツに来たのか、何で今の世に生まれたのかということも分かりました。こここそ自分の道場だと思って、もう雲の上を歩いているような気分だった。人に出会うのと同様、「建物に出会う」ということもある。

【編集部】 不思議なものですね。

【中川】 ぼろぼろの家なのに結構な値段だしさらに改修費がかさむ。周りの人はみな反対しました。それでも親の遺産をつぎ込んで買ったのですが、その先はお金がないんですよ。寄付を頂くことで法縁を結ぶ、それが普門寺の基礎になると思って多方面に寄付をお願いしました。それで、酒井得元先生をはじめ澤木興道門下の人たちや有縁無縁の御寺院の方、一般の方、そしてもちろん欧州の人達からも寄付を戴き改築を進めた。御開山になっていただいた宮崎奕保禅師にも何回か多額な寄付を頂いて、屋根の作り直しをしたりしました。作務を中心に改修を進めたのでとても大変で十年近くかかりましたが。

【編集部】 広さはどれぐらいですか。

【中川】 田舎の牧草地が安く買えたので土地は一万五千平方メートルあります。裏は陽あたりのよい池のある窪地までが寺の境内ですが、その先に続く野鹿が出入りする丘や森、トウモロコシ畑などのどかな風景を臨むことができます。
 建物は、千五百平米。本館と別館があって、本館には屋根裏を改装して作った伝統にのっとった函櫃(寝具を入れる戸袋)を備えた僧堂があります。別館のほうは元プールだったところに床を張って作った本堂があり、客室(有料)もあり宿泊することができます。

●人々の信用を得た作務

【編集部】 地元の方々の理解はどのようにして得られたのですか?

【中川】 普門寺がある地区の神父さんが、そばに仏教センターができることを心配して村の人たちが騒いでいるから話をしに来てくれと、近くの修道院長に頼まれた。日本の三宝教団で参禅したことのあるそのカトリックの修道院長さんが村の人たちに、仏教の坐禅はすばらしいし、曹洞宗は日本で非常に社会的信用の高い教団だから問題ないというような話をしてくださった。
 それから、ドイツでも指折りの聖オッティリエンという大修道院がありまして、一九七九年の「霊性交流」で瑞応寺の楢崎一光老師が来られ、八一年には換わりにそこの大修道院長と修道士の方々が永平寺や瑞応寺を訪ねられました。その大修道院長に推薦の手紙を書いていただくことができ、その手紙が地元の新聞に全文掲載されたんです。

【編集部】 それが効いたんですね。

【中川】 はい。それから、改築のために業者の人が入るんですがその時にわたしたちも一緒に働いている。汗水垂らして仕事をしているのを見て、これはまじめな人たちだと。それから、たまたま隣の農家の人が来たとき、わたしはちょうどトイレ掃除をしていた。ボスがトイレ掃除をしていると農家の人はびっくりしていましたが、禅宗の作務のおかげで非常に信用を得ました。
 とりあえず建物の基礎ができて、開所式をしたのが一九九六年十月のことです。
 そのころから秋祭りや春祭りをするようになりました。坐禅や仏教関係の催しだけでなく、禅に関心のあるプロの音楽家にミニコンサートをしてもらったり、茶道、生花など毎回充実した文化プログラムで地域にも密着したイベントになりました。
 それから、日本人のすぐれた造園師の弟子がいるので、彼に日本庭園を造ってもらったところ、四年に一度州政府が厳選した庭を公開する「ガーデン公開の日」に庭園を一般公開する依頼を受け、この庭園を公開しています。州政府主催の大きな催しですから、これまで、セクト(過激な宗教集団)かと思われて警戒されていた「普門寺」に対する敷居が一気に取り払われた。前回は、一日で二千五百人の人たちが来てくれました。その結果、わたしが教会に呼ばれて話をしたり、スーパーマーケットへ行くとわたしを知っている人々が挨拶をしてくれるようになりました。

【編集部】 その後も増改築を進めて、落慶法要にいたったのはいつですか?

【中川】 本堂のほうは一九九八年、坐禅堂の開単式とわたしの晋山結制は二〇〇六年です。

【編集部】 宮崎禅師を御開山に拝請されたということですが、何かご縁があったんですか?

