座談会
東日本大震災にあたって、曹洞宗寺院はなにができたか。
そして、将来に向けて今、なにをなすべきなのか。
第1回
出席者(順不同)
田中徳雲(福島県南相馬市・同慶寺住職)
中野重孝(福島県福島市・長楽寺住職)
門脇昌文(宮城県仙台市・林香院住職)
荘司大功(宮城県栗原市・柳徳寺住職)
八巻英成(宮城県女川町・保福寺住職)
高澤公省(岩手県陸前高田市・光照寺住職)
三宅俊禅(岩手県釜石市・盛岩寺住職)
藤木隆宣(司会・仏教企画代表)
平成23年3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖で発生した地震は、日本での観測史上最大となるマグニチュード9、0を記録。建物の倒壊などに加えて、直後に発生した大津波は東北地方の太平洋沿岸に未曾有の被害をもたらし、つづいて起こった東京電力福島第一原子力発電所の放射性物質漏洩は、日本の産業構造の根本的な見直しを迫っている。
この東日本大震災は、人々の心にも大きな変化をもたらした。戦後ひたすら追い求めてきた豊かさは大自然の猛威の前に崩れ去り、さらに人災である放射能の恐怖にさらされている。そうしたとき人びとは、震災の犠牲となった家族を思い友を思う。そして、人生にとって一番大切なものは何だったのかということに気づき始めている。
このとき、仏教界が果たさなければならない役割は大きい。震災直後の被災者に対する直接的な援助も大切であったが、一年が経とうとする今、人びとの心に芽生えた人生そのものに対する疑念に応えていく必要がある。
今回は、震災の地、福島・宮城・岩手の曹洞宗寺院から七人の方々にお集まりいただき、震災時に寺院は被災者のために何ができたのか検証するとともに、今後、どんな活動が必要とされているのか話しあっていただいた。
【藤木】 東日本大震災によっておよそ二万人の死者、行方不明者が出ました。火葬が間に合わずいったん土葬された方も多い。そういう方がたをどうきちんと供養するかが大事で、地元の仏教界が中心となってそれを提唱し実行すべきではないかとマスコミでも取り上げられていました。寺院が被災地域の傷ついた人々のこころの支えになってほしいと、今ひろく期待されている。この座談会が、そうした寺院に対する一般の期待を、どう具体的に実現して行くことができるのか、提唱していく場になればと思っています。まず始めに、今回の震災が起こったとき、現場の状況はどうだったのか、お一人ずつ報告していただきたいと思います。
【高澤】 岩手県陸前高田市・光照寺の高澤公省です。地域によってそれぞれ被災状況は異なるとは思うんですが、うちのほうでは、寺院のさまざま対応ぶりが浮き彫りになり、地元から大変なクレームが寄せられた寺院も、中にはございます。
たとえば、これは他宗派ですが、周りの住民がお寺の本堂に避難してまいりました。ところが四、五日か一週間ぐらいたってから、寺族から追い出されたと、避難していた人たちが口にしたらしい。本堂も葬儀で使用することになるかもしれないし、汚れた服で入ってこられると困るというようなことを言ったとか言わないとか。市内のあちこちに、そういうふうな噂が広がってしまった。
ご寺院さん方が自分たちの目線を優先させてしまって、地域の現状の目線に立たなかったというところがやり玉に挙げられた。これは残念なことでした。
【中野】 福島県福島市・長楽寺の中野重孝です。福島県は、浜通り地区は、国道六号線から東側に大津波がまいりまして、甚大な被害が出ました。東電の第一原発の事故も起こりました。太平洋側から浜通り、中通り、会津地方と、県が三つの地域に分けられているんですが、福島市は中通りの北の地域で、第一教区四十カ寺がありますが、各寺院、損壊、半壊あるいは大規模半壊になり、私の住職地も大規模半壊という大きな被害を受けました。
