◇鼎談◇

ノーベル賞受賞
iPS細胞が投げかけた人間の「生と死」のゆくえ
―宗教界はどこまで倫理上の疑問に答えられるか―

第1回

出席者(順不同)
島薗 進(東京大学大学院人文社会系研究科教授・宗教学)
内山 節(立教大学大学院教授・哲学)
司会・佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授・宗教人類学)

 人間には一〇八の煩悩があるという。それを帰納すれば生存本能と生殖本能に収斂される。人間の連綿とした歴史・文化の営みも個々の人間がその二つの天与のミッションを追求した名残りであり堆積だともいえる。
 二〇一二年秋、日本に明るい話題を振りまいたのが日本人のノーベル賞受賞の報せだった。ノルウェイのノーベル財団は京都大学教授・山中伸弥氏にノーベル医学生理学賞を贈ることを表明した。その授賞理由となったiPS細胞(Induced Pluripotent Stem Cell人工多能性幹細胞)ついては、まだ一般に周知されていない。しかし、今後このiPS細胞が再生医療にひろく応用されていくことになれば、そこには私たちの想像を超えた事態が出来しないとも限らない。
 冒頭に書いた生存と生殖が無限に可能となり、人間がいつまでも生き続け、いつまでも子供を産み続けたらどうなるか。iPS細胞を乱用して、そうしたSF小説のような世界が現出したとすれば、それは人類にとって悪夢としか言いようがないだろう。
 「有終の美」という言葉がある。終わりが有るからこそ、私たち一人一人の人生は美しいのではないだろうか。そんなふうにiPS細胞の今後の実用化は人間の生きている意味そのものすら問うてくる。
 今回は、そうした医学の最先端がもつ倫理上の危うさに対して宗教界、仏教界がどう考え対応していくべきなのか、宗教学・哲学・文化人類学の諸教授に討論していただいた。

●クローン技術とES細胞に始まった再生医療の夢

【佐々木】 平成二十四年十月九日の朝日新聞を見ると「iPS細胞作成と再生医療実現に道」という特集記事を掲載していて、山中伸弥教授の話でいっぱいです。その中で私が注目したのは、山中さん自身がおっしゃっているんですが、@PS細胞の再生医療は生命倫理の問題と抵触するようなことがあるかもしれないという点です。それは今は理論上の話ですが、将来、人間が人間をつくることができるかもしれないということです。
 これは仏教を含めたすべての宗教がどこかでかかわる問題だと思いますが、とくにユダヤ教・キリスト教・イスラム教という同じ神を信じる一神教では、神は始めに天地をつくり自らに似せて人間を造ったという教義がありますから、それと擦り合わせたら深刻な問題が出てくるのではないかと思ったわけです。
 医学全般と言ってもいいのかもしれませんが、とくに生命科学が日進月歩でどんどん進んでいる現状で、命というものと生命科学がどうかかわっているか、生命の尊厳を説く宗教とどうかかわるんだろうか、とくに既成教団の教理や建前と擦り合わせた場合、どんな課題や倫理的な問題が出てくるか。そういう点を話し合って問題提起をしてくだされば、読者にも大変いい参考になるのではないかと思っています。
 島薗先生は、すでに六年前くらいまえからこうした生命科学と生命倫理の問題について発言されていますね。