【中川】 わたし自身は直接はありませんでした。いろんな方々にご尽力いただきました。なかでもとりわけ私のために真摯に仲介の労を取ってくださった方の強いお力添えもあり普門寺の御開山をお引き受けいただきました。宮崎禅師さまご自身、普門寺の御開山になることを大変喜んでくださいました。

【編集部】 それが、普門寺が永平寺の直末寺となるというご縁になったわけですね。

●ドイツでは仏教は未公認

【編集部】 現在の活動のほうに話題を移らせていただきます。日常はどのように過ごしておられますか?

【中川】 わたしはよく出張に出ます。大学や文化センター、他都市の禅のグループの指導。去年はベルリンにある仏教専門の本屋さん主催の講演会にも呼ばれたり、様々です。今年もオーストリアのウィーンに行きます。ウィーンにはチベット仏教教団の中でも有力なカルマ・カギューの教団があって、そこで話をするように頼まれています。オーストリアはヨーロッパでは珍しく、一八八二年に国が仏教を公認しました。その公認二十五周年の記念日に合わせて、ウィーン大学の大ホールで仏教シンポジウムが催され私も講師として招聘されました。

【編集部】 国の公認になると、何かいいことがあるのですか?

【中川】 公認されると、たとえばオーストリアでは、ラジオの放送権が与えられ一週間に一度ラジオで話ができる。日本のNHKのような公営放送のテレビに出ることもできる。それから、墓地を国からもらえるし、葬式、結婚式に儀礼を執行し、仏教徒として法律上届けることができます。

【編集部】 ドイツでは仏教は公認されているのですか。

【中川】 ドイツはそこまでいっていません。ドイツにはトルコから移住してきたイスラム教徒が何百万人といるんですが、イスラム教も公認されていません。それをどうするかが、火急の問題になっています。

【編集部】 とくに何もないときの日常のルーティーンは?

【中川】 わたしは朝三時四十分に起きます。起きてすぐに軽い体操をする。四時になるとスタッフも起きてきます。四時半から一緒に坐禅堂で一時間半の坐禅。そのあと朝食です。毎日玄米粥ばかりでなく、アワやヒエをお粥というかオートミールみたいにして煮たものを食べます。体にいいし、おいしいです。

●実人生をふまえて説法

【編集部】 講演では、どんなお話をされるんですか?

【中川】 いつもぶっつけ本番で原稿はなしです。キリスト教会や民衆大学などの公の機関に呼ばれたときとか、聴衆に知的関心で来た人達が多いなと思われる時は、仏教とは何であるかとか、歴史を踏まえた話をすることもありますが、基本的にはあまりそんな話はしない。みんなの心に響くような話をするように心掛けていますから、「あなたは何で生きているんだ。今日死ぬかもしれないぞ。思い残すことはないか」というような切り込みをしていく。『正法眼蔵』とか道元禅師の話をする時も本で学んだことではなく、あくまで自分自身の体験を通しての話を中心にしています。
 ですから、何を話すか分からないんですよ。腹を決めるのが一番で、何を話すかはあんまり問題ではない。とにかく最終的にわたしが言いたいことは、「仏教だからというのではない。人間だから坐禅せざるを得ないのだ」ということ、そして、「仏教として主張するものが何もないのが仏教だ」ということですね。

【編集部】 聴衆はどういう方々ですか?

【中川】 六〇%は女性です。なかでも一番多いのは三十代終わりから四十代ぐらいの女性じゃないでしょうか。男性はまだ目覚める人が少ない。仕事、家族、家のローンとか、責任があるから忙しいんですね。その点女性のほうが時間的な余裕があるし、母性本能で子どものこと、家庭のこと、人生のことなど、深いところで悩みますね。

【編集部】 どれぐらいの人数の方が来られるんですか?

【中川】 コンタクトがあるのは二千人ぐらいでしょうか。しかしこれでは少ない。四、五千人にもっていかなくては。

【編集部】 それは日本でいう信者さんと考えていいんですか?

【中川】 いや。信者ではない、修行仲間です。親鸞さんの言葉でいえば同朋・同行です。修行仲間であり人生の友達。ですから年齢を超えて、十八歳の人も七十歳の人も来ますが、皆友達ですね。

【編集部】 普門寺の経営はどうやって成り立っているのですか?

