座談会
3・11大震災が浮き彫りにした曹洞宗寺院の弱点とその対策

第1回

出席者(順不同)
霊元丈法(宮崎県・昌竜寺住職、元總持寺布教部長)
渡辺祥文(福島市・長秀院住職、特派布教師)
関水博道(曹洞宗総合研究センター専任研究員)
杉原 学(コピーライター、立教大学大学院生)
藤木隆宣(司会、仏教企画代表)

 3・11東日本大震災は日本社会に甚大な被害をもたらしました。しかし、その復興はさまざまな要因から遅々として進まず、人びとのいら立ちは募るばかり。何か、根本的な問題が見過ごされているように思われます。
 本紙では、前号、前々号でも、震災の現場からの報告と今後の対策について座談会を開催、大きな反響をいただきました。今回の座談会ではその討議を踏まえ、メンバーを変えて、再度、原発事故の現状などを検証するとともに、今回の震災で浮き彫りとなった曹洞宗寺院の弱点、その課題などについて、広範な視点から議論を深めていただきました。

誰もが線量計を持たなければ

【藤木】 3・11大震災の際は、地元の寺院が被災者救援の拠点となって活動し社会の注目を集めました。全国の寺院のなかには、それをすでに過去の出来事のように受け止めている方々も少なくないようです。しかし、現実にいま、東京都心直下型地震、東南海、南海、東海を横断する巨大な大地震・津波などが、かなりの確率で予測されています。3・11に匹敵する、あるいはそれ以上の大災害がいつどこに発生しても不思議ではない状況です。
 全国の寺院は、3・11大震災の際の地元寺院の経験を改めて検証し、今度は自分たちの番だということを常に意識しておく必要があると思います。それでは、福島からお出でいただいた渡辺さんに口火を切っていただきます。

【渡辺】 あの3・11大震災のすさまじさというのは、青森から千葉まで海岸線が全部津波でなめられてしまったということでしょう。地震そのもので亡くなった人はほとんどいないのに、津波で一気に二万人に近い人が一日で消えてしまった。
 震災そのもので言うと宮城県の被害が大きかったのですが、福島でも約二千人の方々が津波で亡くなっています。福島ではその後原発の爆発がありましたから、そちらの方に問題が移って行ったのですが、悲惨だったのは津波で亡くなった方々の遺体が放射能に汚染されて、放置せざるを得なかったことです。
 福島県の人間、特に原発のある浜通りの人々は、「原発が爆発したら本当に終わりだからね」とよく冗談で言っていました。「すべて終わりだから、その時はもうどうにもならないんだから、アハハッ」と日常会話のオチのように使って笑っていた。それが本当に起きてしまったわけです。  そうなると、もうどうしたらいいのか分からない。実際にはみんなそんなに知識を持っているわけではないから、逃げるべきなのかどうかも分からない。あのときは政府も機能停止になりましたが、われわれも原発爆発に加えて度重なる激しい余震に見舞われ、頭が真空状態でした。
 もちろん、われわれとしては阪神・淡路大震災、中越地震、能登地震などでボランティアをした経験もあったので、お寺を避難所にしなければいけないというようなことは、みんな思っていました。実際そういう態勢を取っていたのですが、それが原発爆発で吹っ飛んでしまった。
 これは、ようやく最近分かってきたのですが、うちの檀信徒の方々である程度避難できる人は結構避難していて、三分の一から二分の一の檀信徒の方々はそれぞれの形や方法で避難したと思います。ところが、いわゆる現役世代、例えば市役所の水道課に勤務しているとか、働き盛りの三十代、四十代、五十代の人たちは、自分の職責を全うするために避難していないんです。電気も水も上下水道も、インフラがすべてダメになりましたから、市役所は市役所の、一般企業は一般企業で震災の片付けをしているところに原発が爆発した。それでも、逃げられないんです。どうなっているんだ、どうなっているんだ、と言いながらも、ほとんどの人が避難しなかった。当初、政府は大丈夫です大丈夫です、というだけで何の指示も出しませんでしたから。
 その後、原発二十キロ圏内の全住民が全員退避、三十キロ圏内の人たちは自主退避となった。でも、本当は放射能汚染は同心円状ではなかったんですね。すべては三月十五日の二号機の火災・原子炉破壊が原因なんです。二号機の原子炉の圧力隔壁が割れて、そこから放射性物質が大量に放出された。その時に吹いていた風が春一番で南東の風だった。だから、北西方向にずっと汚染物質が流れて、流れただけだったら風の流れで希釈されて、どんどん遠くに行くわけですが、十五日の夕方から十六日の朝にかけての雨と雪で完全に地表に固着してしまった。東日本ではもう汚染されていない所はないと言ってもいいぐらいです。
 葛飾区が放射能のホットスポットを見つけて除染したと言っていましたが、東京でも実はあちこちに汚染地帯があって、みんな知らないだけです。われわれは線量計を持って歩いていますから、どこが危ないというのは自分で見るしかないんです。ほんとうは日本中の人が線量計を持たないといけない時代に入ったと言ってもいいと思います。
 専門家は、現時点での見解として年間5ミリシーベルトぐらいまでだったら、人体に影響は出ないのではないかと言っています。でも、放射線に対しては弱い人と強い人がいると思うんです。ですから、これからどうなっていくのか、健康不安がぬぐえません。
 福島県民はこの原発事故で、津波の被害もあるんですが十六万人が避難しました。そのうち一万六千から七千人が県外に避難している。避難している人の中心は、若いお母さんと子どもたちです。子どもへの影響が一番懸念されるので、本当のことを言ったら、もう初期の段階で、特に半年間は、政府の指示でいわゆる浜通りと中通りと言われる福島県の三分の二の地域は、学童疎開させなければいけなかったと思います。当時はそんなことも分からなかったんです。

