座談会 いま起こっている日本仏教の地殻変動をさぐる!

■座談会出席者
正木 晃
(慶應義塾大学講師、宗教学者)
丸山劫外
(曹洞宗総合研究センター特別研究員、尼僧)
佐々木宏幹
(駒澤大学名誉教授、総研センター客員研究員、宗教人類学)

 仏教、キリスト教を問わず、世界の普遍宗教と呼ばれるものは、その体内にアニミスティックな情動と、高度に発達した知的教理の両者を同居させている。それは、どんな人間でも感性と知性の両者が相俟って人格を形成するのに似ている。
 ところが近代のモダニズム以降、既成の教団は知的側面ばかり偏重してきた結果、すっかり痩せたソクラテスになってしまった感がある。その結果、宗教的感性に餓えた人々はみずから新しい宗教イメージを模索し始めているのではないか。
 近年のパワースポットブーム、葬儀の僧侶離れなどに、その兆候は露呈されている。そうした宗教の地殻変動に既成教団はどのように対応したらよいのか、今回は宗教学者の正木晃氏、尼僧の丸山劫外師、宗教人類学者の佐々木宏幹氏の三者に話し合っていただいた。

失われていく霊能者たち


【正木】 わたしは去年、チベット仏教とヒンズー教の聖地であるカイラス山に行きました。チベットの人たちは高度四七〇〇から五六〇〇メートルにも達し、五十六キロもある巡礼路を二泊三日かけて巡礼するんです。中には五体投地しながら十五日かけて巡礼する人もいます。冗談ではなくて、ここではたくさん人が死ぬんですよ。今回も、ヨーロッパの若い男性が亡くなりました。ここで死んでも輪廻転生していいところに生まれ変わるというので、誰も悲しまないというところがありますが。

【佐々木】 カイラス山というのは信仰の対象ですからね。山そのものが仏さまなんですね。

【正木】 仏教ではそうですし、ヒンドゥー教ではシヴァ神の御座所です。なぜ、カイラス山がそんなに崇められるのかヒンドゥー教徒に聞くと、ヒマラヤの中で単独峰として突出している山容が、シヴァのリンガ(男根)を表すという。聖なる山というから、もっとすかっとしているかと思うと、なにかどろどろしたパワーがあるような気がしました。
 じつはこのとき、わたしはずっと般若心経を唱えながら回っていたんです。ここには鳥葬場もありますし、ちょっと恐ろしいという畏怖感のほうが強かったですね。

【佐々木】 ヒンドゥー教徒にとってはシヴァ神であり、仏教徒にとっては釈尊ですが、それが、けんかすることなく重なっているところがおもしろいところですよね。
 その点は、大雄山最乗寺もそうではないですか。道了尊という天狗さんの信仰と、それから了庵慧明という禅者の坐禅の伝統と両方あるんですよね。

【丸山】 そうです。道了さまは、三井寺で満位の行者、一番上の修行を終えた修験者で、了庵慧明の一番弟子です。慧明さんが、大雄山に寺を造ると言ったら、道了さまがぱあっと飛んで来て、怪力をもって寺を造るのに大変な働きをしたそうです。また、そのご最期は、空中にすうっと体が消えていったそうです。ご遺体が残っていないわけですから、今でも道了さまは道了監寺和尚として山主の次に配役されています。
 今でも道了さまは生きていると信じている人たちが、ちょっと前までは多くいたんです。今は信じる人の割合は少なくなっているのではないかと思います。

【佐々木】 道了尊を祀る講はどうなっているんですか?

【丸山】 講は以前はたくさんあって、霊力のある講元さんが多かったんです。いろんな不思議なことができる人たちでした。いまはそうした霊力のある講元さんも少なくなっていると思います。

【佐々木】 世間ではスピリチュアルブームだとかパワーを求めているのに、それを指導する人が少なくなったのはとくに大雄山だけではなく、ほかでもそうではないかということが言えるわけで、それが井上順孝教授のおっしゃる地殻変動なのかもしれません。
 東北大学の民俗学をやっている人のデータを使って『朝日新聞』が特集した記事では、恐山のイタコのような霊能者、ところによって呼び方はワカサマとか、オカミさんとか、イダッコだとかいろいろですが、そうした人たちがどんどん減ってきて、山形と福島ではいなくなったそうです。
 その理由の一つとして上げられるのが、伝統的な修行のきびしさですね。かつて霊能者の多くは目の不自由な娘さんが修行してなったわけですが、その修行は非常にきつかった。三年間ぐらい水垢離を取ったり、厳しい修行をして霊との交流を可能にしていく。ところが、今の女性はそうした修行を嫌がる。
 かつて多くの人たちを失明に追い込んだトラホームなどの病気が現在ではほとんどなくなったことなども、その理由に挙げておりますが、柳田國男が取り上げたような日本の伝統文化が滅していくのは寂しいことだというのが新聞の論調です。
 ところが、正木さんの調べでは、霊能者的な人が現代から消えたのではなく、新しいタイプのものが東京辺りでも結構出てきているということですね。

