◇鼎談◇

ノーベル賞受賞
iPS細胞が投げかけた人間の「生と死」のゆくえ
―宗教界はどこまで倫理上の疑問に答えられるか―

第2回

出席者(順不同)

島薗 進(上智大学教授・宗教学)
(しまぞの・すすむ)  1948(昭和23)年・東京生まれ。宗教学者。上智大学教授.。著書に『ポストモダンの新宗教―現代日本の精神状況の底流』『〈癒す知〉の系譜―科学 と宗教のはざま』『いのちの始まりの生命倫理―受精卵・クローン胚の作成・利用は認められるか』など多数。

内山 節(立教大学大学院教授・哲学)
(うちやま・たかし) 1950(昭 和25)年・東京生まれ。哲学者。1970年代から東京と群馬の二重生活を続ける。立教大学大学院教授。著書に『「里」という思考』、『怯えの時代』、 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』、『清浄なる精神』『共同体の基礎知識』など多数。

司会・佐々木宏幹(駒澤大学名誉教授・宗教人類学)
(ささき・こうかん) 1930(昭和5)年・宮城県生まれ。宗教人類学者。「シャーマニズムの宗教人類学的研究」で筑波大学文学博士。駒澤大学名誉教授。著書に『人間と宗教のあいだ―宗教人類学覚え書』『憑霊とシャーマン―宗教人類学ノート』『神と仏と日本人―宗教人類学の構想』など多数。

 人間には一〇八の煩悩があるという。それを帰納すれば生存本能と生殖本能に収斂される。人間の連綿とした歴史・文化の営みも個々の人間がその二つの天与のミッションを追求した名残りであり堆積だともいえる。
 二〇一二年秋、日本に明るい話題を振りまいたのが日本人のノーベル賞受賞の報せだった。ノルウェイのノーベル財団は京都大学教授・山中伸弥氏にノーベル医学生理学賞を贈ることを表明した。その授賞理由となったiPS細胞(Induced Pluripotent Stem Cell人工多能性幹細胞)ついては、まだ一般に周知されていない。しかし、今後このiPS細胞が再生医療にひろく応用されていくことになれば、そこには私たちの想像を超えた事態が出来しないとも限らない。
 冒頭に書いた生存と生殖が無限に可能となり、人間がいつまでも生き続け、いつまでも子供を産み続けたらどうなるか。iPS細胞を乱用して、そうしたSF小説のような世界が現出したとすれば、それは人類にとって悪夢としか言いようがないだろう。
 「有終の美」という言葉がある。終わりが有るからこそ、私たち一人一人の人生は美しいのではないだろうか。そんなふうにiPS細胞の今後の実用化は人間の生きている意味そのものすら問うてくる。
 今回は、そうした医学の最先端がもつ倫理上の危うさに対して宗教界、仏教界がどう考え対応していくべきなのか、宗教学・哲学・文化人類学の諸教授に討論していただいた。

