座談会
「あの世」はあると自信をもって言えますか?(前編)

 言うまでもなく、宗教が宗教であるゆえんは、来世(死後の生命)を説くかどうかにあります。それがないものは単なる思想であり哲学であるとみなされます。
 禅をベースとした高度な仏教教学を誇る曹洞宗ももちろん例外ではありません。それは実際に、寺院を支えている収入のほとんどが葬儀、戒名、年回法要などの布施に依存していることを考えれば一目瞭然です。そうした儀礼は、当然、死後も「死者の人格」が続くということを前提としています。
 ところが、昨今、宗侶の方々のなかに、「死後の生命」について、疑義を呈する人たちがわずかながら出てきたようにも聞きます。そうなると、葬儀をしても、それは単なるパフォーマンスに過ぎないことになってしまい、死者もどこに行けばいいのか、さまようということになるのではないでしょうか。
 今回は、斯界の気鋭学者である津城寛文筑波大学教授をゲストに迎え、五十嵐卓三師、佐藤俊晃師にもご参加いただき、司会を佐々木宏幹先生にお願いして、「あの世」をめぐる問題の深部にメスを入れていただきました。


■座談会出席者■
津城寛文(筑波大学教授、比較宗教学)
五十嵐卓三(山形県善宝寺住職)
佐藤俊晃(秋田県竜泉寺住職・総研センター客員研究員)
佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授、総研センター客員研究員、宗教人類学)

●死者はどこへ行くのか?
【佐々木】 お坊さんが行うもっとも大きな仕事は何かというと、それはやはり葬式であり追善供養です。ところが、改まって葬式とは何だろうということになると、葬式をお願いする檀信徒とか一般信者の問題でもあるわけです。葬式は告別式とか送別といわれるように、亡き人を送る儀式とされているわけですが、では死者を一体どこへ送り出すのかという問題があります。
 お坊さんの側でも、引導を渡すということが葬式では非常に重要な役割になるわけですが、では、引き導いて死者はどこに行くのか。これには、仏国土に行くとか、仏さんの弟子として送り出すというような答えがあるわけですが、それでは抽象的ではっきりしない。
 かつては、そんな理屈をこねなくても、お坊さんに頼めば死者はあの世に行って成仏するとか、ご先祖になるんだと人々は信じていた。ところがここに来て、葬式にどんな意味があるのか、あの世なんてあるかないか分からないといった「理屈をこねる人たち」が出てきた。無宗教葬だとか自然葬なども出てきて、伝統的な仏教習俗にかなり変化が出てきていると指摘する向きもある。一方、伝統はそんな簡単には壊れない、変化といっても表面的なかすり傷程度だという人たちもいる。
 たしかに、「この世」と「あの世」のうち一方だけを認めて、「この世」だけあればいいというような考え方が、文化としてあるいは世界観としてはいつでもあると思うんです。立川昭二さんが書かれた『日本人の死生観』を見ますと、「あの世があると思いますか」という質問に対し、「あると思いたい」も含めると八割ぐらいの人が「ある」と答えている。にもかかわらず今の状況だと、「あの世」なんてどうでもいい、「この世」さえあればいいというような風潮がかなり強くなっていると感じます。

