◇座談会◇

葬式仏教の意義(下)

 だれのために葬儀をするのか、死後の世界はあるのか、
 霊魂は不滅か、葬式仏教でなぜ悪い?

――ヴェテラン僧侶が熱く語る

出席者(五十音順)
 大谷俊定 (京都府・苗秀寺住職)
 長井龍道 (山梨県・龍華院住職)
 中村瑞峰 (埼玉県・曹源寺住職)
 正木 晃 (慶應義塾大学講師)
 松山宏佑 (宮城県・昌林寺住職)

司会
 佐々木宏幹 (駒澤大学名誉教授)

●死者の人格

【佐々木】 前回のお話で長井老師から、なぜ今の葬儀が混乱を生じてきたか、その原因は僧侶側の混乱にあるのではないか、という指摘がありました。僧侶側の混乱とは一体何か、ということはこれから論じなければなりません。僧侶はいろいろな説き方、いろいろな工夫をしている。たとえば授戒成仏をさせたのだから、今や覚路(お悟りの路)の中を歩んでいる死者たちに対して、お線香を上げ、追善の供養をしていく。ところが悟りの路に入って云々というのがどこかで曖昧になって、ご先祖になるのだとか、お釈迦さんのほうへと歩んでいくものだとかなる。これが大きな説き方の枠組みなわけですが、その説き方にいろいろな混乱が生じている。
 私に言わせれば、教義寄りに無理やり押し付けるやり方と、民俗寄りというのか、昔からずっと村や町の中に伝わってきた考え方に近づけるやり方、その関係がこんがらがっているのではないでしょうか。

【長井】 私の場合は仏教一般じゃなくて、曹洞の坊さんであり曹洞宗の立場から言っているので、現在の宗学者は死後の人格を認めない。あるのかないのかなんて迷っている人はいるけれども、積極的に認めるという人はまずいないですね、現在は。そこに私は問題があると思うんです。説き方の問題、どう説くかというのも難しい問題です。それから、カルト的に受け取られるという問題もあるからということはあります。だけど、言い方をどうするかということはうまくやらなければいけないけれども、基本的なところは死後の人格を認めるか認めないかということをもう一回しっかり考えないといけない。

【大谷】 死者の人格を認めないということを、私の立場から言えば、加害者側と被害者側とになると、殺された人に人格はないというふうに、日本の法律が扱ってきたんです。それに対して、宗教家がノーということを言わなかった。死んだ人はもう人格がないから、すべて切り捨てられてきた。

【長井】 葬儀の対象は誰かというときに、結局説き方としては、現実問題としては、まず遺族がいて、葬式をお願いしますというのが現実的には大半だけれども、考え方としては、一番根本的なのは遺族も誰もいない人、葬式をしてくれという人が誰もいないときにどうなんだということです。昔だったらお寺の中に遺体が投げ込まれて、遺族が誰もいない、葬式をしてくれという人がいない死者は単なる物体なのか。だから、私は葬儀と告別式を分けたんですけれども。遺族もいない、身寄りも誰もいない、葬式をしてくれという人がいないとき、その死んだ人をどうするかということです。
 たとえば「道心」の巻の元になっているのは、波多野義重公夫人のために書かれた巻だという。夫人が夫義重公のおめかけさんみたいな人を殺して井戸に沈めてしまった。それが夢枕に立つので、波多野夫人が道元禅師のところに相談に来た。で、後に書いたのが「道心」の巻だといいます。その井戸に道元禅師はちゃんとお血脈を上げているんです。

【大谷】今おっしゃった、井戸の中に血脈を入れられたという話、それをみんなに広げていこうと思ったら、交通事故で亡くなったり、いろいろなことが今あるじゃないですか。そのときに、じゃ、お血脈ってどうするの、そこへ現場に即役に立つようなことをしておかないと、井戸の話だけではあかんので、それを具体的に、こういうふうに生かしたらいいよというところに持っていっておかないと、今の人はそれを理解しない。それはそれ、これはこれになってしまう。

【長井】 今言っているのは、お血脈という方法論を言っているのではなくて、私の話の問題点は、そうやって殺され、井戸に放り込まれたおめかけさんを慰霊するというか、そのためにそういうことをしたということ。死後はないんだったら、そんな必要ないわけです。その話として、例として挙げた。だから、どういうことをするかは、それこそ現場の、そのときそのとき一番いいやり方をすればいいんですね。