●「脳死」を人の死とする風潮の広がり

【島薗】 梅原猛先生が「脳死」による臓器移植に反対しておられるのには、脳こそ人の本体だという考え方に対する批判があります。脳が死ねばその人は死んだことになるとすれば、ではそれ以外の体は人間の本体ではないのか、そんなことはないという主張です。つまり、西洋の意識中心主義というか、魂とからだ、意識と身体というものをはっきり分ける考え方に対する批判がそこにはあると思います。
 それが最近、実は医学的にも脳が人間を統合しているという考え方に異論が出ているのです。脳より脊髄のほうが重要なのではないかとか。従って、「脳死」は人の死という考え方には無理があるという日本の一九九〇年代の判断が、その後、世界の医学界で見直されているということもあります。
 ただ考えなくてはいけないことは、内山さんもちょっとおっしゃいましたが、人とのかかわりということを重んじるがゆえに、私の臓器を人に上げたいという人もいる。その善意を生かせば苦しんでいる人が助かるという事実もあるわけですよね。その場合に、それを否定するのは、私は難しいと思います。
 医学のモラルとして、苦しんでいる人を助けるということがありますから、「脳死」を人の死だと考えて、自分の臓器を提供したいという人がいれば、その人の意思は生かしてもいいのではないか。臓器は自分のものではないとしても、臓器を贈与するということ自体は人の営みとしてあり得ることだと思います。
 これは仏教のいろんな議論ともかかわってくるところです。「縁起」の考え方らすれば人の命を個体としてみるのか、それとも関係性のなかで考えるべきなのか。それから『ジャータカ』の説話にあるように、自分の身を犠牲にして人を助けるのがいいのか。アジアの仏教界ではそちらのほうが優位にあると思います。
 スリランカでは、ほとんどの人が死後、角膜を提供します。移植のために目を取るということがルールのようになっていると思います。仏教が説くように人間の体がいろんなものの寄り集まりでできているとすれば、臓器を提供して苦しんでいる人を助けたいという人がいたら、それを否定するのはなかなか難しいと思います。

【内山】 それは僕も賛成です。僕が臓器移植に反対だというのは、臓器移植を一般の制度にしてしまうことに反対なわけです。「脳死」についても、「脳死」を人の死とするという、そういう制度化に反対なわけです。ある人が、私は「脳死」でいいです、その時には自分の臓器を提供しますという人がいても、それは構わないわけです。ただ、移植を進めたいがために死の判定を「脳死」にしようとか、あるいは、病院の側が臓器移植を半ば強要してくるというようなことがあれば、それはけしからん話だということです。
 生死の問題というのは、何をしてはいけないとか、何をやったらいいとかいうことの前に、法制度なんかで整備すべきことではないと思います。自分たちの生きている文化的な脈絡の中で生死は考えるべきであって、それを法であるとか、世界共通の基準であるとか、そんなものに委ねるべきではないというのが僕の立場です。

【島薗】 でも現実に多様な考え方、多様な文化がある以上、法的な規定がないと処理できないことが出てきてしまうのではないかと思いますが。

【内山】 どうしても法的なものを決めるとするならば、その中の一番緩いところでやるしかないと思います。たしかに人間の死でも法律では規定できませんと言って、いつまでも放ったままというわけにいきません。そうすると、人々が合意し得る一番緩い規定、やはり死は心臓が止まったときという話になってくるわけで、規定するならそこでやるしかないでしょう。

【佐々木】 今は本人が、あらかじめ自分が死んだら臓器を移植してもいい、あるいはしたくないという意思表示しているかどうかが基準になりますね。その意思表示が不明な場合は両親とかその親族の判断にゆだねられる。

【島薗】 そこが、二〇〇九年以前の法律では緩かったと思います。梅原猛先生などの少数意見がある程度生きていて、「脳死」でいいと自分で認めた人のみに「脳死」を認めるとするということになっていました。しかし、それが今では本人の同意が絶対条件とはされなくなり、子供からも臓器を取れるようになりました。
 「脳死」を一律に人の死とするかどうかということについても、法律の解釈でいろんな考え方がありますが、今はそれに近づいていることは間違いありません。できるだけ臓器移植を進めるために、無理やり法律をつくったという印象をもたれても仕方がないと思います。

● 命や体を手段として利用する科学技術

【佐々木】 一九六八年のことですが、札幌医大の心臓外科医だった和田寿郎氏が日本で最初の心臓移植を実施しました。あのときは水死した人の心臓を移植したんですが、その亡くなった人は駒澤大学の学生でした。それで生命倫理にもとるというので、和田教授は刑事告訴され裁判沙汰にまでなりました。結局、不起訴処分になりましたが、心臓を移植された患者が八十三日目に死亡したこともあって当時、大問題になったものです。
 今は、法律も緩やかになって、子供であっても親が承知すれば臓器を提供することができるようになっているのですが、いまだに臓器移植をめぐっては賛否両論が多く、テレビ・新聞でも臓器がどこに運ばれていったと逐一報道するくらい世間の耳目を集めています。
 実際、伝統的な日本文化の中に育った人たちにとっては、「脳死」イコール人の死とすることに、半信半疑でいる人たちが多いということだろうと思います。
 私が知っているある方は息子さんが「脳死」になって、医者から臓器提供されたらどうですかと言われたとき、「絶対いやです。たとえ目一つでもなくなったら、あの世で物が見えなくなるじゃありませんかと」と拒否したそうです。