寺院の住職は避難しなかった

【渡辺】 そのころお寺はお寺で、きっと避難民が押し寄せるだろうと思っていましたし、寺院の住職は誰も避難しませんでした。私にも七〇件くらい電話がかかってきて、早く逃げろと言われた。でも、私たちはそれはできないと思った。沈む船であっても、公の退避命令が出るまでは、住職が逃げるなんてそんなばかなことはできない。お寺を開放するということを考えていた住職も多く、本当に実行していました。そういう意味では、寺院の果たすべき役割、その方向性と責任というところは、みんな自覚していたと私は思っています。
 でも、被曝のことが分かっていないものですから、たとえば私のところは湧水があるので、みんな水をもらいに来るわけです。でも、それもじつは汚染された水だった。原発爆発があって後の十日間というのは、そういう問題がある。流通が止まって食料もガソリンもない。物を運ぼうにもトラックの運転手さんが拒否する。もちろん被曝は労働基準法違反ですから会社として強要はできない。
 三月の終わりごろになってようやく避難をどうさせるかということが、いろいろ議論になった。壇信徒の中にも市役所の課長とか係長とかになっている人たちもいますので、聞いてみたら、なかなか渋って言わなかったんですが、万一、これ以上もっと放射能が降る状態になったら、福島市民は三十万人を北海道に移住させる。郡山の三十五万人は長野県に避難させるという計画を国の方では立てているというわけです。現実には実行されませんでしたし、百万人規模の住民が移動すること自体現実味がありません。
 四月、五月ころになって、ようやくみんな線量計を持つようになるのですが、ネットで通常二万五千円くらいのが八万円とかプレミア価格になってしまっていて、なかなか手に入らない。うちの寺でも最低でも二つくらい買ってみんなに貸し出したりしなくてはと、ネットでいろんな手を使って試みたのですが、ようやく手に入れたのが四月の中旬ですね。それで、みんなに貸し出してまず地元にどのくらいの線量があるのか調べた。
 今考えればとんでもない数字なんですが、平均して2マイクロシーベルトとか3マイクロシーベルトあったんです。それは放射性セシウムに関しては広島型原爆に換算すると168個分は間違いなく出ているという専門家の言葉通り、高い汚染のためです。核爆発が起きたわけではないので、そこを勘違いすると困るんですが、核爆発が168回あったのではなくて、放射性セシウムなどを168個分放出してしまっている。それを全国にぶちまけて、雨と雪によって地表に付着し大地を汚染させてしまった。もちろん放射性ヨウ素もすごく出ています。被曝に関しては、量的には低線量被曝です。しかし、それが長く続くとどういうことが起きるのかという不安がある。こういう言い方は本当におかしいんですが、被曝してみないと被曝の本当の意味は分からない。福島市あたりでは、今日は0・5マイクロシーベルトまで下がったねとか、それが挨拶になっている。広島、長崎の被爆者に、新たに福島の被曝者が加わった。
 昨年の四月ころに、東京の女性と結婚する予定だった人が、被曝している人と結婚させることはできないと破談になったケースもあります。こういう被曝者に対する差別というのは水俣病患者に対する差別なんかと全く同じです。とくにかわいそうなのは女の子たちで、「自分たちは結婚できないかもしれないね」、「誰もお嫁にもらってくれないものね」と言った会話が日常的にどこかで語られるような、そういうことが起きてしまっている。
 ところが一方、おじいちゃん、おばあちゃんに、被曝するからあまり畑仕事なんかしてはだめだよと言ってもダメ。人によりますが、おじいちゃん、おばあちゃんには何を言っても分からないんですよ。これは笑い話のようですが、八十二歳になるおばあちゃんが六月になったら、にこにこしながら梅を持ってくるわけです。今年の梅はいいなりで、いい梅干しになるからと。私はどうもありがとうと言って受け取るのですが、腹の中では無理だよと思っている。ちょうど原発が爆発した時に、梅の花が咲いていましたから、全部取り込んでしまっている。
 テレビで言っているような、若い人には影響が大きいけれど、年寄りはあまり影響ないといった話を信じているわけです。それで、セシウムというのは筋肉に蓄積されるので、全部おしっこやうんちになって出るなんていうことはないんだからねと言うと、へえっと言うわけです。放射能なんてちょっと時間が経てば何でもないだろうと思っている人も多かった。