●お迎えと臨死体験

【正木】 今「道心」の巻の話が出ましたが、私のように宗門人ではない者から見た、いいかえれば、外から見た道元禅師という方は、どうしても「現成公案」止まりになってしまいがちです。それよりなにより。「道心」の巻が『眼蔵』の中に含まれていることが、一般には知られていないと思います。要するに、道元という方のイメージがかなり固定化している。親鸞さんにしても、『現世利益和讃』を読むかぎり、神様の存在を認めています。でも本願寺は神祇不拝でしょう。あるいは、親鸞さんは伊勢神宮に参拝しているはずなのですが、宗門はそれも認めない。今の合理的な発想から判断して、あるいは今の宗門の在り方から考えて、都合の悪いことは全部認めない。
 文献でも、これが偽書か真書かというのを判断するときに、下手をすると今の教義にとって都合の悪いのはみんな偽書にされるようなこともないではないようで、本当に真偽の判定がなされているかどうかも怪しいと思います、
 話は変わりますが、去年の十二月、慶應大学の文学部の学生百人に、死後に霊魂があるかないかというレポートを書かせたのです。それを読んだところ、あると答えた学生は全体の七〇%、女子では八〇%にも達していました。

【佐々木】 そんなになりますか。しかも慶應で。

【正木】 そういう時代なのです。霊魂あるいはあの世的なものに対して否定的なのは団塊の世代ですね。ところがこういう人たちでも、意識は変わりつつあるようです。現に、二年ぐらい前から、私が早稲田大学のオープンカレッジというところで開催している有料講座を受ける方が、俄然、増えてきました。退職し、とくに配偶者を亡くしたりすると不安になるらしくて、あの世が気になるんですね。今までそういったことに対して否定的だった人たちが、今度はそこを勉強したいという。
 それから『死生学研究』(二〇〇八年三月)のアンケート調査で、「お迎え」があったと答えた人は四五・六%に達します。このこと自体が大きな衝撃だと言われています。いろいろな宗派のお坊さんに聞いても、こんなにお迎えがあると誰も思っていなかった。さらに、衝撃的な事実は、誰がお迎えに来るかという問いに対する回答でした。なんと五二・九%が「すでに亡くなった家族・知り合い」と答えているのです。反対に、いわゆる仏菩薩はほとんど来ていないのです。阿弥陀如来にいたっては、ゼロでした。

【中村】 臨死体験の報告でも、ほとんど親とかおじいちゃん、おばあちゃんですよね。私の女房の母親が、癌で臨死に近い体験をした。芝生のような柔らかい草のところ、つまり広い草原に広い川があって、向こう側に行こうかと思ったら、おばあさんが出てきたという。おばあさんが来て、まだ来るところではないと言って返されたそうです。

【松山】 檀家さんが亡くなる前に、うちのおじいさん、おばあさんがあと一週間だといわれたら言ってくれと、できたら命を落とすときに手を握って送ってやりたいと、ここ十年言ってきました。それで息を引き取る瞬間には立ち会っておりませんが、三人ほど最期に呼ばれて行きました。
 その中の戻ってきた例で、今の臨死体験みたいなものですが、あるおばあさんは私にこう言った。そのばあさんには溺死した息子がいるんですが、それが出てきたんで「私もそっちの世界さ行くから」と言ったら、「ばっちゃんはまだ来んの、早いから戻れ」って言われてハッと気づいたというんです。この前、実際にそのばあさんの家へ行って話をして「早く方丈さんのとこさ行きたい」って言うから、あんまり早く来ないでくれ、お布施を十分用意してから来てくれと。(笑)

【大谷】 こういう話を現実に檀家さんの前で話すと、下手するとカルト教団的にとられてしまう。だからこそ、こういう不思議な話がありますよという話の中で、お葬式はきっちりとやる。

【佐々木】 宗教が割を食っているのは、今おっしゃったような、下手するとカルト教団とか霊感商法と一緒だというふうにみられてしまう。逆にいうと、それだけ一般の人は霊だ魂だ力だというものに引きつけられているし、関心があるということですね。だから、そこは仏教のお坊さんが相手にしている人々も、霊感商法やカルトのリーダーたちも、利益を目的としてかかわっている人々も、ベースのところは同じだと思います。そこを、どういうふうに違うということをはっきりさせるか、難しいですね、正木先生。

