机上の空論に終わらせないために

苗秀寺・住職 大谷俊定

 今回の研究討論会は、実に有意義でした。今後は、さらに内容を具体的に深めて、現場に如何に即するように現実化するかということが求められます。
 科学的、非科学的という時代の言葉の流れに左右されて、霊魂の存在を安易に認めない立場をとって来たことが、今や宗門を存亡の危機に追いやっているとすれば、大変な過ちを犯してきたことになります。釈尊の教えを信じないできたことになりますし、道元禅師の教えを聞かなかったことになりますね。
 ここまで、誤った科学崇拝主義が宗侶に徹底しておれば、軌道修正は、かなり丁寧に、分り易く、迅速に行わなければなりません。
 いわゆる「肉体は滅びても、命は不滅です」と話すことは簡単ですが、それを大衆に如何に理解してもらうか、腑に堕ちる説き方は如何にあるべきかが課題であります。そこには、理論としての説き方ではなく、医学や科学のしっかりした裏付けこそ大切であります。
 私たちは、新興宗教のように、不安を駆り立てて洗脳することではなく、あくまでも、坐禅を基盤として、冷静に論理的、科学的、医学的、宗教的に説かなければ、単なるカルト教団化させることになります。
 (ここでいう宗教とは、レリジョンではなく、仏教的、目覚めの宗教という意味)
 では、教師資格を有する宗門人と寺族、弟子、檀家総代に至るまで、それを理解できるようにどのように説くか。信念として持てるように説くか。生活化させることが出来るか。枕経や葬儀の中だけでなく、平素から、悩み事相談、社会福祉、更生保護、社会奉仕、僧侶が兼職している職場で日常的に生活化することが出来るかが課題であり、葬儀や法事、授戒会等などに於いて、そこまで具現化しない限り、一部の人の机上の空論に終わってしまいます。生活化できてこそ、葬儀の場のみならず法曹界に於いても、死者の人格の肯定化が出来ますし、宗門の葬儀が息を吹き返してくるのです。
 進化論を、今も受け入れられない宗教信者もいます。
 進化論が説かれたことによって佛教が説いてきたことに肯定的根拠が出来ました。たとえば進化論から、「貪瞋痴」を説いてみますと、実に理解しやすいですね。つまり、学校教育で教えられていることに上手く立脚すれば、理解吸収しやすいのです。
 或るクリスチャンが、ご法事の席で、
 「動物園の猿を見ていたら人間になるのか」と、大声で怒鳴った人がいます。
 「そんなこと言ったら、小学生でも笑いますよ」と、返しましたが……。
 佛教では、「生まれ変わりして、次の世では、何になって生まれてくるかわからない」と説いた。それを因果応報説として説くとカルト教団化してしまうのです。地球上の動植物は皆兄弟、同じ分子(極微塵という炭素・水素・酸素などの分子)から成り立っているのですと説かれています。
 そこから、生態系のバランスを大切にすることが生まれてくるし、牛は食っても良いがクジラはダメという独り合点は、何の益もないことを知ることが出来ます。地球上の動植物は、みな兄弟。生命の共同体であることを理解して頂くことが、佛教の生命を説くことでありましょう。
 この地球上にある何一つ、不必要なものはなく、皆尊い存在であります。
 ムカデや蜂、蛇や蚊など不快なものがたくさんいますが、それらも必要があって存在しているのです。人間も気の合う人、合わない人がいますが、必要があって出生してきたのです。だから仏の尺度で考え、生きていくのです。
 生命倫理を説く上で、仏教の果たす役割は実に大きいのです。

宗門の葬儀の問題点と意義

龍華院・住職 長井龍道

(一)死者の人格を認めるか否かの問題

(1)現代の宗門指導者の見解(曹洞宗総合研究センター編『葬祭』より)

@「道元禅師がおっしゃった輪廻ということを見るにしても、決して物理的な意味での輪廻と言っているのではない」(奈良康明氏)
A「道元禅師がアートマンというものを踏まえて生生世世≠ニ言われたとはとても思われない。実体としてあの世があって実体としてそこに生まれ変わっていくとも考えられなかったのではないか」「霊魂があるかないかとか、あの世にいったらどうなるかというのはお釈迦さまも説かれなかったわけですし、われわれも具体的に認識しているわけではない」(永井政之氏)
B「死んだ人というのは有縁の生きている人の中に生きているのである。死者の人格というのは生きている人の人格と共にある」「坊さんが直接『霊魂があの世にあって』ということまで言ってしまうと、心常相滅≠ノもかかるのではないか」(松本皓一氏)
C「道元禅師がはるかなる仏道≠説かれているのは、信≠ツまり輪廻転生をほんとうに信じて説かれたのか、あるいは永遠に仏道修行を行じたいという願い≠ゥら説かれたのか、定かではない」(角田康隆氏)

(2)釈尊に於ける死後の言及

@『雑阿含経巻五仙尼経=xでは、
 「外道六師が弟子の死後について記説(予言)していないのに、釈尊だけが弟子の死後の事を予言している」ことが知られます。そして釈尊は、「死を終として来世に自我を認めない断見説≠ニ現世と来世に常住不変の自我(霊魂)を認める常見説≠ニを排し、現世にも来世にも永遠不滅の自我(霊魂)は認めないが、我慢(我執)を断ぜず無我のサトリを得ない間は、我慢≠ノ依りて、現世の五陰(身心)を捨てて更に来世の五陰を相続して生ずるのである」と説いておられます。
A『雑阿含経巻四十八身命経=xでは、「ある出家者が『死後の生処を予言するからには、その拠り所として肉体とは異なる(不滅の)霊魂を認めなければならない』と論ずるのに対して釈尊は、『人は(不滅の)霊魂に依るのではなく渇愛≠拠り所として、死後に余所に生ずるのである』」と説かれています。