神も仏もないなんて言うな

【渡辺】 福島市では、十五日、十六日ころ最も線量が高く、大体一時間に24マイクロシーベルトだった。私はいつも線量計を持って歩いているんですが、今この東京では0・05ぐらいです。ですから福島の24マイクロシーベルトというのは、今の東京の480倍の被曝量だったということなんです。もちろんその後、放射性ヨウ素の半減期が八日ですから、しだいに下がって来た。それでも当時の新聞発表では福島市内で2マイクロシーベルトぐらいある。これは日本中の平均である0・05から0・03と比べたら、約五十倍、けた違いなんです。そういう被曝を全く準備なく受けてしまった人たちの問題があるんです。
 六月の終わりぐらいになると線量も1マイクロシーベルトぐらいになったので、檀信徒の人たちはみんなお寺の行事をそろそろやってくれと言い始めた。まだ、みんな被曝するからやめようと言っても、いや、われわれ年寄りは平気だからとにかく、お寺に行きたいと言う。それでまず梅花講の練習会をもとに戻したんです。いつも二十五人から三十人ぐらいのお歳を召した方々が入れ替わり立ち替わり来てくださっているのですが、その方々がみんな集まってくださった。「三カ月ぶりだね。あんたはどうだった。あの時どこにいたの」といった話が始まってもう止まらないんです。まだ余震でグラグラ揺れているのに、しゃべる、しゃべる。今までの恐怖とか、我慢していたことを、ひたすらしゃべっている。

【霊元】 それで楽になるんです。本当に誰かが聞いてくれるということで。自分が、その時に分かってもらえるわけです。それを受け止めて聞いてあげるのが一番のストレス軽減になる。本当に大変だったね。すごかったねと。共感することですね。