【島薗】 一九九六年にイギリスで哺乳類としては初めて体細胞を使ったクローン羊「ドリー」が産まれました。クローンというのは簡単に言うと、親と同じ遺伝子を持った子供です。これを受けて日本でも政府が生命倫理委員会というのを作りまして、私もそれに加わりました。クローンを人間が作るのは認めるが、そのクローンが次世代の子供をつくってしまうのはいけないと大体合意ができていて、ではそのクローンの受精卵を利用することは認められるかどうか、というふうな議論をしていました。
 その後すぐ一九九八年にヒトのES細胞(Embyonicr Stem cell胚性幹細胞)というのが初めて培養された。ヒトの受精卵から細胞を取り出して培養する。そうするとそれは無限に培養でき、しかも体中のあらゆる部分に分化できる可能性がある。人間は複雑な体を持っていますが、元は受精卵一つで、それが分化をして皮膚細胞、筋肉の細胞、臓器の細胞、血液などいろんなものになるわけです。もちろん体内にある例えば骨髄の体性幹細胞などは分化していつも新しい細胞を作っているわけですが、その一番元の幹細胞は受精卵、「胚性幹細胞」で、それを培養したのがES細胞です。
 それで、先のクローン技術とES細胞の二つの技術が相次いでできて、それで夢の再生医療というものに急速に期待が高まったわけです。この二つを組み合わせるとどういうことができるかというと、自分の遺伝子を持った幹細胞を、自分の体の外に持っていくことができる。そして自分の遺伝子を持った体の組織をいくらでもつくれる可能性があるということです。
 他人の細胞や組織、臓器をもらって移植すると拒絶反応があって、免疫抑制剤を使わなければならない。それが自分の遺伝子を持った臓器だったら問題がない。さらに臓器を作るだけではなく、いろんな病気を治せる可能性がある。そういうことで一九九〇年代末に再生医療というものに大きな夢が開けたということです。
 しかし、その場合、ES細胞というのは受精卵からつくる。つまり一度受精した人間の卵子を壊すということですから、そんなことをしていいのかという問題が当然出てくるわけですが、それについては、こんな意見も出ました。余った受精卵ならいいだろうと。
 不妊治療をしたときに体外受精をしますが、その時に全部を子宮に戻すわけではないので、余った部分を冷凍保存しておく。それが全世界に何万と蓄えられているわけです。いずれ破棄されるものだから使ってもいいではないかと。ですから今、世界で認められている受精卵からつくるES細胞というのは、その余剰胚を使ったものです。
 ところが、それでも人の命を壊すということに変わりはないということでキリスト教界、とりわけカトリック教界は非常に厳しく反対している。ですからES細胞からいろんな再生医療を発展させるという計画は、そういう倫理的な問題が重いので、あまり自由に進められなかったということがあります。
 ドイツなんかはずっと反対ですね。国によっては、イスラエルとかシンガポールとか、どんどん進めているところもあるんですが。アメリカの場合は保守的な共和党が政権を取るとブレーキが掛かかって研究予算が下りない、といったこともあって、つねに論争含みであったということです。

●@PS細胞が突きつけた新たな論点と課題

【島薗】 ところが、山中先生がつくったiPS細胞は、やや性能は落ちるんですが、ES細胞とほぼ同じように多能性があって拒絶反応がなく、体のあらゆる部分に発展する能力を持つ幹細胞です。受精卵から取り出したものと、ほとんど同じような能力を持った幹細胞をすでに分化した皮膚細胞などからつくることができる。体細胞に魔法のゴマを掛けるみたいに遺伝子を幾つか作用させると、元の幹細胞に戻る。

【佐々木】 それを可能にする四つの遺伝子を特定したというのが大きな発見だったわけですね。

【島薗】 そうです。それが初期化ということです。そうなると、これまでは受精卵を破壊することに根本的な倫理上の問題があると言っていたのが、@PS細胞はそれをクリアしてしまったので、では実際にそれをどう再生医療に利用するか、あるいは何をつくるのかということが大きな倫理問題になってくるわけです。
 未来に生ずるであろう事柄を予測してこれを問題にしなければならない。ES細胞でもその問題はあったのですが、受精卵を壊すということにこだわって考えてきた経緯があるものですから、将来そこから何が出てきてしまうかという問題については、世界の生命倫理学者も議論の準備が遅れていたという状況です。

【佐々木】 キリスト教のほうではES細胞は受精卵を破壊してつくるので、それはすなわち命を殺すことになるという。しかしそこには、命はいつ始まるのかという問題がありますね。つまり卵子と精子が合一した瞬間から命が始まるとみるか、それとも受精卵すなわち胚性幹細胞が一週間とか一カ月とか、ある程度成長してからでないと人格を持つ人とは認められないといった、そういう議論もある。

【島薗】 西洋人はそういう議論をするわけですね。いつから個としての人間が始まるのかということが、そうした議論の根本問題だと考えている。つまり、肉体にいつ神から与えられた魂が入ってくるのかという問題です。そうすると、キリスト教、とくにカトリックでは、それは受精の瞬間しかあり得ない、受精卵が成立した瞬間から新しい生命が始まるというわけです。

