盂蘭盆会の季節を前に想う
駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹
一、はじめに
散歩の途次、公立中学校の横を通ることがある。たまにではあるがよく耳にする歌が風に乗って聞こえてくる。音楽の時間なのであろうか。歌っているのは「花は咲く」である。
この歌はNHKテレビが復興ソングの名でしょっちゅう放映しているので、いつの間にか自然に耳に馴染んでしまっている。
宮城県出身の私は、この歌の作詞者も作曲者も宮城県出身であり、ガーベラの花を一本手にして歌をリレーしている人たちも大震災の被災地出身、またはその地に縁のある方々であることを知って、改めてこの歌に関心をもつようになった。
「花は咲く」の歌詞は「真っ白な雪道に春風香る わたしはなつかしい あの街を思い出す」に始まり、「叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた 今はただなつかしい あの人を思い出す」と続く。
さらに「誰かの歌が聞こえる 誰かを励ましている 誰かの笑顔が見える 悲しみの向こう側に」と流れ、最後に皆がいつも耳にしたであろう「花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」で終わる。
四節から成るこれらの歌詞を読み返しているうちに、私はこの歌のもつある種の不思議さを感じ出した。
それはこの歌は大震災で犠牲になった二万余の人びとにたいして、残された者が悲しみの念をこめて捧げた挽歌なのか、それとも亡くなった人びとが生前の人生
について思い出を語ったものか、あるいは「生者」と「死者」のそれぞれの思いが混じり合った歌なのか判然としなくなったからである。
この歌にはメロディもそうだが「復興支援ソング」にしては生き残って復興に励んでいる人びとを、そうでない人びと、つまり被災者でない人びとが鼓舞激励している言葉が欠けているようにも、私には感じられた。
鼓舞よりも回顧、激励よりも哀悼の情が籠められた歌ではないのかとも考えた。
作詞者の思いは奈辺にあるのだろうか。
幸いNHKの「東日本大震災プロジェクト」HPに「岩井俊二さんのメッセージ」があり、氏の作詞をめぐる思いの一端を知ることができた。
NHKから復興支援ソングの作詞を依頼された氏は、これは自分自身の想像力の真価を問われる仕事だと感じ、あれこれ思案するうちに、たまたま被災した石巻の先輩が語ってくれた言葉が作詞のヒントになったのだという。
その言葉というのは「僕らが聞ける話というのは生き残った人間たちの話で、死んで行った人間たちの体験は聞くことができない。生き残った人たちですら、亡くなった人たちの苦しみや無念は想像するしかないのだ」というものであった。
岩井氏はこの先輩の言葉が後押しになり、力まず自分の想像力に身を委ねることにしたという。
さらに氏は「亡くなった人たち、生き残った人たち、あの震災を遠くから心配していた人たち、3・11から今に至るまで、それぞれが一体どんな想いをしているのか…せめて僅かな片鱗でも書き留めることができたら、という想いで書きました」と述べている。
やはりそうだったのかと合点した。
「花は咲く」は被災地の死者たちと生者たち、加えて各地で被災地の人びとのことを思い遣る人たち、これら三者がいかなる思いを抱いているかを作詞者が想像して成った作品なのである。
それぞれの思いが混じり合った歌だから不思議さを感じさせるのであろうか。
そう思ってこの歌を読み直してみると、いつもテレビで耳にする第四節の「花は 花は 花は咲く いつか生まれる君に 花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」はまぎれもなくあの世の死者からのこの世の生者たちへの励ましの言葉であると思えてくる。
「花」はどん底から立ち上がり将来幸せな人生を再興するようにとの死者たちの願いを象徴する語ではないか。「咲く」は再興の成就を意味するだろう。
このように想像をめぐらすと、「わたしは なつかしい あの街を思い出す」も「今はただ なつかしい あの人を思い出す」も死者たちの懐旧の思いの吐露のようにも感じられてくる。しかしそれは私の過剰感覚の為せることであろうか。
