座談会
東日本大震災にあたって、曹洞宗寺院はなにができたか。
そして、将来に向けて今、なにをなすべきなのか。

第2回

出席者(順不同)
田中徳雲(福島県南相馬市・同慶寺住職)
中野重孝(福島県福島市・長楽寺住職)
門脇昌文(宮城県仙台市・林香院住職)
荘司大功(宮城県栗原市・柳徳寺住職)
八巻英成(宮城県女川町・保福寺住職)
高澤公省(岩手県陸前高田市・光照寺住職)
三宅俊禅(岩手県釜石市・盛岩寺住職)
藤木隆宣(司会・仏教企画代表)

 平成23年3月11日午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖で発生した地震は、日本での観測史上最大となるマグニチュード9、0を記録。建物の倒壊などに加えて、直後に発生した大津波は東北地方の太平洋沿岸に未曾有の被害をもたらし、つづいて起こった東京電力福島第一原子力発電所の放射性物質漏洩は、日本の産業構造の根本的な見直しを迫っている。
 この東日本大震災は、人々の心にも大きな変化をもたらした。戦後ひたすら追い求めてきた豊かさは大自然の猛威の前に崩れ去り、さらに人災である放射能の恐怖にさらされている。そうしたとき人びとは、震災の犠牲となった家族を思い友を思う。そして、人生にとって一番大切なものは何だったのかということに気づき始めている。
このとき、仏教界が果たさなければならない役割は大きい。震災直後の被災者に対する直接的な援助も大切であったが、一年が経とうとする今、人びとの心に芽生えた人生そのものに対する疑念に応えていく必要がある。
 今回は、震災の地、福島・宮城・岩手の曹洞宗寺院から七人の方々にお集まりいただき、震災時に寺院は被災者のために何ができたのか検証するとともに、今後、どんな活動が必要とされているのか話しあっていただいた。

【藤木】 第一回では、皆さんに震災時の状況をご説明いただきました。ここからは、今後どんな活動が求められているのか、討論に入りたいと思います。

情報の共有化が必要

【中野】 地震後に起こった大津波で、東北地方の沿岸部五百キロに及ぶ地域が大変な被害を受けました。それに対する復興は八カ月たっても、遅々として時間が止まったようになっている。それは例えば一年経っても二年経っても何も変わらないということが、相当あるんだろうと思うんです。そういう意味で、長い時間をかけても、今私どもが体験している毎日を記録し、こういうことがまた起こったときにその教訓をどう生かせるか。それを自分の問題として考えていく、あるいはそういう輪を広げていく。それが大事ではないかなと思っているんです。
 私の寺ではいまも本堂にお参りできませんし、庫裏も生活ができない。たまたま九年前に建てた寺族寮という、母を中心にした家族が住める建物が被災を免れたため生活が確保できた。お盆の行事ができなかったというのは、恐らく明治以降百四十何年、初めてのことだと思います。境内墓地のお墓はほとんどが倒れたり傾いたりしましたので、急ぎ、春のお彼岸前、通知の郵便物を出したのですが、その郵便物ですら、すぐには届かなかったようで、彼岸が終わってから返事の手紙をいただいたこともありました。とにかく、墓地は危険だし放射能の問題があるから、お寺に来ないでください、原則として入らないでくださいということで門を閉めました。それでもお寺に入ってもいいでしょうかと聞いてくる。やはり入って確認したいのですね。
 それでこの問題が今解決できているかというと、今もって倒れたままのお墓もあります。直せない。これは今まで経験がないことです。ですから、こういうことになったときのために、私たちが今経験していることを何としても生かさなければいけない。一番は亡くなった人たちに対して申し訳がないという思いがだんだん強くなっているわけです。
 今日集まった皆さん方のお話を聞いておりますと、それぞれが体験された事実というのはその人でしか分からないことですから、それをどう共有するかが問題ですね。宗門という教団ということから考えれば、そういうことを共有して、何らかの形で次の人たちに申し送りするというか、バトンタッチできる方法をどう構築していけるかですね。やはり何らかの形で残していかないといけない。忘れられては困るんです。