●学者と学僧と僧侶

【正木】 葬儀、法事を行って、そのとき導師のお坊さんが霊魂なんかない、あの世なんかないということを軽々に言ってしまう例が少なからずあるそうです。日本人の根幹の中に霊や魂に対する思いが相変わらずあるにもかかわらず、それをちゃんと受け取ってもらえない現代日本の仏教という、この構造をどうするかですね。

【長井】 死後を説くというのは大変な問題です。誰かも言ってましたが、仏教は無常を前提としているというけれども、無常ばかりではない。だから葬儀を通じて、死後があるということを私は積極的に説いているんです。道元禅師の教えからいうと、私たちは永遠の命を生きている。だから、そういう意味では宗門の理解が足らないんです。

【松山】 学者の方々がおっしゃることは確かに学者の世界であると思うんだけれども、現実に一万五千ヶ寺の和尚たちがやるのは、住職としてのことなんですよね。ここのところが全く連携がないのも困ります、もちろん。だけど、われわれ和尚が即学者でも困るわけです。

【長井】 ちょっと待ってください、学者じゃないですよ、私が言っているのは。道元禅師は「道心」の巻でそう言っているんで、お経を読めば分かる。

【松山】 そこを、宗門はうまく切り分けしていないような気がする。

【長井】 そうそう。

【松山】 難しいかもわからないんだけど。単純に言えば、学者の人が正道になるんじゃなくて、坊さんが正道にならないといけないわけですよ。

【長井】 そうです。お師家さんがならなければ駄目です。

【大谷】 私は本山僧堂と地方僧堂の役割をはっきりするべきだと思っているんです。本山僧堂でなければ味わえない修行というのもありますやんか。地方僧堂では、在家の葬儀や法事だとか、お説教のあり方、お塔婆の書き方、そういう住職学的なものを教えてもらう。そういうふうにすると、地方僧堂でのお師家さんも育ってくるだろうし、もう少し人が育ってくるんじゃないか。その辺の体系作りが宗門はなにもできてへん。

【佐々木】 学僧というものがおって、学問と僧をやる、それから僧が抜けて学者だけの人がいる。それから学者でもない、学僧でもない、現場で活躍するいわゆる僧侶がいる。三段階ぐらいになっていまして、その間の整理がついていませんね。だから、育てられる学生たちがいい迷惑になってしまう。大学で学んだことがご本山に行って、なかなかはっきりしない。ご本山と大学でやってきたことは、自坊に帰って来たらあまり役にたたない。こういう状況がぐるぐる回っているような気がいたしますね。

【中村】 大学で仏教学をやりますね。ご本山へ行って如法の修行をする。それでいいかといったら、帰ってきてやらされたのは水子供養です。(笑)現場に帰ってきたら住職学、経営学も一緒に学んでいないと、突然ぽんと鎧なしに戦場に送られるようなものです。私は学生の時に父を亡くしたものですから、まさにそういう感覚があった。プロの僧侶としてどう寺院を運営するか、住職学みたいなものも学ぶ必要はあると思いますね。

【長井】 今回の葬儀というテーマの中で、宗乗的な理論というか、それと現場との乖離があるということですね。葬儀の本質というのは、遺族とか、弔いたい人がいるとか、それももちろん大事な要素だけれども、根本的には死者をどう見るかということ。宗門では死後を認めていない。そういう延長の中では、葬儀の意義を積極的に教える理屈が出てこないわけです。だから、わが曹洞宗はもっと宗学をきちっとして、繰り返しになりますが、死後のことをもっと説かなければいけない。

【佐々木】 今、長井老師がおっしゃったので結論みたいなのは出たと思うんですが、確かに今までの『眼蔵』をやっている人は「現成公案」の冒頭、「仏道をならふといふは自己をならふ也、自己をならふといふは自己をわするるなり」というところには、頭のいい知的な人だとみんな飛び付きますよ。それで『正法眼蔵』というのは素晴らしいと。ところが長井老師がおっしゃったように、一方では「道心」の巻というのは、紛れもなく『眼蔵』の中にあるわけで、いまはの境に青息吐息になって、目がくらくらしてきたなら、心と身をあげて「南無帰依仏」と唱えなさい。そうすれば必ず仏さんの国に生まれ、仏さんの前に行って、仏さんの説きたまう法を聞けるのだ、とまでおっしゃっているわけです。あの世まで説いている。ところが、そっちは切って、今生きるというのは自己を習うということだ、自己を習うということは自己にとらわれないということ、これを修行することだと、ここだけを強調し過ぎてきた感がありますね。



   〈了〉