【渡辺】 練習なんか三十分ぐらいで、あとはお茶を飲んで、みんなひたすら勝手にしゃべっている。ときおり、わあっと涙をこぼしたりして、あれ何だこれはと思ったくらいです。そうやって、一回目の時にそうやって、みんな、ある程度発散してしまうと、次からは、だんだんいつもの調子に戻ってアハハと笑うようになった。練習の帰りなど、こんな光景は今まで見たことがないなと思ったのですが、八十代のおばあさんたちがお互いに手を繋いで帰って行くんです。それを見ながら私は、これがお寺の機能だと本当に思いました。集まって、話をして、そして楽になって、元気になって、戻っていく。私はこのときお寺の行事を平常時に戻そうと決心しました。
 それから、総代長が、草刈りをやりましょうと言い出した。私は草刈りは被曝の危険性が高いからと言ったのですが、いや、われわれは六十五歳以上の人間がほとんどだから、気にはしないと。それで毎年七月には五、六十人が出てきてくれて草刈りをやってくれる。面白かったというか、ちょっと忘れられないのは、さらに年配の八十代の方々が手伝いに来てくれて、草刈りとか掃除とかしてくれたんですが、お茶飲みになったら、「地震のおかげで家はグチャグチャ、津波に二万人も飲まれ、おまけに原発事故までもらって、福島なんてもうどうにもならない。神も仏もないものだ」という話になった。
 ところが、その話をじっと黙って聞いていた八十七歳になる戦争体験のある方ですが、ボソッとひと言こう言ったのです。「やめろっ。おれらは、こうやってお寺に集まって、そのなかでしゃべったり、笑ったりできるんだから、神も仏もないなんて言うな。生き残った者がみんなでもう一回生きていくこと、それが仏の教えを守るということだ。仏の教えがあればこそだ」と。それにはみんな黙ってしまって、そして「そうだな、本当にそうだな」と…。
 檀信徒の人たちがお寺に集まってくることによって、いろんなことを逆にこちら側も教えられます。地域の中にあるお寺というのは、やっぱり共同体の核なんですよ。お寺にはそういう役割がきちっとあるんです。
 今回の震災では原発事故でみんな着の身着のまま、とくに県からバスを用意されて逃げた人たちは、ご飯を食べていたりするところを、いきなり引っ張り出されて逃げて行った。原発からちょっと遠い人は、爆発する音を聞いている。本当に死の灰です。白いきらきらしたものが落ちてきたとか、中には、手で触ってしまった人もいるわけです。そんな何も考えられない状況でみんな逃げ出したんです。
 その後、夏になって一時帰宅できるようになる。その様子をテレビのドキュメンタリーで見たのですが、地元の人たちが防護服、マスク、ゴーグルを着用して放置した家に入って行く。その中でひとりのお母さんが家の中へ入っていく。タッタッタッと走って、どこへ行くのかなと思ったら仏壇の前なんです。仏壇の前で、「ごめんね、本当にごめんね。このままにしててごめんね」と言って、お位牌と本尊様をきれいにして風呂敷に包んで、持ってきたビニール袋に入れる。「これ大丈夫だべかね、汚染されてるかね」とか、カメラマンに言いながら、一番最初にやったのはそういうことなんです。そのお母さんばかりではなくみんなそうなんです。
 これは逆に悲しい話ですが、宮城県なんかでは、浜のほうの五十代とか六十代のお嫁さんたちが、第一波のあと、これぐらいだったら大丈夫と思って、家に戻って、その後の強烈な第二波の津波でみな亡くなったそうです。どうして戻ったかというと、お位牌が一番大事だからという教育を受けていたからです。ほかにも着るものだとかいろいろ必要なものがあったはずなのに、とにかくお位牌とご本尊様なんです。東北人の宗教意識、先祖代々教育され大事にしてきたものが、人びとの心の中でどれほど大きな位置を占めているか、それを再認識させられました。

先行きの見えない福島の復興

【渡辺】 福島に話を戻しますが、私の所から大体十キロ東に行くと飯舘村があるのですが、汚染がひどい計画的避難区域で六千人全村避難している。私の近くにも仮設住宅があるんですが、そこでは意見が割れているわけです。もう村には戻れないという思いがあって、年輩者はどんなことがあっても村へ帰りたい。仮設住宅で死ぬのはイヤだと思っています。しかし若い人は、もうこの状況では無理だから、どこかで新しい仕事、生活を見つけなければならないと思っている。
 そういう意味では、帰還困難という中で、福島県全体にそういう思いがあるわけです。年輩者は、どんなことがあっても福島を動きたくない。いつかは帰りたいと思っている。若い人たちは、福島で生きていくなんてもう無理だと思い、外へ出て行く。東北で一番力のある宮城県ですら、恐らくこの復興のためには最低でも十五年くらいかかるだろうと言われています。