私自身は、ちょうどその時間、上海からの帰国便に乗り、浜松上空の機内におりまして、地震の揺れを体験していない。これが本当に情けない気持ちでいるわけです。八カ月過ぎた今も時間が止まったような気持ちでいます。私どもの地域は教区長さんを中心にして、すぐに被害状況の把握を進めまして、連携が早かったと思っております。
大震災から五カ月過ぎた八月に、励ましてくださった皆さん方にお礼、あるいは慰霊、お見舞いということで、四日ほど時間を取ることができました。南相馬市の小高区の国道六号線をスタートし、福島、宮城、岩手と回りました。女川の保福寺さんからは海側を回って、雄勝、志津川、南三陸町、気仙沼、陸前高田まで行きました。車で八百キロの距離を移動しながら、あらためて被災したそれぞれの場所に立って、事の重大さをひしひしと感じました。自分に何ができるんだろうという重い課題をあらためて受けて帰ってまいりました。
そのとき、被災地の十七カ寺のお寺さまにお会いしたのですが、お会いすると、「おお、よく来たね、上がれよ」ということで、上がりますと、方丈さま方みな、今回の震災についてしゃべり出すと、お話が止まらなくなってしまうのです。実は、私もそうでした。お見舞いの方とお会いして、ずっと心の中にたまっていたものをしゃべり始めるとそれが止まらなくなってしまうんです。被災を経験された方は、みな、こころに溜まったものを誰かに聞いてもらいたいと思っているのではないでしょうか。
ぼう然自失、涙も出ない
【三宅】 岩手県釜石市・盛岩寺の三宅俊禅です。地震発生時、私は他出しておりまして、お寺に向かって帰る途中、山の中で地震に遭いました。車が運転できなくなるほどの揺れというのは初めての体験でした。まず、ハンドルが利かない。それから、ブレーキを踏んでいるのに止まっているという状態が全然分からない。そのために、ガードレールのほうへ寄っていったら、ガードレールへフェンダーがぶつかって、それでやっと止まった。それで地震だというのが分かった。地震がひとまずやんでから急いで寺へ向かったんですが、途中、三時半ごろ、国道へ人が逃げてきていたものですから、そこへ車を停めて、浜に津波が押し寄せ渦巻いているのを見ていました。
あ、これはうちのほうも大変だなと思って急いで帰りましたが、今度は通行止めになったので、車を放って歩いてお寺へ着いたのが夕方の五時半でした。途中、檀家の人に、和尚さん、お寺が流れてるよって言われたのですが、まさかと信じませんでした。お寺は標高二十二メートルくらいの高台に建っているものですから、まさかそんなところまで波が来るとは思っていなかった。寺に帰って見ると、庫裏は全壊、鐘撞き堂と山門も流されていました。山門は本堂の向拝の石段まで流され、本堂は須弥壇まで水がかぶって須弥壇がひっくり返り、仏具類から何からめちゃくちゃな状態でした。
あんな状態を見ると、人間というのはおかしいものですね、声も出ないんです。ぼう然自失というか、涙も出なかった。それからまず、家族を探しました。上のほうにお堂があるので行ってみたのですがいない。それで、中学校が避難所になっているので行ってみたら、中学校も危ないという。国道のほうにみんな行っているということで、ようやく七時半ごろに家族と対面できました。避難所に着いたときには、みんな無言でしたね。うちの総代さんとかいたんですが、声を掛けてもただ黙って無言で頭を下げただけ。みんなに大丈夫ですかと言っても、誰もしゃべろうとしない。私はそれで、あれ、こういう空気って何だろうなと思いました。
そのときはあまりにも寒かったし、女房が体調を崩したので、車に乗せて、エンジンをかけて暖房を取りながら、一晩中海のほうを見ていました。次の日の朝は何とも波が静かで、それだけが今でも鮮明に印象に残っています。それからはいろいろ大変でした。私は教区長もやっていましたから、いろんな報告をしなくちゃいけない。でも電話は通じない。ガソリンはない。無い無い尽くしの中で、今考えると反省するところはいっぱいありましたが、また得るところも、それ以上にありました。