【島薗】 和田移植は罰されなかったのですが、しかしあの手術の正当性は今でも相当に疑われています。必ずしも死ぬと決まっていない人を殺して、そして成功する見通しもない人に移植をして、二人とも亡くなってしまったわけですからね。証拠不十分ということでしたが、大いに危うい事例です。
 自分を犠牲にして人のためになるということは、取りあえず美しい。臓器贈与ということも、取りあえずはいいことのように思える。でも、それはすなわち人の命や体を手段として利用することだということを忘れてはいけないと思います。
 医学が本来の仁術としての医療から、経済的利益とも結び付いておかしな方向に進んでいるのではないかという危惧もあります。例えば、代理出産というのも、今どんどん盛んになっています。タイとかインドとかの貧しい女性がそれに応じるわけですが、これは危険な金儲けです。お産というのは、昔は命懸けでしたが、今でもやはり切迫流産になったりして命を失う女性もいます。しかし現実にそういう貧しい地域の女性が、経済的利益のために豊かな国の女性の赤ちゃんを妊娠するということが成り立っているのです。インド政府なんか、それを勧めているという話もあります。
 そういうことがあちこちで起こっているのですが、そもそも宗教では子供は授かりものであって、神仏から与えられたかけがえのないものであるという基本的な感覚があると思います。先ほど内山さんがおっしゃったように、命というのは自分きりのものではない、人々とともにある。そして新しい命は授かりものだという感覚ですね。これは多くの宗教が共有しているものだと思います。ですから現代医学が人間の手で人間をつくるというようなことになれば、人々の授かり物としての命という考え方を破壊してしまう可能性があると思います。
 そういう意味では、「脳死」臓器移植の問題、代理出産の問題もみなつながった問題で、そこに新たに@PS細胞による再生医療の問題も加わってきた。それらは科学技術が命を手段にするという点で、みな同じ基本的な構造をもっていると思います。

● 現代医療が人間の欲望をさらに肥大させる

【佐々木】 今回の主なテーマであるiPS細胞の将来性なんですが、数年のうちには実際に再生医療が可能になるとメディアが伝えています。皮膚細胞などの体細胞に特定の遺伝子四個を加えると初期化が起こって幹細胞になる。それを今度はふたたび肝臓の細胞、心筋細胞、神経細胞などに分化させて、悪くなったところと取り換えることができるようになるかもしれない。
 そうなると、今まで人生五十年なんて言っていたのが、九十歳、百歳、あるいはさらに命を延ばすことが可能になる。これまでは単純に寿命が延びることはめでたい善いことだと言っていたのが、そうなると人の命というのは一体何なんだろうということになる。これがどんどん応用されて、心臓の駄目になった人がよみがえる。目が不自由な方も見えるようになる。そういうことになると、一体どういう社会がやってくるのでしょうか。