【霊元】 仙台市中心は、見た目はほとんど無傷で残っていますからね。

【渡辺】 今の状況を見ると、仙台辺りで十五年、岩手県だと二十年かなと言われる。津波が来ないような高台へ移転するとか言っていますが、どこまで調整できるのか。その間に年輩者は亡くなる。若い人はどこかに行ってしまう。それでも宮城県と岩手県はいずれ復興できるだろう。でも、福島は早期復興は無理です。
 経済状況の例を出しますと、近隣の幼稚園は、私立幼稚園では福島で三本の指に入る大きな幼稚園なんです。ところがその幼稚園だって、多くの子どもさんが避難してしまっていないんです。子どもがいない、若い人がいないということはどういうことかというと、要するに経済的に今後グウッと小さくなっていく、どんどん悪くなるということです。今でさえ、福島市内の場合、相続税が今まで百パーセントだったとすると、現在、八十五パーセントで安くなったんです。市内のど真ん中で、家屋と土地が付いてですよ。なぜ十五パーセント低くなったかというと汚染されているからです。相続する人からみればいいことですが、それは全体的には経済的にどこまでも落ちるということなんです。

【霊元】 もう土地自体が無価値になりつつある。それは福島だけではなく、今後、津波が来たらだめだというところには、土地の買い手がない。それは日本全国、宮崎のほうだって、海岸沿いは全部、地価が下がりました。

【渡辺】 東北はどこでも高齢者が多いのに、ますます若い人が減っていくという状況が重なっていく。三十年後の福島はどうなっているのか、恐らく誰も見えない。福島の放射能汚染というのはそういう問題なんです。

【霊元】 津波のほうは、ある程度時間がたてば復興できる。被災者の心の傷は別としてね。ところが放射能だけは、半減期がそれぞれすごく長いわけだから。

【渡辺】 私たちは、もう原発なんか、本当にとんでもないと思っています。このリスクは浜岡原発だって、玄海原発であろうと、川内原発であろうと、福島と同じ状況になる可能性は常にある。起きてしまってから福島の教訓は何だったのだと言っても遅い。もう原発から脱却するしかないんです。
 一番大事なことは、本当の原発事故の汚染は、どこまで行ってるんだ、どこにどれぐらいあるんだということを、正直にきちっとみんなで見ることですが、でも、それでも解決策なんか何もないんです。

【霊元】 それがつらいですよね、本当に。

【渡辺】 福島市の市役所の支所に計測器があるので、みんな、そこに食材を持っていって、測ってもらうんです。一般の食品では100ベクレルが基準で、子どもに関しては50ベクレル、飲料水は10ベクレル以上あったら絶対飲んではならないという基準になっています。とにかく、いかに内部被曝が危険かということです。四〜五月になってフキノトウなどの山菜が最高に美味しくなる。それでフキノトウを調べてみようかと自坊の庭に出ているものを持っていったわけです。そうしたら、227ベクレルあった。私の寺の周りにあるフキノトウですら食べてはいけないんです。福島の人間はすでに相当外部被曝をしているので、内部被曝がそこに加わると危険なんです。

【霊元】 総合被曝ですね。

【渡辺】 そうです。福島県の私たちの所も含めて、中通り、浜通りの山に生えている山菜、ゼンマイとかワラビとかも一切食べられないんです。

【藤木】 そういう現状では、今、食べ物は福島の人はどうしているんですか。

【渡辺】 よそから入ってきます。今、一番福島で人気なのは、九州の食材です。値段は一番高いんですが、九州の食材だったら、福島から一番遠いからと、みんな九州の食材を買います。そういう状況で恐らく半減期を迎える三十年は、福島の山のものは一切食べられないでしょう。