【中川】 お布施もありますが、普門寺の経営を主に支えているのはわたし達が行っている接心、安居、仏典や正法眼蔵などの講座、仏教の止観に基づく生活トレーニングや『健やかな生活‐瞑想と健康』のためのセミナー、文化講座と坐禅や講話を組み合わせたセミナーなど多彩なコースの参加費です。
 それから寺内で日本のお線香や歯ブラシなどの販売もしています。普門寺グッズもあります。大きな禅センターは、ショップの収入が大きい。作務衣を作る裁縫部門があってそれをどんどん売っているところではセミナーの収入が三分の一、寄付が三分の一、ショップの収入が三分の一だそうです。わたしの所はまだ人数が少なくてそうはいかない。

●ドイツでのキリスト教の状況

【編集部】 他宗教、カトリック、プロテスタントなどと禅の関係はどうでしょうか。

【中川】 カトリックでは瞑想をきちんと学んだ修道士や神父さんたちがいて、瞑想というとたくさんの人たちが集まります。瞑想の復興に禅を学んだ人たちが活躍しています。 その中にはバチカンに忠実な人と、非常にリベラルで教会の教義から外れるタイプの人たちがいます。今はまさに変化の時代ですね。禅に力を入れている人で、バチカンから説教を禁止されている神父さんがいるんですが、その人のところに何万人と人が集まる。信者が旧修道院をプレゼントしたり、三十億円もの運営費を寄付したりしている。

【編集部】 そういうところは、けた違いのところがあるんですね。

【中川】 アメリカでもそうです。ロックフェラー財団がアメリカ人の女性の禅のリーダーにお金を出しています。

【編集部】 ところで、欧米ではキリスト教の聖職者の子どもに対する性的虐待が明るみになって大問題になっているようですが、その影響はありますか?

【中川】 欧米では、もともと教会離れが続いていたのですが、いまやそれが加速されています。日本でも寺離れが進み、お坊さんの話を聞く機会が激減しているようですがこちらもそうです。教会の神父さんがしゃべっていることが生きていないと感じる人が多いんです。

【編集部】 生きていない?

【中川】 生活していない。人に教えるけれど、自分自身はそれを生きていない。それを感じてしまうから魅力を感じない。

【編集部】 今の日本の坊さんと同じですね。

【中川】 ドイツではとくに政府が教会の肩代わりをして教会税を取っていますから、それだけ反発が強い。もう教会税を払わないという人が増えてきました。教会での挙式、葬儀ができなくても構わないと。 最もドイツでは学校に宗教の時間が週二回あって、カトリック、プロテスタント、倫理の中からひとつ選ばせ、子供達に宗教情操教育をほどこしている。ですから日本ほど宗教心がないというわけではない。

【編集部】 教会税というのはどのくらいなんですか?

【中川】 所得税の八から九パーセントです。

【編集部】 高いですね。

【中川】 給料から天引きですから。だから教会はとてもお金を持っているんです。でも教会からの脱退者は増え続け、加えて後継者不足。カトリックでは出家したら生涯独身を守らないといけませんから、若い人たちはお坊さんになりたがらないんですよ。今や大変な状況で、お坊さんの高齢化が大きな問題になっている。

●圧倒的なダライ・ラマの人気

【編集部】 チベット仏教の指導者で亡命生活を続けているダライ・ラマ十四世の人気はどうですか?

【中川】 それはもう、抜群に評価されていますね。宗教家としてだけではなく、人間としてまた政治家としてもですね。一九八九年にはノーベル平和賞を受賞していますし。一九五九年にダライ・ラマがチベットからインドへ亡命したとき、チベット仏教の指導者たちも一緒に脱出し、やがて世界中に分散した。その結果、世界中にチベット仏教が広まることになったわけです。今やアメリカでもヨーロッパでも、仏教といえばチベット仏教のことだといってもいいくらいで、禅など微々たるものです。
 例えばフランスのあるチベット仏教僧院には二百五十人ぐらいのお坊さんたちがいますが、みんなヨーロッパ人です。朝から晩までチベット語だけで勉強し、二十年、三十年と勉強や瞑想修行などに励んでいます。最近ではベルリンにも大きなチベット仏教センターができて、かつては禅に関心を持ってくれたような若者たちの多くが、チベット仏教の先生につくことが増えています。
 禅の布教をフランスから始められた弟子丸老師が遷化された後、フランスでは接心・禅のイベント化・パーティー化が進み、禅の本質から離れてきてしまっているとよく耳にします。その中からそうしたやり方の問題点に気づいて、日本の宗務庁や本山などとコンタクトを取り、もっと真摯に実践をしようという人たちが出てきましたが、まだ大勢にはなっていないようです。