【正木】 日蓮宗で、女性の仏教者の問題を取り上げたときに話題になったのですが、日蓮宗の尼僧の多くがじつは、いわゆる拝み屋さんになってしまうという問題があるのです。それには、教団における尼僧の地位が低いという問題があって、わたしはそれをもっと上げなくてはいけないと言っているんですが、現実には尼僧の多くが拝み屋さんになると言うんです。それで宗門としては、拝み屋さんを持ち上げるわけにはいかないから、ジレンマになっている。
 わたしが知っている範囲でも、東京都内に随分そういう方はいらっしゃいます。じつはわたしの祖母のいとこで、三十年ぐらい前に九十六歳で亡くなったのですが、小田原で拝み屋さんをやっていた方がいます。神社の中で暮らしていたのですが、熱烈な法華経信仰の人で、小田原にある大きな網元の安全祈願をするのが仕事でした。
 ずっとその仕事をしていたのですが、最後は足腰が立たなくなって、生きている意味がないと自ら命を絶ちました。謝礼としてもらったものは境内に来る貧乏な人に全部上げてしまって、自分は麦飯を食べていました。

厳しい日蓮宗の荒行の実態

【佐々木】
 曹洞宗では尼僧が拝み屋になるというケースは極めて少ないし、もしあったとしたら、そういう人たちを評価しない宗風がある。それが教団として世間のニーズに対応し切れないということと、どこかで結びつくような気がします。
 わたしも日蓮宗に関心があるのですが、千葉大学で宗教人類学の非常勤講師をしていたときに、中山法華経寺の信仰についての卒論を書いた女性がいるんです。それを読むとある寺の若方丈が百日の荒行に行って、そして終わって出てくる。そうすると、檀信徒が山門からずっと道の両側に並んで、白衣で髭ぼうぼうになって出てくる坊さんに触ったり、わらじのひもを取ったり、身に付けているものをはぎ取ったりして持っていく。つまり、それには特別なパワーがあるということですね。
 日蓮宗でいう霊断師というのも、深くそことかかわっているんですが、立正大学の先生方に霊の話をすると非常に嫌がられます。そこに、教学と現場との乖離という問題があって、これをどう克服するかというのが問題になってくる。

【丸山】
 先ほどからお話があるように、修行をする人がいなくなったのです。大雄山の講元さんなどでも、昔は熱いロウソクを自分の手に垂らして我慢をしたり、すごい修行をしているわけです。それは、それまでの自分の悲惨な人生があったり、また、人を救いたいという強い願いがあったりして、自分の身を傷める修行をしているわけです。今はそういうことをする人が少なくなったのではないでしょうか。
 正木先生にお聞きしたいんですが、カイラス山に行らっしゃって、何かご自分が頂いたものはありますか?

【正木】
 とにかく登っている時は苦しいんですよ。空気中の酸素は平地の半分以下になってしまいますから。二日目のキャンプ場にたどり着いたときはもう二時間ぐらい、完全に記憶がなかったですね。ところが、その前後の夢の中で、今まで忘れていたようなものが出てきて、結構怖い夢を見ました。
わたしの一隊は五人で行ったのですが、二人は高山病で、わたしを含めて三人しか一周できませんでした。非常に危険な状態もありましたが、やはり行というのは、どこか生死のぎりぎりのところへ行かなければいけないんだろうと思います。
 ちなみに、今年の日蓮宗の法華経寺での荒行には百六十六名が参加したそうですが、荒行は厳しくて何年に一回かは人が死ぬ。今年も一人亡くなっています。

【佐々木】
 すさまじいものですね。

【正木】
 午前四時に起きて、午後十一時まで一日七回、水をかぶります。その間、食事は顔が映るぐらいのお粥とたくあんだけです。あとは、ひたすら読経と写経ですね。読経は聞き取れないような猛烈なスピードで、ひたすら経文を唱え続ける。百日間で、体重が十キロ減るといいます。
 法華経寺の場合は、荒行を終えると修法師というタイトルがもらえるんです。一回だけでは、勧請できる神仏が限定されますが、それを三回行うとほとんどすべての神仏を勧請できるようになり、五回やると満行でどんな神仏も勧請できる。

【佐々木】
 五回やって満行する人というのは、どれぐらいいるんですか?