【佐藤】
 秋田県北秋田市のうちのほうは小さな村が幾つか寄り合って町や市になったようなところで、少子高齢化がすすみ人口も減っています。ですから、「あの世観」については世代間の落差が大きくて、高齢の皆さんは八十歳、九十歳になってそろそろ歳だなと思うと、「いや、和尚さん、おらはも迎えが来たな(そろそろ迎えが来るな)」というふうな言い方をするんです。
 それは先に死んだおじいさんが迎えに来るのかもしれないし、仏さまが迎えに来るのかもしれないが、はっきりは言わないし、こちらも突き詰めては聞かない。死期が迫ってきたということを、怖いとか死にたくないといった感情で受け止めるのではなく、人生ここまで家族のために頑張ってきたし、孫たちも一人前になったから、そろそろ行ってもいいかなという感じで、向こうへ行くということを大らかに受け止めている人が多くいます。
 そうしたおばあちゃん、おじいちゃんたちにしてみれば、今この人生が終わっても、ちゃんと次にもう一つの世界がある。そこでは先に亡くなった自分の親しい人たちが待っていてくれて、そこで自分のまた新しい人生が始まるというふうにとらえているのではないかと思います。それが西方極楽浄土であるとか、仏国土であるとか、三途の川の向こうであるとか、そういう具体的なことは誰も話しませんが、とても柔らかく、大らかにとらえている方が多いという感じがします。
 一方で、若い人たちはもう、情報は都市部でも地方でも一緒ですから、昔ながらの三途の川で語られる来世のあり方、浄土教でいう極楽浄土という来世の在り方など、仏教各宗でいう来世観はさまざまで整合性がないと思っている。そこへキリスト教の来世観であるとか、テレビで特集されるいろんな超常現象とか、情報が積み重なってくると、結局、あの世とか来世というのは作り話であって、実体的なものはないだろうと思っている。
 しかし、それは確かめようのない事柄だから、自信を持ってどう来世をとらえたらいいか分からないし、それだけ不安というか懐疑的になっている。ですから、和尚さん一体どうなんだと切り返されるときもあります。

●法話や説明はしない

【五十嵐】 山形県鶴岡市にある私の乗慶院は、江戸末期の新開地で一村一カ寺なんです。ですから、ある意味では非常にやりやすいし、また非常に厳しいものがある。
 うちのほうでは、あの世があるとかどうとか、そういうことは一切口にしません。お年寄りでもそういうことを言わない。私は昭和三十五年に鶴岡に帰りましてから、檀信徒には常に『修証義』をお読みいただいています。今ではそれに『観音経』を加えて、経本を使って一緒に読誦しています。私は昔からお葬式や行事のあとに、あれやこれやの法話や説明は一切しません。ただお経だけ読んでいただく。私はそれでいいのではないかと思っています。
 先ほど佐藤先生からいわゆる都市化による意識の変化というお話がありましたが、現在、私の寺では檀家が五百軒あります。そのうち百二十軒はもう既に鶴岡や山形の市内、あるいは東京とかに転地しておりますが、そういう方々でも、護寺会費は九七%お納めいただいていて、ありがたいことだと思っています。

【佐々木】
 今、宗務庁などでは、葬式のときにはもっとお説教をして檀信徒に教理を理解させ、仏教のあるべき姿を浸透させるべきだと言っている。しかし、五十嵐先生のお話では、菩提寺のお坊さんは檀信徒に全面的に信頼されているし、仏事のことはすべて任されているので、それを説明する必要はない。したがってあの世についても、檀信徒からなんの疑問も出てこないということですが。

【佐藤】 うちのほうでも、そういう方たちはいらっしゃいます。
 数年前にうちはお寺を建て替えたんですが、考えるところがあって、「阿弥陀聖衆来迎図」の複製を本堂の中に掛けています。それから、十王像の彫刻も作りました。実際に、閻魔大王にどういうふうに亡くなった人が裁かれるのか、浄玻璃鏡とか獄卒たちもリアルに作ってもらって、かつて死後の世界として想定されてきた世界をちょっと再現しています。
 法事とか葬式とか、その他いろんな集まりのときでも、人は死んだらどうなるのか、実体的な話としてではなく、これまでずっと語り伝えられてきた話をします。死んだらそんなところへ行くのか、怖いな、そんなふうに私たちの先祖は考えてきたのか、というふうに捉えてもらえたらいいと思っているのですが、じつは、若い人たちが結構まじめに聞いてくれるんです。
 もちろん、極楽浄土の話、三途の川の話、お墓の話、お盆の話などを総合して考えると、みんなつじつまが合わないところが出てくるわけですが、それでも一つ一つの話は割と納得して聞いてくれるし、そうした話を相対化して聞いているうちに、来世についてはいろんな考え方があるんだなと学んでいく。あの世はちゃんとあって、私たち生きてる人間と死んだ人たちが何らかの交流をしているんだなと、そうゆるやかに受け止めてくれる地盤をつくっていきたいと思うんです。そのことが、結局は亡くなった方のお葬式やご法事を大切にするという地盤をつくっていくことになると思います。