【佐々木】 魂は、その瞬間に具(そな)わるんですね。

【島薗】 はい。霊魂付与、エンソウルメントという言葉もあります。しかし、受精の瞬間に神から霊魂が人間に与えられて、それが人間の始まりだという考えに対しては、いやいや、受精卵というのは非常に小さな細胞にすぎない。いくらでも流産しているので、すべての受精卵が人間になるわけではない。その一部を物質のように扱っても構わないという議論も出てくる。そうすると、ではどの段階で人間といえる存在になるのか、受精されて誕生する間のどの時点で人間になるのかということが問題になる。
 例えば、受精卵が二週間とか育っていくうちに脊椎が見えてくる。その辺の段階をもって人と考えようという意見もある。あるいは意識に当たるものがいつごろから生じてくるかというのが重要で、意識的存在にならなければまだ人間ではないという意見もある。
実際こういうふうな議論というのは、妊娠中絶を認めるかどうかということと関係して、今でも西洋では盛んに議論されています。

●生死の問題は文化的脈絡のなかで考えるべき

【佐々木】 いま、島薗先生から人間の「生」、命の始まりというものを定義しようとすると、そこには曖昧(あいまい)さがつきまとうという興味深いお話がありました。そこでその論点を敷衍して、今度は人間の「死」はいつ始まるのかという問題に視野を広げてみたいと思います。
 昨今、「死」の瞬間はいつなのかということが問題となっています。それは医学の発達によって「脳死」という状態が生まれてきたからです。従来、医者は「三徴候死」によって「死」と判定し、ご臨終ですと家族に告げてきました。つまり心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の散大の三つです。
 ところが、現在では交通事故による頭部損傷とか脳出血とかで心肺停止に陥ったとき、医者はAED(自動体外式除細動機)やレシピレーター(人工呼吸器)などを使って心肺蘇生をします。そうすると体はまだ器械によって生きているけれど、脳は死んでいると思われる状況が起こります、それが「脳死」です。
 その「脳死」がどうして重要な意味をもつかというと、心臓が動いて血流があるため、心臓、肝臓といった臓器も鮮度を保っているから、この状態で臓器を取り出してほかの人に移植したとき、成功する確立が高くなるからなんですね。ですから「脳死」をどう判定するかということが、世界的に大きな問題となってきました。
 日本では平成二十一年に臓器移植に関連する改正案が可決され、徐々に「脳死」を人の死とする風潮が広がりつつあるようです。しかし、有識者のなかには、安易に「脳死」を人の死とすることに反対する人たちも少なくありません。
 たとえば、柳田邦男さんというノンフィクション作家は、「二・五人称の視点で命を見る」という文章を、朝日新聞「人生の贈りもの」というコーナーに寄稿されています。柳田さんは次男、洋二郎君が二十幾つで自死を遂げるという悲しい体験をされた人です。病院に担ぎこまれたベッドで、自分の息子を見ていたら髭が伸びてきていた。一日目、二日目と洋二郎君にいくら話しかけても話は通じなかったけれど、魂の対話はつづき、それは火葬のときまでつづいたと綴っておられます。
 日本ではヨーロッパ、アメリカなどの諸外国と比べると臓器移植はそれほど進んでいないといいます。日本人の古来の死生観とか、死体観というのか、死のとらえ方が関係しているのかもしれません。そのあたり、内山先生はどうお考えですか。

【内山】 僕は「脳死」に賛成とか反対とかいうことではなく、人間の死を医学あるいは科学に委ねてしまうということに同意できません。科学に委ねようとするから、生死に関する世界の普遍原理がどこかにあるかのような話になってしまう。科学が一方的に生死を決めてしまうということ自体が問題だと思います。
 やはり心臓が止まらなければ死と認めないという人がいてもいいし、脳が止まればそれが死ということでもいいという人がいても、それは構わない。人間の死というのは、ある意味で文化的な脈絡のなかで語るべきことだと思います。
 そうすると、その文化的脈絡自体がさまざまなんです。日本だって沖縄の文化的脈絡もあれば、北海道先住民の文化的脈絡とかいろいろあるわけです。世界にはさまざまな文化的脈絡があるわけで、そこにさまざまな生死があるというふうに思わなければいけない。
 科学というのは、実はその奥に極めて非合理なものを持っている。ある前提に立つから科学が成立するわけですが、その前提を無条件に承認させるという点で非合理なわけです。科学性とその奥にある非合理性が見事に出てきたのが、先ほど島薗先生がおっしゃったような、脊椎が見え始めたら駄目にしようとか、意識が発生し始めたら駄目にしようとか、三週間目からあるいは三カ月目から駄目にしようとかという議論ですね。
 科学というのはある種の非合理性を前提にして成り立っているのだけれど、ただそこに投げられてしまうと、人間の生死なんかが決められてしまう。問題にしなければいけないのは、そういった構造のままでいいのかということで、今回のiPS細胞でもまた問題になるという気がします。