【正木】
 三回は結構いるようですが、五回はそうはいないです。

【佐々木】 それにしてもすごいなあ。

【正木】
 それぐらいやらないと、あの世界では、あまり大きい顔ができないということがあるんですね。霊的なものに対する対応は、日蓮宗は非常に強い。

【佐々木】
 自分を追い詰めていった究極のところで、仏が自分のなかに入り自分が仏の中へ入る、入我我入ですね。そういう一如感を、修行者はどこかで体験するということですね。

【正木】
 そうですね。ところが、荒行を終えると増長慢、天狗になってしまってどうしようもなくなる人もいます。逆に、こういう荒行を満行できたのはみんなのおかげ、壇信徒の心と一つになれたという思いを持つ人も多いようです。

霊が見えるのは不思議ではない

【佐々木】
 曹洞宗のほうでは、日蓮宗の荒行的なものは意図的に避けているのではありませんか?

【丸山】 そうですね。只管打坐ですから、坐禅、坐禅という形です。それが荒行と言えば荒行ですが、日蓮系の荒行と違ってむしろ静めるわけですからね。荒行は中へ収まっているものを出してくる。

【正木】
 そうです。荒行は修行者を猛烈にハイにします。

【丸山】
 道元禅師という方は奇をてらわない方で、派手な指導はなく、まじめそのものだったのではないかと思います。山神鬼神等に帰依するなかれとはおっしゃっていましたが、霊的なことはおっしゃらなかったと思うし、今でも曹洞宗で霊的なことを言うと、伝統的にそれはちょっと違うよというところがあります。

【佐々木】
 北海道に教化の第一人者と称されたご住職がいらっしゃいます。もう遷化されましたが、その方とわたしが対談をしたことがあるんです。永平寺で長く修行された方なんですが、ある時点で、眼に見えないものが見えたり、普通の人が聞こえないものが聞こえたりするようになったと言うんです
 例えば、決して高い施餓鬼壇を作ってはいけないと言われる。お施餓鬼ではお経を読んで、一切の餓鬼よここへ来たれ、食を授けるよというようなことを唱えるでしょう。そうすると、ほんとうにそこへ餓鬼が現れて、団子とか果物とかを取るのが見えると言うんですよ。
 当時、木村老師のそういう話を聞いた人々は、あれはまゆつばだと言っていた。しかし昔は、毎日三時半に起きて坐禅をし抜くと、あるときに、そういう一種の不可思議な体験をするという人が結構いて、そうすると先輩僧がお祝いをしてくれたという。それは教理から見たら魔境ですが、その魔境を通り越えると、本物の静まった境地になるという。
 インド仏教でも初禅、二禅、三禅から最上禅まであったでしょう。最後の通過点に至る前にはある種の魔境のようなものがあって、それがあらゆる宗教のベースにあるのかなと思います。ところが、それに学者や研究者が知的な理屈を加えて、そうした体験を抑えこんてしまう。
 社会ではパワーブーム、スピリチュアルブームだと言われ、若者やお年寄りたちが霊的なものを求めているのに、既成仏教側はそれに応え切れていない。葬祭においても霊を説かないお坊さんが増えたことが、人びとがお寺や僧侶に魅力を感じなくなった一要因ではないか。
 さきほどの大雄山の話でも、ああいう大伽藍を造った道了尊に、大山明神とか矢倉沢明神とか箱根権現とかが協力している。つまり修験道が禅を下支えしているわけでしょう。そういう構造はいろんなところに見えるし、そういうパワーに対する関心がブーム化しているのに、宗門ではそうした面を覆い隠そうとしてきた。