【門脇】 宮城県仙台市・林香院の門脇昌文です。私は震災当日、青年会の旅行で伊丹空港におりました。テレビを見ていたら宮城で震度7というテロップが出て、仙台空港が津波に飲み込まれていく様子を見ました。翌日の夜、仙台に入ることができたのですが、市内は真っ暗で、駅前も車がほとんどいない。普段は何十台というタクシーがいるんですが、一台もタクシーがいない。それなのにタクシーを待っている人が行列を作っていて、何が起きたのかというような状態でした。
私がお話しするのは、東京や東海でこれから起こる頻度が高いといわれる大地震のときの様子に近い話なのかもしれません。町中、まったく静まりかえっていました。近隣の方は小学校であったり、建物が残っている方はご自宅にいたりしたようですが、幸いこの辺は翌日の朝には水道が通り、電気も三日目ぐらいから徐々につき始めたようです。ただ、マンションなんかは水が出ない状態が続いておりまして、うちでは外に水道がありますので、門のところに、水とコンセントがありますという張り紙をしたのですが、それぐらいのことしかできないなという感じでした。
庫裏の中には親戚と、家が住めない状態になった方がた数家族がいました。そういった方々が十五、六人、入れ代わり立ち代わり来ていましたし、ちょっと泊めて欲しいという方もいらっしゃいました。寺が避難所となったときに怖いなと思うのは、お顔が分からないということです。ニュースでもありましたが、空港、沿岸部に窃盗団みたいな形で入ってきた人たちがいます。昔と違って今は、坊さんも妻帯し子どももいますから、見ず知らずの人を寺の中に上げるということは恐ろしいことだなと感じます。
寺を避難所として開放するにはいろいろな問題が生じることがあるというこという点ですが、今回、被災者救済に大奮闘された石巻市洞源院の小野ア秀通師にお聞きしましたことは、大切なのは最初にルールを作ることだとおっしゃっていた。寺の避難所に入るからには、このルールを守ってくれと。たとえば、きちんとあいさつをする。避難しているからといって、何もしないのではなく、自分のできることは自分でする。子どもは子どもができること、お年寄りはお年寄りができることを、一人一人が手分けをしてする、というのが最低限のルール。それが守れない人は出ていってくださいという。
そのルールがないと、長期にわたって被災者支援を続けていくのは、お寺の家族にとってもすごい負担になるかと思いますし、皆お互いさまという気持ちを持ってやることが大事なんだなというふうに感じました。
リアルタイムの対応が必要
【荘司】 宮城県栗原市・柳徳寺の荘司大功です。地震発生時、わたしは静岡にいて、寺には、おばあちゃんと私の女房と娘二人女性しかいなかったんです。静岡でも強い揺れを感じて、数分で停電になりました。石屋さんの従業員さんがたまたま携帯電話のワンセグでテレビを見ていたので、どこですかと聞いたら、宮城県沖だと出ていますよというので、えっと思って、そのテレビをのぞかせてもらったら、宮城県栗原市、震度7というのが目に入った。私はそれを見たとき、もう栗原は終わったなと、つと思いました。それは私も縁がありまして、神戸の震災のときに炊き出しに参加させていただいたという経緯もありますので、震度7というと、もうあの神戸の光景しか目に浮かびませんでした。
たまたまご縁の方に東京まで車で乗せていただいて、ホテルのテレビで状況を見ておりましたが、栗原市のくの字も出てこない。すべては浜の情報ばかりです。情報がないということの不安は、大変なものだなと感じました。早く帰りたいのだが、電車も止まっている。たまたまホテルの隣にレンタカー屋さんがあったので車を借りて走った。車内でラジオを聞いていると、福島第一原発の水素爆発の情報が常時流れていたんですが、危ないから避難しろという指示もないし、大丈夫だみたいな話ばかりだった。そんな中、二十九時間ぶっつづけに走って寺に帰ってきたら、もうめちゃくちゃだったんです。本堂の壁は全部崩れて一つも残っていない。上の銅板から天蓋の飾りは、ほとんど落ち、紫檀で七百キロぐらいある須弥壇も一メーター以上ずれていました。