●多様な文化の差異性と共通性のなかで

【佐々木】 科学と文化、サイエンスとカルチャーとの関係ですね。科学がこうだからというと文化もそれに引きずられていく傾向があるのは非常に疑問です。それが人生観、世界観にかかわるような文化とすれば、科学と宗教との相克といってもいいと思います。内山さんのご意見では、「脳死」の判定など一応科学的に出されたものは認めるが、それでも問題が残るということですか。

【内山】 いえ、それを一つの原理とすることは認めないということです。仮に、ある方がお父さんに腎臓を一つあげようとか、肝臓の一部をあげようとかいうのはよくある話で、科学がどうのこうのという話ではない。それは親子の文化的営みの中でそういうことが起きるわけで、それを別に否定するわけではない。しかし、そうすべきだとか、そこに何か正義があるというように決めてしまうことは認められないということです。

【島薗】 文化というとき、そこには広く共有されている面と共有されていない面とがあると思います。科学技術をどこまで社会的に認めるかというときには、その共有されている文化をベースにして考えていくしかないのではないかと私は思います。
 西欧の場合は、科学だと思って原理を決めていることにも、いつの間にかキリスト教的な文化の前提が入ってくる。そのことをあまり彼らは意識しない。というか、キリスト教こそ現代文明をつくって来たという思いがあるので、その前提を相対化できない。
 われわれから見ると、受精卵が何カ月目から人間になるとか、「脳死」で人の死を決めていいというのは、まったく恣意的なある種の前提を持った議論でしかない。日本人にとっては、先ほど柳田邦男さんの話があったように、いろいろ違和感が出てくる。実際には欧米の文化的前提の上に構成されてきた議論を、あたかも普遍原理であるかのようにして生命倫理が論じられてきた。 しかし、それは違うのではないかということが、世界的に意識されるようになってきているし、日本人はとくにそれが強い。
 ただそうなると今度は、人類はそれぞれ違う文化、価値観を持っているから、生命倫理といった難しい問題に取り組んでもまとまらないのではないか。結局、それぞれが勝手にやるということになってしまわないか。そういう心配というか大きな問題が出てくる。文化の違い、文化の多様性を認識した上で、なおかつ文化を基礎にしなければ共通のルールづくりはできないんだという前提のもとに、どうやって合意をつくっていくか。それが、生命倫理の上で人類が今直面している重要な問題だと思います。
 その際に、私はやはり宗教が極めて大きな役割を果たすと思います。つまり、命とは何かというふうなことについては多様な文化があるけれど、それを大きなまとまりで考えていくと宗教伝統の影響が大きいし、共同の合意をつくっていくときには、その宗教伝統を参照することが助けになるとと思います。
 日本の場合は仏教とか神道とか儒教とかいろいろな宗教伝統がありますから、それを参照しながら日本人として納得できるルールづくりをやっていくと同時に、それが世界のルールづくりとどうかかわっていくかということを議論していく必要があります。大変な仕事ですが、それが今、われわれが取り組まなければいけないことだと思います。

●「知性の徳」より「人倫の徳」で世界を一つに

【佐々木】 科学の受容の仕方はそれぞれの文化によって異なります。だから、生命倫理といった文化性の高い土俵で科学を論じる場合、世界の多様な文化の差異性と共通性を見極めて、譲れないところはそれはそれで仕方がないけれど、共通性、共有性を探索するということがなければ、いつまでも結論は出ないのではないでしょうか。
 私が駒澤大学の学部生だったころ、川田熊太郎という先生が哲学を教えておられました。東大教養学部教授で哲学を教えておられ、晩年、駒澤大学で教鞭を執られました。もともと西洋のギリシャ哲学、プラトンとかアリストテレスの研究、ことにその倫理学を専攻されたかたですが、駒澤大学教授に赴任されてからは、いつの間にかサンスクリット語やパーリ語をマスターされて、仏典を原典で講義するというようなこともされていました。
 その川田先生に教わったことで、いまだになるほどと思っているのは、徳には大きく分ければ「知性の徳」と「人倫の徳」という二つがあるということです。その徳というのを倫理と置き換えてもいいかもしれません。「知性の徳」というのは、キリスト教や仏教の教理に基づく徳です。「人倫の徳」というのは、うそをついてはいけない、殺していけない、夫婦は相和して暮らせというような、どの民族であれ共通に持っている生活様式ですね。
 だから、人間は「知性の徳」で共通性とか共有性を探そうとするとお互いに手を結べないかもしれないけれど、「人倫の徳」で世界が一つになっていけるという方向性があるのではないかということを川田先生もおっしゃっていました。
 ここで先ほどらいの臓器移植の問題を、もう少し掘り下げてみたいのですが、臓器移植改定案が国会で成立する前に、政府の諮問委員会がありましたが、それには島薗先生も出ておられたのですか。

