こうなった日本!
これからどうする仏教!?
宮崎県・昌竜寺住職 霊元丈法
〈大自然
民主主義では収まらぬ〉
昨年の九月台風十二号の直後、熊野市での宗門関係の講演にいきました。一年の雨量の半分が一度に降ったと言われる豪雨です。五年前、世界遺産になった熊野古道を散策し、
みごとな杉林に圧倒され、これなら治水は大丈夫と思いましたが、想像を超える災害にびっくりしました。その夏、私の日之影町も集中豪雨が襲い二つの集落がほとんど壊滅状態となりました。また、昭和五十七年のお盆には七百ミリという豪雨で、死者が三人出ました。毎年のように台風が襲いますが、対応も早くめったに死者は出ません。しかし近年はゲリラ豪雨で、その上深層崩壊という大規模な土砂崩れを伴い、復旧不可能な場合が多くなりました。今回の吉野熊野の惨状も全く同じものです。これほどの災害に、少しは宗門も大震災で勉強して対策が迅速に取られるだろうと期待していましたが、被害状況を知らせろと言うだけで速急に打つ手はないようです。かって檀家で四軒が全壊し、三人の死者が出てもタオル一本の見舞いだった時から、全く変わっていない宗門です。そして怖いのは、この災害の後、日之影町では急速に過疎化が進んだことです。道や住居が復旧されても住み続ける希望がわかないからです。大震災、ことに福島原発の強制退去で檀家を失う寺への対策はまだ何も取られていません。国も東電も宗教にはノータッチですし、たよりの宗門には何のノウハウもないことに、やり場の無い怒りがこみあげます。
〈床の間も
主人もなしの核家族〉
檀家制度の目的の一つは、幕府が統治のために、人を家単位で土地に縛り付けようとしたことにあります。今の寺檀崩壊の原因は、核家族化によって家の概念がなくなった時、個人宗教への転換ができなかったからです。また、戦後の農地解放で財産を失った寺の多くは、戦時中戦死者に授けた院号戒名によって救われます。院号が一般化されて、現在の一文字!万円の戒名代と非難される一因を作りました。また、家庭に出向く月(つき)経(きょう)(戦前は住職が出向くのは大旦那家が主でした)は仏事の庶民化となり、葬式法事という儀式仏教一色になっていきました。
これに対して、新興の宗教は個人の信仰をターゲットにして、瞬く間に既成教団を凌駕していきます。まず一人一人が自分の意思で信仰するため、自分自身が布教者でもある点が違います。信者獲得には徹底した現世利益を強調しました。数人のグループで信仰体験を述べ合う法座では、戦後の無力感を仲間内で癒やしていくことができました。また組織では、信者を増やしていけば地位が上がって、尊敬されると同時に収入も増えていく集金システムなど、既成教団がお寺維持のためにとった手段と全く違います。宗門にはお寺を維持する住職の育成しか頭にありませんでした。戦後の教育による基本的人権をたてに個人や信教の自由を主張し始めれば、家が解体され、檀家制度は終ることが自明なのに、現状を護ることに追われたのは残念です。
〈着メロで
引導法語 役立たず〉
今となっては、葬儀に変わる収入を他に求めることは不可能です。しかし団塊以前の世代がまだ喪主として残っています。また、あと十年は葬儀法事だけでもお寺を維持することができます。ありがたいことに日本人の信仰は葬儀がきっかけで始まります。その葬儀がお寺主導ではなく葬儀社なのが問題なのです。信仰を呼び覚ます場ではなくなっています。例えば福祉葬では約十万円の葬儀費がでますが、布施は一切含まれません。また、昭和五十年代葬儀社への支払いは棺桶と花輪で五万円程度だったのが、現在田舎でも百万を超えます。
一方布施は戒名代を入れても二倍程度の二十万円です。いまでは葬儀産業は二兆円に迫る勢いで、葬式に関しては名実共に葬儀社の独断場で、僧は駒にすぎません。葬儀社の「私たちはお客様の要望に答えてきました」という、この現実から出発すべきです。何度も言いますが『財法二施功徳』で受けるのが布施です。ぜひ法を説き「金を掛けずに、心を掛ける葬儀」にしましょう。
私の試みを紹介します。かって、本山での研修会に招いた葬儀社の社長から「お檀家さんはお身内ですか、お客様ですか?」といきなり切り込まれました。
坊さんの態度はそのいずれでもなく、檀家を隷属的にしか扱っていないと暗示しているのです。「治してやるのだ。俺のすることに文句有るか」だった医者さえも、納得のいく病状説明と治療法を示さなければならなくなっています。
導師とは帰依の対象だからこそ、成仏したかどうか結果がしめされなくても安心するわけです。だから「取られた」ということばがでたら布施の功徳どころか、施主に罪まで背負わせることになるのだと肝に銘じて欲しいのです。
けれどお檀家全部と身内付き合いは無理です。そこで、せめて役員さんとは身内のお付き合いをしていただきたいのです。できれば自分と同年代で気心の分かった友を役員として育てていくことが大事です。なぜなら、お寺は宗教法人で住職の他に補佐役がいるからです。また、お金の流れが檀家からお寺への一方通行ですから、必ず反対者がでます。通例、三分の一はいつでも住職の味方、三分の一はどんな立派な住職でもおもしろくない、残りは選べないのだから誰でも構わないのです。とすると、檀家の役員とくに総代さんは、お寺側に立って発言して下さる方でなくてはなりません。そのためには、寺を住職と共に背負う覚悟と誇りが必要です。