たまたま三月十四日夜八時からNHKの「花は咲くスペシャル」を目にした。東北出身の俳優や歌手が出演していたが、そのなかで「花は咲く」の作詞者岩井俊二氏が登場して自作の歌についてごく短い感想を述べた。
私の耳に残ったのは「亡くなった人たちとどう共生して行くかということと、壊滅のなかに花が咲き始めているという想いを籠めた」という氏の言葉であった。
二、 「死者との共生」ということ
今年は大震災発生から満二年目、宗教(仏教)的には三回忌にあたる。
去る三月十一日には東京の国立劇場を会場に政府主催の追悼式が行われた。
菊の花で飾られた祭壇中央には「東日本大震災犠牲者之霊」と墨痕鮮やかに書かれた慰霊塔が立てられ、午後二時四十六分には、両陛下をはじめ政府、国会、遺族代表による一分間の黙祷が捧げられた。ついで天皇の「おことば」があった。
陛下の「おことば」のなかでとくに重要と思われたのは次の二点である。(1)震災によりかけがえのない命を失われた多くの人びととその遺族に対し、改めて
深く哀悼の意を表する。(2)今なお多くの苦難を背負う被災者一人びとりの上に一日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い、御霊(みたま)への追
悼の言葉とする(「朝日新聞」、二〇一三・三・一二(火)
)
この「おことば」は大意的に先に述べた「花は咲く」の内容に通底しているように思う。
まず「死者」とその「遺族」への哀悼の意が述べられ、被災者たちに一日も早く安らかな日々が戻る(=「花は咲く」)ことを国民と共に願っておられる(=「共生」)からである。
注意すべきは(1)では「命を失われた人びと」(=「死者」)が、(2)では「御霊」と表現されている点である。この語は「花は咲く」には出てこない。
「御霊」の御(ミ)は敬意を示す接頭語であり、「御霊」は神霊と死霊とを共に意味する語である。陛下が語りかける対象が「犠牲者之霊」であるのだから「御霊」の語を使われたのであろうか。
毎年八月十五日に日本武道館で行われる「全国戦死戦没者之霊」への「おことば」では「戦陣に散り戦禍にたおれた多くの人々…」という表現はあったが、「御霊」の語を使われたことがあったかどうか、私の記憶にはない。
なぜこういうことを問題にするかというと、「死者」を弔い死者と共生するためには「死者」は同時に「死霊」(=御霊)でもなければならないからである。
「死者」は「生者」とは異なる存在ではあるが、生者と同様「生きている」存在であるとの観念や感覚なしには、「鎮魂」とか「慰霊」という人類共通の文化は成り立たない。
そして「死者」=「死霊」と位置づけ、慰霊や供養の文化を担ってきたのが、この国では主に仏教(者)であった。
ところが管見するところ現代社会にあっては「霊」の語が使用されることが少なくなってきたか、あるいはこの語の使用を躊躇するようになってきた感がある。
「亡くなった人」とか「死者」あるいは犠牲者という語は大震災後にとくに人口に膾炙するに至ったが、それに比して「死霊」は何となく遠ざけられているように見える。
現代人とくにインテリたちが「霊」を遠ざけがちなのには、いくつかの原因があるようだ。一つには各界が科学的合理性を最重視する状況下にあること。その視
点に立てば合理的に証明できないレベル(ところ)に存在する「霊」に迷信のラベルを貼りつけて済ますことは容易であろう。
つぎに「霊」は肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体であり、目に見えない不思議な力をもつとされる(『国語辞典』参照)。ここで言われる「実体」の概念が仏教の説く「無常・無我」の教えに強く抵触する。
さらに「霊感商法」なるものがメディアを通じて絶えず問題化される。
もっとも、霊感商法が叩かれても弾圧されても跡を絶たないのは、多くの人びとにとって「霊」なるものの力がいかに大きいかを皮肉にも明示しているとも言えよう。
「霊」は生きているがゆえに生者同様に自由に行動し生者と交流できる。
何年か前に「お墓の前で泣かないで下さい 私はお墓になんていません…」という歌が全国的に評判になったが、この歌はまさしく「霊」の特性の一つを示している。
死霊は生者によって迎えられれば、その場に来臨し、生者と交流・共生した後「あの世」へと戻って行く。