●死者のリアリティーが 一番大切

【津城】 今、現場で活動しておられるお二人のご住職のお話を伺いまして、現場ではそれぞれ違いがあるという印象を受けました。一つは世代格差があるお寺と、一村一カ寺で理想の宗教共同体が保たれているようなお寺ということで、これは日本全体でもそういう違いが分布していると思うんです。佐藤先生がおっしゃった、若い人たちの来世の表象が揺らいでいるという点ですが、そのためのいろいろな工夫を考えておられるのかなと思います。
 新宗教や現代社会に詳しいある研究者が言われていることなんですが、情報化時代になって、情報の量が今と昔で逆転しているところがある。お坊さんにしろ神主さんにしろ牧師さんにしろ、それぞれ専門の方々の持っている宗教関係の情報と、一般の市民とか学生の持っている情報が量的には逆転しているところがある。専門家の方々は、専門の知識は非常に深いものがあるが、他宗教の知識に関しては比較的疎いことがある、という指摘です。
 そうすると、佐藤先生のところで若い人が質問をするというのは、聞きかじりも多いと思うんですが、例えばほかの宗教ではこう言うが、仏教ではどう言っているのかとか、どう違うのかというようなことを質問するぐらいの知識はありますから、それに答えられるような知識を宗教者が持たないと対応できなくなる。今はどんな仕事でも情報の整理が難しくなってきていますが、宗教者も例外ではないのかなと思います。
 それから、いろんな宗教の情報を、断片的であれ知っている人が増えてくると、同じ仏教の伝統の中でも、あの世の表象についてはそれぞれ矛盾することもあるわけですね。人類全体としても、あの世に関していろんな想像をしてきており、その表象の仕方にどんな特徴があるかというような話ができると思うんですが、その際にそれぞれの宗教の持っている特有のあの世というか来世の表象といいますか、それをどう位置付けるかというのが一つの問題ではないでしょうか。
 例えば、それぞれの宗派の本部というか中枢部が進めようとしている来世の表象の仕方と、実際に信徒と接する現場の人たちが持っている表象の仕方にずれがあるとすれば、その調整というのがその宗派内の大きな課題になると思います。そこでもし、教理を理由として現場での表象を否定するようなことがあるとすれば、それはそれぞれの現場が持ち、伝えてきた財産、自らの所有物を捨てさせるような、乱暴なことになりはしないかという気がします。
 死者のリアリティーということを中心に、自由に豊かな表象をして、ただしあの世のリアリティー、死者のリアリティー、「死後生」のリアリティーみたいなものを持っていれば、表象はどんなものでもあまり大きく違わないだろうと思いますし、それがないと、表象はあってもそれは空疎なフィクションになるでしょう。極端に言うと、すべては生きている人間のパフォーマンス、エンターテイメントであればいいということになりますが、それはおそるべく不遜なことだと思います。

【五十嵐】 私は当初から一つの考えを持ってやってきています。それは、仏教でもキリスト教でもいろいろな儀式表現があるわけですが、それが意味するものは心なんですよということです。うちのほうでは、かつて檀家に八段階の格式があって、戒名や寄付の額などが決まっていた。位牌堂でも家の格式によって奥から順番が決まっていた。私はそうした弊習を打破しようと思ってこういうことをしました。
 それは、従来、開山堂の一番奥に祀られていたお釈迦様の坐像を一番前、入り口のところに持ってきたんです。そうすると、今まで自分の家の位牌に直行していたのが、まず仏像を拝むわけです。お釈迦様の坐像だけではなく、お地蔵様、達磨様、道元禅師様、瑩山禅師様、乗慶寺の御開山さま、それぞれのお像にもお参りしていくようになる。そして、位牌を置く順番はくじ引きにして、寄付なども一律、戒名の院号などについては役員会を開いて決めるようにしました。
 ここでは、お釈迦様から各祖師がた、各家のご先祖まですべての仏さまが上下なく一円相になっているのですよと説明します。檀信徒のかたがたは開山堂・位牌堂・観音堂みな、おまいりになる。それは全く多神教的な世界です。私は日本人の宗教的なアイデンティティーは多神教的な合掌だととらえています。

●檀信徒は あの世を疑わないか?