一,授戒し弟子として役に就いてもらう
一,法要時は室中など高位に定席を設ける
一,一般焼香に先だって導師香で焼香させる
一,種々の提案を役員から発表してもらう
一,料金感覚の布施に関しては、役員会で話し合ってもらう
一,役員には経理をできるだけ公開し、寺の経営に参加してもらう まず檀家さんの偏差値の方がはるかに高いので、経営や運営などの知恵を借りましょう。拙寺では、本堂建設役員は「寄付を仰ぐ立場だから、自分は出さなくていい」との約束でお願いしました。建設委員長は「和尚に頭を下げさせたら和尚の本堂になってしまう」と檀家に団結を呼びかけました。そして百二十年間建たなかった本堂が、五百五十本の木を寄進いただき、五間七間の本堂が五千五百万円で平成十年に完成しました。
〈欲張りは捨てろと説教 後拾う〉
私は大学在学中に会社を持っていたので、法人の長は経理をきちんとし、まず税金を払わなければ責任者ではないと思っています。だから一番嫌な言葉は『坊主丸儲け』です。同時に『坊主は金のことを言うな』と羽振りのいい坊さんも好みません。
ところで、日本人には布施の概念がないようです。お寺は公共的な物、公共は安くて奉仕してくれるはずーという意識が強くあります。たぶん、檀家制度の中、信用状や通行手形の在籍証明など官寺の役目を持っていたからでしょう。拙寺も大友キリシタン・薩摩念仏・高千穂神道の真っ只中におかれたせいで、本堂を建て直すのに六代もの住職が苦労しました。友人のアメリカ人がお堂の建築寄付単牌に千円と書かれたのを見て「こんな金額に名前を出されて恥ずかしくないのか」とびっくりしていました。そういえばキリスト教会の毎週の献金(無記名)は週給の五%(年間で十〜百万円)です。葬儀料や結婚式にお礼はご自由にと言えます。年間四千円の護持会費とは雲泥の差です。PTA会費より少なくては、葬式代が高くなるのはしかたないのです。
家計には年間平均十万円位の宗教費が含まれていますが、神仏全ての分からいくら自派に取り込むかでは完全に新興宗教に負けます。 さらに、高い葬儀料のほとんどは葬儀社への支払いなのに友人葬・家族葬・直葬と坊さん離れが進んでいます。しかも、団塊世代以後の年金に葬祭費は含まれていません。ほとんどが医療費と生活費で、寝たきりになれば年金額を超え、後継家族の負担になります。このまま葬祭の価格破壊が進めば、お寺の息の根を止めかねません。現在でも、住職として体をなす年収六百万円、維持費や老後の年金を考えると総収入一千五百万円入るお寺は四分の一もないのです。十円や五円の賽銭で願い事をする国民性から考えると、経理の公開と経営への檀家参加は急務です。
〈分けあった顔が浮かんで
ふかしいも〉
紀伊には縁があって、農協中央会講師として何度か訪れました。とくに南高梅で有名な南部農協は、年収一億を目指す元気な農家の集まりでした。耕地の無い寒村がこうなったのは、荒れ地に梅を植えることをすすめた禅僧のおかげだったそうです。拙寺でも大正の初期、近隣の銅山技師の英国人や、都会からの赴任者のために、見たことも無かったトマトやピーマン、レタスの種を取寄せ、地域の現金収入を増やした住職がいました。
戦前まではお寺が集会所でした。水争や訴訟事など重要なことは本尊様の前、仏様と先祖代々が見守る前で、住職が裁定者となり議論されました。長い歴史を知っている住職でしたから、先代はこうだった、あの時は相手が譲ったと水争さえまとめました。今は公民館でみな対等、言いたい放題で何一つまとまりません。かっては武士も豪商も庶民も、近年では政治家も企業家も仏の教えを求めました。また、学校でも神社やお寺の掃除を子どもたちに勧め、祭りや盆・正月、花祭など子どもたちが主役でした。今では宗教と教育が分離され、歴史的宗教学習で情操としての宗教を体験できなくなりました。
今でも欧米の家庭はキリスト教の祭日を大事に守っていますし、敬虔な家庭では日曜の礼拝を欠かしません。そのため同じ経済大国でありながら欧米と全く違う企業が日本には現れています。
最近日本の資本主義にはモラルがありません。儲けるためには何をしてもいいー儲けることが正義だという風潮があります。欧米の資本主義には重商主義で世界に進出したときから、神のためにという大義名分を背負っていたので自浄作用がありました。
つまり多く儲けて、人々に施し、蓄えて国を富ませるという根本理念です。つまり、社会に還元し、人々を豊かにしているかぎりはどれほど儲けても「神の御心に沿っている」と胸がはれます。これが世界の三大商人といわれるユダヤ・インド・華僑の理念です。彼らには三分の一主義があります。儲けの三分の一ずつを神のために、同胞のために使い、残りを自分の富として受け取ります。
日常から宗教が消えたとき人は悪賢い動物となるという言葉を耳にしたことがあります。今、日本はそうなっているように感じます。
以上