【荘司】 いまおっしゃった情報の共有化なんですが、私はこれは本庁でやってほしいなと思っています。一万五千カ寺に知らせるというのは非常に難しいところもあるかもしれませんが、ツイッターなどもあるわけですし。本庁のほうで、例えば、うちのお寺は被災者に開放しますよとかいうのがすぐに分かるようなシステムをつくっていただければ、非常にありがたい。うちは今困っていますというのだったら、じゃあ私らのところではこういうものをお送りしましょうかというような、そういうふうなシステムですね、私、それこそが同事の世界だと思うんです。それがなければ、お寺は一体何のためにあるのかということになる。檀信徒は、お寺のありようというものを、今回の震災を通じてよくよく見たのではないかなという気がします。
 さきほどもお話にあったように、今日必要だったものがあしたは必要でなかったりする。これは被災地ではよくある話なので、いかにスピードアップしてやらなくちゃいけないかっていうことに。一つの今の世代には、非常に有効にまた動くあれなのかな。ぜひ、これだけの教団なので、そういうふうな動きがあって、各寺院のため、そしてまたそれが檀信徒のためにとなるようなシステムというのを早く構築してほしいと思っています。

語りついでいくことが大事

【三宅】 今回、私も被災して思ったことなんですが、僧侶としてというより、人間として、人のために何かしてあげたい、何か支えたいという考えをずっと持っていました。もっとも日本全国の誰もが応援したいと思っていたんでしょう。でも、大多数の人はどうすればできるのか、やり方が分からないでいたんだと思います。知り合いの内陸のお寺からいろんな物資がわたしのお寺に運ばれてくるんです。市の避難場所へ持って行くのではなく、お寺に持って来る。町内の各地区公民館や集会場に皆避難していましたので、私は今度それをそこのところへ軽トラックに積んで配って歩きました。内陸の知り合いの一般の人たちなんかも、やっぱり何かしてあげたいという気持ちがあって、産直で一万円ほどの野菜を買って車に積んできていましてね。産直での一万円のかいものですから。相当の量です。私は津波でぬれた米でおかゆを三日間食べていました。
 人間、三日頑張っていれば何とかなると思いましたけど、本当にそのうちいろんなものを、何か欲しくないかと持ってきてくれた。取りあえずろうそくを持ってきてくれということで、そのろうそくを今度配って歩く。やっぱり遠く離れていた人たちも、何かしてあげたいという気持ちを発露して。それで取りあえずは、いるところのお寺へそれを置いてくると。結構そういうものが各寺であったと思います。知り合いの知り合いという人も来て、誰それに紹介されて来ましたので、配っていただけませんかと言って、米や野菜など持って来たり、また、山形や愛知のお寺さんから素麺や漬物、キャベツや果物などそれぞれ月ごとに送ってくるわけです、それらをまた配って歩く。
 うちのほうは、町の中心から離れているので、割と支援物資が遅れてしまう。避難所にいる人たちのためには、支援物資はそこへ集まる。避難所をのぞいてみると結構物がある。ところが、実際に家を流されていない人たちは、停電だし水道は出ない。これは私は大失敗だなと思ったのは、総代さんたちを使って、避難所以外の人たちにも配ればよかったなと思います。せっかく、お寺に物が集まってくるんですから、総代さんを使えばよかったんですよね。これは反省点だったんです。
 私、小学校に法話に来てくれと言われて、夏休みが終わってすぐ、行ったんです。そのときに、校長はなるべく津波に触れないでくださいという。でも私はそれを無視して、津波の話をしたんです。明治二十九年に、この村では千六百五十人死んでいます。昭和八年の津波には、三百六十人死んでいます。そして子どもたちには、あなたたちはこのことをあと五十年、六十年、七十年たっても、必ず子どもや孫に教えていく使命があるんだ。小学校の子どもたち全部が逃げて、学校に波がかぶるのを見ているわけです。それを校長が、そういうのはあまり触れるなって。でも、それを触れたために、今度私の話が終わってから子どもたちが、四年生、五年生、六年生が代表でいろいろ話して、泣きながら、和尚さんの話を聞いてよかったと言ってくれた。
 それで内陸へ遠足に行ったときに、花巻の小学校と交歓会やったらしいんです。そのときに学年主任の先生が子どもたちと話し合って、津波のことを話すのはよそうかと、子どもたちに話したらしいんです。そうしたら子どもが、いや、和尚さんが、津波のことは伝えていかなければならないと言っていたので、私の学校はこういうわけで津波に被災して、私たちは命からがら逃げましたということを、交歓会で話したそうです。この間、小・中学校と一緒に文化祭をしたときも、六年生の発表で、私たちは七十歳八十歳になっても、それを伝えていきますと大きい声で発表していたそうです。
 だから、あまりにも今、いろんな形で精神療法とかやっていて,あまりそういうところに触れたくないという部分もあるんですが、やはり子どもというのは、割とその辺は大人よりずぶとく生きているんです。校長が、和尚さんが話したことによって子どもたちが、何か突き抜けたと言っていまして、作文集を私のところへ、校長がコピーしてよこしたんです。全部読んでみて、その中で、和尚さんの話を聞くのは、正直本当につらかったです。だからこそ語り継いでいかなければいけないことだと思いましたと書いている子もいたんです。ですから、割と子どもたちには本当のことを言って、それで子どもたちにも伝道者としての責任を植え付けておかないとだめだと思います。今回はそういうふうに思いました。