とにかく寺の中に入れる状態ではないので、車の中で四日間生活しましたが、車のガソリンもない状況でしたので、子どもたちをなだめて取りあえず家の中で寝ようと言ったら、地震の恐怖がトラウマになってしまっていて絶対嫌だと言うんです。これはしようがないなと思って、近くの避難所のほうにご厄介になりましたが、うちのほうはガスがプロパンで寺にも反射式のストーブがあったので、寺で食事して、寝るときだけ近くの体育館のほうに行って寝て、朝帰ってくる、というような生活を一週間くらい続けたんです。
ところで、こう言ったらほんとうに失礼なんですけど、じつは私、震災太りしてしまいまして。どういうことかと言うと、近所の皆さんがみんなで物を持ち寄ってくれた。みんなでいられるのは台所ぐらいしかないので、そこだけ灯油で部屋を暖かくしていたのですが、冷蔵庫は電気が入ってないので、物はどんどん悪くなる。とにかく食べなくちゃいけないと食べているうちに、周りからさらに物が来る。
震災三日目に、志津川という町が全部なくなってしまったところに叔母が住んでいたので行ってみたんですが、とにかく寒さをしのぐために石油が欲しいとかいろんな情報を聞いて、この浜の人たちのために何かしなければなければいけないという衝動に駆られた、それから親友がいる雄勝のほうに行くと、やはり石油ストーブの油がなくて、とにかく寒いから毛布が欲しいという。そこでとにかく石油を持っていこうと思って、車で運んでいたのですが、だんだんこっちもガソリンがなくなってくるし、それで、警察に行って、今こういうふうな活動をさせてもらっているんだけど、緊急車両の証明を頂けないかと折衝をしたんです。そうしたら、私は警察の補導員とか指導員とか講演とかやっているものですから、そうですか、じゃあ頑張ってくださいというようなことで証明をいただいた。
それで、すぐ高速道路に入ってパーキングエリアで石油、ガソリンの缶を車に積んで、車も満タンにしてもらって、それを浜のほうに運ぶという活動をしていた。そうすると、次には物を入れるリュックサックがほしいという要望があった。それで新聞社のほうに連絡をして、浜のほうでリュックが必要なのでちょっと呼び掛けしてもらえないかと話したら、そのときは数十点来た。それを持ってまた浜へ行ったら、みんな大喜びして、手が空くから、リュックサックが非常にいいと言うんです。これは、まだまだ欲しい方がいるとうことで、もう一回呼び掛けしたら、今度は一気にワゴン車に満杯になるくらい集まった。
そういうようなことで、行くたびに要望が変わってくるということがあるんです。ですから、ほんとうにリアルタイムで動かないと、要らなくなってから持ってこられても、ただのごみになることもある。だから頻繁に人々の声を聞くのに、昨日の声を聞いては駄目で、今の声を聞かないといけない。それを、すごく感じました。
人間としてできることを
【八巻】 宮城県女川町・保福寺の八巻英成です。私は震災当日はお寺におりまして、のんきに塔婆を書いていました。そのときいきなり字がずれまして、それでちょっと大きな揺れを感じた後に、本震といいますか一番大きいのが来た。家族は、長男以外は全員いまして、とにかく外に出ろということで外に出たんですが、いつまでも揺れが止まらない。そのとき私は、お寺は全部崩れるなということを覚悟して見ていたんですが、幸いにも崩れずに済みました。その後、あまりにも尋常ではない揺れだったので、すぐに家の中に戻って見たんですが、もちろん物は倒れているし、パイロットランプも全部消えていたんで、あ、電気はもう駄目なんだなと思いました。