【島薗】 いえ、私は出ていません。それには梅原猛先生が出ておられました。いわゆる「脳死臨調」(「臨時脳死及び臓器移植調査会」の略)ですね。

【佐々木】 梅原猛先生が出ておられたのですね。そして、梅原先生は臓器移植には不賛成だった。私も臓器移植には問題があると思います。例えばフィリピンで腎臓が売買されているという報道があります。腎臓は一つだけでも機能して十分に生命維持ができるというので、一方を二百万円くらいで日本人などに売る。自分の生を永らえるために金を積んで他人の臓器を買うという行為は、倫理的に見てどうなんだろうと私は疑問に思います。
 例えば私に五歳の娘があって、心臓の病を患っていて移植しか助かる方法はないとします。日本ではほとんど不可能だからというので、お金を集めてアメリカの大学病院に行って移植できる心臓が来るのを待っている。そうすると、どこかで他人の子供が事故にでも遭って死んでくれないかなと期待する心が、とくに親の心に芽生えてしまうのではないか。
 何カ月待ってもドナー(提供者)があらわれないまま、いたいけな娘が亡くなってしまったというケースもあって、胸を締め付けられるような思いをすることも多いのですが、逆に考えると、それまではひたすら人の死を待っていたわけで、これはどういうふうにとらえたらいいものか。