【島薗】 直近の話としては、パーキンソン病とかアルツハイマー病の治療が期待されています。あるいは、子供の糖尿病治療とか、事故で脊髄に傷を負った車いすの方が足が動かせるようになるとか。そういうこれまでの医療で治らなかった状態を治せる可能性があるということは、私は福音だと思うんです。そしてそれ以外のことにも、いくらでも使えると思うんですが、それを今の医学では十分に予測していません。
 医学はとにかく人の体をより良い状態にすることは全部善だという考えを執っていました。しかし、現実の人間の生活を考えると、医療行為を行うことによってむしろ良くないことが起こってくるということがいくらでもあります。そういうことを考えなければいけない時代に入ったと思います。
 ですから、医療に限界付けをして、こういうことはやらないほうがいいと言う必要もあります。既に延命治療の中止ということが始まっているわけですが、そういうことをもっと広く考えていかないといけません。ところが、今の医療や医学の態勢は、お金になることなら何でもやるということで、ひたすら長寿のための医療とかが進んでしまう可能性があると思います。
 二〇〇三年にアメリカ大統領の生命倫理評議会がエンハンスメントということを言いだしました。今までは苦しんでいる人を元へ戻す。マイナスをゼロにするのが医療だったけれど、ゼロをプラスにしてしまう医療、それがエンハンスメントです。つまり、八十歳で死ぬだろう人を百歳まで生きさせるとかですね。背が育たない人を人並みの高さにするというのは立派な医療と考えられてきたけれど、今度は身長は普通なのにもっと背が高くなりたいという人のために、そういう治療をすることも認められてしまう。これは、美容整形なんかそうですし、性転換なんていうのも、あるいはバイアグラなどもそういうところがありますね。
 こういう医療が今はどんどん広まっています。動きまわって勉強に集中できない子供たちにリタリンという薬を飲ませる。そうすると勉強ができるようになる。そんなのは病気ではないと思うんですが。うつ病の治療薬も、うつ病の人にはありがたいものですが、普通の人でも試験の前に飲むと元気が出ていいとか。そういうふうなことがどんどん起こるようになってきていて、医療に限界付けをしないといけないのだけれど、それが非常に難しい状況がある。
 ですから、今までは考えられなかったような大きな問題が医療現場に起こっている。まさに@PS細胞などもこれから直面せざるを得ない問題でしょう。原子力利用の問題とちょっと似ていると思うのですが、人類の福音だと思っていたことが、実は大変なマイナスをはらんでいることもあるということですね。

● できるけれどやらないという選択

【佐々木】 昔は「白髪三千丈」なんて言った。亡くなられた東洋史学者の窪徳忠先生なんかは百五十歳まで生きてやるぞなんて、みんなを笑わせていた。長く生きればそれは幸せだというとらえ方が一般的なのは間違いない。しかし、五体満足のままということはむりで、いずれみんな年を取ると病気にもなる。そこに再生医療が加わるとどうなるんでしょう。

【島薗】 再生医療を進めていくと、弱ったところは全部治していくということになる。だから車の故障と同じですね。

【内山】 理論的には、iPS細胞が上手に機能すれば、例えば心臓が弱ったら自分の心臓をまた作り直して入れ直すとか、何でもできてしまうということになる。多分、そうは問屋が卸さないといったことが、実際に始めれば当然出てくると思いますけど。
 考えなくてはいけないのは、人類の歴史というのは、できることと、できるけれどやらないということを、ちゃんと分けてやってきたと思うんです。例えば人殺しだってそうです。人殺しをしようと思えばできるけれど、大半の人間はやらない。そういう、できるけどやらないのを「人倫」というのかどうか分かりませんが、それがある種、人間社会の基礎をつくってきたと思うんです。
 医学においてはもう僕らの等身大の世界を超えてしまったような技術が出てきてしまっているわけですから、できることと、やらないことというのをしっかり区別していかないといけない。それは先ほど島薗先生がおっしゃったとおり、原子力技術なども同じでそれに手を出すと、とんでもないことになるんだよということを教えてくれたのが福島の原発事故でもあったわけです。
 遺伝子組み換えなんかもそうでしょうが、そういう、やってはいけないことというものを、どこで決めるかということなんだと思うんです。昔は例えば信仰でも共同体の信仰だったわけで、そうすると共同体のなかで必然に、これはやってはいけないというようなことがあったわけです。ところが今は、してはいけないことを個人が決めなくてはいけない。ところが結局、個人ではそれは決め切れませんから、何らかの権力を持っている者が決めていくということになってしまうわけです。
 例えば臓器移植でも、やはり医学界というのは大変な権力ですから、そこがある種の発言権を持ちながら決めていくということが起きてしまう。だから、個人が決めなければならない時代というのは、結局何らかの外部権力に委ねてしまう時代を作るわけです。この辺りは、今の社会の在り方を含めて、根本的に議論をしていかないといけないと思います。
 差し迫った問題として、こういうiPS細胞だとか、新しいものが出てきてしまっているわけですから、ここのところはやはり、やってはいけないものはいけないという、そういう倫理観だけはきちっと持たないと、いざ問題が起きた時には、多分、原発事故と同じような非常に大きな問題として登場してしまうと思います。