【丸山】
 はい。そうしたものを感じる人が上に立てば、ちょっと違うでしょうけど。わたしの師匠の友人のお姉さんで油井真砂という方がいらっしゃったのですが、この方は大変な霊能者でした。ある時、行者に山の中に連れていかれて、大変な行をさせられたそうです。そして、もうこれだけやったのだから、これからは人助けのために人里に下りなさいと言われた。そして、この方は、この世で苦しんでいる霊とかが見えますから、それを鎮めたりなさった。
 もっとも、それについて余語老師は、そういうこともあるだろうが、わしにはそういうことは分からんとおっしゃっていました。でも、人びとはつねに神通力というか、そういうものに憧れるわけですよね。そうした人びとの気持ちを既成教団は抑えてしまっている。そんなものは魔境だと決め付けないで、そういうことも全くないわけではないというふうにしたらいいと思うんです。
 わたしも、一番最初にふしぎな体験をしたのは、「日本は聖徳太子のテリトリーだ」という声が聞こえたんです。ええっと、びっくりしました。わたしは聖徳太子信仰を持っていたわけでもないし、あら、こんなことってあるのかしらという驚きでした。しばらくは、そんなことがありましたが、でも今はそういうものは静めたというか、ちょっとアンテナを閉じさせていただいているんです。
 でも今、わたしがお手伝いしているお寺の方丈さんには大変信者さんが多くて回り切れないものですから、わたしが法事に行くことが多いわけです。そうするとお経を読んでいる間に、不思議に、亡くなった人とその家とのかかわりとか、何かそうしたものがぴんとくるんです。で、あとでさりげなく家の人に話すと、それはうちのお母さんが、よくそう言っていたとかおっしゃる。だから、さりげなく入ってくると言ったらいいか。
 こう聞こえたとか霊能者的に言わなくても、それを伝えることによって人々に喜びや安心を与えてあげることができる。だからわたしは、そういうものに全く蓋をしてしまうことは、どうなんだろうと思います。
 原田霊昌老師という方の話ですが、九歳でお寺に預けられ、師匠に大変厳しくされたり、兄弟子たちにいじめられたりしながら育っていく。この人が小僧の時分に、朝課が終わってみんなが引き揚げてきたあと、本堂の鐘が鳴った。おかしいな誰か来たみたいだから、お前見に行けと言われて原田老師が見に行ったら、知らないお爺さんがいて、名乗ったそうです。ところがそれから間もなくするとそのお爺ちゃんが亡くなったという連絡が来るんですね。
 そのお爺さんは、これから自分のお葬式をお願いするからと脱魂して挨拶に来たんでしょう。原田老師は、そうした子どもの時分に、人間は脱魂して来るということを経験していますから、教学だけでない、何か不思議なものというものに対する畏敬の念を持てたのではないでしょうか。このような不思議ではありますが、素朴ともいえる経験をしている僧侶も、霊能者とはいいませんが、じつは多いのではないでしょうか。 

宗教の根幹は人々を救うこと

【佐々木】
 前回の丸山さんの指摘は大事だと思います。自分は霊能者だと言えば、宗旨からいっても必ず反発を食うだろうと思いますが、しかし、そういう資質というのがあって、やはり見える人には見えてしまう。
 それは何だろうというと、ベースの所にはアニミズムがある。アニミズムという言葉に対しては、好きな人とそれを避けてしまう人とがありましてね。山折哲雄先生なんかに言わせると、外国語でアニミズムなんて言う必要はない、「万物生命教」と言うべきだとおっしゃる。でも、「万物生命教」という言葉も難しいですよと、お話したことがありますが、日本宗教の根源的なところにそれが脈打っているというところでは山折さんも、梅原猛先生なんかも、同じ意見です。
 先般、正木先生が出された『現代の修験道』の中では、修験道とアニミズムとの関係を非常にクリアにされている。ただ、アニミズムというものは、その重要性と同時に脆弱性もあると言っておられる。アニミズムだけでは現代の宗教の十全な救い手にはならない。きちっとした高度の哲理とかが背景になくてはアニミズム自体が生きないと。

【正木】 アニミズムの限界ということは、わたしは随分前から書いております。かなり以前、国際法という学問にかかわっていたことがあるんですが、かつて、国連で「世界自然憲章」が制定されました。その経緯というのは、アフリカ中央部で国立公園を造ることになって、法的な整備をしなければいけないということになったんです。
 当然、欧米型の法体系を持ってこなければいけないわけですが、それだけで自然環境を守れるだろうかという疑問が出された。やはり地元の人たちの感覚も取り入れなければいけないだろうというので、地元の人たちの感覚と近代的な法体系との話し合いがあった。その結果できたのが「世界自然憲章」で、人間も自然の一部であるということを初めて宣言した革命的なものです。
 そういう中で、わたしはいろいろ考えていたのですが、日本とかアジア諸国が近代化していくなかで、アニミズム的な発想があれば、水俣病のような環境破壊は起こらないはずにもかかわらず、実際にはアニミズムが強固にあった所で環境破壊が起こってしまっている。これはなぜかということを考えなくてはいけないと思ったわけです。
 アニミズムというのは素晴らしいが、ある意味、地域限定であって、巨大な軍事力であるとか経済力が入って来たときには全く太刀打ちできない。それを乗り越えるためには、やはり仏教であるとか、大きな宗教の理念を組み込まないとアニミズムだけでは弱いということを、わたしは三十年近く前から考えていたんです。
 修験道というのもアニミズムに立脚していることは明白ですが、仮に日本の山がすべてはげ山になったら修験道はどうなるか。自然というものに非常に強く依存していますから、環境が崩壊すると宗教自体が崩壊してしまう。本来、宗教はその依って立つ環境を守っていく。それがうまくいけばいいんですが、近代化というのは、往々にしてそれを許さなかったということが、わたしの発想の原点です。