【津城】 先ほど、他界の表象はいろいろあって、そのリアリティーが問題だと申し上げたのですが、各自が勝手に表象をすればいいというのではなくて、みんながいろんな表象をやってきたなかで残った表象というものがある。それは、やはり何かリアリティーがあって、みんながいいと思って伝えてきた表象だと思うんです。
 例えば、本当に亡くなったおじいさんが迎えに来たような気がするというようなリアリティーをたくさんの人が持ったから、そう伝わってきたわけで、それが伝統であり、財産であり、歴史だと思うんです。
 表象と言うと非常に流動的な感じがしますが、この表象の形はいいというふうにみんなが納得したものは固まっていくと思います。五十嵐先生のところで、お釈迦様を真ん中に置いて、位牌がそれを取り囲むような一円相にされたのは、一種の曼荼羅ですね。

【五十嵐】 そうです。曼荼羅ですね。

【津城】 檀信徒のかたがたが抵抗なくそれを受け入れていらっしゃるということは、この曼荼羅は何かいいと感じられたんだと思うんです。逆に、今まで受け入れられてきた表象が腑に落ちないというようになってくれば、それは人々や時代のリアリティーに合わなくなっているか、あるいはほかの表象の仕方に移ってきているかでしょう。
 いずれにしても、誰かがリアリティーを基にして表象して表現をして、それが受け入れられれば伝統になっていくのだろうと思いながら、お話を伺っておりました。

【佐々木】 五十嵐老師がさきほど、日本人の信仰は多神教的だとおっしゃったのは、とても大事な点だろうと思います。教団中枢では、お釈迦様の教えはこう、道元禅師の思想はこう、そして、ご先祖も仏弟子としてそのなかに入っているのだといった論理を教えるように期待しているのでしょうが、檀信徒から見ると、お釈迦様もお祖師がたもみんな「ありがたい存在」であって、ご先祖がそういうパワフルな存在の庇護の下にあるということに満足しているのではないでしょうか。
 思想だとか教義の裏付け以前に、先祖代々乗慶院さんの檀信徒としてご先祖はちゃんと浮かばれているのだから、それでもう結構だ。住職さんから何か言われたら、きちっと義務は果たすけれど、それ以上の哲学や何かを住職に要求するなんていうことはないと、そういうわけですよね。

【五十嵐】 あるとき、法事が終わりましてから、檀家ではない方が、「方丈さん、何か一つ話してください。うちのほうの方丈さんはしゃべりますよ」と言われたんです。そのとき私は、「話はできません」と答えた。葬儀の場で話すべきではないというのが私の気持ちなんですよ。

【佐々木】 雰囲気を壊してはいけないということですね。

【五十嵐】 そう、その雰囲気を壊すのは説法なんです。言葉というものは表現ですが、邪魔なときがあるわけですね。私は、ご住職さんたちにはぜひとも雰囲気を大事にしてくださいと言いたい。教化とかはしばらく置いて、雰囲気の中に入っていくということが大事ではないか。そうすると霊も見てくれているのではないかという感じがします。

【佐藤】 先ほどの津城先生のお話なんですが、私たちの立場からは言いにくいことをおっしゃってくださって、よかったなと思うんですが、宗教集団の情報発信の中心となるべき宗務庁とかが、あの世とか来世のことを表現するものと、日本各地で伝統的に表現されてきたものとが違う場合があるわけですよね。そうしたときに、必ずしも中央から発信されたものに分があって、地方のほうにないというのではなくて、むしろ地方のほうで伝えられていることに大切な死者のリアリティーを保存してきたものがある。
 よく言われるのは、釈尊の「無記」の話で、釈尊はあの世のことについて何も答えなかった。それを拡大解釈して曹洞宗でも、自信を持って来世のことを語ろうとしない。しかし、津城先生が言われたように、死者のリアリティーをきちんと表象なり表現なりで残しているのは地方であって、それが大事なんだと思うんです。