(3)道元禅師に於ける死後の言及

@ 「心常相滅の見(霊魂不滅論)」の否定
 道元禅師は『弁道話』『即心是仏』等の巻で、外道の 心常相滅の見≠否定しておられます。即ち、
 「かの外道の見は、わが身中にひとつの霊知あり。…この身体は生滅にうつされゆくとも、…もぬけてかしこにうまれ、ながく滅せずして常住なり。これを霊知といひ、真我と称し、本性と称す。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、これよりのちはさらに生死に流転せず。…かの外道の見…心常相滅の邪見なりとしれ」
として、生滅変化する個体の中に不滅・全能の真我をたてたり、現象世界の背後に永遠・常住なる性海なるものを認める考え方を否定されています。
A しかし、ここで混同してはならないことは、道元禅師が輪廻転生としての死後の現象的存在を否定しているのではないということです。『?道話』に、「しるべし仏法にはもとより身心一如にして、性相不二なりと談ずる。いはんや常住を談ずる門には、万法みな常住なり、身と心とをわくことなし。寂滅を談ずる門には諸法みな寂滅なり、性と相とをわくことなし」
と示されているように、
「寂滅(生滅)≠ニいう立場から見れば、一切万物は刹那に生滅し断絶して、『前後ありといへども、前後際断せり』(『現成公按』)しているわけですが、それは常住≠ニいう側面から見れば、生滅変化するこの身心、無常なる一切万法が、生滅・無常なるままに、生き通しぶっ通しの仏の御いのち≠ネのであり、断絶しながら三世にわたって継続しているのである」
ということであります。それゆえ、 
 「人死するとき……自然に覚海に帰すれば、さらに生死の輪廻なし、このゆゑに後世なしといふ、これ断見の外道なり。…今世後世なしとはあやまるなり」(『深信因果』)
として、人の死後さらに生死の輪転なく、後世なしというのは、邪解であると示されています。
B 『正法眼蔵』に於ける「後世」「あの世」についてのその他言及例
(イ)「この生のをはるとき、…はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし。このとき…十方の諸仏あはれみをたれさせたもう。縁ありて悪趣におもむくべきつみも転じて天上にうまれ、仏前にうまれて…」(『道心』)
(ロ)「(百丈野狐の公案は)因果の道理が十分に説かれていない。何故ならば、野狐身をまぬがれてのち、人間に生ずとも、天上に生ずとも、余所に生ずとも、言われていない。脱野狐身ののち、生まれ行く処が無いということは無いのである。」(『深信因果』・筆者取意)
(ハ)「いはく、人ありて、この生に…造作しをはれりといへども、あるいは第三生、第四生、乃至百千生のあひだにも、善悪の業を感ずるを、順後次受業となづく。」(『三時業』)
《死者の人格≠ノ関する結論》
 死後の生がない(後世なし)≠ニして死後の存在・死者の人格の客観的・現象的或は物理的存在を否定する見解は、仏法即ち宗乗に反するものであります。死後の存在・死者の人格を民俗では、タマ∞ホトケ≠ニ称んでいるとのことですが、宗門でそれを霊∞精霊∞霊魂≠ニ称ぶ場合、水野弘元博士(元駒澤大学学長)が言われるように、
 「外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教では説かないが、人格の主体として業を保持する霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪廻の主体として、常に変化しつつ連続する有為法である」(『仏教要語の基礎知識』・春秋社)
という点に留意しなければなりません。

(二)宗乗的に見た葬儀の意義

(1)悪業報から救う―帰依三宝

 道元禅師が『帰依三宝』の巻で、
 「命終の後に驢馬に生まれることを知った帝釈天が、その苦から救ってもらおうとして釈尊の所に行き帰依礼拝した。命終して驢胎に生じた帝釈天は、驢胎が破れ、死んですぐにまた帝釈天の身に生まれ還った。この様に息を引き取るというほんのわずかな間でも三宝に帰依すればその功徳によって三悪道を離れ須陀?の聖者となることができたのである」(筆者取意)
と言われています。
 ここに、宗門に於ける葬儀の原型を見ることができる、と言えましょう。

(2)授戒入位

 「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る」と言われるように、仏祖の位に入れ諸仏の子とすることによって、向後生生世世必ず積功累徳し阿耨多羅三藐三菩提を成就する、その道に入れる。

(3)兜率天に往生させる

 『道心』の巻に「天上に生まれ仏前に生まれて仏をおがみたてまつり…」とあるように、死後はお釈迦様のおられる天上界に往くのがよいわけですが、道元禅師は『行仏威儀』の巻で、「人間の釈迦は威後兜率天に往き干今有在(今も在します)なり」と言っておられます。従って、釈尊の干今有在≠信じさせ兜率天往生≠ノ引導することが、宗門葬儀の基本的メカニズムである、と言えましょう。

(4)その他

 死者の覚霊を資助し、諸仏・諸菩提・祖師方の御加護を祈念する。

〈絶筆〉


【長井師は平成二十五年九月二十九日に遷化されました。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。】