● 宗教の持つ普遍性を活かしてルールづくり

【島薗】 今年五月に山中先生の講演を伺ったことがあります。あの方はとても賢い方で、倫理意識も高い方だと思うんですが、私はこういう質問をしました。「国際的な競争の中で研究していらっしゃる。やはり競争に負けるわけにはいかないですよね」と。私は国際的に協議して、限界を決めていくしかないと思うんですが、そういう動きはまだ全くやっていない。EUにはいくらかそういう動きがあると思いますが、アメリカにはそういう意思はほとんどない。
 先ほどの内山さんのお話の中に共同体レベルのルールということがありましたが、今は世界がグローバル化して人々が網に目のようにいろんな共同体に入っているので、実際、そうしたなかで共通のルールづくりをしていくのは非常に難しい。そこで、やはり重要になるのが宗教でしょう。人類史が育ててきたもののなかで国境を越えて共通の言語なりコンセプトを持てるのは宗教です。
 もちろん、宗教というのは内山さんがおっしゃるようにローカルなレベルの生活と結び付いて力を発揮してきたわけですが、それにもかかわらず、世界に広まっていく普遍性というものを志向してきたところがある。宗教にはそういう潜在力があるので、その論理を用いないといけないと思うんです。
西洋社会では少なくともキリスト教がそういう力を持ってきている。インドから中国、日本などのアジア圏ではいろんな宗教が交じっているわけですが、少なくとも仏教は非常に大きな役割を持ち得ると思います。

【内山】 しかし、キリスト教にはいろんなキリスト教があり、仏教にもいろんな仏教があるし、世界の主だった宗教の人たちがある基本的な線を仮に打ち出すことができたとしても、それが今では民衆の世界からはだんだん関係なくなってきているという問題がある。
 例えば日本仏教界がこぞってある種の方針を決めたとしても、それを人々がどれほど重要なものと思う気持ちがあるかというと、多分それはある業界団体が声明を出したのと同じぐらいの扱いにしかならないかもしれません。
 というのは、日本人にとって仏教とか宗教というのは自分たちの生きる世界、伝統的な在り方というか、心の奥にあるもので、教団というものはそこから外れているということですね。ですから、仏教界である種の方針を出しても、それは教団同士の話し合いで決めたことだと捉(とら)えられてしまって、自分たちが道を歩いていてお地蔵さんを見たら手を合わせたりするその気持ちとつながっているものとは思わない。
 それは多分ヨーロッパのキリスト教圏でもそういう傾向で、教会の世界が自分たちの信仰と同じだとは思っていないと思います。生命倫理に関することとか、グローバルな問題を決めていこうとするときに人々の信仰観とか宗教が大きな役割を果たすということはそのとおりだと思いますが、残念ながら今の教団宗教にはその力がないというのが現実ではないかと思うんです。