被災者の立場に立って

【高澤】 震災当時から時間の経緯とともに、精神的な変化も、当然見受けられるわけですね。そういう場合、どう接していけるかというようなことがありますね。今、三宅さんがおっしゃったように、ふたをしないできちんと受け止めさせて、それを生かしていく方向性にしていくとか、いろんな選択が、周りの人たちとかかわる場合に生じてきているわけです。
 そういうようなときに、宗門がどうこうとか、教区がどうのこうのとか、そんなの期待しても、さっぱり具体的なものは何もなされないわけです。だから個人としてそれぞれの状況に合わせて、自分がどう対応できるかということに真剣に悩むわけです。例えば津波に対してふたをするというようなことも、触れたくないということも、例えばある葬儀の弔辞でもうかがえる。友人たちからの弔辞では、海が憎いとか津波が憎いということが出る。あるいは、故人はさぞかし無念だったろうというようなことをおっしゃる。
 それはそういうような言葉が出るのは当たり前かもしれないけども、ちょっと目線を変えて見るならば、例えば海が自ら津波を引き起こしたんですか。違うでしょう。何でそのようなことが起きるのか。それは地球という惑星が生きてるからじゃないですか。生きてるからこそ、いろんなことにわれわれは出くわさなくちゃいけない。例えば私はそのように思って、そういう目線を伝えたこともございました。
 それから、いつまでも生きている人たちが無念だ、無念だと思っていると、で、安らぎどころか無念ばかり抱いて、亡くなった人もさっぱり浮かばれない。個人個人によって、今回の震災の受け止め方は違うんですけども、われわれが学ばさせていただいたさまざまなことを、それぞれの立場なり状況に応じて、どうそれを引き出してきて、どう人々と対応していくかということが大事になってくると思います。
 やはり、周りにそういう状況があり、実際にそこにいれば、動かざるを得ないんです。三宅さんもおっしゃいましたが、一人の人間として動かざるを得ない。動いているときは、もう自分は坊さんだからといった意識は全然ないんです。何をどうしたらいいのか、何ができるのか、さまざまな状況の中で違いますから、一緒くたにこうだ、ああだというのではない。対機に応じて接していくことを一人一人心掛けないと、町が復興したとしても、人間の精神の置き所というのは変わらないです。
 例えば、仮設暮らしをしている人たちは今、物をもらい慣れすぎている。必要でないものも、ただでくれるというからどんどんもらって、仮設の狭いところに積み重ねておくだけ。ボランティアの人たちから何かしてもらうだけで、動かない。そういう人たちもぼちぼち出始めている。それから被災し、家族を亡くしたという人たちには弔慰金や保険金が下りる。そうすると、それをねたむ人もいる。あそこは子どもを二人も亡くしている。保険金が下りるはずだ。そんなことをどうして言えるのか。そういう人間性の問題というのは、震災があろうとなかろうといつでも、起こっているものなんです。
 だから、そうした余計なものをなくして、それぞれの個人個人のいいところを生かしていけばいいかといったことを、普段から考えておかないと、さあ何をしたらいいんだろうかというふうになってしまう。ただ、普段から考えていても、実際にどうしようもないことに出会うと、本当に言葉は出てきません。言葉は出てこないから、まず握手するとかしてそこにいたということを再確認する。そうすると、あとはその人の言いたいことを聞いてあげるしかない。あるいは、一緒にお酒に付き合ったりもした。そのおかげで、毎晩晩酌やるようになりましたけど。
 実際に私は、被災者と同居し、被災者の立場から見ることができたから、ものすごく感じているんです。被災しなかった寺院にとっては、対岸の火事です。曹洞宗全体でネットワークをつくろうが何しようが、被災者の立場に立った見方をしてくれない限り、なにも変わりません。システムが良くなっても、一人一人が本当にそういうふうに見てくれないと何も変わらない。だからそう思っている人たちが、自分たちでやるしかないんです。残念ながら…。
 それと、ボランティアの人たちはすごいと感じました。懇切丁寧に仮設回りして状況を把握している。その把握に欠けている部分を話し合って、社会福祉協議会に相談に行ったり、あるいは何かを補充してもらったり、そういう働き方をしています。だからそういう人たちに頼ってもいいと思います。その代わり、そういう人たちの何かバックアップを、寺でできるんだったらやる。それぞれの立場からスクラムを組んでやっていけば、被災に遭った人たちの精神的なものも癒されていくのではないかと私は思っています。
 ちなみに私の寺では、十月中旬からボランティアスタッフの宿として会館の一部を提供し、時折、懇親をもったりしています。