【佐々木】 五十嵐老師のおっしゃった多神教的なものを否定して、仏教には八百万の神とは違った思想があるという意見も多い。しかし、それは知識人が考えることであって、檀信徒はそうではない。霊的なパワーにご先祖が守られているということに重きを置いていて、それ以上に、あの世とは何かといったことを問題にしてはいないということですね。

●地獄を積極的に教えるべき

【佐々木】 佐藤さんに案内されて秋田県鹿角市の曹洞宗恩徳寺を訪ねたことがあります。境内に浄土のモデルみたいなもの(位牌堂)を作っているんです。まず位牌堂の入り口に大きくてリアルな地獄絵図がある。お堂に入っていくと、砂絵みたいなので作った三途の川があって、奪衣婆とか浄玻璃鏡とか、閻魔さんのリアルな彫刻がある。
 赤い太鼓橋を渡ると、そこはちょっとおどろおどろしいような、薄暗い部屋になっていて、そこを通り抜けて行くと、ぱーっと明るい吹き抜きの天井の一番中央に浄土を表わす阿弥陀如来を表す梵字があり、その周りを囲むように飛天が舞っている。位牌堂に行くのに、みんなそこを通っていくのですが、さらに中にはお釈迦様の誕生から涅槃までの一代記の像があちこちにある。
 恩徳寺のご住職は、曹洞宗の寺にそういう浄土的なものを造った理由をこう言っています。今、子どもたちが人殺しをしたり、盗みをしたりということが横行している。それに歯止めを掛けるには、小さいうちから、嘘をついたり盗んだりしたら閻魔様に罰せられるんだよということを、子どもたちの心の中に刷り込む必要があると思って、こういうものを作ったと。
 どう思いますかと言われたので、私は素晴らしい施設じゃないですかと言ったのですが、宗門大学とか宗務庁辺りだと、曹洞宗としての建前、教理を出しますから、どうしてこんなものを作ったんだというかもしれません。しかし、このお堂にはその後あちこちから参観者が来ているそうですから、現場ではあの世というか死者のリアリティーがこうした施設で養われているようです。

【津城】 今のお話を伺っていて思い出したのですが、熊野信仰の研究をしている学生の論文に興味深いことがありました。熊野比丘尼というのが昔、地獄の絵解きをしながら回っていたことはよく知られています。その熊野曼荼羅というのが現在も残っており、熊野は文化遺産にもなりましたし、熊野の遺産を伝えようということで、高校生たちが熊野比丘尼の扮装をして絵解きをやるという、そういう試みというか一種のイベントをやっているんだそうです。ところが最近、新しく絵解き用に作った熊野曼荼羅では、地獄を描かなくなったというんです。教育上、そういうネガティブなものは出さないということなのかもしれません。
 さきほど、座談会に入る前の雑談で出た話ですが、例えば、昔首をはねられた人たちが大量に出たところに行くと、霊能者が何かを感じて非常に苦しむ。それをお坊さんたちが供養するとそれが実際に治まる、というような事例がある。やはり、安楽に死んだ死者だけではなく、横死した苦しみをわれわれに訴える死者もいるのではないでしょうか。地獄というのは今はあまり積極的に説かれませんが、実際この世でも苦しみがあるように、死者にも苦しみがあると、私は思うんです。
 ちょうどお釈迦様の弟子の方が、お母さんが地獄に落ちているのを見て、それがお盆の始まりになったというようなお経か伝説がありますが、それと同じように、生きている人間の心がこれだけ苦しいのであれば、死んだからといって急に心が楽になるとは、私は思えないんです。ですから、そういう死者や死後世界のリアリティーといった場合に、非常に苦しいリアリティーもすくい取らないと、何かきれい事で終わってしまうのではないかと思うことがあります。
生者や死者の苦しみを感じて、実際に本当に苦しいときは、お寺や神社に行っても相手にしてくれないから霊能者のところへ行く。昔の高僧には、そういうことにも対処できる方々がいらっしゃったとすれば、今、そういうのに制度的宗教が対処できないというのは、死者の苦しみに対する力が弱まっているのかなという気がします。これは仏教に限らない話ですが…。
 もう一つ、先ほど宗務庁から来る「あの世観」というか教えの基準が現場とずれているというお話がありましたが、多分一般信徒から見れば、何宗だからこうでなければいけないというような話はあまり説得力を持たないと思うんです。仏教であろうが神道であろうが、キリスト教であろうが新宗教であろうが、死者が苦しんでいるらしいので、これをどうにかしてくれというとき、例えばうちの宗派では死者は苦しまないことになっていますというような宗派の建前というのを出されると、受け手側の一般信者側から見ると、あまり良くないという気がします。