【編集部】 ダライ・ラマの個人的な魅力もあるのでしょうが、それにしても、どうしてこれほどチベット仏教が世界で受けられているのでしょうか。

【中川】 論理的で西洋人に分かり易いので惹かれるんですね。難民だという事で同情も受けますし。チベット仏教の基本は中観・唯識の系統ですが、テキストがきちっとしている。三十代ぐらいのチベットの坊さんたちが、ヨーロッパの大学で仏教学の教授を勤めているケースも多い。そういう人たちが若者を惹きつけて何百人と坊さんにしているし、信者となると何千人、何万人という単位です。もっとも、このごろは寄付が多すぎて問題も出ているようですが。

【編集部】 それは税制の問題ですか。

【中川】 そうです。アメリカでは宗教的なものに寄付したら全額控除される。ドイツでは所得の額によって控除のパーセントが決められる。それに対して日本では宗教団体に寄付しても控除にはならない。日本は国が宗教の発展に貢献していないということですね。
 あとチベット教団への寄付の額が桁違いに多いのでヨーロッパではその使い方も問題になっていますね。

●若い宗侶はぜひ海外体験を

【編集部】 最後に、中川さんの今後やりたいこと、方向性についてお話いただけますか。

【中川】 まあ、ぼちぼちと、一人、二人と弟子を育て、その弟子がまた一人二人と弟子をつくっていくという具合で、わたしが七十歳になるまでに四、五人、あるいは八人くらい後継者ができればいいなと思っていますけどね。

【編集部】 やはり一箇半箇ですか。

【中川】 そうですね。「普門寺」に残る人がいてもいいし、出て行く人があってもいい。普門寺は長期・短期を問わず修行をより深めたい人が住み込みで修行に励める道場ですし。
 ここまで日本の宗門の方々や一般の方々に、財政的にも精神的にも援助をしていただいてやってきた。そのご恩返しに、日本の方々特に若い人たちに何かをアピールできればと思います。
 日本の人達に、ドイツには「普門寺」という、心置きなく坐禅のできる場所もあるんだよということを知らせたい。日本の若者たちには、ぜひ日本を出て世界に飛び出し、そこで逆に日本の文化、自分の文化の根っこに出合ってもらいたい。ドイツに来てぜひ普門寺で坐っていってもらいたい。海外で禅などの日本伝統文化に出会って自分を見つめなおすことにより新しいものが見えてくることもある。
 日本語のホームページを昨年末立ち上げたので、普門寺がどういうところでどんな活動をしているのか是非ご覧いただけたらと思います。(ホームページアドレスwww.doitsufumonji.com)

【編集部】 とくに曹洞宗の宗侶で、大学、本山安居を終えてお寺に帰ってきて副住職になったけれど、暇が多いというような人は一度海外に飛び出してみたらいいかもしれませんね。

【中川】 本当ですね。アメリカなりヨーロッパに二、三年でもいたら、日本に帰られてからの人生の視野が広まります。そういう人たちが増えれば、外国から曹洞禅を学びたいといって日本に来られた人たちに対するサポートもしていただけると思うんです。
 ところが今ドイツで、「日本で曹洞宗の修行をしたい」と言われても、日本で紹介できるところがほとんどない。活動されている方々もおられますが横につながるネットワークがありません。

【編集部】 宗門には今そういう受け入れ体制がありませんね。

【中川】 発心寺、仏国寺、聖護寺など個々に受け入れてこられたところはありますが、曹洞宗として国際的に受け入れる常設の道場は未だにできていません。わたしは海外で生活するようになって、地球単位で物を考えるようになってきました。空気汚染の問題、水資源の問題、人口問題、食料問題、みな地球単位の文明問題です。
 それと同じように禅の伝統を守り、禅を人類の将来に生かすというのは地球単位の問題です。そういう伝統を担っているのは自分たちだという自覚を、曹洞宗の若い宗侶の方々には、ぜひとも培っていただきたい。
 それには、若い時に海外に出てみる事をお薦めします。常に曹洞禅の存在意義を問い続けられる環境に身をおくと、修行の尊さをなるほどと納得できるところがあると思います。

【編集部】 たしかに今のままでは、曹洞宗は世界の中で井の中の蛙になってしまいますね。今日は長時間にわたってありがとうございました。今後ますますのご活躍を期待しています。


聞き手 藤木隆宣
(平成二十二年四月二十四日収録)