【佐々木】 アニミズムというのは万物に命とか魂を見るという思想ですよね。スピリットがそこに生き生きとあるから、木であれ、石であれ、変わった場所であれ、そこにはパワーがあるという感覚と結び付いてくる。ところが、それだけだと非常に素朴な実在感で終わってしまう。
 現在の自由経済主義では、とにかく儲かればいいということで自然破壊に歯止めが掛からない。ルソン島などでは日本に材木を持ってくるために森林をすべて伐採してしまい、地滑りとか水害が起きている。
 正木先生のお話では、アニミズムというものを本当に生かすためには、一定の教理、教学というか、時代を先導するような思想、哲学が必要だということですね。とくにアニミズムは自然宗教そのものかもしれませんから、これは一神教では理論的に受け入れ不可能ですよね。神が自然を造ったんだから、人間の幸せのために利用していいという論理がいつでも働く。
 そうすると、インドから東のほうのヒンドゥー教、仏教、儒教、道教、神道といったものが大事になってくる。なかでも修験道はアニミズムと仏教教学をうまく組み合わせてドッキングしたと正木さんは前から主張なさっているわけですが、現代においてはそのアニミズムの重要性と同時に脆弱性という問題も出てきたというご指摘ですね。
 しかし、これを裏返すと、さきほどの上田紀行さんのコメント、九十パーセントの人が仏教に親近感を持っているのに、お寺さんに対しては二五パーセント、お坊さんになると一〇パーセントに下がってしまうという問題になります。つまり教義宗教とアニミズムに根ざした生活宗教とのギャップですね。

【丸山】
 わたしの学びが足りないのですが、曹洞宗ではとくに『正法眼蔵』が難し過ぎますよね。『正法眼蔵』と人々が本当に曹洞宗やお坊さんに求めていることとはかけ離れてしまう。しかし、道元禅師が本当にわたしたちに教えてくださろうとしているのは、人びとの救済ということだと思います。道元禅師はそのことに一所懸命だったと思います。
 当時、道元禅師の周りには醜い権力欲による争いが渦巻いていたわけです。禅師のお祖父さんもお父さんもその渦中にいた。ですから禅師が名聞利養を厳しく戒めたというのも、自分がそうした醜い世界を実際に見てきたからですよね。そういう道元禅師の願いというものを『正法眼蔵』から学ぶには、大学の学問的な解釈と、信仰との間にギャップがあるように思います。
 曹洞宗では「一仏両祖」と言って、道元禅師と並べて瑩山禅師の教えを尊重するわけですが、わたしは今こそ瑩山禅師の教えを大事にしなければいけないときだと思います。瑩山禅師は、人々のニーズに応えるということも大事だ、そのためには祈祷もしなさいとおっしゃった。道元禅師の願いであった人びとの救済ということを、瑩山禅師は現実に即したやり方で教えてくださっているわけです。

【正木】
 丸山さんがおっしゃったように、宗教の根幹は救いだということを、大学の先生方はほとんど忘れていて、そんなこと全然意に介しません。とにかく細かい文献の研究ばかりなさっている。そして、お釈迦さまは霊魂なんか認めなかったなんて言ってすましているから、田舎の寺に帰ったとき総すかんを食うわけですよ。