話を聞くだけでもボランティア

【八巻】 これから何が必要か。私が思うところはまず一つ、ボランティアをしたいと思っている人たちが、何をすればいいのか分からないと言うのをよく聞きますが、継続して来ている人たちはそれをよくご存じです。だんだんと、最初は物を持ってきて喜んでもらえて、今度は二回目には来ただけで喜んでもらえて、三回目はわが家のように来て、話だけして帰っていくという方もいらっしゃる。でも、その方はすごく周りから喜ばれていて、繰り返し来てくれる。被災地という言い方はあまり好きではありませんが、自分のことを気に掛けてくれる人が外から来てくれるということが、励ましになるという話を聞きました。忘れないでほしいと。皆さんそれは共通の認識だと思うんですが、忘れさせないために、この状況を少しでもリアルに伝えていきたいという気持ちも一緒だと思うんです。
 大体、ボランティアに行きたいと思っている人たちは、何かを持っていかないといけないとか、何かを残していかないといけないというふうにいる方が多いと思うんです。そうではなくて、とにかく来てくれて、話を聞いてもらえるだけでいい。私の友人は傾聴のボランティアとかやっています。お年の方なんかは特にそうなんですが、田舎の人たちはもてなすのが大好きなので、来てくれて一緒にお茶飲んで、一緒に一食ご飯食べて、震災時はどうだったとかという話を聞いてもらうだけでうれしい。そして、それが繰り返し来てくれる。それだけでもう生きている実感、生きている希望があるという感じではないでしょうか。
 わたしが、お訪ねする約束をしていた、ある友人なんかはカレンダーにでかでかと、「和尚さん来る」と書いていたらしいんです。それを見てわたしは、ああ、自分が来ることは、この人にとって大きいイベントなんだと感じた。しかもその日は病院に定期検診に行かないといけない日だったのを、先生に言って変更してもらったそうなんです。そのときに何を持っていったわけでもなく、ただわが家のように、お久しぶりと言って上がっていって、一緒に話を聞いた。ちょうどお昼に掛かったから、じゃあ、お昼をと言うと、大体、ボランティアの人たちというのは、イエイエと断るんです。そうではなく、ボランティアも一緒の時間を共有し、一緒の空間を味わうことの大切さを分かってほしいなと思うんです。
 僕は本当にずっとされる側で、支援してくださる方は継続して来てくださる方で、一緒の時間を本当に共有してくれた。物だけ置いていって、はいどうぞ、という人と、ちょっと長居して話を聞いていく人とでは、だんだん差が出てくる。支援する側の態勢というか心持ちも、今は物とかだけではなく、とにかく身一つで来てもらって、被災者の話を聞いて、自分の思うことを言ってほしいんです。
 津波の話をしたら駄目だという人もいるという話もありましたが、僕はあまりふたをするのは良くないと思います。積極的に、あのときどうだったんですかと聞いてもらえば、もう思い出したくはないかもしれないけど、話すことは絶対避けて通れない道だと思うんです。いつかは越えないといけない壁ですから。それをいつまでもいつまでも壁の前で立ち止まって、どうしようか、越えようか越えまいかと言いながら右往左往しているより、ちょっと大変かもしれないけど、その壁を越えてしまえば、あとはもうなくなる。
 だからこそ、支援される側もする側も、心持ちを少し変えていかないといけないのかなと思うんです。支援する側の人たちも、そういう意識を持ってもらいたいと思うんです。言い方は悪いですが、される側としては、まだまだ続くと思うんです。もう一年たちましたから、じゃあ終わりですなんてことは絶対ないと思いますし、これからもずっと続く中で、支援する側の人たちもされる側に立つというか。そういう意識を持って、相互共に考えていかないといけないのかなと思います。