次は、すぐ津波ですね。お寺から四百メーターか五百メーターぐらいで海で、大体二十メーター弱、十八メーターぐらいの高さのところに建っているんですが、とにかく引き波が来るだろうと思いまして、ちょっと確認しようと思って下りていったところ、近隣の方がほとんど家の外に出て、皆さん引き波を見ているような感じだったんです。そのときは皆さん、まだ、おお、おお、波が来るなっていうぐらいで、あの惨状を予期している方はほとんどいなかったのかなと思います。
その後、私はその引き波を見た瞬間に焦って、まずいなと思い、すぐにお寺へ帰って、とにかくお寺もやばいからと言って、三十四、五メーターぐらいあるであろう国道のほうに、家族を全部避難させました。お寺は緊急指定避難場所に指定されているので、少し大きい地震があると、大体皆さん、お寺に一応来るというような構図はある程度できていたので、皆さんいらしてたんですが、お寺に来ていただくこともちょっと危ないなと思いまして、皆さんに上に上がってくださいという形で、案内はしていたんですけれども。
それで波が来るというので、皆さん、寺に一斉に上がってきた。波が来ているのは見ていたんです。家や車が流されたりするのを観ていたのですが、言葉にならない。絶句というんですかね。あ、ああーっていうような、よく分からない状態で。ただ、自分がとにかく生きていることだけは意識できたので、とにかく次はどうしようとなったときに、雪が降り出したので、最初は中に入っていただこうかと思ったんですが、すぐにまた大きい地震が何度も続いたので、もし建物が倒壊したらちょっと怖いなと思いまして、二時間ほど皆さんには、車の中にいていただいたりという形にしました。
日が落ちてきて、地震も大体落ち着いてきたなというところで、お寺の中に入っていただいて、とにかくお寺の中にある衣類と毛布とか、暖かくできるものをすべてお出しした。結局、夜ぐらいまでに、二百二、三十人ぐらいの方が避難してこられて、自然発生的に避難所という形になりました。皆さん何も話さないんです。とにかく無言で、動かず、しゃべらず。とにかく暖かさだけを保つみたいな形でした。
次の日になりまして、日が出てきて、やっと皆さん少しずつ、とにかく生きないといけないという気持ちが出てきたようでした。がもう始まってるので、私も小野アさんと一緒で、最初に避難所のルールを皆さんに話しました。ルールとしては三つぐらい。とにかくけんかをしないこと。けんかした場合は、どちらが火種であろうと、けんか両成敗です。吹っ掛けられたほうも吹っ掛けたほうも、ここから出ていきたくなければ、吹っ掛けもしなければ、吹っ掛けられるようなこともしないように、ということだけをお願いする。あとは、子どもさんと女性の方を優先にしてくれと。男性はある程度我慢できるだろうということでお願いした。あとは、大人の人たちなので、ほとんど、おのおのの判断に任せる。とにかく皆さんで。これから何日続くか分からない共同生活ですから、そのルールだけ守ってもらえれば大丈夫だと思うということを話しまして、そこから二百何十人ぐらいの共同生活が始まりました。
最終的には七十日間、避難所をやっていたんですが、最初は、情報の錯綜が怖くてしようがなかった。真反対の情報が出てくる。たとえば、女川の中心部のほうに歩いて行った人の情報では、女川に行けば食べ物もあるし、何でもそろっている。今だったら、女川の真ん中のほうに歩いてでも避難したほうがいいという。ところが、次の日に行った人が見てきた情報だと、女川は全部駄目で、ここと変わらない。むしろ、こっちのほうがいいという。体育館に何千人という人たちが避難していて、食事もままならない。だったら、こちらの小さい単位でいたほうが安全だという話になった。とにかくテレビは見れない。ラジオで聞こえてくるのは断片的な情報ですし、女川自体が情報を発信できないような状況だったので、女川の情報というのが何も入ってこない。道路も寸断されていて、にっちもさっちもいかないような状況だった。とにかく今は団結して、あるもので何とかしようと。