●「霊力」の衰退は仏教文化の衰退

【五十嵐】 東北では三月十五日に涅槃会をするんですが、うちでは涅槃絵図を掛けます。そのときによくお話するのは、エル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」です。絵の上半分には亡くなった伯爵の魂がイエスに導かれて天に登っていく様子が、下半分には残った肉体を人々が取り囲んで悼んでいる様子が、一枚の絵のなかに描かれている。ところが涅槃図では、お釈迦様はあらゆる人々、生きとし生けるものに取り囲まれている。これが私たちの安心(あんじん)の図ですよと話します。
 キリスト教は天なる神ですから縦の世界です。最近は、日本でも「天国から見守っていてください」というような弔辞がありますよね。それについては、私はあえて抵抗を感じないんです。なぜかというと、『日本書紀』が天つ神ですから、私は天も日本人の体の一部だと思っております。とにかく涅槃像は暗さがなく、明るく見られる。そういうふうに皆さんに視覚を通して説明すると納得してくださるようです。

【佐々木】 さきほど津城先生のほうからお話がありましたが、この世の苦しみがあると同時に、あの世へ行っても苦しんでいる人がいる。その苦しみをすくい取るのが、従来、宗教者の大きな使命であった。そのためには、宗教者も一般の人々も、死者の苦しみをリアルに感じ取る感性というものがないと駄目なわけで、それを活性化したのが、伝統的なシャーマニックな霊能者たちですね。そういう人は現代でもいるのですが、あの人は霊能があるというようなことを、例えば曹洞宗で言うと、迷信に陥ったとか、低い宗教段階にいるというふうに軽視され蔑視される傾向がある。
 その結果、死者のリアリティーとかあの世のリアリティーが薄弱化してしまって、逆に理念と教理は非常に普遍性のある高いものとして意識される可能性が大きくなる。それが仏教学や宗教哲学をやっている人たちの理念や説明であり、実際そういうことを教えている人もいる。
 しかし、そこでは、もっと活性化させるべき、「たたり」だとか「さわり」だとかという死者の苦しみに対する感受性が、みんな切り捨てられてしまう。それで哲学だけが舞い上がっているものだから、現場からのリアリティーの力というものがどんどんなくなっていっている。それは実は仏教文化の衰退であって、上の部分の理屈だけは大きな本になってどんどん出るのだが、下支えしている霊だとか霊的な力というようなものはむしろなくなっていって、あとは理屈だけしか残らないというような恐れがある。
 あの世観についても、明治以前には、「たたり」があったりするとお坊さんが修行した力でそれを払ったり救ったりしたという文献がありますが、そういうものがいつから弱まってきたのか。やはり近代的アカデミズムが盛んになってからではないでしょうか。あの世観であるとか、死者のリアリティーがあるからこそ、葬儀・法事にお布施を出しているのに、宗侶側はその辺を切って、理屈をこねるほうが本来の仏教だというふうにやってきてしまったのではないでしょうか。

