週刊文春の疑惑報道における宗門の問題点を提起する


曹洞宗を愛する一僧侶

「真実」と「虚偽」と「疑惑」

 今般、発行された週刊文春(十月六日号)の「曹洞宗系列学校『坊主マル儲け』疑惑」の報道を読み、私は驚天動地の思いに立たされた。それは我が曹洞宗の存在を根底から揺るがす大問題であるからだ。
 これについて、一地方寺院としての愚見を述べたい。
 まず、前提となるのが「疑惑報道」という報道機関の立場である。報道機関においてはいろいろな取材を通して「真実」を国民に知らしめ伝える義務と責任を負っている。だからこそ、言論、出版の自由が保障されているのであり、故に我々は色々な世界のいろいろな真実を知ることができる。
 その「真実」と対峙するのが「虚偽」であり、「疑惑」とは、その真実に隠された虚偽があるのではないかと疑いをもつことである。
 とするならば、報道機関はウソ、デタラメをでっち上げて、おもしろおかしく記事を作り、根拠のない事をことさらに強調するものではないことは確かだ。何か我々が知らない「真実」があるからこそ「疑惑」として報道するのだ。

疑惑報道における宗門の問題点

 然るに、今回の報道を宗門内においては、単なる週刊誌のスキャンダラスなことだとか、根も葉もない記事であるなどと一笑に付すことなく「真実」の究明をしなければならない。
 そこで、私は個々の糾弾的なものを避け、曹洞宗の根底を揺るがし、宗門の体質構造を問う大問題として、「曹洞宗宗憲」を拠り所として、その大要を整理して述べてみたい。
 第一は、宗憲第三条に「本宗は仏祖単伝の正法に遵い、只管打坐、即心是仏を承当することを宗旨とする」とある。宗旨とは、いうまでもなく宗派の教義の中心ということであり、この肝要は「正法」ということだ。正法とは、正しい仏法であり、それは仏道のみならず全てにおいて、正しい教えであるはずである。正しい教えとは、真実の教えでなければならない。真実の教えでなければならないとするならば、真実の事を行ずるのが、宗門僧侶のあるべき立場なのだ。
 それが利権にとりつかれ、利権に走り、しいてはこのように金銭疑惑が生ずることは、正法の規範においても断じて許されることではない。
 第二は、その舞台が宗門内系列の学校であるということである。つまり宗憲第八条第一項に行学に対する人材の育成を目的として特に僧堂、学校において行うと規程してある。その学校を利権の場とし、業者との癒着、談合疑惑、金銭の不透明性があってはならないことは自明の理である。
 このことは、宗門内の師弟のみならず、檀信徒の師弟の健全育成をも否定することにもなるのだ。
 第三は、系列学校の建設費の一部、また補助金は曹洞宗の歳費から支出されているものである。その歳費は我々宗門寺院からの主に賦課金、義財金の収入(宗憲第四十三条)を以て、宗議会の議決(宗憲第四十二条)を受けて財務運営されている。
 その支弁されている金銭を、業者からキックバックしたり、また別会社の迂回ルートを通じて特定の者に還流しているという疑惑は承認した議会を否定し、あまつさえ我らが宗費を、一部の特定議員に流用していることは全宗門人を否定するものである。
 第四は、宗議会議員は、全宗門人の選良(規則第二十七条)であり、よりよき曹洞宗の行政を遂行する為に付託を請けた代議員である。その一部の議員が、自己の利権や、権力を保持する為に、その資金源を前項の如くに求め、不透明性があってはならないことである。
 第五は、多々良学園問題である。今日まで十八億円もの補助金を受けながらも、負債額は七十億円ともいわれ、月一千万円の利子が生じているという。この負債を今後、誰が補填するのか。宗門が負えないとするならば、学園を第三者に売却するのか。売却するなら誰が買うのか。宗門の学校だから入学してきた子弟達を、また学園を支えてきた保護者、同窓生、地方の方々の心を幾重にも裏切ること行為ともなる。宗門が運営するには負債の解消、第三者に売却するも不可、まして学園を閉鎖したとしても負債は残る。どの道を選んでも大変であることは確かだ。
 そして、宗憲に違反していることを内在させ、このような事態を招いたことを誰が、どのように責任を取るのか。その責任問題も重大なことである。

聖域なき宗門構造改革

 以上のように、私は今回の疑惑報道による問題点を宗憲を拠り所として提起してみた。本意は、記事に見られる一個人、一企業を問いただすことではなく、その裏に隠されている構造的な本質、また利権構造を問題点としたのである。
 小泉首相は「永田町の論理」を打破し、族議員による利権構造を改革する為に「聖域なき構造改革」の名のもとに、公団や郵政、あるいは省庁の改革を推し進め実行した。
 今、この問題を契機に、曹洞宗の聖域「芝二丁目の論理」を構造的に改革しなければならない時が来たのである。
 今日、それが曹洞宗の宗政に求められなければならない。今回の文春報道を単なるスキャンダルとして葬り去ってはいけないという所以であるのだ。

真実の究明に向けて

 では、単なるスキャンダルに終わらせない為には、どうすればいいのか。何が真実なのか。それを知る為には如何なる方法があるのか。
 私は、曹洞宗が文春報道は、事実無根であるとか、事実の捉え違いであるとか、また名誉毀損であるとして「文春」を告訴するべきだと考える。
 司法の場で、何が「真実」なのか、何が「虚偽」なのか。それを白日のもとにさらすのだ。文春側にしてみれば、この疑惑報道は事実無根ではなく客観的取材のもとに、隠された「真実」を国民へ提供したと主張し、その事実を証左するであろう。
 かたや曹洞宗にしても、全ての情報を開示し、説明責任を果すべく曹洞宗の立場を主張し証左すればいいであろう。その互いの主張以てして裁判は司法が行い、我々宗門人は「真実」は奈辺にあるのかを判断すればいいだけのことである。
 その為には、この裁判の事実と経過を記事として客観的に知らしめ、曹洞宗は宗報、あるいは特集号として、私達に、その「真実」を伝える義務があるのではないだろうか。もし仮に、提訴に踏み切らなければ、疑惑報道は事実ということになろう。
 本疑惑に対して、宮崎一族や多々良学園側の執行部だけをスケープゴートにして蓋をさせてはならない。氷山の一角の下にある巨大な氷山を露呈させ、解かし、そして真相を究明させなければならない。
 最後に、今回の記事の中に「天の声を聞く」という箇所があった。「天の声」とは宗政権力者の声のことではなく、「曹洞宗」にあっては、まさに高祖道元禅師、太祖瑩山禅師の声ではないだろうか。

  合掌