キリスト経にもある教理と現実の乖離

【正木】 先日わたしが『東京新聞』に書いたアニミズムに関する記事を読んで、南山大学におられた青山玄先生からお手紙をいただきました。じつはキリスト教でも、アニミズムをどう取り込んでいくかというのは大きな課題だと言うんです。
 日本文化研究センターの安田喜憲教授みたいなアニミズム至上主義は、欧米では絶対に受け入れられない。そうしたなかで一神教的なるものとアニミズム的なるものを、どうつなぐかということで自分は苦闘している。それを考える上で参考になったというお手紙だったんです。多分、これはまさに教学的な話ですが、一神教とアニミズムはうまく合わない。汎神論さえ認めていただければ、何とかなるだろうと思うんですがね。
 とにかく、キリスト教側でも心ある人は、アニミズム的なものを取り込みたいと思っていらっしゃるし、いろんな所で、いろんな方がいろんな苦闘をしておられる。そういうときに、教学を超えた現実の課題にどう答えていくかということを考えている人と、そうしたことは全然念頭にない人との落差は大きい。
 とげぬき地蔵の来馬住職はお医者さんでもある。対本宗訓さんのように臨済宗佛通寺派の管長職をなげうってお医者さんになった方もいらっしゃる。あの方々は今、「僧侶で医師である会」というのをつくって何か運動を始められたようです。いろんな所で、いろんな方法を使って、社会と積極的にかかわっていくことをやらないといけないと思います。
 今の宗門大学では文献学ばかりで細かいことばかり突っついている。それでいて中村元先生が翻訳された『悪魔との対話』のような、お釈迦さまが悪魔が実在するということを認めているような経典は無視する。『悪魔との対話』では、ある方が亡くなって、その上に煙のようなものが漂う。するとお釈迦さまは直弟子たちに、あれが悪魔だというわけです。お釈迦さまの目には悪魔ははっきり見える実在だったし、お亡くなりになるまで悪魔と対話をしているわけです。
 仏教は、そういう霊的なというか魔境的なものを本来、否定なんかしていないと思いますよ。ところが大学の文献学の人たちはその部分には絶対触れないで、そんなものはないとおっしゃる。でも、初期仏典にちゃんとあるんだから、おかしいですよね。

【佐々木】 もう二十年以上前になりますが、わたしは文部省の助成金をいただいてフィリピンのマニラを中心にしたキリスト教の実情を調べたことがあるんです。先ほどお話のあった南山大学の青山玄さんはカトリックでしょう?

【正木】
 カトリックです。

【佐々木】
 だから、プロテスタントと違ってアニミズムとの問題も出てくるわけです。ブラックナザレ教会という、ローマ法王庁のカーディナル(枢機卿)も出した有名な教会に行ってみますと、黒いマリア、黒いイエス・キリストが祀られていて、入り口にはイエス・キリストの等身大だという一メートル七十センチくらいの横に寝た像がガラス箱に入っていまして足だけが出ている。
 そうすると、そこへ何百何千の人が行列を作りまして、大理石で造った足の裏に十字を切ってキスをして行く。そのままだと非衛生ですから、アルコールをしみ込ませたガーゼを持った教会の係りの人が、信者が口付けすると、すっと拭く。三百年か四百年にわたる信者の口付けのために、両足の土踏まずが一センチぐらい減っているんですよ。口付けだけで石が減るというのに、わたしは感銘を受けました。これが、教学キリスト教と生活キリスト教の違いなんですね。
 神学者は教学キリスト教は勉強しても、生活キリスト教の現場というのは無視する。キリスト教系大学でも多分それがあって、それが青山玄先生の発言と結び付いているんだろうと思います。

【正木】 ええ、そうですね。

【佐々木】
 京都大学医学部の教授で伊達洋至という先生がいらっしゃいます。進行性肺がんの手術では世界的な権威で、肺移植手術をこれまで三千例ぐらいやられて、その実績は世界に知られている。この方は、手術への恐れというものを人一倍知っていて、必ず朝、大学病院に通う前にお寺に行って手術が成功しますようにと祈るそうです。教授はそうした行動を、力をいただくためと言っています。今日のパワーに対する信仰というものは、インテリでも同じではないかと思うんです。

【正木】
 それがないと宗教は成立しないですよね。

【佐々木】
 お釈迦さんの教えが民衆に広まったのも、縁起といった思想からではなく、平川彰先生の説などではストゥーパ崇拝からだと言われています。仏塔にはお釈迦さんの力ある遺骨が祀られている。だから、そこへ助けを求めて行って拝んでいた。今日本でお墓を拝むのと、そう違いはない。

【正木】
 立川武蔵先生がお書きになっておられましたが、当時のバラモン教やヒンドゥー教徒から見ると、仏教徒は遺骨を崇拝する気持ちの悪い人という批判があったそうです。『マハー・パリニッバーナ・スートラ』を読んでも、お釈迦さんは直弟子たちに葬儀にはかかわるなと言っていながら、ちゃんと自分の墓をつくって祀れと遺言したわけです。