終わりのない戦い

【藤木】 福島の方々は、津波のあとに起こった原発事に多大な精神的、経済的苦痛を味あわされています。現在の福島はどんな状況なのか、お話を進めていただきましょうか。

【田中】 最近考えていることなんですが、福島の未来のことを考えていくと、未来をつくるのはやっぱり子どもたちなんです。だけど県は今、子どもたちを守ろうとしていない。本来、放射線健康障害防止法という法律によると、〇・六マイクロシーベルト以上のところは放射線管理区域で、被曝を管理されているべきところです。レントゲン室と同じで、線量を管理するのが正しい在り方なんですが、今はそんな対策もなく、学校も通常どおり再開されています。除染をするから大丈夫というので、市民レベルでも通常の生活活動が行われていて、避難した人たちにもなるべく帰ってきなさいというような、そういう声が掛かっている。そんな状況ですから、自分たちの命の権利とは何なんだろうと思います。
 子どもたちも悩んでいます。子どもたちに作文を書かせると、みんな原発のことを書きます。私たちは子どもを産めるのか、生まれた子どもは奇形じゃないかといったことですね。そういう心配を子どもたちは持っている。だからこそ、本当は公の機関で避難を促す必要があると思うんです。
 復興のために、景気は悪いわけではない。特に土木関係なんか。工場なんかでも、また生産ラインが出来てきて、今までの分を取り戻さなくてはということで、逆に忙しくなっているところもあります。そういう生産性のところにお父さんが取り込まれてしまうと、なかなか抜けるに抜け出せない状態になってしまっていて、本当は逃げ出したいけど、しっかり福島での生活にはまってしまっていて抜け出せない。
 チェルノブイリのことを勉強しようと思って、本を読んだり勉強会に行ったりして分かったのですが、子どもたちに甲状腺がんや白血病、それから視力の著しい低下といった被曝の影響が出てくるのは、被曝後四年目ぐらいからで、八年後、九年後にそれがピークになっていくというデータがあるんです。
 それを知ってしまったお母さんたちは、今まだ帰ってきていい状況ではないのではないかと感じながら、でもどうしていいのか分からない。子どもを守りたい一心で避難を続けているお母さんたちもたくさんいます。もう既に何万人という子どもたちが避難しているという状況です。しかし、そうできないでいる家庭も少なくない。そういうときに、健康である権利というか、生きる権利というのはどうなっているのかなと思います。やはり一人一人が声を出していくしかない。声を出していくことによって風が起こって変わっていく。黙っていては、だれも助けてくれません。
 関西の人なんかは特に「言ってなんぼ」の世界観があるから、ようやく行政が十五年もかかって追い付いてきたそうです。民間の人の話を聞いて、民間と官民一体になったNPOみたいなのがちらほら点在しているというのが関西圏です。非常にうらやましいなと思って聞いてみたら、やはり阪神大震災のときにいろいろ苦情もたくさん出た。それを少しずつ追い付いて、処理しようとして構築してきて、今に至っているそうです。だから東北の人たちも、とにかくいろいろ声を出したほうがいいと言われたので、行く先々の仮設住宅やお檀家さんのところで、声を上げることの大切さと、そして本気になって動こうねと今、話をさせていただいているところです。

【高澤】 この前、法事でうちに来られたかたに、どちらからお出でになったのですかと聞いたら、福島からですとおっしゃるのですが、その福島と言うのも、もう言いたくない雰囲気なんですね。それだけ、福島の方々は疲れていらっしゃる。というのは、周りが原因です。全然放射能に関係ないところの人たちでも、、福島ですというと色眼鏡で見てしまう。そういうことで精神的に参っている。だから本当は頑張れ、頑張れなんていう言葉を遣うよりも、まずそういう色眼鏡を外してほしいということなんでしょうけどね。