●「霊力」の源泉は坐禅にある

【津城】 確かにどこが変わり目であったかというと、今、佐々木先生が言われたアカデミズムの興隆と、曹洞宗のことで言えば、禅僧が非常に力を持っていて、幽霊が騒ぎ始めるのを鎮めることができるとか、何か「たたり」が起こるのを防ぐことができるとか、そういう力を求められたときに、きちんと応えるすべを、修行を積んだ禅僧は、修行の一つの副産物として持っていた。
 その伝統が失われていったもう一つの画期というのが、やはり肉食妻帯が公的に認められたことでしょう。それを乗り越えて、なおその力をずっと維持してきた人たちもあるので、必ずしもそれだけということはないと思いますが。禅僧は僧堂での修行生活によって、そういう力が培われてきたはずなんですが、今はそういう非日常的なパワーに対して信憑性が弱まり、昔よりも評価が下がってしまったこともあるだろうと思うんです。

【佐々木】
 価値判断としてのいい悪いは別ですが、科学的教育というものが小学校から大学までずっとなされて、実証されないものは信じてはならないし、認めてはならないというふうな思考が、先生方からお坊さんにまで浸食してしまった。それが宗教世界の最も大事な点を食い荒らし、衰弱させてきたのではないのか。
 佐藤さんが研究しておられた切紙などがどんどんなくなっていくというのも、檀信徒のほうが知的になって、そういうマジカルなものを認めなくなったということもある。真如苑といった新宗教では、いまでも霊媒が教団の裾野にたくさんいて、若い人たちをも取り込んでいる。ところが既成教団は科学の時代が来たら科学に乗っていけばいいという路線を歩んできたために、大事な部分を自ら切り捨て、教団自体を弱体化させてきたという面があるのではないかと思います。

【佐藤】 霊を鎮圧できる力とか、マジカルな力を発揮できる力がなぜ禅僧にあったか、曹洞宗の中に伝えられてきたものを調べると、それこそが坐禅の力だというふうに言うんですね。死者を成仏させる力、それから無機質な木像に魂を入れる力、そういった力の根本になるのが坐禅によって養われるというふうな伝統がありました。
その一方で、それとは全く反意語に聞こえる、「無所得の坐禅」とか「無所悟の坐禅」という言葉があります。悟りを得たいがためにとか、霊験的な力を得たいがために坐禅するのは間違いだということですね。それはそれで間違いではないし、道元禅師の言葉にもそうあるんですが、それは霊的な力を得ようと物欲しそうな顔で坐禅するのはやめなさいということであって、やはり坐禅していく中で自然にそういう力は蓄えられていくと思うんです。
 ところが、「無所得の坐禅」という言葉が広まったときに、合目的なことのために禅の修行があるのではないという点が強調されて、それまでの伝統的な、力をきちんと得てきたはずの坐禅が、切り離されてしまったところがあると思うんです。アカデミズムの隆盛もあって、宗教者としての禅僧から力がそぎ落とされてしまったのではないかと思うんです。