神秘体験は異常なものではない


【佐々木】
 ところで、「寺門興隆」という月刊誌に京都大学のカール・ベッカーさんが、「日本仏教の歴史から垣間見る現代的役割」という記事を寄せている。かつての寺子屋などではお坊さんが医者や教育者の役割を全部担っていた。それが近代化されて、いいところは医者や学校や専門のカウンセラーに取られてしまって、お寺に残ったのはお葬式だけ。お葬式は、癒やしの場として非常に大事だが、医療、福祉、教育といったほかの領域での寺の役割というものを、もう一回考えるべきではないかと言っている。

【正木】
 じつはカール・ベッカー先生も、アメリカの大学での博士論文は、病院における幽体離脱なんです。ベッカー先生に言わせると、多くの臨終を看取ったアメリカの病院で、お医者さんの三分の二近くが幽体離脱らしい事例を体験しているという。
じつはわたし、前の妻ががんで亡くなったんですが、その最後の三週間ぐらいの間に、三回、神秘体験をしたんです。ベッカーさんにその話をしたら、一回でも奇跡なんだから、三回というのはあなたの彼女に対する、そして彼女のあなたに対する最後の最高のプレゼントだと言われました。
 例えば、わたしは密教的な世界にかかわっていたので、患部の痛みが和らぐようにと、光明真言を唱えながら彼女に手かざしをしていた。そのとき、ひょっとしたら不動明王真言が効くかなと思って、一切声に出さないで胸の中で不動明王真言に切り替えた瞬間に妻が何かやったのと言いました。今までと全然違うって。やはり実際にそういうことはあるんだと思いました。
 ただ、普通の方にそれを言うと、まゆつばと言われますが、臨死というか死が近くなった人の中には、非常に敏感になる方があるんだと思うんです。そういう中では、信じられないことが起こるのは事実です。多分そういうことは、今のスピリチュアルブームやパワースポットブームとも繋がっていて、何となくそういうことを感じる人が、じつはたくさんいるんだと思う。
ところが、それが教義仏教の中では受け入れられないわけです。 そこがおかしい。例えば、自分の近親者が重病になったり、亡くなったとき、何か不思議なことが起こっているかもしれないんです。でも、そのことをお坊さんに言っても、そんなものは気の迷いだとか、妄想だよでおしまいです。

【佐々木】 宗教者が俗人と違う特性を持つとすれば、一般の人には見えないものが見えるとか、聞こえないものが聞こえるといったことで、そうしたものをどこかに持っていないと、やはり宗教者とは言えないと思いますよ。それが今の教団は理屈でもってやろうとしている。そうした「知」以前の人類の遺伝子みたいなものにアニミスティックなものはずっとあって、それが宗教文化というものの根源だということは、疑うべからざるものだろうと思います。
 曹洞宗の寺院の中でも大雄山や可睡斎は修験と結び付いている。それから山形の善寶寺は竜神信仰ですね。それらの正体は何かというと、超自然的なパワーであって、そういうものがベースになって、その上に教学とか行が載っかって行くわけです」。
 それを正木さんは大乗仏教のスローガンとしての「上求菩提、下化衆生」という言葉に集約されていて、とくにその両者をみごとに連携しているのが修験道ではないかとおっしゃっている。天台の千日回峰行だとかにも修験の影響が当然ありますよね。

【正木】
 ええ。回峰行は仏教本来の筋とは違う。空海さんにしても、山岳修行者の中にいたんだろうと思います。ああいう流れはその前からあって、道鏡なども葛城山で修行していますし、そういう流れが日本独自の密教をつくっていったと思うんです。

【佐々木】
 日光山の輪王寺なんかでも男体山の信仰と結び付いているし、やはり最後のベースはそこに行くんですね。それが近代教学になると、キリスト教でも仏教でもそうした信仰を迷信、邪教だと言って切るわけですよ。
 ヨーロッパでは中世末期から近代にかけて「魔女狩り」が行われて、霊能をもった女性を異教だというので断罪して、何万人と殺したという。その伝統が、ナチスのユダヤ人殺害と結び付いてるのではないかとも思うのですが。

【正木】
 イスラムでは聖人崇拝という形に変えている。イラクでは手かざしをやっているんですが、別に日本から入ったわけではなく、もともとあるんだそうで、ジンとかジニーと呼ばれる悪魔の力なんだけれど病気治しなので黙認されているそうです。あの種のものは、どこに行ってもあると思います。

澄み切った水に魚は住まない


【丸山】
 聖フランチェスコも、鳥と話をしたりしていますね。わたしはアッシジに一カ月ぐらいいたことがあって、フランチェスコが祈りを捧げたという洞窟へもよくお参りに行きました。晩年には手足と脇腹にキリストと同じ聖痕が現れたそうですが、キリスト教でもそういう不思議なことがあるんです。