公的な自覚とプライベートな意識

【藤木】 福島の切実な状況を伺って、これほどの苦難が続いているのかと驚きました。国政のレベルとか、いろいろ考えなければいけない問題点はいっぱいあると思いますが、ここでは、宗教人として、とくに曹洞宗の宗侶としてどう考え、なにを備えておかなければいけないのでしょうか。

【霊元】 二〇一一年二月にニュージーランドのカンタベリー地方で起こった地震でも多くの犠牲者が出た。私もテレビでクライストチャーチのひどい状況を見て驚いたのですが、あの時にはクリスチャンの国だから、数日間犠牲者を慰めるミサを行なった。そういう点はすごいなと思いました。
 今度の3・11大震災でもSVAが活躍しましたが、前の阪神・淡路大震災の時も、SVAの事務局長だった有馬実成さんを始め、両本山からもボランティアが駆けつけるのが早かった。SVAでは外国で実践的な実績を上げてきていて、組織的に動ける人たちがいるということが強みだった。だから、ぱっと国内でも対応できて、炊き出しをしたりした。一番いいのは、温かい食べ物を食べさせてあげるということなんですよね。何はともあれ、人をもてなしてあげるということが大事です。
 この前、ちょっと「幸せの国」というブータンに行ってきたんです。ブータンでは、田舎の貧しい村でも夕食は必ず一食分余計に作っておくそうです。誰が来るか分からないし、夕方来た人は必ずおなかを空かせている。だから、ちゃんともてなしができるように、一食分余計に作る。毎日来るわけじゃないから、余ったらもったいないでしょうと言ったら、いや、それは家畜にでもあげればいいと。
 こういったことは、日本でも以前はあったわけでしょう。ところが日本人はどんどん効率とか省エネとかを追及して、効率が悪いものは悪ということになってしまった。そういう価値観の変化にお寺も流されていっているところがある。
 私は前から訴えているんですが、お寺というのはいざとなったら公的に動かなくてはいけない。ところが、そのお寺に今では住職の家族が一緒に住んでいる。だから、いざとなった時にお寺を開放するためには、プライベートな部分と公的な部分とをきちんと分けておかないと本当の開放ができない。
 例えば、お風呂一つ、なかなか、誰でもどうぞと言えないわけです。台所などは今では壇信徒用が別にある寺も多くなっていますが、冷蔵庫一つにしてもちゃんと別けておかないといけない。それから、お檀家さんは来やすいけれど、それ以外の人はやっぱり遠慮をするということがある。だから余計、プライベートな部分と公的な部分をきちんとしておいてあげないといけない。
 日ごろから公私をはっきりさせることが大事なんですが、日本のお寺はすべてがどんぶり勘定。経済的にも、人生設計においてもそうです。今、日本の寺院は自分のお寺みたいになってしまっていて、弟子相続ではなく血族相続が多くなっている。それを批判する向きもあるわけですが、しかし、実際そうしなければほかからは人材が入ってこないという状況があるわけでしょう。
 でも、そうなると宗教的には機能しない。今、日本中のお寺が葬祭業務としてしか機能しなくなってきている。住職に檀信徒の心を受け入れる余裕がない。お坊さんになること自体、寺の存続のためであって、お坊さんとしての使命のためになるのではない。家業を引き継ぐために坊さんになる。だから、本山で修行しても本当に最短時間で出てくる。少し長くいる人がいるなと思うと、それは次男坊だったり、三男坊だったり、在家から来た方だったりで、どこか入るお寺を探しているために長くいるという状況です。とにかく私たちは、もっとプライベートの部分をきちんとしておかないと、危急の時に本当に人を受け入れることができないのではないかという気がしています。

