人格と仏格のあいだ
―宗教観の重層性について―


  駒澤大学名誉教授 佐々木 宏幹

一、式年遷宮に思う

 去る十月二日夜に伊勢神宮で式年遷宮の儀が厳かに行われた。
 よく知られているように、この儀礼は二〇年ごとに神宮の社殿などを一新し、ご神体(天照大神を象徴する八咫鏡)を旧正殿から新正殿に移すことで、遷御の儀と呼ばれる。
 この儀礼は一三〇〇年余の歴史をもち今度で六二回目になるという。
 なぜ二〇年に一度ご神体を旧から新に移すのかの理由については諸説あって定まっていないようだが、つねに若々しさを尊ぶ神道の「常(とこ)若(わか)」という考えに基づくとされている。
 私たちも旧居から新居に移転した際に「気持ちが若返った」とか、「気分が一転した」などと口にする。神も同様であるということであろうか。このいかにも人間らしい神の性格は日本の神々のそれに共通しているように思う。
 天照大神が諸神の最高位に立つ大神として畏敬、崇拝されるのは、この神が皇室(天皇家)の祖神であるとされるからであろう。
 皇居内にある宮中三殿のうち賢所には八咫鏡を模した神鏡が祀られており、時どきの祭りには天皇みずから司祭を務められることは、よく知られている。
 ちなみに新天皇が即位の儀を行う際、そのことを天照大神に告げる営為を「賢所大前の儀」という。
 皇室が天照大神を祖神として畏敬、崇拝することは、日本人一般の先祖(祖先)崇拝のいわばモデルであるとも言えよう。

二、 正月と先祖

 今の若者たちには通じないかもしれないが、食卓に時ならぬご馳走が並べられたとき、「盆と正月が一緒に来たようだ」と表現することがあった。
 いろいろな年中行事のなかでもとりわけ重要視されたのがお盆とお正月である。
 常識的には盆行事は仏教が、そして正月行事は神道が管轄するものと考えられている。
 二つは特別な「ハレ」のときなのである。
 この二つのハレのときにこの世あるいは各家(族)の元に来臨するのは何かとなると、多くの人は盆には死者・先祖が、他方正月には年(歳)神または歳徳神と捉えているかもしれない。言葉の上ではそのとおりであるが、この理解は正しいとは必ずしも言えない。
 なぜなら盆と正月にやって来るのは等しく先祖であるという有力な説があるからだ。柳田國男の学説である。
 柳田によれば、死者の霊魂(精霊)は子孫の供養をうけて時の経るにつれて浄化し、やがて先祖霊となりカミの地位へと高まる。この浄化の過程はできるだけ短期間に終わるべきものとされたが、仏教の年忌供養の関与によって供養の期間が長期になり、三三回忌、五十回忌を弔い上げとするようになったという。
 最終年忌を過ぎた死者の霊魂は仏事供養の対象から外れ、一族の集合的な先祖霊に融合し、身近な山に鎮在し、「盆」や「正月」には年神となって子孫の元を訪れ、さらに農作業の節目には来臨して子孫の生活と農耕を見守る田の神・山の神になる。
また柳田は村を守護する氏神も先祖霊であると見た(『先祖の話』一九九〇ほか)。
 盆祭りの対象が死者・先祖であることは周知の事実だが、正月の年神も田の神や山の神も同じく先祖であると考える人はそう多くないのではなかろうか。
 いずれにせよこの国の多くの神々の根っ子に「先祖」が在(おわ)すという認識は注目されてよかろう。
 先に柳田が死者が先祖(カミ)になる期間は仏教の関与により長期化したという説を紹介したが、実はこのことは仏教にとってとても幸いなことであった。
 日本仏教は「葬式仏教」とか「先祖崇拝」とか半ば揶揄的に表現されることが多いが、仏教が全国的に展開し定着しえたのは、「死者」から「先祖」への宗教的な上昇過程を思想的にも儀礼的にもわがものとしたからである。それはどういうことであろうか。

三、人格と仏格のあいだ

 これまで「霊魂」とか「精霊」という言葉を用いてきたが言葉の意味については述べていなかった。
 国語辞典の「霊」を引くと「肉体に宿り、または肉体を離れても存在すると考えられる精神的実体。たましい。たま。」と定義していることが多い。
 これは「無常」や「空」の教えに立つ仏教教理からは容易に受けいれられない内容であろう。一見して何となくおどろおどろしさを感じさせもする。
 とは言えこの内容を全面否定したのでは日本仏教は成りたつまい。
 どうしたらよいか。以下は独断と偏見だとの批判を覚悟の上での私見である。
 「死霊」に換えて「死者の人格」、「先祖霊」の代わりに「先祖の人格」としたらどうか。再び辞典では「人格とは一個人として独立しうる資格。人柄。品性」である。
 「資格」は「身分または地位」を意味するから「死者の人格」とは「死者としての資格・人柄」を指すことになる。「先祖」も同様である。
 「生きている死者(先祖)」でもよかろう。
 「死者」が「生きている」なんて「とんでもない」と思う人には人間のこころの底が見えていない。
 二年前の大震災ではさまざまな仕方で生者と死者とが交流し合ったことはNHKテレビでも放映された。現に生きている私たちは死者と先祖のお陰でいのちを頂いているではないか。
 そしてこの国の仏教の主要な役割は「死者の人格」を「仏格=仏の資格」に引き上げることであると言えよう。
 「仏の資格」が言いすぎなら「仏弟子」でもよかろう。仏弟子は仏格を目指す人だからである。
 右の指摘はかなり仏教寄りであると言われるかもしれない。多くの仏教徒にとっては死者の人格」は仏事を通じて「死者を先祖の人格に化す」という感覚こそが本音であるとも思われるから。
 とにかく「死者」から「先祖」への上昇過程と「人格」から「仏格」への進展過程とが見事に結合し重層化している現実の宗教的ダイナミズムには着目せざるをえない。