【正木】
 鎌倉の建長寺にはいまだに修験道の要素が残っていて、一番奥にある半増坊というところでは今でもご祈祷をやっているんです。これの起源は明治の後半で、当時の建長寺の管長さんの夢に修験者、カラス天狗が出てきたんだそうで、それで半増坊を造って、今でも三十体ぐらい、ブロンズのカラス天狗の像がずらっとあるんですよ。

【丸山】 大雄山の道了さんの眷属もカラス天狗の系統です。

【正木】
 建長寺は地獄谷と言って、かつて処刑場だった所です。ですから、ご本尊はお釈迦さんではなくお地蔵さんですよね。もともとそういう場所だから、逆に近代になってから修験が入ったのかもしれないし、どろどろした伝説がたくさんあるようです。

【佐々木】
 今、正木先生からどろどろしたものという話が出ましたが、澄み切った水だけでは魚も住まないわけでね。しかし、どろどろだけでいいかということになると、アニミズムにも限界があるということで、澄み切った水と両方が重なり合う弾力的なダイナミズムが必要なんでしょうね。寺の在り方もお坊さんの生活もそうだし、仏教の発展というのは、多分そういう形で来たんだろうと思います。

【正木】
 現実はそうですね。わたしはチベットに行ってみて驚いたのですが、山口瑞鳳先生がお書きになっているようなチベット仏教というのは僧院の中の超エリート学僧の世界なんです。現実にはみんな大黒天や吉祥天の変身した怖い像に対する信仰で人が集まって来るんです。

【佐々木】
 学者は歴史に逃げるというか、文献にこうあった、あああっと。それも貴重かもしれませんが、実際に現場を見てみると、当にどろどろしたものと澄んだものとが同居しているわけですよね。

【正木】
 わたし、去年の四月にNHK教育テレビ「日曜美術館」の円空特集で、姜尚中さんと話をしたんですが、円空も修験者なんですよね。生涯で十二万体彫ったと言いますけど、一宿一飯の恩義で、お世話になった家に、みんな置いていったわけです。それは呪力がある呪仏だからなんですよ。円空仏というのは、お守りであり、祟りを防ぐものであり、幸福を招く、何かそういう呪的なものなんです。それを、みんなに彫って与えていった生涯ですよね。最期は即身仏になって今、岐阜県の塚の中にお出でになると思いますけど。
 円空というのは、今、日本の美術界では断トツの人気なんです。「日曜美術館」でも、史上一番の高い視聴率がとれたと喜んでいましたが、円空をやると視聴率がばんと上がる。仏様だか神様だかわけの分からない円空仏に多くの日本人が一番シンパシーを抱いているわけです。

【佐々木】
 一般の人にとっては神も仏も同じなんですね。戦争に負けたとき、「神も仏もあるものか」と言った。やはり神仏習合の伝統はいまだに残っていて、仏壇でも神棚でも、理屈ではなく、そこに威神力があり、パワーがあるからお守りくださいと拝むわけでしょう。

【正木】
 立川武蔵先生が「真言陀羅尼」の一番いい訳は「力ある言葉」だとおっしゃっています。

【佐々木】
 パワーですね。だから、お説教も力ある言葉を吐かないといけない。人々を納得させるためには、自分が力を付けていないといけないじゃないですか。そうすると、修行ということが大事になってくる。

【丸山】 そうです。やっぱり修行をしなければ駄目だと思います。百日回峰のようなものでなくていいから、少し、肉体が苦しむような行ですね。お釈迦さまのようにあばらも浮き出るほどではなくても、せめて三日ぐらいは断食をしたり、そういう行はしたほうがいいと思います。曹洞宗ではそういうのは行に組み込まれていないけれども、それは新たな面が必要ではないでしょうか。人を救うには、宗教的パワーはあったほうがよいと思います。佐々木先生のおっしゃる仏力ですね。
 でも、まあ、人類も地球もいずれ滅びるわけだから、それまでのいろんな遊びなんですけどね。

【正木】
 生物学的には、一つの種が存続するのは百万年が限界だと言われています。人類は今の種になって十八万年ぐらいですから、あと八十万年後には消えているかもしれませんよ。永遠なるものは、ないんです。

【佐々木】
 いずれにしても、人間は自然の一部だということを忘れてはいけない。そうした教えは道元禅師の『正法眼蔵』山水経にも示されているわけですが、禅でも修験道でも、それをもっと強調していかなければならないと思います。


(平成二十三年三月九日収録)