死を直視しようとしない現代の日本

【霊元】 じつは仙台に百三歳の叔母がいたのですが、去年亡くなりました。元気だったのにと思って聞いてみたら、やはり震災時のショックがあったようです。半年とか一年とか経って、それが多くの人たちに出てきている。それぐらい大きなストレスが一遍に襲ったわけです。
 でも、考えてみたら、私たち日本人の先祖は台風、地震、災害の多い列島に住み続け、今、世界でも有数の経済大国にまでなった。それは、日本のこの自然自体の苛酷さの中を、みんながいかに手を取り合って生きてきたかという証でしょう。
 だから、「津波てんでんこ」という言葉を最初に聞いた時には感銘しました。津波に対する人々の知恵、最後の手段というのは、とにかく逃げられる者は逃げろということですよね。一人でも逃げ延びたら、その村はもう一遍再生ができる。非常時というのはそんなふうに非情なものだと。そうすると、結局、震災などで死ぬということは、死はそもそも理屈のないものだ。いいとか悪いとかを超えている。しかしながら、人間はそれにかかわり合っていかなくてはならない。
 ところが今、日本ではそういうものを覆い隠す形で嫌なもの汚いものを見せないようにする方向になっています。私たちもどちらかと言うと、そっちのほうが楽なんですよ。葬儀でもほとんどを葬儀屋さんに任せておいたほうが楽。例えば枕経に行かない寺も多くなっている。私の師匠の代なんかは、方丈さんが枕経に来てくれて拝んでくれたというだけで、それでみんな安心したものです。
 今は、例えばお葬式の時に湯灌しなくなったでしょう。病院できれいにしてあるからと。でも、あれは消毒で湯灌じゃない。お棺に入れる前に、熱いタオルで手足を拭く。とくに顔に熱いタオルを載せると表情が変わるんです。これは先代の師匠から教えてもらったのですが。顔がやわらぎ、目もきれいに閉じるようになるんです。
 今は、そういうことをどんどん忘れてしまって、死を直視しようとしない。だから、今回の大震災の映像でも日本では悲惨なところは出さない。私の娘はちょうど中国へ行っていたから、インターネットで見たら日本の惨状をそのまま出していてびっくりしたと言っていました。それで世界中が反応したわけです。だけど、日本の映像にむごさはない。被害の甚大さとかはあるけれどそれは瓦礫であって、人に対する悲惨さというのは出さないんです。
 今、渡辺さんの現場からのナマの話でも、津波で二万人も死ぬということは大変なことだと分かるけれど、今ではその二万人という数字だけが独り歩きしている。放射能のことだってフキノトウは食べられない何ベクレルという数字が出ているけれど、その内容がどういうものか分かる人は、本当に福島にいて学習した人しか分からないでしょう? 理不尽な死に直面して、そのわりきれない気持ちを坊さんに預けるわけですよ。亡くなった人の、みんな死にたくはなかったという無念さをどうにかして欲しいのです。
 最近よく、お葬式で話すのですが、死というのは最大の不幸だ!。でも、死という最大の不幸によって、あなたの家が駄目になってしまったら亡くなった人は死に損でしょうと。亡くなった人は、自分が死んだことで、お前たちは落ち込むなよと言い続けている。でも、やっぱりあの世には行きたくないから、だから昔は親族がみんなで集まって、棺を叩いてあなたは頑張ってくれた、いい所へ行きなよ、もう十分にあなたは尽くしてくれた、ありがとうと言った。そうすれば亡くなった人は、無念ではあってもあの世へ行こうかという気になるんですよと。
 だから、私たちは「覚苑の春を現ぜんがためなり」、お葬式をするのは、もう一度この家にまた以前の春が来ますようにということを願ってしているのだということを忘れてはいけない。だから最高の礼服、緋の衣に金襴を付けてお葬式をするんです。今回の大震災はもう一度、私たちは何を大事にしていかなくてはいけないのか、ということを教えてくれたのではないかと思います。