● 上から下へという目線の教義は伝わらない

【佐々木】 たしかに教団にいる仏教者たちは、生命倫理や生命科学というものを、十分勉強しているわけではない。宗門大学が日本にはたくさんありますが、しょせんは浄土宗なら法然、浄土真宗なら親鸞、日蓮宗なら日蓮、曹洞宗は道元といったそれぞれの宗学を学んでいる。それを背景にして物を言うということが、一つの限界性をはらんでいるということだと思います。
一方、東北大学の寄附講座では「臨床宗教師」というようなものを育てていったらどうかという試みもある。災害地にボランティアに行って、自分はキリスト教だ、自分は浄土真宗だ、自分は神道だと、それぞれ勝手なことを言っていたのでは被災者を救えない。とにかく現地の人々の声に耳を傾ける。そうすると、そこでは教団の教義なんかではない、亡くなった人の霊とか魂とかが関心事なんですね。
 やはり、家族、親族で亡くなった方々の魂を安心させることによって、生き残った方々は悲しみを乗り越え、再び生きる力を得て立ち上がろうとする。今までのお坊さんに欠けていたのは、苦しみのなかにある方々のど真ん中に入っていって虚心に対話をすることでしょう。今、そういう試みが始まっています。

【島薗】 そのとおりです。現状では内山さんもおっしゃったように、既にある教義を現実に適用しようという上から下への目線では解決にならない時代になってきている。今はいろんな人がいるわけですから、一人一人のニーズに沿ったものを提供しなければいけない。それは祈りかもしれないし、ただうなずいて聞いていることかもしれないし、ほかの人のたとえ話をすることかもしれないわけです。
 しかし、それはそれなりの宗教的な訓練を受けているからこそできる。そういう宗教者が必要とされる時代になってきたと思うんです。それは、ある意味では教団の枠を越えている。自分は何々宗だというようなことに固執していたのでは、世界の仏教徒とすら十分に交流できないと思います。
 もちろん宗祖の教えは大事にされる必要があると思いますが、同時に、それを広い言葉で言えるようにならなければいけない。時には伝統の言葉を越えて、しかし伝統の力があるからこそ言えるような、そういう言葉とか考え方、あるいは実践的な修練が求められていると思います。先般の東日本大震災の支援活動でもそれが強く自覚されるようになってきていて、とくに若い僧侶を中心に、さまざまな実践がされるようになってきていると思います。
 そういうふうな、宗教の伝統に則(のっと)っていながら、現代人のニーズに合うものを提示するということができるようになれば、そのときはiPS細胞とか「脳死」の問題とかについても、知恵を提供できるのではないかと思います。もちろん、そこにはおのずから宗派やら文化による違いが表れてくるから多様になるし、共通の合意を得るには時には妥協も必要だと思います。しかし、とにかくこうした方向性を持った動きが日本の宗教界に出てきていることは確かです。内山さんがやや悲観的なことをおっしゃったので、ちょっと楽観的なことも申しあげました。
 それから、佐々木先生がおっしゃたような霊とか魂という意識で統一できるかどうかは、なかなか簡単には言えないと思います。日本の場合はそれでいいかもしれませんが、世界的にはそうはいかないかもしれないなという気がいたしました。