●魔境を超えたプロの世界

【津城】 禅の修行ではよく、魔境ということが言われますね。そしてそれを越えなければいけないと。ある新宗教教団で非常に高い境地になられたと思う方がいらっしゃるのですが、やはり魔境みたいなものを越えないと本物にはなれないとおっしゃっていた。「我」が壊れるときには、ものすごい恐怖が来るけれど、そういう恐怖に触れないような修行では物にならないと。イエスも荒野で四十日間悪魔と向きあったし、釈尊も悟りの前には何度も魔に誘惑されますね。そういう魔境みたいなものを越えなければならないが、それは非常に恐ろしい、危険なものだとおっしゃるんです。
 いろんな不思議な力を物欲しそうに求めて修行するのはおかしいという、佐藤先生のご指摘は重要で、段階として自然に、必ず魔境みたいなものがあると、どの宗教でも言われている。例えば、シャーマニズムの世界でプロになるときには必ず死と再生というイニシエーションがある。誰もそのイニシエーションをするためにシャーマンになるわけではないんですが、でも本物のシャーマンになったかどうかというのは、そのイニシエーションの部分と、それをどう越えたかということで、大体判断されている。
 そのイニシエーションに当たるのが、禅宗では魔境と言われるものだと思うんですが、そこを越えていかないと、佐藤先生が指摘されたような力を自由に使うことはできず、むしろそこに引っ掛かって、一番良くない野狐禅に陥って、「力」に使われるようになってしまう。そういうことがあって、禅では魔境が忌避されることになったのもしれませんが、しかしそこに達しないと、修行としては進んでいかないのではないかと思うんです。
 近年、そういう魔境のような不思議なことが否定されてきたということは、結局そのプロセスを全部否定したに等しいので、もし越えている人がいるとすると、こっそり越えなければいけないわけですね。魔境みたいなものは、私のような門外漢が読んでも絶対にそこを迂回しては、その先に行けないようなところです。プロセスとして絶対にあるべきところは越えなければいけないところとして認めれば、少なくとも魔境に行くまでは修行するのではないかと思うんですが…。
 もう一つの例としては、例えば「十牛図」というのがありますが、あれも元に戻るわけですので、よく現状肯定のために使われて、元に戻ってきたのか、全然行かないでここにいたのか、区別がつかないことがあります。ここに魔境を組み込んで、魔境を越えたかどうかというのを一つの指標にすればよいと思うんですが、これをある人はプレ(事前)とポスト(事後)として、区別しています。子どもは成長のプレですし、大人は成長のポストですが、プレとポストというのは似ているけれども違う。
 「十牛図」で言えば、悟りきった人と凡人は似ているというのがそれで、プレとポストというのは非常に似ているけれど、実は全プロセスを越えなければいけないんだと、うまい表現をする人がいます。ところが、プレとポストが区別しにくいし、プレの段階がもうすべて終わったポストの段階としても通用する論理があるために、それに便乗する人も結構いるのではないかと思います。

●呪術と宗教は切り離せない

【佐々木】 少し整理すると、例えば曹洞宗だと「只管打坐」、ひたすら坐禅をすべきであって、何かの目的を達成するために坐禅をするのは間違っている、坐禅を手段化しては駄目だという。これは宗教か呪術かという宗教学的には古くからの議論があって、ある目的のための手段としてある力なり価値なりを使うのが呪術であり、宗教というのは目的であって、やることなすこと自体が目的であって、手段というものはないという。
 これは、二十世紀初頭イギリスの社会人類学者フレーザーなどによって言われた学説なんですが、果たして呪術と宗教はそんなにきれいに割り切れるものかどうか。私はやはり宗教というものの一番根っこには、どこであれ呪術的なもの、いうなれば神秘的な力によって何かを解決するというものがないと、それは宗教になってこないと思います。
 仏教はそれを乗り越えていると言うけれど、それはやはりインテリだとか特殊な教理を一所懸命やった人の世界であり、学会で通用はするし、偉い博士がこういうことを主張したということでそれは通るんだけど、さっき、五十嵐、佐藤両先生が言われたみたいに、檀信徒のレベルでは、知的な住職は思想とか知識を持っているから集まって来るかというと、私はそうではないと思うんです。
 知的なものを持っていてかつ坐禅を一所懸命して、禅をするということにおいてはそれで自己完結しているのだから、手段化してはいけないと言っても、檀信徒にはもっとプリミティブな欲求があって、あのお坊さんは修行しているから「力」を持っている、お願いすれば亡き人は成仏するし間違いなくあの世で安定するという思いがある。
 本来、マジカルなものまで含めてお坊さんはそういうものを持っていたのに、近現代ではそれを分けてしまって、大事な支え手であるパワーとか霊というものを切ろう、切ろうとして来た。それが筋肉質のお釈迦さまをだんだん削いでいって、骨格だけが体系であるとか組織であるとか言って、われわれは示そうとしているのではないか。そんな感じがします。

  (次号に続く…平成二十二年七月二十九日収録)


  編集部注…五十嵐卓三師はこの座談会の後日、山形県鶴岡市・善寳寺住職に再任されました。