死者もまた生きていると感じる感性

【霊元】 お寺がどんどん職業化して、お寺を経営維持していくということが主題になりつつある。しかし私たちはイザという時にはみんなの心を受け止めなくてはならない。先ほどからの渡辺さんのお話にもありましたが、お寺がその最後の役割を担っている。それによって人々は未曽有の恐怖や心の痛みを超えられるのです。地域の人々とのそういう連帯が大切なんですね。
 痛みというのは、どんなに立派な医者でも、他人の痛みを共有することは絶対できない。まして、心の痛みというのは百パーセント伝えることも受け止めることもできない。ただ、分かろうと努力する、分かってあげようと思うことが、痛みを軽くするんです。それが私たちが最終的にしなければいけないことです。そのために大事なことは、お坊さん自身が追い詰められたら駄目だということです。坊さんは忙しいばかりでは駄目なんで、余裕を持つ、そのためにプライバシーはしっかり守る。私は坊さんは時々、こもる必要があると思っています。
 日本人に大事なのは、「こもり」の思想なんです。一日のうちで夜があるのは、夜はこもって、そこで力を蓄えて朝を迎えるためです。シーズンでいけば、冬はこもりの時間なんです。東北でもそうですが、こもりの期間中というのは収穫が終わって飲み食いの多い祭りが続く。次の春が来た時に、十分に気力を充実させて野良仕事ができるように。日本人にとって死は再生のための大いなる死としてこもりに入ることだったのです。死んでいなくなるのではなく、あの世でこもって力をたくわえて下さっています。
 だから、日本人はお霊前に箸まで付けてご飯を差し上げる。そんなことをするのは日本人だけでしょう。例えばキリスト教ではキリストの血だと言ってワインを飲むけれど、そのワインをキリストの前に差し上げるということは絶対ない。中国ではお盆の時にお墓の前でどんちゃん騒ぎをしますが、お墓の供物を供えたあとはそのまま自分たちが食べてしまう。南方の仏教諸国でも、故人の救いのために人々へ食事を布施するけれども、亡くなった方へ直接さしあげるということはない。
 日本人は、亡くなった方も、住む場所は違うけれど生きていると思っているんですね。かつては、生きている世界と天つ原の世界とは常に行き来ができた。そういう意識が残っているから、供養という言葉があるのだと言う人もいるぐらいです。
 「神人同食」と言って、神や仏とともに同じものを食べるという考え方が形になって残っているのが、あの霊前の作法なんです。日本のお葬式は、全部、死者を生きているものとして扱う。枕飯だってそうです。塩を供えお水を供えるでしょう。
 あれは何かというと、本当は「気強め」、気を強めれば魔物が寄ってこないという思想なんです。これが「清め」の語源なんです。だから喪の色は日本人は白なんです。それは魔の力を跳ね返すから。逆に、お祝いの色は黒なんです。黒留め袖、黒紋付きとかですね。禅宗では、黒は壊色ということで、黒が冠位十二階のすべての色を超えたものとされた。
 話を戻しますと、理不尽な死に直面された方にお葬式をしてあげるのは、その人を荘厳をする、その人生を飾ってあげるということで、それが結局、残った人、送る人の慰めになるわけです。この安心感こそ旅立つ人の願いではないでしょうか。
 總持寺におりました時に、坐禅会に参加した方々に感想を書いてもらったことがあります。四十歳を越した、それも社会で活躍しているキャリアの女性の参加者が圧倒的に多いんです。それで、彼女たちが口々に何を言うかというと、自分が死んだときのことですね。高級マンションに住んで、ばりばり仕事をして、キャリアで実績を上げてきたけれど、ふるさとにもあまり帰っていないし兄弟の付き合いもない、宗教的な席にも出ていない。仕事上の知り合いはたくさんいるけれど、心を打ち明けるような付き合いはないと言う。
 その時に、私ははっと気がついたんですが、彼女たちが何を一番心配しているかというと、マンションで突然に孤独死したら、いつ発見されるか分からないし、発見された時、すべてのプライバシーが表に出てしまうということなんです。葬式というのは、個人の人生を荘厳するわけだからきちんとお葬式をする人がいると、プライバシーがきれいにおおわれる。葬式には死者のプライバシーを守ってあげるという、そういう一面があるんですね。
 生きている人の人権も大事だろうけれど、死者の人権を日本人はいつの間にか大事にしなくなった。亡くなった人の人権を守るのが、坊さんの役目だ。それが死者を荘厳するというお葬式の一番核になるところですから、私たちはそれをもっと自覚しなければいけない。私たちが、今度の災害の犠牲者を思うとき、一番守って上げなくてはならない点のような気がします。


(平成二十四年六月二十六日 東京グランドホテルにて収録)