大道晃仙禅師
温和な容貌に接した日々を偲んで


駒澤大学大学院非常勤講師・元神奈川県立金沢文庫長 高橋秀榮


 ぼくは昭和三十年の夏、北海道釧路市の専門僧堂・定光寺の五世古峰英仙老師について得度をうけ「昌嶽秀榮」という法名を授けられましたが、老師は半年後に遷化。そこで故禅師さんが新たに師弟の法縁を結び直して下さいました。故禅師さんは平成十四年の秋に「慈峰英鑑禅師」の尊号を賜って倪坐に就任されましたが、ここでは定光寺住職時代の面影を思い出すままに綴ることにしたいと思います。
 禅師さんは和顔愛語の人、喫茶養生の人、布施利他の人でした。また楷行草の書体を極められた能筆の人、さらには軽妙洒脱な禅画を好んで描かれる人でした。得意とされた禅画は達磨半身図、独坐大雄峰、抹茶碗、蟹横行図、托鉢図などでしたが、『禅餘游墨』と題する画集を拝見すると、そのほかにも様々な禅画を染筆されています。禅師さんが色紙、半折、条福などに染筆された枚数はおそらく万をこえたと思います。禅師さんはまた知人から書物の題字揮毫を頼まれることも多く、ぼくが釧路市立図書館で調べた限りでも、吉田仁達磨著『炎の人―小三治一代―』、毎日新聞社発行『我が這裏に勝敗なし 栗林定四郎追悼集』、釧路新聞社発行『中川久平―郷土に生きる梅楓精神―』、川崎雅宏著『古月韜光』、定光寺発行『慧日放光』等がありました。
 禅師さんは博多の名僧仙高フ禅画がお気に入りであったらしく、丈室にはいつも出光美術館所蔵の仙高フ作品を印刷したカレンダ―が掛かっていました。
 禅師さんは観音信仰の人でした。ある時、讃岐の金毘羅さんで求めた一刀彫の観音像をお送りしたところ、「御内仏に御安置致し、毎朝献香礼拝致して居ります。見事な木彫にて敬服致しました。大道長安様の観音救世の精神をもって一生を貫き、その信仰に生きたいと存じますので、よき尊像の御贈呈感謝致します」とのお便りを頂いたことがあります。お内仏には毎朝、煎茶とお線香を供え、先亡諸霊に合掌されていましたし、お内仏の隣の床の間には、大道長安師の「南無観世音菩薩」という遺墨が掛けられていました。
 禅師さんは学生時代、大久保道舟先生に師事して大道長安師に関する論文を執筆されると共に、監院時代にそれを出版されました。長安師は異安心を唱えたという理由で、一時期宗門から排斥された方でしたが、英仙老師と禅師さんが遺徳顕彰に尽力されたことが実を結び、現在は曹洞宗の歴史上の重要人物として、駒沢大学博物館で展示紹介されるまでに名誉が回復されました。
 禅師さんは大学卒業の頃、研究者になりたいという希いをお持ちだったようですが、英仙老師の厳命で断念したとのお手紙を頂いたことがあります。「不肖も大学の頃いろいろとなやみました。卒業の頃、研究生に残りたくて先師に相談しましたが、すぐ帰山して補佐を厳命され、大久保道舟先生も年老いた師匠を補佐するのが貴兄の使命である。学者は容易でないといく度もさとされて、卒業式二日後に帰山して今日にいたりました。(中略)只幸にして大道長安仁者の卒論を書いた関係で幾分でも救われた感じで居ります。不肖の果し得なかった夢を尊師にたくしたいといった心境で居りますから、大象兔径に遊ばず宗学者として大成さるる事、心より期待致して居ります」と、励まされたことがありました。
 禅師さんは坐禅堂を建立して専門僧堂定光寺の格式を高められました。その落慶法要にあたり、禅師さんは新幹線に乗って北陸の武生の龍門寺を訪ね、大久保道舟師に拝請のご挨拶をしてきた、と話されたことがありましたが、禅師さんは恩師と仰ぐ人を生涯にわたって大切に敬慕された人でした。ちなみに禅師さんは学生時代、大久保師の原稿清書(岩波文庫本『道元禅師語録』)をお手伝いされたことがあったそうです。
 禅師さんは若い時分に闘病生活をされたこともあって、薬師如来の「オンコロコロセンダリマトウギャソワカ」という真言をお唱えしておりましたが、さらに英仙老師の訓戒にしたがい、腹を立てずいつも笑顔で過ごすようにと願って、「オン、ニコニコ、ハラタテマイゾ、ソワカ」という呪文も唱えています、と檀信徒のお通夜の席で笑いをまじえてお説教されることもありました。
 禅師さんは義弟の渡辺秀山さんと、丈室でお抹茶を喫しあいながら、禅僧のあるべきようについて会話されることもありました。道元禅師はとかく坐禅一途の厳しい禅僧と思われがちですが、在家者の手紙を代筆されたように、他人思いの親切な方だったようですね、と和やかに話し合われているのを丈室の隣の寮舎で漏れ聴いたことがあります。渡辺師は栗山泰音禅師に随身された人だけに、禅師さんは全幅の信頼を置かれ、時には宗学や宗典を話題にされることもあったようです。
 大本山總持寺で禅師さんの本葬が終わった三日後に奥様の澄子さんが九〇歳で他界されました。奥様は四男五女の子宝に恵まれ育てられた人です。長男光肇さん(現住職)、次男晃正さん、三男英隆さん、四男英徳さん、長女晃子さん、次女英子さん、三女博子さん、四女陽子さん、五女智子さん。禅師さんは終生、英仙老師の法恩を念頭に、ご子息の命名にも「英」字を添えられたことがわかります。長女の晃子さんが「父はとても優しい人で、たいへん可愛がられました」と話されたことがありますが、禅師さんは本当に子煩悩で、九人のお子さんを等しく可愛がられた慈愛の人でした。
 禅師さんと奥様のご逝去はじつに悲歎極まりありません。ぼくが今日あるのはまことにお二人の慈愛によるものです。今はただ禅師さんと仏縁を結ばせていただいたことを深謝し、心静かにご冥福をお祈りするのみです。

 『無功徳』