●生命は個人のものか、共有されたものか

【内山】 他者の死を待つと言っても、人間は必ず一定の確率で死んでいくわけですから、必ず死ぬ人たちの中からいただくということに過ぎないんでしょう。結局、臓器移植の問題も人間の生命とは何かという問題にかかわってくるわけです。近代社会ができてくると、すべての問題を個人に還元するようになってしまった。生命も個人のものだし、個人の生命が終わってしまえば、その人にとってはこの世は終わりというということになってしまった。
 そうすると、病気を治療するといったこともすべて個人の生命を延ばしていくということに過ぎなくなってしまっている。そうすると、個人の生命を延長する方法として、例えば臓器移植があるならそれも使いましょうという話になっている。
 問わなければいけないことは、取りあえず生命というのは個体ごとに、個人の生命として取りあえずあるんだけれど、本当のところどうなんだろうか。果たして生命というのは個人のものなんだろうかという、そこの部分を本当は問わなければいけないわけです。
 ちょっと話が違いますが、今、かなり多くの人たちが孤独死されるという時代を迎えている。そうすると、人間の死というのは、いつ判定されるのだろうかという難しい問題が出てくる。孤独死されて数日内に発見されれば、解剖したりして調べれば死亡推定時刻は何月何日の何時ころだったというようなことが、おおよそ出てくるでしょうが、何カ月も経ってしまうと正確なところは分からないでしょう。そもそも発見されない人の死というのは、人の死なんだろうか。死というのは誰かが確認をして初めて死ではないかという疑問が出てくるわけです。
 僕は昔から渓流で魚釣りをやっているのですが、山の中の民宿のおばあさんにこんな話を聞いたことがあります。そのおばあさんのご主人は出征されて、インパール作戦で行方不明になってしまった。戦後、だいぶ経ってから、そろそろ区切りを付けるかみたいな感じで国から死亡通知が来た。だけど、別に遺品一つあったわけでもないし、もちろん遺骨があったわけでもない。国としては、戸籍上死亡にすると決めたわけですが、おばあさんのほうは、もしかすると生きているのではないかとずっと思い続けて戦後を暮らしてきたわけです。
 山の中のかなり辺鄙(へんぴ)で不便なところなんですが、どうしても引っ越したくないと言って、女手一つで今でも民宿をやりながら暮らしている。夫がもし生きていて戻ってきたら、村に帰ってくるだろう。そのときに元の家を引っ越してしまっていたら分からなくなってしまうと。そうすると、その夫が生きているのか死んでいるのかということは、どっちなんでしょうということになる。
 結局、これというのは、人間の死というのは単に心臓が止まったとか脳が止まったとかという話ではなく、関係の中で、いわば他者の確認があって初めて死は死なわけです。このご主人の場合も誰も確認した人がいないわけですから、おばあさんにとっては行方不明のままなんです。そうすると、例えば孤独死をされた人の場合、心臓が止まったときにその人は死だのか、それとも誰かが発見をしてあの人は死んだんだということになったときが死なのか。そうしたことも考えなくてはいけないことだと思います。
 人間たちが関係の中で死を看取り合うというか、認め合うというのも一つの文化ですから、そういうものが問題とされなくなっていくというのが、文化の消滅なわけです。その結果として、死もまた医学の判定に委ねられてしまうし、孤独死でも解剖してみたらおよそ三日前の何時ごろとかいう死の判定になるんですが、本当は死とは、どこで死んでいるんだろうかというのは難しい問題なのです。
 ですから、結び合う世界の中に生死があるということなんですが、それを生死はすべて個体の中にあるというふうに変えてしまった。それが近代という時代だと言ってもいいわけです。そうすると、生死も医学の判定になってしまうし、そこに文化的絡みはなくなっていくという傾向が強まってきてしまった。
 生命が個人のものだという形になっている限りは、その個人の生命を延長させようとして臓器移植でもなんでも可能な限りの手段を尽くす。僕は臓器移植そのものには賛同しないし、人間の生死というのはそもそも個人のものなのかという、そういう問題も問わなければいけないという気がするんです。
 それは、例えば宗教の問題でもそうなんですが、近代以前の宗教というのは村の宗教だったり、職人たちの宗教だったりした。鍛冶屋は鍛冶屋たちで独自の金山姫をまつる信仰を持っていたわけで、信仰というのは自分たちの共同体の信仰だったわけです。
それが近代になってくると個人の信仰に変わる。今までは自分たちの信仰だったのが、個人の正しい信仰に変わってしまったとも言えます。共同体の信仰である間は、これが正しい信仰だからみんな信じなさいと言ってほかの人に押し付けるようなことは全くなかった。地域社会の中で例えば曹洞宗の檀家さんだったり、浄土真宗の檀家さんだったりしてきたわけです。それは、ほかの人は別の信仰を持っているということを承認することでもあったわけで、そこに信仰の多様性があった。
 ところが、個人の信仰になってくると、私が信じている信仰が絶対正しい、正しくないものを信じるはずはないと言い出す。キリスト教を信じている方はそれが一番正しい、イスラム教を信じている人はそれが正しいという。個人の信仰というのは、絶対的正しさを要求するということです。この絶対的正しさを持っている人たちが集団化してしまうと、今度はそれを他に押し付けるという問題が起きてくる。
 この個人という問題はいろんな面でもう一度見直さなければいけない。そうしないと解決のつかない問題がたくさん出てくると思います。

●死んだ人に麻酔をかけて臓器摘出

【島薗】 私も大体、内山さんと似たような意見です。人の死を個体のレベルで考えることと、科学が死を決定できると考えることとの間には、つながりがあると思うんです。
 柳田邦男さんは、「二・五人称の視点で命を見る」とおっしゃっているわけですが、身内の人が死ぬ時、最期のお別れをするということはかけがえのない経験であり、誰しも死に目に会いたいですよね。ところが、「脳死」の判定というのは、そもそも死に目をおかしくしてしまうところがあるわけです。
 「脳死」かどうか調べるなかで、例えば人工呼吸器を外す。そうすると、そこで死ぬわけですから、人為的な要素が入ってくることになる。それから、あなたのお父さんの臓器はどうしますか、息子さんの臓器をどうしますかと、別れという大事な場面に、何かのために死体を利用するという話が持ち込まれてくる。
 しかも、柳田さんも書いているように、「脳死」と言っても体は温かい、動く。妊婦さんの場合、子供を産むこともできるし、場合によっては、相当長い時間生きていることがある。ですから、いよいよ臓器を取り出すときには麻酔を掛ける。死んだ人に麻酔を掛けるんですよ。
 「脳死」と判定されたら、本当に生き返らないかどうか、多くの医者は大丈夫だと言っているのですが、この間もデンマークで、人工呼吸器を外した途端に死ぬはずの人が生き返ったという話があるし、子供の場合はとくにそういう可能性があるわけです。ですから、医学的に、たとえ個の死ということを主軸に考えたとしても、「脳死」の判定にはどこか曖昧な点があるということですね。

      〈次号につづく〉


(平成24年11月13日収録)