【中野】 福島市に住職地がありますので、先ほど田中さんがおっしゃったレントゲン室の〇・六マイクロシーベルトの中にいるわけですね。じゃあ私に何ができるかということなんですが、一言が大きな力になるということは私もよく理解しています。しかし一人ではそれがなかなかできない。だからいろいろな人たちが集まって、解決を図れる団体、あるいはそれが働き掛けの窓口になっていけるように、地域ではこのために、少しずつ広がりを進めています。ただ、では、今日、すべてが解決するかといったら、これは全く解決できないわけですね。私どもがいくら発言を重ねても、国が、あるいは行政がとにかく動かない限りは、今の問題はまず一歩も前に出ることはできないのです。でも、現実に一歩前に出る以前に、私どもは放射性物質の中で、放射能を浴びて毎日過ごしているわけです。
 あともう一つは、檀信徒の問題ですね。福島市は原発から六十キロ圏内。当初アメリカは八十キロ圏内は避難しなさいといっていた。そのときに日本はまだ十キロとか二十キロとか、それも安全だとかと言って騒いでいました。私が、福島に入ったのは十三日の夜遅い時間です。それで十四日の日には、夕方に雨になるということで、私の場合は本堂の屋根がやられましたので、放置すれば本堂やら庫裏やら、みんな水浸しになる状態なわけです。瓦屋さんに、地震直後から来てほしいと連絡をしても、全く駄目。それで結局私どもは家族で、危険な状態の屋根の上に上がって、一生懸命ビニールシートをかぶせて、それで何とか雨漏りを防いだわけですが、そのときに既に、私どもは放射性物質を浴びていたわけです。
 私どもにとっては檀信徒がいるわけです。私の場合は三カ寺の住職を務めていますから、そうすると三カ寺には、それぞれやっぱり檀信徒がいます。檀信徒の人たちは避難したくても避難できないで、現実的にどうしよう、こうしようという迷いの中で、日常の毎日を今も送っています。そういうときに私どもが、例えば菩提寺の住職として、今は危険な状態だから、檀家の皆さん全員一緒にどこかへ避難しましょうと言えるか。それは実際、非常に難しい問題でできないわけです。それでは、住職が避難するか。
 私は檀家があってお寺があるという考え方なんです。檀家の皆さんにお世話になってこうしていられる私がその檀信徒を置いて、自らが先に避難してしまったら、後へ残された人たちは一体どう思うか。一生消えない記憶となってしまわないか。それは住職として考えなくてはいけないことです。お世話になってきた者として、ご本尊様にお仕えし、ここで死んでもいいんだという気持ちは今も変わりません。
 福島の状況はますます悪化しています。原発の水素爆発以来、放射性物質が飛散し、それが解決できない問題になっている。毎日そこから放射能が出ているということだけは、ずっと続いているということなんです。もう変わりようがないんです。
 現実に除染しても、いまの状況では一部しかできないわけでしょう。宗教法人の境内は行政の管轄外ですから、個人でやってくださいと言われる。ところが、個人でできる話ではない。私のお寺は、樹木がたくさんあります。旧市内でも、木が一番多い寺なんですが、放射能の線量を少なくするためには、伐採するしかないんです。しかし伐採して、解決できるかといったら、それも対症法でしかないんです。
 一時期は解決につながるかもしれませんが、全体のなかでは、それはいたちごっこみたいな繰り返しでしかないわけです。そういう意味で、福島にいないということ、そこの場所から離れるということが一番安全なんです。でも、それができない以上、私どもはそこに踏みとどまっているしかない。そこから退去しなさいという行政の支持が出ない限りは、もう動けない。それが現実です。