たまたま、浜なので、皆さん冷蔵庫とか冷凍庫とか持っていらっしゃる。うちの周りには五つの浜があって、ほとんどお檀家さんなんですが、二百二、三十軒あって、六軒だけが完全な形で家が残っている。あとは中が抜かれたりとか、とにかく全壊指定を受けた家だけなんです。たまたまお寺はほとんど無傷に近いような状態だった。残ったからには、やるべきことがたくさんあるなと思いまして、とにかく先ほど言ったルールだけ作って、女性の方は料理を作る、男性の方は食べ物を探してくる。あとは、行方不明になった方を探しに行くというような、それぞれの役割が次の日には明確にできていたので、私は何も言う必要がないなと思いました。あとは、とにかく避難所をいい状況で保つということだけを務めました。
いつ出ていかないといけないんだというような話が、最初は四日目か五日目ぐらいから、それからは三日置きぐらいに出てくるようになりました。誰から話が出たのか分からないのですが、皆さんは、どうしても他人の家というような見方だったんでしょうね。私としては、避難してる九九%の方がお檀家さんだったもので、浄財によってこの寺は建てられているので、いつまでもいてもらうというか、そのために建っている建物だという認識でいたので、どうぞいつまでもと言うんですが、三日後にはまた、いつ出ていけばいいんだべ、が繰り返される。それで、とにかく一回みんなの前で言わないと駄目だなと思いまして、皆さんを集めて、いつまでいたっていいと、とにかく次に腰を据えるところができるまでいてもらって構いませんという話をした。それでも、やっぱり一カ月置きぐらいには話がぶり返すんで、そのたびにやりましたけど。
長野まで避難して再び福島へ
【田中】 福島県南相馬市・同慶寺の田中徳雲です。三月十一日、お寺も庫裏も屋根の瓦などが激しく落ちてきました。庫裏では食器棚なんかも倒れてきて危ない。それで、トイレは四本柱だから丈夫とよく聞くので、三歳の子どもを左手に抱えてトイレに逃げ込みました。
揺れが落ち着いた後、寺のことも気になりましたが、それよりも近所の人たちが気になりまして、周囲を見に行きました。お寺はちょっと高台にあって、門前に下りていったんですが、道路の陥没だとか液状化現象がひどくて、これは相当なことになったなと思いました。たまたまツイッターというのを去年の夏ぐらいに始めていたので、それを見たら大津波警報。津波の高さは七メートル以上だという。私の寺が海抜大体九メーター、陸から四キロですから、まさかここまでは来ないだろうとは思ったんですが、一応念のために山間部のほうに避難しました。
そのときにツイッターで、原子力発電所の電源が喪失したという一報を知りました。一昨年の震災前の夏に、福島では三号機でプルサーマルをやるということで、何とか止めることはできないのかなと思って、原子力発電所の仕組みについて、ちょっと勉強する機会がありました。そこで原発の仕組みを知ることができていたので、原発にとって冷却することができなくなる、電源喪失するということがどういうことなのか知っていました。これは非常に危機的状況で、非常事態だと思いました。
地域の人たちにも、非常に危険な状況だと伝えましたが、近所の人たちは長年の、原発は絶対大丈夫だという思い込みがある。実際、地域の人たちは原発は五重の壁という安全性があるから大丈夫だと。だけど、そこですったもんだしていても、時間は刻一刻と過ぎてしまいますので、私はとにかくお寺の近くの集落の人たちに、原発の電源喪失というのは非常に危機的な状況なのですよということをお知らせして、私たちはとにかく明日の朝まで、ここを離れると伝えたんです。明日の朝まで、様子を見て、状況が改善されるようであれば戻ってきますと。非常におしかりを受ける行為かもしれませんが、私はお寺を後にして、家族と一緒に大体五、六十キロ離れた福島市まで避難を開始しました。十一日当日、午後六時過ぎの出来事です