● 宗教・信仰は多くの言葉の領域を持つ

【佐々木】 私は知識人レベルのハイブローな議論を振りかざす教団と、それから、民衆が実際に求めているものとの乖離(かいり)をいやというほど見てきています。仏教もキリスト教もそれには変わりはないと思います。
 仏教で言えば、マレーシア、インドネシア、タイ、台湾、中国本土と調査してみて、結局、根っこになっているもの、お寺はどうして必要なのか、お坊さんはなぜ必要なのかと聞いていくと、やはり死者、先祖の供養をしてくれるからと言う。そういう意味では上座部仏教も大乗仏教も区別はないということを、私はかなり強く印象付けられました。
 上座部仏教のタイやビルマのお坊さんは労働はしない、悟りのための瞑想だけをしていると、どの論文や著作にも書いてあるけれど、実際にはお葬式をし、有名なバンコクのお寺では火葬場まで持っていて、火葬した遺骨をお寺の壁にお祀(まつ)りするというようなこともしている。それは知識人から言うと迷信的なものが入り込んでいるということになるのかもしれませんが、しかし、民衆が求めているものはやはり親族の死者のいのち、魂とか霊という言葉で私は言いましたが、そういうものが根っこにあるわけです。
 キリスト教の場合でいうと、呪術的なものが多くみられるのはプロテスタントではなく、やはりカトリックですね。僕はフィリピンの教会で見て驚いたのですが、何千という人が朝、教会に集まって、イエス・キリストの亡くなった像があおむけに寝ているのを礼拝するわけです。像はガラス箱の中に入っていて、足の裏だけが外に出ている。
 それにキスをして、十字を切って、それで勤めに行く。勤めが終わると、またそこへ善男善女が集まって、足の裏にキスをして帰っていく。それで、どうしてそういうことをするのかと聞くと、ブレッシングという。つまりお恵みをいただくんだということですね。造られて四百年ぐらいたつ像なんですが、なんと、雨が岩を穿(うが)つように、そのイエス・キリストの足の裏が一センチ以上磨(す)り減っているんです。口づけによってですよ。
 宗教の起源ということになると、やっぱりその辺のところなんで、そこを無視して教義論だけではとても難しいというのが私の感触です。

【島薗】 私が言いたいのは、宗教、信仰というものは多くの言葉の領域を持っているということです。例えば、子供は授かり物だという思いは、いのちのかけがえのなさというものを日々感じている生活の根っこから出てくる感覚で、そういうふうにも翻訳できるし、また難しい悟りの理論みたいなところにも置き換えることができる。そういうものではないかと思うんですけど。

● 最期はお坊さんに看取ってもらいたい

【佐々木】 東北大学医学部の教授で ご自身もがんで先ごろお亡くなりになった先生がいらっしゃいましたね。緩和ケアをやったり、心の相談室を開設されたりした。

【島薗】 岡部医院の岡部健さんですね。

【佐々木】 はい。あの方はこんなふうに書いておられました。「このごろのお坊さんは自信を持ってあの世が説けなくなったし、死んだ人がどういう状態でいるのかという、いわゆる霊魂の話なんか説けない。説けないで葬式をするというのは一体どういうことなんだろう」と。
岡部先生は、あの大震災のとき病院の看護師、職員の方々を亡くされ、その場所にお地蔵さんを建てたりされた、非常に仏教信仰の厚い、お医者さんであり学者であったと思います。そしてこうも書いておられます。「私だって最期はお坊さんに看取ってもらいたい。そのときに、ここへ行くんだから安心して行きなさいと言ってほしい」と。著名な医学者がそこまで言っているんです。
 そこになると、科学か宗教かなんて、なかなか線が引きづらいものが重なっている。今日議論されたようないろんな問題とも重なるのですが、この岡部先生の主張と物の見方は、とくに先の大震災のただ中にあって、私が非常に感銘を受けた事例の一つです。
 それから、東京新聞の昨日の夕刊に、梅原猛先生が「近ごろの仏教者について」という記事を寄せておられる。それによると、「お坊さんたちは、以前には一生懸命ナンマイダ、ナンマイダと称えれば必ず阿弥陀さんのところへ行くと言っていた。それから、日蓮宗も南無妙法蓮華経と唱えればお釈迦さまのところへ行くんだと言っていた。あまりあの世にこだわらない禅宗の曹洞宗でも、日本一の教団になったのは、お葬式をすることによってではないか。ところが、あの世を自信を持って言えるお坊さんがこのごろいなくなってしまった。それが仏教界の大問題だ」と。そう、はっきりとおっしゃっているんです。私は、ああ、梅原先生らしいなと思って読みました。
 今回はiPS細胞が今後どうなるかという問題に始まり、「脳死」臓器移植の問題、科学と文化との相克、そして最後に宗教者はいかにあるべきかというところまで話は及びました。解明されなかった点もありますが、問題提起として非常に豊かな内容を含む討論だったと思います。


           〈完〉

  (平成24年11月13日収録)