子供たちの安全を第一に

【中野】 そういう意味で、今の私どもの現在進行形になっている場所は、解決ということは考えられないんです。それで今、原子力の問題は、福島を忘れて、どんどん話をすり替えられている。そしてどうしよう、こうしようという疑問だけで、現実にどうする、こうするというところまではいかない。そのうち、福島は棚上げみたいになってしまうかもしれない。でも今一番解決しなくてはいけないのは、国が福島のこの放射能をとにかく収束させるということしかないんですから。それなのに、話は全然違う方向に動いているような気がして、この八カ月、一体何をやってきたのかと思います。
 また、野菜とか食べ物の問題ですね。これは内部被曝の問題ですが、福島市は今もって放射線量が高いし、市内でも、さらに高い地区というのがある。そこに檀信徒の皆さんがお住まいになっているのですが、その地域というのは野菜を生産している地域なんです。もちろん全く売れませんし、出荷できない状況です。そんなときでもお寺に、野菜をお届けしてくださるのです。私としてはお供えして、召し上がってくださいとお持ちいただくものですから、ありがたく頂戴してきました。しかし、放射線量は全く好転しない。それで寺族がそれを気にして、線量の少ない、あるいは福島県産外のものを頂くようにしたらどうでしょうかと言うわけです。私としては、それ以上はどうこう言えないものですから、あなたの考えでいいよといっているのですが。
 では、それを一年間、体内に摂取したらどうなのかという問題ですよね。それが例えば一日、二日とか、あるいは一週間に一回とか二週間に一回とかであればどうなのか、そういうことは今までの日本が経験していないから分からないわけです。学者の先生方にもいろんな意見があって、まちまちなのです。
 だから最近の私の個人的な思いなんですが、逆に何も知らないほうがいい。何もそういう情報は耳にしたくない、聞きたくもない。思うこともしない。そして今までどおり、何もなかったように、毎日を過ごしていく。それが一番気持ちが落ち着くというか、そうしないと、何か情報があまりにもありすぎて、何を根拠にしていいのか本当に分からないんです。ですから、私たちが確信を持てる情報を提供していただければ、福島に住まいしている多くの人たちが一歩安心した毎日を送れるようになるのではないかと思います。

【田中】 そのための一つの目安というか、物差しになっていくのが、水の汚染を調べることだと思います。

【中野】 福島県では阿武隈川が南から北に流れ、宮城県の荒浜に注いで流れますが、流されてきたものが阿武隈川に入って、それがまたどんどん河口へ河口へと流されてきている。福島市でも国土交通省が、市内を流れている河川の下草が放射線量が高いというので、国側の部分はきれいに除草しました。ただ、それを川のところに最終的に埋めたんです。それがこの間の集中豪雨の雨で、流れ出るんです。だから、本当に各所というか、部分的なところを解決するというか、場当たり的なもので、それですべてが解決したという風に言いかねないのです。一方では民有地は自分たちでやってくださいと言う。市民の生活を守るのが行政なんですから、みな平等に扱っていただかなくてはいけないと思います。それが全くできていない。
 それを声を大にして言っている人たちもいるんですが、それがなかなか届かないんです。行政が動いたとしても、調査という名目でちょこっとやって、それがいつ終わるかということすら、何の報告も出てこない。ですから問題はどんどん大きくなっているんですが、解決は限りなく遅れている。それが多分、福島の原発事故の現状だと思っています。