その日の夜、福島市に着きました。雪の降る夜だったので移動はやめようと思って、引き続き情報を携帯電話のツイッターで見ていました。原発の状況は良くなるどころか、どんどん悪くなっていきました。東京電力のホームページで爆発の予測していて、それをツイッターに流してくれている方がいて、それによると十一時半ぐらいには圧力容器が損傷すると予測されていました。
でも、十一時半になっても十二時半になっても、爆発したという情報は流れてきませんでした。ひたすら夜は祈るばかりで、子どもたちも泣いている中、落ち着くといっても落ち着けない状態だったのですが、車の中で何とか毛布を掛けて、子どもたちを寝かせました。夜二時、三時になると、交通量が極端に落ちたので、移動するなら今だと思いました。幸いガソリンはまだありましたし、寺に戻るか戻らないかという選択ではなく、もっと遠くに離れるかという選択でした。
土湯峠を越えて会津まで着いたのが、朝の八時か九時ごろ。そこで、初めて商店を見つけて食料なんかを手にすることができ、原発が爆発したらヨウ素が必要だからというので昆布をたくさん買ったり、子どもたちに朝ご飯食べさせたり、本当に身の回りのものだけを少し購入して、会津若松の栄町教会に身を寄せさせていただきました。片岡牧師さん夫妻によくしていただいて、ようやく少しほっとしてお茶を頂いているころ、夕方に差し掛かって、一号機が爆発という状況でした。
その爆発が水蒸気爆発なのかどうかもよく分からないでいました。チェルノブイリのときは、放射能汚染は三百キロ飛んだと言われていました。会津は原発から百三十キロぐらいですから会津もいずれ避難せざるを得ない状況になるかもしれない、もう少し距離を稼いだほうがいいなと思ったので、疲れ切った体を何とか奮い立たせて、日本アルプスの向こう、長野県まで行きました。
十二日の夕方会津をたって一晩走って、朝の三時ごろ長野県に着いて、長野の友達に迎えてもらい、クタクタだったのですが、すぐに友達や知人みんなに電話しました。三時、四時になると電話がつながるんですよね。それで、今私は長野まで逃げてきている、みんなも何も持ってこなくても何とかなるから、体だけ逃げてほしいと伝えました。
その日の夕方、長野にいる間にも一家族、また一家族というふうに、つながりのある人たちが次々と合流してきて、三家族になりました。うちも含めて小さな子どもがいる家庭ばかりで、子どもたちは熱を出したり下痢が止まらなかったりでした。ストレス性のものかウイルス性のものか、そのときは知る由もなく、ただ、大人もこんな状況だもの、子どもだっておかしくなるなと思っていました。
テレビを見たら一号機につづいて二号機、三号機、四号機がどうなるかという状況。三号機はプルサーマルで、燃料が猛毒ですから、それがいつ爆発するかというのがもっぱらの話題でした。お母さんたちで夜集まり、今後どうするか話をしたときにも、長野まで命からがら来たけれど、もう少し西に向かいたいという。私は、どこに行ったらいいかなと思ったんですが、原発のことでふるさとを追いやられ、今最前線で若者が集まって頑張っている山口県の祝島が脳裡に浮かびましたね。
しかし、十三日には、やはり地域の長老にあいさつに行ったほうがいいだろうということで区長さんのところに挨拶に行ったのですが、区長さんが、いや、それは大変だ、まさかこっちまで避難してきている人がいるとは知らなかったということで、皆さんに声を掛けてくださった。いろんな物資を集めてくださったり、お掃除をしてくださったり、ご飯を作ってくださったり、本当に良くしていただいた。ですから、さらに避難の足を伸ばすというのは、申し訳ないという気持ちもあったんですが、今、三号機が爆発すると、長野でも危ないかもしれないということをお伝えした。