「東日本大震災犠牲者之霊」と記された慰霊塔は宗教的には霊の「依代」(憑代)であった。このように捉えないと、あの政府主催の追悼式は無意味な営みにすぎないことになってしまうのではないか。
三、お盆の季節を前に
盂蘭盆会、通称「お盆」は正月と並んで日本人にとっては「ハレ」(晴)の時間と空間であった。ハレは晴着とか晴舞台などと言われるように特別で非日常的な性格をもつ点で日常的で、普通な時間・空間を示す「ケ」(褻)と対照的である(柳田国男)。
特別な衣服を身に着けて御馳走を食し飲酒して賑やぐことを「正月と盆が一緒に来たようだ」と表現したことは「ハレ」の性格をよく表している。
どうして正月とお盆が特別の時間と空間とされてきたか。細かな民俗学的説明をはしょって言えば、正月には歳神または歳徳神が、そしてお盆には先祖・死者霊が各家に来臨し数日間人びとと「共生・共存」するときだからである。
お盆の時期は旧暦によるもの、新暦七月や月遅れの八月に行われる場合もあり、同じ地域にもヴァリエーションがある。大震災のあった東北太平洋沿岸地域は概
して八月盆であるようだ。お盆の期間は八月十三日から十六日までとするところが多い。七月一日を釜蓋朔日(かまぶたのついたち)、八月一日を八朔盆(はっ
さくぼん)と呼ぶ地域もあり、かつてのお盆は現在のよりも長期であったらしい。
お盆には先祖、新仏、無縁仏の三種の霊が迎えられ、あるいは訪れ
るとされる。そのうち「先祖」は浄化した霊であるから室内の盆棚(精霊棚)に祀られるが、「新仏(しんぼとけ)」はまだ荒々しい性格を帯びているため「無
縁仏」と同じように戸外や縁側などで祀られるという民俗学の説もあるが、これには異論もある。
私はかつて日本語の「ほとけ」という語は仏陀を意味する「仏」と死霊や死体を意味する「ホトケ」を包摂していると仮説したことがある(拙著『仏と霊の人類学』一九九三、『仏力』二〇〇四)。
この仮説になぞらえると「先祖」はこの世への執着を超えた「仏」に近い「ほとけ」であるのにたいして「新仏」はまだ生なましくおどろおどろしい性格を脱していない「ほとけ」であるということになろう。
大震災で犠牲になった新仏は、三回忌にあたるお盆においてどのように遇されるのであろうか。
時を経ていない「死霊(新仏)」は仏式により「仏子(ほとけのみこ)」とされ「仏」へと向かう「覚路」または「涅槃の径」を歩んでいると教義上はされる。
しかし死して間もない人は仲々教義どおりにはいかない。自分の妻子や両親や親類にこだわり執着して止むことを知らないからである。亡霊とか幽霊が出たと語られるゆえんである。
このことはこの世に残された人びとの痛恨・慙悸の思いと直接つながっている。
「死者=死霊」はいずこに在すか。埋骨された人は「墓」に、されていない人は「遺骨」に、あるいは「位牌」に「居る」と多くの日本人は認識しているようである(前掲拙著参照)。
悲しい事例を一つ。中学一年のM君の生家は気仙沼市の中心部にあった。3・11の大津波が市を襲ったとき、M君は妹と共に学校にいて無事だったが、祖父と父母、高二の姉の四人は車で逃げる途中津波に呑まれた。
M君と妹は市内の大叔母と暮らすこととなった。M君は家族四人が亡くなったことを告げられると「俺も死ねばよかった」と叫んだという。
それから一年経ち彼は中三になったが、「死者=死霊」から離れられなかった。ときに授業を抜けだし、クラスを慌てさせた。級友たちが探しに行き、彼を見つけたのは家族の「墓」の前であった。
その年の十二月二十四日クリスマスの日に彼は行方不明になった。級友たち三〇人以上が探し回ったが見い出せなかった。彼の遺体は今年の一月二十四日に漁港近くで発見された(森健「震災孤児二四一人はいま」、『文藝春秋』二〇一三、四月号)。
同じ気仙沼出身の私は右の事態へのコメントは差し控えたい。心からご家族五人のご冥福を祈り、残された妹さんの無事成人を願いたい。ただかつて同市ではこ
うした不幸な出来事が生じた際、「死者=死霊が連れて行った」のだと、噂さし合っていたことを、私はよく記憶している。
3・11の大震災においてはM君のような例は数多いと思う。
三回忌の盂蘭盆会において、盆棚に迎えられた「死者=死霊」が十分に鎮められ、残された人びとの悲歎に満ちた「こころ」が少しでも癒されて「花は咲く」状態になるよう願って止まない。
そのためにはお盆に直接・間接に関わる宗教(仏教)者の役割がすこぶる重要であることは言うまでもない。