お坊さんがいるという安心感

【田中】 中野さんがおっしゃったように、やはりお坊さんがそこにいるというだけで安心感があるというのは紛れもない事実です。警戒区域内はお盆のお墓参りも当然できませんでしたし、春の彼岸も秋の彼岸も同様です。それからお仏壇だって仮設住宅では今までのようにはいきません。
 そういう状況では、やり精神的におかしくなってしまいます。圧倒的な喪失感というんですか、ふるさとを失い、近所の人もどこに行ったか分からない、お墓参りもできない。そういうような状況で、心の健康状態が良くないと感じておりましたので、お寺のお掃除をみんなでしましょうと呼びかけました。警戒区域内の作業ですから、できるかどうかは正直分かりませんでした。でも企画をして皆さんに諮ったら、行きたいという人が六十人ほど声を上げてくださいました。私の方で書類を作り、参加者の名簿、乗り入れる車両の名簿も作って、市役所に出しました。ところが、市役所のほうでは案の定、これは駄目と言うわけです。どうしてと聞くと、警戒区域内に入っていっていいのはあくまで物資の搬出だけで、作業は認められていないと言うわけです。
 オフサイトセンターと呼ばれる原子力現地対策本部が県庁の脇にあるんですが、役場の人たちは、そこからの命令に従っていると聞いたことがあったので、うん、分かった、じゃあオフサイトセンターに行って話をすればいいんだねと言ったら、そうしてもらえるかと言うので、オフサイトセンターに行きました。最初は案の定若い人が対応してくださり、いろいろ話したのですが、それはできないという。しかし、そこからが本番の交渉というか。できないとかできるとかという話ではないんだ、自分たちはあそこで生活していたんだから、それを原発の放射能から逃げろと言われて出させられたわけだ。みんなお墓参りもできなくて、心がおかしくなっているから、お寺の掃除をみんなでという気持ちがあるんだ。それを分かってほしいと言ったら、その若い人が上司を呼んできて、三人座って話が始まった。
 私が提出した書類のどこに不備があるのかと聞いたら、作業というのは今まで認められていないという。だけどお寺掃除するのは何も悪いことではないだろうから、そこは譲ってほしい、こちらも何か譲るからと言ったら、車の一人一台の乗り入れは勘弁してほしいというわけです。検問所をくぐったあと好き放題なことをされたのでは困るというわけです。じゃあ、それは大型バスを借りるということでこちらも妥協するから、あなたたちも妥協してほしいということで擦り合わせて、十月の三十一日にお掃除をしてきたんです。
 被曝も伴うし大変なんですけど、バスに乗って待っているときは、みんな楽しそうな笑顔で、遠足にでも行くような感じ。実際に行けば、本当に放射能のことなんかすっかり忘れてしまって、二、三時間の間ですけど作業して、一生懸命汗を流して、きれいになった本堂で全員で般若心経を読んで亡くなった方々の鎮魂と先祖供養をしました。帰ってくると本当に晴れやかな顔になって、心の健康状態を取り戻している。いやよかった、またやりましょうという話になって解散しました。そういう状況です。
 大人はいいと思うんです。自分がどこで生きていくか、自分の判断で選べるので。でも、子供はそうじゃない。大切なのは子どもに対する被害をどう防ぐかということです。本当にフェアな情報を公の機関は流していただいて、そして民間の私たちはそれをチェックする。そして官民一体になって、本当の意味での復興を考えることが必要です。手探り状態でもいいから、どうやってふるさとを取り戻していくか、心の健康状態を取り戻していくか、みんなで慎重に考えていきたい。
 私が想像したのは、五年後、十年後に自分の子どもが甲状腺のがんあるいは白血病になったとすると、やはりやりきれないと思うんですよね。チェルノブイリでは、子どもが発症した際の親の自殺が絶えなかったと聞いています。現実を直視したときに、子どもの発症に親である私が耐えられるかどうか。強くなければいけないとも思いますし、悪く悪く考えるのも良くないとも思うので、その辺のバランスの取り方がむずかしいですね。でも、やはり子どもの命を守っていくというのが、公の機関の責任だというふうに思います。そこから考えると、今の県や行政は責任を全うしていない。責任を遂行していない。
 ということは、機能不全に陥っているんだというふうに思います。その機能不全に乗っかかっていても、これもまた怖い。早急に私たちは声を上げて、宗門だけに限らず、宗派を超えて、神社であろうが教会であろうが、子どもたちの命を守っていくというところで、みんなが手を取り合って、やはり数に訴えていかないといけないのかなと思うんです。

【藤木】 生活を守り、とくに子どもをどう守るかという点で、福島辺りでは市民運動としての動きはなかなかしないんでしょうか。市民運動として、真実を知りたいという運動ですね。

【中野】 市民側の気持ちを訴えている活動というのはあります。とくにNPOで、そういう運動や活動を行なって、行政に働き掛けをしています。ただ、国が指針をはっきり明示しない限り、地方の行政としてはどう動いていいか分からないし、予算的な問題もあるものですから、結局立ち止まってしまっているのです。

【藤木】 そうですか。行政側は引いているように、僕には見えます。やはり寺院なら寺院が中心になって、そういう訴える会を立ち上げて、そこにマスコミを来させるというのも必要でしょう。今、ぼく自身も現場の切実なお声を聞いて、その場に住んでいらっしゃるというのはこういうことなんだと認識しました。やはり外部の人間というのは、そういう面ではいいかげんなものだと思います
 しかしそれでは、中にいる人たちにはたまったものではありませんから、現状を訴える運動をしなければいけない。そうすればマスコミも動くし、そうやって市民の生活の安心のレベルを上げていかないと、このままだと国とか行政とかは、逃げますから逃げないようにしていかないと。原発も国が中心になって推進してきたんですから、その解決策も国が責任を持って出すべきですよね。地元の方々の切実な気持ちが百人、二百人と届けば行政も無視することはできませんし、地元の人たちに期待したい部分ですね。

(平成二十三年十一月二十八日、仙台にて収録)

※仙台市林香院門脇さんは座談会の後半で檀務の為抜けられました。