その日は夕方だったので、明日の朝早く起きて借りた集会場を掃除して、お昼ごろさらに西に向かおうとみんなで決めた。でも、行けるところは限られていて、夕方に暗くなり始めたので、永平寺の門前の宿坊に電話しました。一晩の宿をお願いしたい、子どももちょっと熱を出していると言ったら、一晩ではなく熱が下がるまでいなさいと言われて、そこで一日、二日と泊まった。
それで被災者支援のお願いに一番最初に行ったのは、大野の宝慶寺さんでした。それから武生の御誕生寺さん、板橋禅師様のところ。それから福井県庁に行って、あしたには福島から避難してた人たちが大勢来ると思うから、受け入れ体制を整えてほしいとお願いした。
そのときに、カップラーメンとか、おむつとか粉ミルクといった支援物資が集まってきているのを、市の職員さんたちが仕分けをしていて、それを福井放送の人たちが取材していた。
それを見た瞬間に、体が勝手に動いていまして、私、実は福島から避難してきたんですけど、ちょっと声を届けていいですか、みたいなことを言ったんだと思うんです。冷静なんですが興奮しているような状態で、今とはちょっと違う行動をしたんだなと思うんですけど、死に物狂いで、なりふり構わずお願いした。
そうしたら早速翌日の朝、テレビ局を通じて、うちに住んでもいいよというような声だとか、あるいはお世話になっている宿坊にいろんな物資が届いたりとか、いろんな風が巻き起こってきました。
さらに西に進路を伸ばすということがだんだん困難になってきまして、最初は古民家でみんな一緒に生活できるところがいいだろうということになって、多いときで多分六、七世帯、一人暮らしの方や老夫婦なんかも入れれば、九世帯ぐらいになったのかもしれないんですが、総勢三、四十人ぐらいでみんなで肩を寄せ合って生活していました。
三月の二十二日ごろ、檀家の総代さんたちと連絡取り合って、寺に残った義母とか檀家の方がたのようすが分ってきたのですが、とにかく一度わたしが福島に帰らないといけないなという状況になった。
今福島に行くということは、被曝をするということだというのは重々承知はしていたんですが、三月の二十四日に、風向きなんかを気にしながら、福島に戻りました。
最初は、五日福島で活動しては、五日福井の家族の元に戻るというふうにしていたんですが、亡くなった方の供養、特に津波で亡くなられた方のご供養だとかで、だんだんと福井に帰る日数が減ってきて、七月、八月、九月は、ほとんど戻れない状態でした。
私のところは、地域の人たちの九割以上が全部避難しています。ですから、車がお寺みたいな、移動お寺みたいな感じになってしまいまして、お寺に必要なもの、過去帳のたぐいのものから衣類まで、必要なものを一式車に積み込み、連絡は全部私の携帯電話で対応するということになっていきました。
今もそんな感じなんですけど、さすがに七月、八月、九月でだいぶ機能障害に陥ってしまったというか、私自身、一生懸命やっているんだけど、確かにそのときには充実感はあって、地域の人たちをつないでいて、お互いに元気をもらったり、元気をあげたりという、これこそが宗教者の役割だみたいな、燃える部分も非常にあるのですが、ただ、根本的なところとして福島に住んでいていいのか、水を飲んでいいのかといった安全性の問題ですね。安心・安全キャンペーンはやっていますが、その辺のことが何となく非常に矛盾しているなと感じながらの活動だったので、自分でわけが分からなくなってしまって。
地域の人たちも言うんです。一生懸命やってるけど、やってるふりだ。地に足着いてないもん、と。
私もこういうときだからこそ努めて冷静に、落ち着いてと思って、本当に僧堂の生活に近いような生活をして、自分を追い込んでいくというか、しっかりと自分の気持ちを確かめなくてはと思うので、呼吸を大事にした生活を意識していますが、こんなに大きな原発事故があった福島に、これだけたくさんの方が残って生活を続けて良いのか、国や県は、本気で私たちの子どもたちを守る気があるのか、疑問がぬぐえません。
(平成二十三年十一月二十八日、仙台にて収録)